小説
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 例えこの身が朽ちようとも――。

 初めに“主”に出会った日のことを、朧気ながらに覚えている。
 その男はうりざね顔に笑みを浮かべ、俺をある部屋へと導いた。薄暗く、酷く穢れに満ちた場所。血と呪詛に満ち溢れた悪臭漂う拷問部屋――。当然俺は入ることを拒んだが、仕掛けられていた罠が体の自由を奪い、四肢を縛り付けられた。男の顔に笑みはなく、ひたすら何かを唱えていた。混乱する俺の耳に届いたのは、遥か昔に幾度か耳にしたことのある祝詞だ。しかもそれは他者の成功を喜ぶものでも、魔を祓うものでもない。誰かを呪い、縛るものであった。
 必死に抵抗した。幾ら顕現したばかりとはいえ、こちらも『付喪神』である。莫迦にされては堪らないと霊力を解放したが、驚くことにそれは簡単に返されてしまった。

『無駄ですよ。今のあなたでは私に敵いません』

 男はそう述べた後も淡々と呪いを繰り返した。一つ、また一つとこの身が焼かれているような痛みを覚える。抗えど抗えど強力な力で押し潰され、抵抗が弱まったところに更に追撃をされる。それでも堕ちるわけにはいかないと、長きに渡って抵抗した。幾度も幾度も、呪詛の念を聞きながら。そうして何日過ぎた頃だろうか。この体に蟲を這わされた。『蟲毒』によって作られた、数多の蜘蛛やムカデたち。気味の悪さに抵抗したが、男の術によって蟲達は俺の体に侵入し、混ざってしまった。
 そこからが地獄だった。清き霊力と呪詛の念が繰り返しこの身を襲い、腸が食い破られるような痛みや苦痛に苛まされた。誰のものかも分からぬ血を飲まされ、刀身に浸され、地べたを這いずるような苦しみに意識が飛んでも、夢の中で蟲たちが襲ってくる。
 体中を蟲の足が這う。頭の中も、目の裏にも、爪の間や中にまで、カサカサと蠢く音が堪らなかった。そうして何日経っただろう。思考すら奪われるような時間の中、俺は遂に屈した。折れてしまいたかったが、相手の方が一枚上手で折れることすら出来なかった。だから男の言に頷いた。

『この女の魂を私に捧げれば、お前を苦しみから解放してやろう』

 という言葉に。嘘だと分かっていた。どうせこの女を殺したところで俺も折られるのだろう、と。しかしこんな男の下で長く生きるより、この女を殺して自分も死んだ方がずっと幸せだと思ったのだ。自力で立つことすら出来ぬ俺に、男は手を伸ばした。そして『力をやる』と言って飲まされたのが人の血だ。誰のものかは今でも分からない。それでも俺はその血を『美味く』感じた。
 それから男に術を教わった。結界だ。男の指示に従い、俺が結界を張る。ただそれだけのこと。馬鹿でも出来ると言われ、俺はただ従った。早く終わらせてしまいたかった。教わった結界は全て違うもので、順番通りに発動させろと入念に教え込まれた。一つ目、二つ目、三つ目、と教わる度に祝詞は長くなり、必要な力も増えた。だがそれでもよかった。この世界から解放されるのであれば。
 蟲は未だにこの身に巣食っている。血に混じり、刀身に刻まれ、この身と一つとなっている。逆らえば頭の中でカサカサと動き出すだろう。主の命令に従って。だからからくり人形のようにただ覚えた。手順を、祝詞を。間違わぬように、何度も繰り返しながら。

 数日後、遂に俺は炉に放たれた。火であって火ではない道を通りながら思うことは、このまま溶けてしまえればいいのに。ということだった。

 そうして顕現したのが彼女の元だった。
 俺を見るなり何故か頭を抱え、唸りながら地面に伏した女。その隣では見たことのない小さな刀がオロオロとしながらも彼女を労わる。それに倣って俺も適当に声を掛ければ、彼女は「大丈夫だ」と言って立ち上がり、名乗った。

『縦に短く横にデカい。器の大きさはお猪口級、腹周りの太さは横綱級。態度のデカさは富士山以上。どうも、審神者の水野です』

 俺を弑してきた男とは違う。彼女からは朗らかで、春の陽気のようなあたたかさを感じた。そしてそれは間違いではなかった。彼女はいつだって前向きで、まっすぐで、己を偽ることをしない。あの男も自分の欲望には忠実で偽りなどなかったが、男の言葉には裏に嘘や思惑が見え隠れしていた。しかし彼女の言葉には本当に、何の裏もなかったのだ。それこそ『今日はいい天気だね』と常に偽りなく話すかのように、どんな話題でも心を偽らず、いっそこちらが戸惑うほどにまっすぐな心を差し出してきた。
 資材が足りない時も、戦況が思わしくない時も。初めて演練に行った時は勿論のこと、初めて共に万屋へと赴き、お守りを買った時も。彼女は常にまっすぐだった。

「はい。これ三日月さんのお守りね」
「……お守り?」

 渡されたのは金色のお守り。その隣にはもう一つ青い安価なものがあったが、彼女は迷うことなく金色のお守りを手に取り、渡してきた。

「やっぱり戦場に出るから、いつ何があって破壊されるか分からないじゃないですか。刀装だって剥がれるし……でもお守りを持っていると一度だけ身代わりになってくれるんです。ついでに加護がついてますから、一回きりだけど、疲労も回復してくれるんですよ! だから無事に帰ってきてくださいね」

 そう説明すると、きっと御簾の奥で笑ったのだろう。あたたかな手でお守りを持つ俺の両手を包み込んできた。小さな手だ。柔く、刀や鍬を握ったことのない手。あの男とは違う。俺を大切にしようとしてくれる手だ。そう思うと、どうしてだか無性に泣きたくなってしまった。
 俺は、彼女を殺すために派遣されたというのに。その彼女が俺を「守る」ために、こうしてお守りを寄越してくるなど……笑えもしない。
 抗う力すらも封印され、彼女の魂を引き換えに解放された俺を「守る」価値があると思っているのだ。この娘は。つくづく自分が情けなくなると同時に、この子の魂と一緒に死ぬことが出来ればどれほど自分は幸せだろうか。と考えてしまった。勿論そんなこと出来ようはずもない。まず第一に、彼女を愛する刀たちがそれを許しはしないだろう。例え彼女が泣こうとも俺を折り、彼女を守るはずだ。……いや、それで良いのだ。それこそが正しき姿なのだ。俺達刀剣男士と審神者の関係は、主と従。守り、守られる者だ。彼女を連れて行くなど、もってのほかだ。

 だが、それでも。

 この柔き体を、魂を。求めて止まない。この子に心の底から、俺のすべてを以てして仕えることが出来ればどれほど幸せだろうか。今でも彼女は有り余るほどの信頼と尊敬をこちらに向けてくれている。俺にはもったいない程の誠実さと無垢さを持って、彼女は俺の前を歩んでいる。

 彼女を守りたい。だがこの身に刻まれし呪いが、溶け込まされた蜘蛛の糸が、俺の自由を奪い、彼女を怪異の世界に突き飛ばす。
 どれほど傷ついただろう。どれほど恐ろしかっただろう。

 本丸に来た当初は『さっさと殺して俺も自由にしてもらおう』と安楽的に考えていた。だが触れれば触れるほど、彼女と接するほどに彼女を殺すことが恐ろしくなる。他の『三日月宗近』ではなく、この“俺”である必要がどこにあったのだろうか。俺以外の『三日月宗近』であれば、あの男に抗い、また彼女を助け出すことが出来たのだろうか。
 一つ術を使うごとに「ゴトリ」と記憶が抜け落ちていく。一つ、また一つと術が高度になるほど失くす記憶は多く、今ではもう殆ど何も残っていない。この空っぽな体に残っているのは忌まわしき呪詛の言葉と男の念、そして――彼女と過ごしたあたたかな日々だけだ。思い出すだけで笑みが浮かんでくる。初めてその身に触れた時も、共に買い出しに行った時も。鍬を握り、畑を耕し泥にまみれた俺に笑いかけてくれた時も。鶯丸や短刀たちと並んで茶を嗜んだ時も、輝く太陽の下で水浴びに興じる、無邪気な姿を見た時も。

 心が、焦がれる。

 彼女を守りたいと、強く思う。自らの姿を保てず、また男から掛けられた“最後の結界”を解放するために肉体を手放した俺を、彼女は決して離しはしなかった。男に蹴られるその時までずっと腕に抱き、守ってくれた。大事にしてくれた。ならば、それだけで十分だろう。

 例えこの身が朽ちようとも、呪詛と血に塗れ、地獄に堕ちようとも。守らねばならぬ人がいる。その者のためならば、この命。惜しくはない。

「主よ、最後に一つ、教えよう」
「……何……?」

 一つ喋るごとに臓腑が震える。喉の奥から血がこみ上げ、口元を濡らす。が、構ってなどいられない。どうせ死ぬ身だ。今更気にしたところでしょうがない。だが彼女は違う。何が何でも守らねばならない。それが、俺にできる唯一の“贖罪”なのだから。

「この本丸は今、結界で隔離されている。それが壊れれば外と連絡が取れるだろう……いや、むしろもう待機しているだろうな……だから、それまで持ちこたえろ」
「……分かった。でも結界を壊すって、一体どうすれば……」

 立ち上がり、生きるために“戦う”選択をした主に精一杯の笑みを向ける。きっと、彼女は悲しむだろう。だが悲しむ必要などどこにもないのだ。すべて、あの男に屈した弱い俺が悪いのだから。

「俺が折れればいい。最期の結界は、俺自身だ」

 ヒュッ、と彼女の喉がか細い音を立てる。驚くのも無理はない。だがそれが全てだ。俺が折れた瞬間この本丸を覆っている結界が壊れる。結界の向こうには数多の気配を感じる。それは何度も触れたことがある、政府の男の刀たちのものだ。こちらと連絡が取れず、何某かの力を使ってこの本丸へと来たのだろう。だが強力な結界を破ることが出来ず立ち往生しているのだ。だから、俺は折れる必要があるのだ。『死をもって償う』などと虫のいい話を通す気はないが、俺も沢山の罪を犯した。彼女を生かすために俺の命が使われるのならば安いものだ。どうせ俺には『次』がいる。次の『三日月宗近』に、彼女の命を託せばいい。
 そう思い、刀を構えなおした時だった。彼女が俺の袖を強く掴んできたのは。

「ふ……」
「ふ?」
「ふざけんな!!! 三日月のバカバカバカバカバカーーーーー!!!!」
「……なッ……」

 一体どこにそんな元気があったというのだろうか。主はありったけの声量で、こちらの鼓膜を破らんとせんばかりに叫ぶと俺の胸倉をつかみ上げてくる。

「何で三日月が死ぬ必要があるのさ! 大体『最後の結界は俺だ、キリッ』って何?! キリッ、じゃねえよ!! 格好つけんのも体外にしろ!!!」

 俺だけではない。背後ではあの男もあっけに取られているのであろう。緊張していた空気が霧散するのを肌で感じ取ることが出来る。だがそんなことは彼女にとって関係ないのだろう。御簾でその顔は見えないが、憤怒の表情であることは容易に伺うことが出来る。それは俺の胸倉を掴む、震えた腕からも伝わってきた。

「あんた今『自分が死んでも次がいるから』とか考えただろ! 絶対ェ許さねえかんなその考え!! そりゃあ確かにあんたは刀だし、分霊だから呼んだら『次』の『三日月宗近』が来るんだろうさ! でもそれは『あんた』じゃないでしょ?! 私が初めて手にした、今ここにいる、私と話をしてる、一緒に時間を過ごした『三日月宗近』じゃないでしょうが!!! そんな奴に『次』なんかねえんだよ!!! 一回きりなんだよ! もう二度と会えないの!!! 同じ考えも、気持ちも抱かないの!!! 本当に分かってる?! この馬鹿ッ!!!!」
「あ、あなや……」

 まさかここまで怒られるとは思ってもみなかった。ぽかんとする俺に主は「フーッ、フーッ」と獣のように息を荒げながらも、力なく胸に額を押し当ててくる。

「……でも、私は“皆の主”だから……三日月だけを助けてあげられない……ごめん……何もできない主で……本当に、ごめんなさい……」
「よい……それでよいのだ、“主”よ……」

 本当に、心の底から悲しんでくれているのだろう。俺が死ぬことを。だがそれと同じくらい他の者を助けたいとも願っている。一人の命か、三十人の命か。天秤にかけた時どちらに傾くかは考えずとも分かるものだ。そして今はそれが正しい。それで良いのだ。心優しき無垢でひたむきな彼女にとっては辛い選択だろうが、彼女は多くの命を肩に背負う『主』でもあるのだ。
 迷ってはいけない。立ち止まってはいけない。多くの命が掛かっている今こそ、彼女は即決しなければならないのだ。そして彼女はその選択に歯噛みしても、後悔はしないだろう。だからこそ、伏せた顔を上げることが出来るのだから。

「忘れないで。あなたは私の刀。私の『三日月宗近』だ。他の誰かの元で、私の力で顕現していなくても、あなたが私を『主』と呼ぶのなら、私はずっとあなたの『主』で居続ける」
「ああ。勿論だとも。昔と違い主が選べるというのは有難い話だな。“主”よ。どうか健やかであれ。そして一秒でも長く――生きてくれ」

 彼女の体から手を離し、今度こそ男に向き直る。体中で蟲が蠢く。だがもう、臓腑の痛みも不快感もない。今はただ彼女のための『一振り』として存在すればいい。構える俺に、男も構える。相手の実力は高くない。だが俺の練度はそれよりも低い。次が正真正銘最後となるだろう。色々あったが、記憶が何もないというのは返って良いことなのかもしれない。何故ならこの体一杯に、彼女との思い出だけを詰めて死ぬことが出来るのだから。

「お別れは済んだかな?」
「ああ。では始めようか。形あるもの皆いつかは壊れるが……」

 今は、彼女を守るために。

「はあ!」

 互いに放った渾身の一撃がぶつかり合う。すでにボロボロだった刀身に亀裂が走り、欠けていく。これで終わりだ。今度こそ。パキパキと彫られた呪術の文字に添うようにして刀身が割れていく。これでは文字通り『粉々』になるな。と、吹き飛ばされ、桜のように散り逝く体を見ながら他人事のように思う。その時視界の端で、こちらを見つめる主と目が合った。御簾があろうとなかろうと関係ない。俺はしかと感じていた。彼女の視線と、俺の視線がかち合うのを。

「ある、じ……」

 もし、もし俺に、この“俺”に『次』があるならば。今度こそ、俺のすべてで以てそなたに応えよう。愛しい人の子よ。もしそなたがまた“俺”に会いたいと願ってくれるのであれば、その時はいつものように名前を呼んでくれ。その口からもたらされる柔らかな声音で、初めて俺の名を呼んだ時のように。時に叱り、時に誇り、時に慰めてくれたように。
「三日月宗近」と、また――きみに、呼ばれたい。

「三日月ッ!!!」
「またな……あるじよ……」

 世界が白く煙っていく。どこかで何かが割れる音がする。それは決して俺が折れた音ではなく、外から結界を壊した音であろう。
 こんなことを仕出かした俺だが、どうか彼女を救ってほしい。たった一人、俺が愛した小さき主を。

 地面に体がつく感触を覚える暇もなく、俺の意識はなくなった。

 これが、俺の最期の瞬間だった。



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