小説
- ナノ -




 新しい本丸に来てまず最初にしたことは、畑を拡げることだった。

「はーーーーっ! 腰痛ぇえ〜〜〜」

 出陣と内番は行わず、資材調達の遠征だけは欠かさず行う。その間本丸にいる全員で畑を耕し、厩の整備に取り掛かっていた。勿論私もその輪に加わっている。最初の頃だってみんなと一緒に畑仕事をしたのだ。皆みたいに上手に鍬は振るえないけど、苗を植えたり水をやったり、肥料を混ぜ合わせるぐらいなら出来る。幾ら刀たちの成長に繋がるとはいえ、皆が大変な時に一人呑気に奥に引っ込んでいるのは忍びない。それに一週間も病院でダラダラ過ごしたのだ。鶴丸じゃないが、少しぐらい体を動かした方が気分もスッキリするというものだ。
 とはいえ、やはり長時間腰を屈めているとしんどくなる。浮かぶ汗を拭いつつ立ち上がって腰を伸ばせば、近くにいた歌仙から案の定窘められた。

「コラ主。きみはいつになったらその口調を直すんだい?」
「うへぇ〜。でもさぁ、こんなクソ暑い中でそんな可愛く『やだ〜もぉ〜、腰痛ぁ〜い』なんて言われたら腹立たない? “やかまわしいわ!”みたいな」

 季節は既に夏だ。じめじめとした梅雨が嘘のように日照りが続き、太陽は燦燦とその恩恵を大地に注ぐ。幾ら現世の夏に比べたらマシとはいえ、日差しをずっと浴びていれば暑いものは暑い。動けば汗はかくし、蝉の声は煩わしい。そんな中ぶりっ子をされても気持ち悪いし腹が立つだろう。そう促せば歌仙は暫く悩んだ後、眉間に深い皺を刻んだ。

「何故だろう……きみがそんなことを口にしたら『熱があるんじゃないか』と疑う自信がある」
「ほらみろー。言わんこっちゃない。大体私は半分ぐらい女捨ててるようなもんなんだから、今更求めんな。って話ですよ」

 はー、やれやれ。と腰を回していると、背後で歌仙が「いや、でも……」とか何やらブツブツ零している。その顔は暑いからかほんのり色づいており、私はそろそろ休憩にした方がいいかな。と判断した。

「よし。おーい、みんなー! そろそろ休憩にしようかー!」

 だいぶ広がった畑の向こう。黙々と作業を続けていた大倶利伽羅や山姥切にも聞こえるように声を出せば、皆わらわらと近づいてくる。

「しゅくーん、今日は一段と暑いですねぇ〜……」
「秋田の言う通りです。主君、辛くはありませんか?」
「国広ー! 茶ぁくれー!!」
「待ってて兼さん! あ、主さんも皆も、先に縁側で休んでて」
「ありがとー」

 麦わら帽子を被った短刀たちの背を押しながら歩いていると、近づいてきた和泉守が脱いだ上着で影を作ってくれる。こういうことをサラッとしてくるあたり男前だなぁ。と褒めてやれば、和泉守が少年のような顔をして笑う。

「そりゃあ俺は格好良くて強い刀だからな。どうだ、惚れ直したろ」
「はいはい。格好いい格好いい。でも調子に乗りすぎて堀川に怒られないようにね」
「何だよ、つれないな」

 黙っていればいい男なだけに、少年のように素直に感情を露にすると存外可愛らしい。喪女に軽くあしらわれたのが気に食わないのか、ぶすっとした顔をする和泉守に笑っていれば馬当番をしていた長谷部、薬研、江雪、鶴丸、小夜も戻ってくる。

「主、厩の方は殆ど完了いたしました」
「馬たちも新しい本丸の空気に慣れてきたみたいだぜ。だいぶ落ち着いてきた」
「もう少し時間をかけて馴染ませるのが良いでしょう」
「小屋の方も問題ないぞ。あっと驚くような仕掛けを施そうとしたんだがな。皆に止められてしまった」
「馬に嫌われても知らないよ、鶴丸さん」
「あはは。鶴丸は相変わらずだねぇ。皆お疲れさま。疲れたでしょ? 一緒に休憩しようよ」

 堀川と歌仙、そして燭台切と鶯丸がお茶を用意してくれる。最近は鶯丸が私専用にお茶を淹れてくれるようになり、今日は氷出し緑茶だった。ひんやりとした心地よい冷たさがグラスから掌に伝わり、それだけで表情が緩む。

「は〜、冷たぁ〜い。お茶にも色んな淹れ方があるんだね」
「朝用意していたからな。氷も解けて丁度いい頃合いだろう。今の季節にはこれが一番だ」

 私の中で鶯丸という刀は飄々としてマイペースで、あまり他人の世話を焼いたりするイメージはない。むしろ世話を焼かれる方というか、面倒を見てもらう方というか。そういうイメージが強かっただけに、こうして甲斐甲斐しく(お茶のことに関してだけだが)世話を焼いてくれると驚きと同時に嬉しさが募る。
 現に彼にしては珍しく私が先に飲むのを待っているようで、期待に輝く彼の瞳を裏切らないうちに口を付けた。

「……あー……冷たくて美味しい……これ全然渋みがないね。あったかいお茶とはまた違う味がする」
「ああ。茶は温度によって味を変えるからな。温度が低いとそれだけ渋みがなくなり、甘さが増すんだ」
「そうなんだ! 流石鶯丸さん。詳しいね」

 皆も麦茶やらスポーツドリンクやらを好きなように取っている。鶯丸も私と同じように氷出し緑茶を口にすると「我ながら上出来だ」と頷いた。その姿に声を出さず笑っていると、うちの悪戯爺がとんでもないことを仕出かしてきた。

「そぉーら! 皆に爺からの“ぷれぜんと”だ!!」
「わあああ?!?!」

 縁側から庭に降り立った鶴丸が手に取ったのは、あろうことかホースが繋がれている蛇口だ。それに「げっ!」と顔を青くする暇もなく鶴丸は勢いよくそれを捻り、足元で管を巻いていたホースが水の勢いを殺し切れず盛大に暴れ出す。

「ぎゃああああ!!! 鶴丸のドアホーーーーーー!!!!!」
「あっはっはっはっはっ!! どうだ! 驚いたか! ついでに涼むといい!」
「ちょっと鶴さん!! 本丸まで濡れちゃうよ!!」
「主、危ないからこっちに来い」

 暴れるホースを掴んだ鶴丸が、その口を絞ってこちらに向かって水を飛ばしてくる。慌ててグラスを取り下げようと背を向ければ、傍にいた鶯丸が私の腕を引いて背中に隠してくれた。

「おい鶴丸、主はじょせ、ぶっ!」
「はははは! 油断大敵だぞ、鶯丸! 水も滴るいい男になったじゃないか」
「あああああ鶯丸さーーーーん!!!!!」

 鶴丸を諫めようとしてくれたのだろう。だが諌言が耳に届く前に鶴丸からホースを向けられ、鶯丸の端正な顔が頭から胸元までびしょ濡れになる。おかげで私は濡れなかったけど、これは流石にまずいだろう。あわあわと前髪から水を滴らせる彼を背後から見上げれば、鶯丸は珍しく眦を吊り上げた。

「そうかそうか……ではお前にも浴びせてやろう!」
「え」

 ここで鶯丸さんが手にしたのは、私の傍にあった氷出し緑茶の冷水ポットではなく、ただの氷水が入っていた冷水ポットだ。これは五虎退の虎や鳴狐のお供専用の冷水で、中には角ばった氷が幾つも浮かんでいる。それを戸惑うことなく掴み、鶯丸は普段の動きから想像できないほど正確なコントロールでそれを投げる。当然投げられる最中で緩んでいた蓋は外れ、驚き固まる鶴丸の頭上で見事に中身がぶちまけられた。

「どわああああああ!!!! 冷てーーーーーッ!!!!」
「ははは! お前もいい男になったじゃないか」

 笑いあう平安刀にぽかんとする暇もなく、今度は鶴丸の手から離れたホースを燭台切が掴む。

「コラ鶴さん! 今回ばかりは許さないからね! お仕置きだよ!」
「あー!! すまん! 悪かった光坊、あやま、ぶへっ!!」
「あははは! 燭台切さんやれやれー! やっちゃえー!」
「鶴丸さーん、あんまり悪いことするからこうなるんですよー」
「今後は気を付けてくださーい」

 謝る鶴丸に向かって燭台切がホースの水をぶち当てる。当然勢いのある水だから威力も凄まじく、鶴丸は「痛い痛い!」と叫びながら逃げ惑う。それに対し短刀たちはケラケラと笑いながら声をあげ、普段驚かされている鶴丸に意趣返しするかのように燭台切を応援し始める。

「はっはっはっ。偶には痛い目を見るものだぞ、鶴丸」
「懲りない人ですねぇ。この際です。燭台切にみっちり扱かれてきたらいいじゃないですか」
「暑苦しい男がびしょ濡れになれば、幾らかは涼しくなるんじゃないのか?」
「ははは。流石長谷部だ。バッサリいくねぇ」
「ていうか鶴丸さぁ、さっき主に向かってホースの口向けたでしょ。許されざる行為だよね」
「何?! 鶴丸、貴様ーーーッ!!!!」
「ギャー?!?! 長谷部が参戦してきた?!?!」

 加州の言葉に触発されたのか、今度は長谷部が参戦してくる。その手には本体の代わりに『塩分補給』と称して台所から持ってきた食塩が盛られた器があり、鶴丸は真水から食塩水を浴びる羽目になっていた。

「冷たい! そしてしょっぱい!! 驚きだぶほあっ!」
「貴様なんぞ清められろ!!」
「長谷部くんパワーワードすぎる」

 いい歳した男たちが、しかも神様だ。全身ずぶ濡れになって炎天下の中はしゃぎまわる。その姿に普通なら呆れるのだろうが、私は笑っていた。
 太陽に照らされた雫がキラキラと輝いて、何だか夢のような時間だとも思った。
 気づけば短刀たちも縁側から庭に下り立っており、鶴丸と一緒になって燭台切から水を浴びせて貰っている。水の勢いは既に陸奥守によって緩められており、太陽の光に当てられ鮮やかな虹を作り出していた。

「……なんか、懐かしいなぁ……」

 小さい頃、よく兄と一緒にこうして遊んでいた。長期休暇になると福岡に住む祖父母の家に遊びに行って虫取りをしたり、自転車に乗ってサイクリングに行ったり、広い庭で家庭用プールを広げて水遊びもした。大きくなるにつれそんな遊びは徐々にしなくなったけど、夕暮れの中祖父と兄の三人で赤トンボを見に行ったり、田んぼのあぜ道を通りながら蛙の鳴き声に耳を傾けたのはいい思い出だ。
 今ではもう遠い思い出になってしまったけど、あの時は本当に色んな事が楽しかったなぁ。と感慨深い気持ちで皆の姿を見ていると、首筋にひやりとした冷たい感触が襲ってきた。

「へあッ?!」
「……何て声を出している」
「あ、あれ? 大倶利伽羅。どうしたの?」

 珍しく皆がいる前で近づいてきたのは大倶利伽羅だった。その手には冷凍庫からくすねてきたのだろう。アイスが握られており、私に向かって「ん」と差し出してきた。

「あ。取ってきてくれたんだ。ありがとう」
「……別に。一つ余っていただけだ」

 素直じゃない刀が少し距離を開けて隣に座る。ソーダ味のアイスに噛り付く彼の頬や首筋には汗の流れた跡があり、暑い中一所懸命働いてくれたんだな。と実感する。そこでふと私はあの時別本丸から助け出してくれた刀が彼であることを思い出し、遅くなったけどお礼を言うことにした。

「大倶利伽羅。遅くなっちゃったけど、あの時は助けてくれてありがとう」
「…………別に。俺だけの力じゃない」

 彼の言う通り、私を助けてくれた刀はもう一振りいる。離れた場所で堀川と一緒にいる山姥切に向かって声を掛けた。

「山姥切ー、ちょっといいかな?」
「? 何だ? 何か用か」

 手を振ってくる堀川に手を振り返す。その間に近づいてきた山姥切は大倶利伽羅とは反対の位置に、彼と同じように距離を開けて座った。
 こちらを見つめる瞳は真っ青で、高い夏の青空をそのまま写し取ったかのようだ。本当に綺麗だなぁ。としみじみ思いながらも、私は山姥切にも同じように礼を述べた。

「山姥切も、あの時私の事助けてくれてありがとう。二振りがいなかったらきっと帰ってこれなかった。だから本当に感謝してる」
「別に礼などいらない。当然のことをしたまでだ」

 照れているのか顔を見られたくないのか。いつものように布を引き下げ顔を隠そうとするので、私はまだ口にしていないアイスを下から覗き込んだ拍子に彼の口に突っ込んだ。

「んが?!」
「あははッ! 大倶利伽羅から貰ったアイスだけど、山姥切にあげる。ごめんね、大倶利伽羅。折角持ってきてくれたのに」

 驚く山姥切がもごもごとアイスを咀嚼する中、大倶利伽羅に謝罪すれば「好きにすればいい」と返される。普段と変わりないそっけない態度だけど、やっぱりちょっと失礼だったかな。好意を無碍にするのはよくないし。でも普段あまり会話をすることがない二振りとこうして並んで座っていられるのは殆ど奇跡と呼んでもいい。この際にもう少し親睦を深められないかと考え、「あっ」と声を出す。

「ねぇ、大倶利伽羅」
「何だ」
「今度さ、三人だけで美味しいものでも食べに行こうか」
「んぐっ!」

 私の提案に声を詰まらせたのは山姥切だ。ゲホゲホと咳き込む彼の背中をぽんぽんと叩いてやると、アイスを食べ終わった大倶利伽羅が珍しく微妙な表情でこちらを見ていた。

「三人で? 俺と、あんたと、そいつでか?」
「うん。そう。助けてもらったお礼を兼ねて。本当なら皆にもしたいけど、今あんまり手持ちがないし。だから二振りだけ特別。ね?」

 二振りがどんな食べ物が好きかは知らない。でも万屋がある通りには色んなお店がある。食べ歩きなんかを楽しむ審神者もいるみたいだし、二振り分ぐらいなら私の少ない手持ちでも驕れるはず。あの時私が助かったのはこの二振りがまっすぐ手を伸ばしてくれたからだ。あの手がなければ今頃黒い影に殺されていただろう。だから二振りは命の恩人だ。少しでもいいから何か返したくてそう提案すれば、大倶利伽羅は暫く黙った後、私ではなく山姥切へと視線を投げた。

「お前はどうなんだ」
「え。俺か? どう、とは……」
「だから、俺と、審神者と、お前とで、出かける姿が想像できるのかと聞いている」

 想像。大倶利伽羅の言葉に、きっと私と山姥切は同時にその姿を頭の中で思い浮かべる。
 山姥切、私、大倶利伽羅。無口な刀に挟まれた小さくて丸い私。まるで捕獲された宇宙人のようだ。あるいは漢字の『凹』。っていうか場違いにも程があるか? こんな美男子二振りと一緒に出掛けるとか……。いや、でもあの通りには刀剣男士と審神者しかいないし、一般人がいるわけでも知り合いがいるわけでもない。普通に審神者と刀剣男士が買い物に行くなんてよくある光景なのだ。ならば別にそう珍しいものでもないだろう。開き直る私とは裏腹に、山姥切は食べ終わったアイスの棒を指先で弄びながら俯く。

「……正直、俺にはもったいない話だ。審神者と出かけるなど……」
「え?! そこ?!」

 そんな畏まられるような存在じゃないんだけどな?! 私!
 驚いている合間にも山姥切は再び布を引き下げ、ぼそぼそと言葉を続ける。

「だって俺はあんたの初期刀じゃないし……大倶利伽羅のように堂々としていられる度胸もない。あんたの前では平気だが、やはり多くの人の目があると、俺は……」

 山姥切の指がぎゅっと力を込めて布を掴む。時折見せるその姿を咎めたことはあまりないが、今回ばかりは勢いよく開かせてもらった。

「山姥切国広!」
「ッ! な、何だっ」

 私の声にはしゃいでいた刀たちも声を潜める。怒っているとでも思ったのだろう。だけどそれは半分正解で、半分間違いだ。私は彼の頬をぴしゃりと両手で挟むと、小動物のように狼狽え、固まる彼の瞳をまっすぐ見つめた。

「確かにあんたは私の初期刀じゃないけど、それが何だって言うの? 初期刀が一番偉いわけじゃないよ。そりゃあ確かに私は初期刀である陸奥守を信頼してるけどさ、だからって山姥切や皆のことを蔑ろにしているつもりはないよ。むしろ霊力が全然ない私が皆の主で、審神者であることの方が恥ずかしいぐらいだよ」
「そんなことを言ったつもりじゃ……!」

 慌てて否定しようとしてくる山姥切の言葉を遮るように、私はそのお綺麗な顔を、びよーんと崩すようにして頬を横に引っ張った。

「大丈夫。ちゃんと分かってるよ。だって山姥切もそうだけど、皆優しいもん」

 御簾で見えないことは百も承知だ。だけど皆私の感情を読み取るのが上手いから、気にせずに笑う。笑うだけじゃない。怒ったり、泣いたりもする。まぁあんまり泣いたことはないけどさ。それでも出来る限り偽らず、素直に気持ちを伝えるようにしている。
 それは態度であったり言葉であったりと様々だけど、私は神様に嘘はつきたくないから。っていうかつけないでしょ。何があるか分かんないし。怖いもん。神様怒らせるなんてしたくないからさ。だけどそれ以上に皆と繋がっていたいんだ。皆とても素直で、素敵な神様だから。神様たちから見たらどうしようもない、浅はかで愚かな人間の一人かもしれないけど、それでも。私は私らしく、偽らない自分で皆と接したい。それが何のとりえもない私に出来る、唯一のことだと思っているから。

「私は山姥切が好きだし、大事だよ。こうして話したり、同じものを食べたり、お茶を一緒にするだけでもすごく楽しい。山姥切も、もし私と一緒にいることが少しでも“楽しい”って思えるなら一緒に行こうよ。山姥切が楽しくなくても、私がその分楽しむよ」

 むにむにと伸ばしていた彼の頬から手を離し、今まで背中を向けていた大倶利伽羅にも視線を送る。

「大倶利伽羅もだよ。普段はあんまり言わないけどさ、ちゃんと大事にしてるから。それと、いつも気にかけてくれてありがとう」

 時々花を贈ってくれるだけでなく、私が危ない目にあうといつも颯爽と現れて助けてくれる。まるでヒーローみたいだ。そんな大倶利伽羅へと向き直れば、彼の黄金色の瞳がすいっ、と外される。照り続ける太陽と慣れない気温に汗が滲むのか、彼は口元を隠すようにして手の甲を押し当てた。

「…………好きにしろ」
「……俺も、あんたが望むなら……それでいい……」

 左右から零されるぼそぼそとした返答に「あー、よかった」と胸を撫で下ろす。これで否定されたら流石に泣いていたかもしれない。
 改めて布で顔を隠し俯く山姥切と、未だに口元に手を当てたまま顔を逸らす大倶利伽羅の手をぎゅっと握る。途端に二振りは大げさなほど肩を揺らす。それがふいをついたみたいでおかしくて、私は声を上げて笑った。

「はい! じゃあ約束ね! 忘れんなよぉ〜?」

 握った手をブンブンと上下に振れば、二振りから「分かったから離せ」と怒られたので素直に離して立ち上がる。二振りはやっぱりこちらから顔を逸らしたままだ。そんなに私の顔を見るのが嫌なのか。流石にちょっと傷つくぞ。
 どうしたものかと考えていると、ふとあることを思いつく。くるりと振り返った先には全身びしょ濡れの刀たちがいる。暴れまわっていたホースは現在長谷部が握っているようで、私は手を伸ばしてそれを受け取る。蛇口へと視線を向ければ、流石初期刀。準備万端な陸奥守に向かって親指をあげて合図を出すと、私は再び生き物のように蠢きだしたホースの口を二振りに向けた。

「おらー!!! 油断大敵じゃあああああ!!!」
「な、まっぶっ!!」
「! クソッ、」

 驚く山姥切の顔面に水が直撃し、体を逸らした大倶利伽羅は直撃は免れたが飛沫に当たる。
 縁側から飛び出した大倶利伽羅の背中にそのまま水を当てれば盛大に睨まれ、それを見ていた鶴丸と燭台切が声を上げて笑い出す。

「はっはっはっ! 伽羅坊も“いい男”の仲間入りだな!」
「格好いいよ! 伽羅ちゃん!」
「やかましい!」

 珍しく声を荒げる大倶利伽羅に更に声を上げて笑い、こちらを微笑ましそうにも、呆れたようにも見つめている加州や宗三の足元にも水をぶっかける。

「あはは! 主ひどーい!」
「ちょっとあなた! 僕を巻き込まないでくださいよ!」
「あははは! いいじゃんいいじゃん! ちょっとぐらい遊ぼうよ」

 笑いながら皆に水をかけていく。蒸し暑い夏の暑さも吹っ飛ぶような冷たい水の勢いに乗って、私は皆と一緒に水遊びに興じる。本当に小さい頃以来だ。こんなことで大はしゃぎするのは。
 夏の日差しに『日焼けする!』なんてことすら考えず、私は皆と一緒に笑いあう。頃合いを見て陸奥守が水を止め、もれなく全員びしょ濡れになった姿を見ては皆で笑う。

「全く困った主ぜよ。ほれ、風邪ひかんうちに早う着替えてくるとええ」
「陸奥守の言うとおりだよ。きみは女性なんだから。あ、ちゃんとタオルで足を拭いてから上がるんだよ」
「はーい」

 陸奥守に促され、歌仙に注意されながら先に本丸内へと足を踏み入れる。シャツやジャージが肌にまとわりつくのが鬱陶しい。軽く水気を絞ってから部屋に向かって歩き出せば、その後ろで多くの刀がほっと息を付いたり、頭を抱えていた。生憎私は背を向けていて全く気付かなかったけど。その顔が日差しのせいではない理由で赤くなっていたことにも当然気づかなかった私はそのまま部屋まで行き、よいせ。と声を上げながら濡れた衣服を脱ぎ捨てる。

 視線を落とせば、足首に残る痣がまたも色を濃くしていた。このことを、この本丸内では私以外誰も知らない。

「うん……まだ大丈夫……まだ……」

 夏はまだ始まったばかりだ。まだ。まだ、私は大丈夫。色は濃いけど、痛みがあるわけでも、嫌な夢を見ることもない。考えすぎるとドツボにはまる。だから考えないようにしなければ。大丈夫。大丈夫。何とかなる。絶対に大丈夫。絶対、絶対、絶対。大丈夫。
 ……そう言い聞かせないと、私は不安で押し潰されてしまいそうだった。

「絶対に大丈夫……」

 冷えた体を両の腕で抱きしめる。じんわりとしたぬくもりが徐々に広がる。途端に焼けた肌がヒリヒリと痛みだし、私は閉じていた目を開けた。
 夏はまだ始まったばかりだ。審神者に就任して初めての夏。不安な心を拭い去るように頭を振ると、私は引き出しから取り出したTシャツに袖を通した。

 蝉の声が本丸中に響き渡る。あの日聞いた、棄てられた本丸で聞いた時とは違う生きている蝉の声だ。それに僅かに安堵し、私は自分自身に言い聞かせるようにして呟いた。

「……負けない」

 じわじわと肌に空気が馴染んでいく。本丸内から聞こえてくる皆の声にほっと息をつきながら、私は洗濯するために濡れた衣服を拾い上げた。 


prev / next


[ back to top ]