小説
- ナノ -




 ほう、と声がする。フクロウにも似た、誰かの感嘆するような声にも似た、不思議な声。その声に導かれるようにして視線を向ければ、そこには森が広がっていた。

「…………え?」

 私は瞬きを繰り返す。確か今日は大倶利伽羅と山姥切と出かけ、帰ってきた出陣部隊の手入れをし、皆と一緒に食事をとり、そして部屋に下がったはずだ。酒は飲んでいない。下戸だから。部屋に戻ってから本丸の外に出てはいない。出かける用などないのだから。だからここは私の部屋のはずで、そこから続く景色は“森”ではなかった。確かに夜だからフクロウが鳴いてもおかしくはないけど、何故かそこを“森”だと認識できるぐらい、そこは明るかった。

「…………水野さん、これは何度目ですかねぇ……」

 思わず両手で顔を覆ってしゃがみ込む。本当何回怪異に巻き込まれれば気が済むのか!!!!!! 我ながら呆れる。しかし今回は妙な感じはしなかった。この間は足元でキッカケとなる“何か”に触れた感触はあったが、今回は何もなかった。本当に何事もなく、普通に食事をし、皆に「おやすみー。また明日ねー」と声を掛けながら大広間を出てきたのだ。その間に廊下ですれ違った刀もいなければ、嫌な気配もなかった。それにもしそんな気配があればうちの大典太が何か言ってくるはずだ。最近は特になかったから何もないと思っていたけれど、新たな本丸にも何か潜んでいたのか。項垂れる私の頭上に燦燦と日が注ぐ。

「……だけどやっぱり暑くはないんだよなぁ……」

 この間の本丸は夕暮れ。今度は昼中の森。一体どういうことなのか。進むべきなのか、それともじっとしておくべきなのか。後ろを振り返ってもどこにも道はなく、また私がいたはずの部屋もない。もうすぐ寝ようとしていただけに余計に疲れを感じていれば、再び「ほう」と声がする。

「……ん? でもフクロウって昼中でも鳴くのかな? 知らんぞ?」

 最近ではフクロウカフェなんかも増えてきたけど、私は行ったことがないし、そもそも鳥に関して詳しいわけでもない。フクロウ以外にも鳥は種類が豊富だし、中には日中で活動する個体もいるだろう。だけどどこを見上げてもフクロウの姿なんてなく、大きく息を吐き出し近くの木の幹に腰かけた。

「こういう時どうすればいいんだろうなぁ〜。動かない方がいいのかなぁ。それともゲームみたいに周囲を探索した方がいいのか? 実際こんなとこにポーンって放り出されても困るもんだなぁ〜。ゲームの主人公は本当勇気があるわ。ま、動かしてんのこっちだけど」

 これがゲームで、私がその主人公なら、画面の向こう側にいる誰かに動かされているのだろう。そして今は座らされている。そう考えると面白い気もするが、どうにも気分は上がらない。むしろ今日は色々動き回ったから疲れて眠いのだ。買い物に行ったことは勿論だが、あの後本丸で『色付き鬼』をしたり『だるまさんがころんだ』をしたりと、割と全力で遊びまわったのだ。出陣部隊と遠征部隊が戻って来てからは手入れと報告書の作成に取り掛かり、資材のチェックは明日することにして今日の仕事は一先ず終えた。
 それに何度も、それも日を置かずして怪異に巻き込まれたせいか感覚が鈍って緊張感が湧いてこない。むしろ欠伸ばかりが出てくる。

「だって昼中だけど木陰が涼しいし……まず眠いんだよなぁ〜〜〜」

 そう。今私は猛烈に眠いのだ。それこそ押し入れを開けて布団を取り出し、さあ寝るか。と布団に入って目を閉じたと思ったらこれなのだ。そりゃあ欠伸も出る。どうしたものか。
 さわさわと蠢く葉っぱを見上げながらぼけーっと座り込んでいると、私が座っていた木の上の方から何かが下りてくる。

「お? おお?」

 カサカサとしたそれは足が長く、またそこそこのスピードで降りてくる。残念ながらそこまで目が良くないのでもう少し近づくまで目を凝らして観察してみれば、それは手のひらサイズぐらいの蜘蛛だった。

「おごおおおおおお?!?!?!?!」

 特別蜘蛛が苦手というわけではない。だが手のひら大のサイズの蜘蛛が、だ。そこそこのスピードで、しかもこちらに向かって全速前進していたらそりゃあ誰だってビビるだろう。
 真っ黒な蜘蛛は幾つにも別れた目を赤く輝かせ、着実にこちらへ向かって降りてくる。流石に呑気にしているのは不味い気がする。しかし勢いよく立ち上がったはいいが、どちらに進んで良いか分からず立ち往生する。それでも蜘蛛は刻一刻とこちらに近づいており、私は「ええい、ままよ!!」と叫びながら視線の先に向かって走り出した。

 が、ここで更に恐ろしい出来事に見舞われる。

「あああああああああああ!!!!!!!!!! ムカデはダメだってええええええええええええ!!!!!!!」

 まるで精神攻撃でもされているかの如く、今度はムカデが私の後を追ってくる。しかもそれは一匹ではない。数えたくないほど大量のムカデが明らかに意思を持って私を追いかけてくるのだ。
 何だこの悪夢!!!!!!! 夢ならマジで覚めてくれ!!!!!
 心の底から願いながら、必死に早くもない足を動かす。それでも日頃の運動不足が祟ってかすぐに息が上がり、胸が苦しくなってくる。

「な、何でこんな目に……!!」

 口の中に血の味が広がるような感覚を味わいながら、それでも必死に足を動かしていると美しい沢に出る。沢はそこまで大きくもなく、深さもない。水面から顔を出す石の上を飛べば向こうに渡れるだろう。パッと見た感じじゃ橋などないし、背後からは未だにムカデがこちらに向かってきている。四の五の言っている暇はない。
 正直滑ってこけたら頭を打って死ぬだろうが、虫に食われて死ぬならいっそ頭を強打して死ぬ方がマシだ。私は気合を入れると一番手前の石に飛び乗り、よろけそうになる体を別の石の上に足を乗せることでバランスを保つ。その後も近づいてきたムカデから逃げるように別の石に飛び移れば、一番先頭を走っていたムカデが自分の勢いを殺せずに沢に落ちた。

「ぎゃあああああ!!!」

 ムカデが水中で移動できるのかどうかなんて知らないが、それでもあまりの衝撃に思わず叫ぶ。が、ここで私は自分の目を疑った。
 バシャバシャと水の中で見悶えするムカデが徐々に沈んでいく。しかし驚いたのはそこではない。沈むムカデの体から、水蒸気のような湯気のような、謎の白い煙が上がっていたのだ。まるで酸に投げ込まれたかのようにムカデは徐々に抵抗力を失くし、ついには消えてなくなった。

「……うわ……えっぐ……」

 あまりの衝撃に呆然としていれば、他のムカデもこの沢を渡れないのだろう。水の向こうでわらわらと蠢いてはいるがそれ以上進む気配はなく、私も細心の注意を払って向こう岸へと渡る。

「はあ……よかった……」

 一応まだこちら側では虫は湧いていない。散々なアスレチックだったと息をつき、一瞬目を閉じる。そうして再び瞼を開けた時には、世界はいつかのように真っ赤に染まっていた。

「……嘘ぉ……もうヤダ……サイレンが鳴っててもおかしくないぞこの世界……」

 あの日の本丸のように、先程まで明るかった世界が一変して真っ赤に染まる。どこのホラーゲームだよ……。と項垂れたのも束の間、私はすぐに口元を手で覆った。

「何この匂い……? 血……?」

 私は血が嫌いだ。色も、あの鉄錆び臭い匂いも。全部嫌いだ。だがその匂いが辺りに充満している。“ほのかに香る”なんてものじゃない。明らかに嗅覚を狂わすほどの強い匂いがするのだ。一体どういうことなのか。もしかしてどっか怪我でもしたのかな。と視線を落とし、愕然とした。

「嘘でしょ……何でよ……」

 先程までは美しい沢だった。だがそこには今大量の“血液”が流れていた。赤く染まった水なんかじゃない。これはまぎれもなく“血”だ。まるで三途の川のように、濃い血の匂いを漂わせながらドロドロと流れていく。対面の岸には先程までのムカデの姿は一匹もなく、またこちらにも未だ姿を現してはいない。あまり見たくはないが、それでも血の川を観察する。すると時折水面が鈍く光った。目を凝らし、そして後悔する。あれはきっと油だ。人のものか別の何かのかは分からないが、鈍い虹色の輝きを放つそれは油にしか見えなかった。

「うえ……」

 流石に気分が悪くなってくる。これ以上は無理だ。胃の中がひっくり返りそうな気分の悪さだ。結局耐え切れずに近場の木の根元で吐き出せば、そこに小さな、ミミズのような虫が湧いて出てきた。

「ヒッ!」

 自分の口の中から、いや、腹の中にこんな虫がいたというのか。それともタイミングよく土から湧いてきたのか。分からないが、ミミズとは微妙に違う。黒いそれは大きさにすれば一センチか二センチ程度だろうか。わらわらと何匹も吐瀉物の中で蠢く姿は更に気分を悪くさせ、私は別の場所でもう一度嘔吐する。

「も、やだ……」

 胃液のせいだろう。独特の酸の匂いと味に顔を顰める。拭う物もすすぐものもない。流石に途方に暮れた。
 確かに今まで色んな怪異に巻き込まれた。夢の中で殺されそうになったり、別の本丸に飛ばされたり。でも吐くほど精神的にダメージを負ったのは今日が初めてだ。
 一先ず沢から外れ、暫くは何事もなく森を進んでいく。とてもじゃないが森林浴など出来る余裕はない。ふらふらと歩き続け、疲労を感じては少し立ち止まる。けれど座ることは出来ず、少し休憩してはまた進み、また少し休憩しては進んだ。その間に考えることは今まで体験した怪異についてだ。
 一番最初の怪異は“悪夢”だ。あの時皆には『知人が殺されたり、自分が殺されそうになった』と簡単に説明したけど、実際はもっと酷かった。


 初日。私は友人たちと旅行に行っていた。そこは昔修学旅行で訪れた宿で、同じ間取りの部屋だった。そこで皆と布団を並べ、お喋りに興じつつ一人、また一人と眠り始めた。私も比較的早く寝落ちた。友人は何人いただろうか。少なくとも四人はいたと思う。夢の中で寝る。なんて妙な話だが、確かに私は目を閉じて眠ったのだ。そこで蠢く何かが私の足に触れた。最初は友人が悪戯を仕掛けているのだろう。と思い、触られていない方の足でその何かを蹴り飛ばした。が、突如私は何かに引きずり込まれるようにして海の中にいた。ゴボゴボと口や鼻から息が抜けて行き、慌てて手で覆うが理解が追い付かない。必死に水上を目指そうと水を掻くが、凄い力で海底へと引きずり込まれていく。恐怖心に蝕まれながらも足元へと視線を移せば、赤い光が二つ。真っ暗な闇の中からこちらを見ていた。
 あれが目なのか何なのか。本当の所はよく分からない。それでも確かに『見られている』『こっちを見ている』と感じた。
 必死にもがいた。もがいてもがいて、それでも何かの手か触手か分からないものが足を這い、太ももまで侵食してくる。もうダメかもしれない。耐え切れずに涙を零していると、そこで目覚まし時計の音が聞こえた。当然それに驚いて飛び起き、私はようやく悪夢から抜け出すことが出来たのだと実感した。
 その時足には何の跡もなかった。部屋はあの時の宿ではなかったし、海でもなかった。それに酷く安堵した。

 二日目。今度は母親と一緒にいた。それも今は亡き祖父母の家で、これまた母と布団を並べて寝ようとしている時だった。何を話していたかは覚えていない。だけどどうでもいい話だったと思う。私と母はいつも無駄話ばかりしていたから、灯りを落とした部屋でいつものようにグダグダと喋っていた。先に寝落ちたのは母だ。昔からそうだったので私も気にせず眠ろうとし、瞼を閉じてから変な音を聞いて下したばかりの瞼を開けた。
 そこで目にしたのは、私と母の上に跨る大きな『木の怪物』だった。一切衣服を纏わず、体の表面はカラカラに乾き、ひび割れていた。私や母の頭なんか簡単に握り潰せそうな大きな掌を広げると、あろうことかその化け物は隣で眠る母の首を絞めてきたのだ。

『な……! や、やめて! やめてよ! 離してよ!!!』

 恐怖に震えながらも飛び起き、私はその怪物の手に掴みかかる。だけどその力は強く、一向に外れる気配ない。むしろ私の抵抗が気に障ったのか、化け物は恐ろしい声を上げながら母の首を絞めていない方の手を振り回してきた。厚みはないのに、本当に大きな手だった。それでも死に物狂いでしがみついた。
 畳が浮き、箪笥が真っ二つになり、窓は外に吹き飛ばされ、部屋中が滅茶苦茶にされた。それでも『離して、離せったら!!』とがむしゃらに叫び、全身で抱き着いて離されまいとしがみつき、意味がないだろうけど硬い表面に爪を立てて母から引きはがそうと抵抗した。その間母は呻き声一つとして上げていなかったけど、あれはもう死んでいたのか眠っていたのか。よく分からない。それでも自分の爪が剥がれようと血塗れになろうと構わずしがみついていると、遂にその化け物の手が私の頭へと伸びてきた。

――潰される。

 確信にも近い気持ちを抱き、呆然と覆いかぶさってくるようにして伸ばされた手の平を見上げた。しかしそこで突然場面が入れ替わるようにして私は目を見開き、真っ暗な部屋の中、見慣れた本丸の天井を見上げていた。
 息は荒く、全身に汗を掻いていた。暫くの間動悸は収まらず、私は転げるようにして布団から飛び出ると障子を開けた。飛び込んできたのは欠けた月と、虫たちの声だった。静かで穏やかな夜がそこには広がっていた。それに再び安堵した私は廊下で膝を抱え、母が殺されそうになる夢を見たことが恐ろしくて恐ろしくて、我慢することが出来ず少し泣いた。

 二日もろくな夢を見なかったうえ、二日目は目が覚めてから結局眠ることが出来なかった。それで少しばかり昼寝を取ったのだが、その時にも私は『黒い影』に出会っていた。

「あれは、やっぱりあの本丸で見た影と一緒なのかな……」

 黒い影は私に向かって手を伸ばしていた。禍々しい気配を纏って。男か女かは分からない。私よりも大きな影は赤い二つの瞳を輝かせながら、嗤うようにしてこちらに手を伸ばしていた。もうすぐ私を手中に収めることが出来る。そう愉悦に浸るかのような歪み方だった。勿論逃げようとした。実際に足は動いた。でも進んでいる気がしなかったのだ。私は向かってくる影とは反対方向に走り出したはずなのに、遠くに見える赤い光はどんどん遠くなっていく。引き寄せられる力が強いのか、私の抗う力が弱いのか。あともう少しで黒い影の手に捕まりそうになり、私は目を閉じて必死に助けを求めた。そこでふと意識が浮上し、こちらを必死に揺さぶる陸奥守を見つけたのだ。

 そして三日目。私は一人で本丸の中庭に立っていた。地面には幾つもの刀が墓標のように刺さっていた。いや、刺さっているだけならまだいい。実際には多くの刀が刃こぼれし、折れ、砕け散っていた。赤よりも暗く、どす黒い世界の中。私は荒れ果てた本丸の中心にぼんやりと立っていた。
 足元には沢山の刀が折れていた。私の記憶にある刀もあれば、記憶にない刀もあった。短刀も、脇差も。打刀も、太刀も。関係なく折れ、地面に突き刺さっていた。そこに人の影はなく、また生きている命の気配はなかった。皆死んでいた。それも沢山。沢山の刀が折れていた。折られていた。私は呆然と立ち尽くし、目の前の本丸を見上げる。そこは至る所に血が飛び、襖や棚だけでなく柱まで斬られ、傷ついていた。本丸中が“死”に包まれていた。少しでも動けば足元で砕けていた刃が音を立てた。まるでゴミ捨て場のように、多くの刀が討ち捨てられていた。
 そこにもあの『影』はいた。真っ黒な出で立ちで、沢山の刀の死骸の上に立っていた。

『どうして……』

 どうしてこんなことをするのか。問いかけようとしてふと思いとどまる。耳をすませばその影は嗤っていた。声を上げ、酷く楽しそうに笑っていた。足元の刀を踏みにじりながら、ケラケラと。まるでそうすれば相手が喜ぶだろうと信じて疑っていないような声だった。咄嗟に引っ込めていた声を上げた。

『やめて! やめてよ!! そんなことしないで!!!』

 本当は逃げるべきだったのかもしれない。それでも私は踏まれている刀が『陸奥守吉行』だと気づいた時、逃げるどころか影に向かって走り出していた。どうしてその刀が『陸奥守吉行』なのかと分かったのか。それは正直言って自分でも分からない。それでも確かにあの刀は『陸奥守吉行』だと思ったのだ。
 陸奥守は私にとって大事な刀だ。誰よりも私を支え、皆を纏めてくれる頼りになる刀。でもそれ以前に、彼は私にとって『初めての神様』なのだ。私を一番最初に『主』と呼び、傷だらけになりながらも『これから一緒に強くなろう』と手を取ってくれた刀だ。そんな刀を、例え折れていたとしても、踏みつけ嘲笑っているのが許せなかった。
 影に向かって走った。影はゆらりと体を揺らしながら『陸奥守』から離れると、私は粉々に砕かれた陸奥守を呆然と見つめた。そうして身を屈め、砕けた彼に触れる。冷たい体は何も言わず、また反応せず。僅かに軋むような鋼の音を立てただけだった。これが『私の陸奥守』なのかは分からない。それでも『陸奥守吉行』という刀がこんな酷い目に合っていいわけがない。砕けた彼を拾い上げ、抱きしめる私を黒い影が見下ろした。

『コン、ド、ハ、オマエ、ダッ……!』

 片言の言葉は酷く聞きづらかった。男のような、女のような。お年寄りのような気もすれば、機械で弄ったような声にも聞こえた。影は携えていた刀を鞘から抜いた。何の刀かは真っ黒で分からなかった。だけど大きさからして太刀ではないかと思った。こんなもの振り下ろされたら死んでしまう。私が胸に抱いているのは折れた陸奥守吉行の欠片だけ。他には何も持っていない。それでもこんな奴に殺されたくはない。ほんの数秒の間、私は強く願った。『誰か助けて』と。その願いが届いたのか、影は突然姿をよろめかせると舌を打ったような音を出した。そして抜いたばかりの刀を鞘に納めると、今度は地面が大きく揺れだした。

『マタ、ジャマカ……! イマイマシイ……!!』

 揺れる大地に立っていられなくなり、私は折れた刀たちの上を転がる。それでも腕に抱えた『陸奥守』だけは離すまいとぎゅっと胸に抱いていれば、影は『ガアアアア!!!』と苦しみに満ちた叫び声をあげながら煙のように消えた。しかし影が消えても私は本丸の中にいたままだった。不思議なことだが、折れた刀たちの上を転がったというのにどこにも怪我なかった。暫く呆然としていると、赤黒い世界がどんどん闇に染まりだした。それは空間や本丸だけでなく、地面に突き刺さった刀も、折れた刀も同様に物凄い速さで飲み込んでいく。いや、世界が崩壊していく。と言った方が近いか。現に闇に飲み込まれた世界はひしゃげるような、断末魔にも似た音を立てている。
 だがもうすぐで私の体も飲まれてしまう、という所で侵食するスピードがぴたりと止まった。足の先に届くかどうかという所で地面に亀裂が入り、暗闇は砕け、私は夢から覚めた。

 ずっと忘れていたのに、ここにきて鮮明に思い出す。入院していた時もそうだ。私はあの時この夢を繰り返し見ていた。そこに黒い影はいなかったけど、折れた刀は増えている気がした。

 今も世界はあの夢と同じように赤黒い。今度も助かるのだろうか。それとも今度こそ死んでしまうのだろうか。分からず森を歩き続けていると、再びあの「ほう」という声が聞こえた。そして今度は、それ以外の声も聞こえてくる。

『ァ、アールジサン、コッチダョー』
『アールジ、ドコ、ドコニ、行ッ、タノ、ドコ、ドーコー』
『アルジ、コッチ、コッチダ、ァ、ヨォー』

 声は大きくなったり小さくなったり、まるであの日砕けた『前田藤四郎』のようだ。きっとこの声も同じだ。皆彷徨っている。この世界から抜け出せず、見えない主を探している。あの『前田藤四郎』だってそうだった。ずっと『主君』を探していた。探して探して、疲れ果てて。ボロボロになって、それでも。『主君』を守るために刀を握った。

 私は遂に歩くことを止め、ただ『アルジ』を探す声に耳を傾ける。膝を抱えて丸くなれば、周囲の木々や叢がガサガサと音を立て、あの赤い瞳が顔を覗かせた。

『ギィ、』
「……お前が、私を殺すの?」

 不思議と恐怖感はなかった。心が疲れ果てていた。
 私の足首の痣はもう元の色には戻らないんじゃないかと思うほど黒くなっている。力を入れたらここから折れてしまうんじゃないかと思うほど、そこは焼けた何かによく似ていた。更に私を恐ろしくさせたのが、その範囲が徐々に広がっていることだ。最初は気づかなかったが、遅々として、けれど明確に。それは範囲を広げていた。だが歩行に問題はないのだ。さっきも全力疾走出来た。痛みもない。だけど確実に私を呪う力が強くなっている。祓っても祓いきれなかったのか、それともまた私が捕まってしまったのか。もう分からない。
 歩き続ける中考えた。私が生きて、死んで。それで何か変わるのだろうか、と。私は歴史上に名を残せるような人じゃない。政治に関わっているわけでも、大きなことを成し遂げたわけでもない。審神者は全国に沢山いる。この戦争に携わっている人だって、敵味方問わず大勢いる。その中の一人が死んだところで歴史がどう変わるというのか。私がここで死んでも何も変わらない。歴史はそのまま進むし、戦争も終わらない。家族や皆はきっと悲しむだろうが、それもいつかは風化するだろう。あるいは傷の上にかさぶたができ、痛みに泣くことはなくなるだろう。
 こちらに向かってくる蜘蛛の身体は丸く、大きい。幾つもの足が意思を持ってこちらに向かってくる。赤い瞳は怒っているというよりも怨んでいるようだった。私をかどうかは分からないけど、酷く悲しく、燃え盛る炎のような熱さだった。

「お前が誰を怨んでいるのかは知らないけど、私を殺してスッキリするならそうしなよ。もう逃げないからさ」

 あの日抱いた『陸奥守吉行』はもういない。私の刀たちもどこにもいない。私を取り巻くのは謎の声だけ。罅割れ、聞き取りづらい声が、まるで『かごめかごめ』をするかのように私の周りをグルグルと回りだす。

『アルジ、アルジ、アルジ、アルジ』
『ドコ、ドコ、ドコ、ドコ? アルジサマ、ドコニイルノ?』

 もういい。もういいよ。怨みに身を焦がす蜘蛛に向かって手を差し出せば、蜘蛛の口が大きく開かれる。それは昆虫ではなく、人の口によく似ていた。

 そうか。これが私の“死”か――。

 諦めて目を閉じようとした瞬間、私の世界が白く染まった。

「諦めるな!! きみはまだ生きている!!!」
「つる、まる……?」

 白い衣装が翻る。どうして、と口を動かそうとすれば、今度は別の刀が“何か”を斬る。

「やれやれ、きみは本当に目が離せないな。主、怪我はないか?」
「鶯丸も……どうして……」

 背後に立っていたのは“私の”鶯丸で、その刃はすぐさま別の何かを斬った。

「まったく、きみといると本当に飽きないな……! というか、こんな驚きは求めてなかったぜ!」
「全くだ。“道”が開けばすぐに逃げるぞ。主、立てるか」
「う、うん……」

 地面に手を付き、ふらつく足で立ち上がれば鶯丸が支えてくれる。金切り声とも呼べるような声を上げながら、鶴丸に向かって蜘蛛が突進してくる。それを薙ぎ払い、転がるようにして移動してくると、鶴丸は視線と共に笑みを向けてくる。

「二振りだけだが、殿は俺が務める。鶯丸、お前が主を連れだしてくれ」
「承知した。まぁ元よりお前の方が強いからな。アレと戦っても生き残る可能性がある」

 蜘蛛は先程とは打って変わり、全身から禍々しいオーラを放っている。私に向かっていた時はそこまでではなかったが、今では全てを始末せんと言わんばかりに爛々と瞳を輝かせていた。

「主、アレを見るな」
「で、でも」

 あの蜘蛛が私の『死』ならば、私はそれから目を離してはいけない気がしたのだ。だが鶯丸は私をまっすぐ見つめると、刀を握っていない手で私の体を抱き込んできた。

「……きみがいなくなることがどれほど恐ろしいことか……分かってくれ」
「ぁ……」

 短い言葉の中で、強く脈打つ心臓の音で、どれほど彼が私を心配してくれたかが伝わってくる。私が折れた刀に心を痛めるように、彼にとって私がいなくなるということは恐ろしく、胸が痛むことなのだ。『少しは悲しんでくれるだろう』なんてものじゃない。鶯丸の絞り出すような声は、決してそんなものでは済まなかった。

「くっ……! 本当に強いな、この“念”は……!! 走れ! 鶯丸!!」
「行くぞ主!!」
「つ、鶴丸……!」

 腕を引かれて走り出す。殿を務める鶴丸は蜘蛛と戦いながらもこちらに笑みを向けてくる。その服にはべったりと血が滲んでいた。アレは蜘蛛の血だけじゃない。鶴丸の血も滲んでいる。ここ最近は出陣させていなかったから見ていなかったけど、何度も目にしてきたから分かる。私は自分の大事な刀を傷つけてまで生きていい存在なのだろうか? 鶯丸に言われたばかりなのに分からなくなって、思わず問いかける。

「鶯丸、私、本当にいいのかな、生きてて、いいのかな……?」
「当たり前だ! きみのいない世界なんてまっぴら御免だ!」

 走り続けた先、赤黒い世界には不釣り合いなほど暖かな光を零す亀裂がある。振り返れば鶴丸もこちらに走ってきており、私は知らぬ間に浮かんだ涙を拭ってから声を張り上げた。

「鶴丸!! 私、帰る! ちゃんと帰るから!!」
「当たり前だ! そのために俺達が来たんだからな!」

 追いかけてくる蜘蛛の足は残り一本しかない。そして最後の一本が伸ばされる。それは鶴丸ではなく私へと伸び、鶴丸が下からそれを切り落とさんとすべく刀を翻す。
 だけど私はあえてその手に触れた。もう長くはない、蜘蛛の本当の願いを知りたくて。

「……ありがとう。あなたのこと、忘れない」

 せめて苦しませることなく殺そうとしてくれた。黒い影に身体を弄られ操られ、苦しみと憎しみに悶えていた一匹の小さな蜘蛛。その体は沢山の憎悪によって増強され強く逞しくなっても、心は蝕まれ、苦しみから解放されたがっていた。私は絶対に忘れてはいけないのだ。この想いを。この悲しい存在を。

 本当は、この子もただの『刀』だったのだから。

「さよなら」

 蜘蛛の最後の足が鶴丸によって切り裂かれる。蜘蛛は大地を引き裂くような声を上げながら血飛沫を飛ばし、沈んでいった。立ち昇る血煙の奥から鶴丸が飛び出してくる。それに安心しながらも鶯丸に連れられ亀裂に飛び込み、後から転がるようにして飛び込んできた鶴丸の袖を握った。

「主!」

 呼ばれてハッと意識を取り戻せば、私の部屋に多くの刀が集まっていた。鶯丸も鶴丸も血や泥に塗れた状態で畳の上に転がっており、私は布団に横になった状態でとある刀の手をぎゅっと握っていた。

「……戻ってきたのだな、主よ」
「三日月、さん……」

 私が強く手を握りしめていたのは、三日月宗近だった。その手は同じだけの強さで握り返されており、彼は今にも泣きそうな顔で私の手を持ち上げ、そこに額を押し当てた。

「……すまんな……助けに行ってやれず……」
「……大丈夫。大丈夫だよ……」

 私の手を繋いでいた三日月が、きっと“道”を作ってくれたのだろう。私と本丸を繋いでくれた、あの亀裂をあそこまで大きくしてくれたのは三日月だ。根拠はないけどそう思った。
 その隣では大典太がほっと胸を撫で下ろしており、皆も一様に安堵の息を零していた。

「くっそー……本丸を移動したってのに、まだ主のこと狙ってんのかよ! コソコソしてねえでとっとと出てこいってんだよ! なあ、国広!」

 確かに。本丸を移動してから数日たったが、これが初めての怪異だ。もう襲われることもないと思っていただけに皆も油断したのか、それとも警戒していた皆の上をこの術者がいったのか。よくは分からないけど、相手が未だに私を殺すことを諦めていないことだけはハッキリと分かった。

「兼さんの言う通りだよ。こんな卑怯な手を使って……許せない」
「ですがどうすれば防げるのかも分からない以上、我々に出来ることは多くありませんよ」
「主が現世にお戻りになれば俺達は手出しが出来んからな……」
「本丸にいてもこんな目にあうんじゃ、どこが安全なのかわからないよ……」

 皆が意見を交わす中、私はぼんやりと三日月を見上げる。
 どうしてだろう。今の三日月は酷く苦しそうだ。形のいい唇は噛みしめられ、眉間には深く皺が寄せられている。私の手を未だ離すことなく握る姿は、なんだか子供みたいだ。……本当に、どうしてだろう。どうして三日月がそんな顔をするんだろう。苦しくて苦しくてたまらないって、あの蜘蛛が言っていたように辛そうだ。
 まだ全身がだるくてうまく力が入らない。だから私はそっと目を閉じて意識を集中させる。彼が顕現した時のように、今も彼に触れられると『違和感』を覚える。それが彼の霊力なら、その乱れ方でどんな感情を抱いているのか読み取れるんじゃないかと思ったのだ。現に彼の霊力は乱れていた。いつも私に触れてくる時は穏やかで落ち着いているのに、今は荒れ狂う嵐のように不安定だ。
 私はその手を優しく揺らして三日月の意識をこちらに向けると、御簾で相手から見えないことも忘れ、安心させるように意識して微笑んだ。

「大丈夫。私なら大丈夫だよ。三日月さんがこうして、私の手を握ってくれたから」

 どこも痛くないよ。と続ければ、三日月は「そうか」と言って微笑み返してくれる。でもその顔は酷く歪で、本当に泣き出してしまいそうだった。

「それにしても、鶴さん酷い有様だね。鶯丸さんも」
「いやー、中々手強かったぞ。久々の出陣なだけあって骨が折れた」
「ああ。縁側で茶を飲むのもいいが、たまには出陣せねばならんな。肝が冷えた」

 皆の怒りを霧散させるように、鶴丸と鶯丸が敢えて明るい声を出す。その話題を振った燭台切もちゃんとは笑えていなかったけど、私も皆に落ち着いてほしかった。

「鶴丸、怪我したでしょ? 手入れしよう」
「待て待て。俺は大丈夫だから、きみはもう少し寝ていろ。顔が真っ青だぞ」
「鶴丸の言う通りちゃ。おんしは“戻ってきた”ばかりやき、今は休むぜよ」
「でも……」

 確かに体は怠いし、頭はクラクラする。それでも鶴丸が痛くて眠れないだろうと身体を起こそうとするが、思った以上に体力を消費しているらしい。ちっとも体が動かなかった。

「このぐらい何ともない。大丈夫だからきみは休め」
「心配するな。俺も鶴丸もどこにも行かない。ここにいる。心配なら朝一で会いに来てくれ。それならば問題ないだろう?」

 微笑む鶯丸に、頷く鶴丸。確かに元気そうだ。思ったより怪我は酷くないのかもしれない。
 癖で陸奥守を探せば、三日月が握る手とは反対の手を陸奥守が握ってくれた。

「大丈夫じゃ。わしはここにおる。安心して眠るとええ」
「うん……ありがと。おやすみ……」

 今度はもう怪異に巻き込まれることはないだろう。例えもしまた巻き込まれたとしても、私には皆がついているから。皆の気配を感じながら目を閉じる。意識はあっという間に沈んだけど、左右の手から二つの霊力をずっと感じていた。

 大きいのに不安定で子供みたいな力と、微動だにしない、どっしりと構えた安定した力。特に前者は酷く寂し気で、心細いのか。泣いているようにも、震えているようにも感じた。だから私は何度も「大丈夫だよ」と言い聞かせるようにして抱きしめた。実際は概念だから形なんてないのだけど、あたたかい毛布で包み込むようなイメージで寄り添った。そしてそんな私にはもう一つの霊力が寄り添ってくれた。お日様みたいに暖かくて、傍にいてくれるだけでほっとする。きっとこの力は陸奥守だ。私の、私にとっての、初めての神様。

「大丈夫。絶対に大丈夫だよ」

 震える三日月の肩を抱いてそっと寄り添う。姿形が見えなかったはずなのに、今ははっきりと見ることが出来る。彼は何度も「すまない」と繰り返した。顔は俯き、覆われていたから見えなかったけど、きっと後悔しているのだ。

 私を怪異に引き込んだことに。

「私は大丈夫だから。だから、もう自分を責めないで」

 この刀は、きっと私の力で顕現させた刀じゃない。伝わる霊力で感じ取ることが出来る。私とは異なる力を持つ存在を、三日月の霊力を通して感じることが出来る。とても強くて、恐ろしい力。そして酷く冷たくて、本能的に逃げ出したくなるような気持ちを抱かせる。三日月も、望んでこんなことをしているんじゃない。あの『蜘蛛』と同じように。あの子もただの『刀』だった。でも色んな刀の意識が詰まっていて、誰が本体なのか読み取ることが出来なかった。

 気付けば三日月は刀に戻っていた。私の手の中で、一振りの刀として横たわっていた。私はそれを腕に抱いて目を閉じる。
 起きたら話をしよう。三日月と、あの『蜘蛛』のこと。そして三日月の本当の『主』のこと。きっと三日月の本当の主と、先程森の中で皆が探していた『アルジ』は同一人物だ。そして私の勘が間違っていなければ、その『アルジ』はあの日折れた『前田藤四郎』の『主君』でもあり、私を襲う『黒い影』でもある。

 眠る私と三日月を、陸奥守が優しく包み込んでくれる。
 この先何があるかは分からない。それでも私には三十人もの『神様』がついている。だから大丈夫だ。絶対に負けたりしない。


 長く永い一日が終わっていく。穏やかな日々が終わりを告げるように、激動の一日が、始まろうとしていた。








恋愛色強めたら事件性も強くなったし展開が早くなりました。このまま一気に終わらせたい。
お付き合いくださりありがとうございました。m(_ _)m


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