小説
- ナノ -





 朝方の本丸から夕暮れの本丸に――。
 別本丸に“飛ばされた”のか“閉じ込められた”のかは分からないが、私は一人、とぼとぼと本丸内を歩いていた。

「何だかなー……」

 恐ろしいほど真っ赤に染まる世界の中、恐る恐る足を向けたのは畑だった。何故畑なのかと言うと、まだ本丸内に足を踏み入れる勇気が持てなかったからである。そのため厩か畑かと悩んだ結果、畑を選んだのであった。だって馬が暴れてたら手ぇ付けられんし。もし馬が逃げた先で誰かが宥めて、その足で近づいてきてバレても怖いし。それに夕方ともなれば畑仕事も殆ど終わって誰もいないはずだから、ちょっと探ってみよう。という気持ちで足を運んだのであった。
 しかし私の目の前に広がるのは作物が成っている整った畑ではなく、雑草が至る所に生えた整地されていない、荒れ果てた畑だった。

「……土が乾いてる……ずっと手入れされてないみたいだ」

 触れた土はカラカラに乾いていた。表面は白く、触れば粉々に砕けていく。生えている雑草も元気はなく、しなびてぐったりとしている。葉先はボロボロに崩れ、色も枯れ果て朽ちる寸前の黄土色だ。とてもじゃないが作物が育つ環境ではない。農具が仕舞われているはずの小屋にも顔を出したが、そこも今にも倒壊しそうなほどに朽ちていた。
 それだけじゃない。壁には乾いた血痕のようなものがベッタリとついており、爪で引っ掻いたような痕すらある。中からは乾いた土の匂いしかしなかったが、小屋の中だけでなく農具にも蜘蛛の巣が張り、埃が溜まっていた。

 まるで棄てられたみたいだ。

 これだと厩も同じだろうと思い、意を決して厩に向かって歩く。その間も誰かに襲われないか、敵が来ないかとビクビクしながら周囲を見回したが、蝉の声しか聞こえなかった。そして辿り着いた厩もやはり朽ちていた。当然馬もいなかった。ただ寒々しい空間だけが広がっている。

「枯れ葉が溜まってる……馬の匂いもしない。何年も放置されたみたいだ……」

 柵に触れれば、キィと軋んだ音を立てる。表面はボロボロで蝶番も錆びて赤くなっている。何も残っていない厩でぼーっとするわけにもいかず、私は遂に本丸へと足を向けることにした。

「いやぁ……でも怖ぇよ。マジで怖ぇよ。お化け屋敷とかはさ〜、作り物だし、どうせ“人間がやってるんでしょ?”って思ってたから怖くなかったけど、これはガチじゃん……ガチの心霊現象じゃん……無理だよ怖ぇよぉ〜……遺書は渡してるけどやっぱり怖ぇよぉ〜……」

 震える膝を抱えて蹲る。真っ赤な世界から目を背けるようにしてグッと目を閉じ、繭の中に閉じこもるみたいに背を丸める。心の中で『むっちゃん助けに来てくれないかな』と何度も願ったが、蝉の声しか聞こえてくるものはない。心細さに心が折れそうになる。どうして私がこんな目に合わなきゃいけないんだろう。

「何だよぉ〜……私が何したっていうんだよ〜……私何も悪いことしてないじゃん。え? 何? この口が悪かったの? 口の悪さが神様の癪に障ったの? それともこの口調? 男じゃないのに男みたいな喋り方して、って怒られてるわけ? 歌仙に何回も注意されたけど直らなかったから? でもしょうがないじゃん。ずっとこれで生きてきたんだから。私だって親に注意されて直そうと思ったことは何回もあるよ。でもてんぱると出てきちゃうんだよ。怒ったりすると自然と口調が粗くなっちゃうんだよ。悪気はないんだよ」

 誰に対してか分からない言い訳を延々と募る。そんなことしても意味がないと分かっていても、私の口は止まらない。

「ちっくしょー……何でこんな目に合わなきゃいけないわけ? 私が何したっていうのさ。審神者だってなりたくてなったわけじゃない。でもやると決めたからには一所懸命やろうと思ったさ! でもやっぱり怖いんだよ! だって皆“神様”だよ?! “刀”だよ?! 怖くないわけないじゃん!!」

 私は器の大きい人なんかじゃない。太郎太刀は私に『運』があるとか何とか言ってたけど、私にそんなものがあるとは思えなかった。

「くじ運だってないですし〜?! 懸賞なんて殆ど当たったことないし、当たり付きの棒アイスだって二十ン年間生きてきて一度もお目にかかったことないからな?! 商店街とかスーパーとかでたまーにやってるあのガラガラ? って回すくじだってさぁ〜、ポケットティッシュか飴玉ぐらいしかもらったことねぇよ! 一等どころか五等も夢のまた夢だよ。そんな私に『運』なんてあるわけないじゃんかよぉ〜」

 ガチャガチャだって欲しいものは引けない。懸賞だって当たらない。スーパーの福引だって、時々気が向いた時に買う福袋だって、私が欲しいものが入っていた時は殆どなかった。そんものを買うぐらいなら例え割高であってもネットで単品販売しているものを買うし、懸賞ではなく応募者全員サービスだけにハガキを送る。スーパーの福引だってティッシュ狙いだと思えば落胆せずに済む。そんな風にしか、生きてこなかった。

「あーーーー……もうヤダよぉ……何でこんな目に……あーーーーー!!!! ヤダヤダヤダ!!! もうめっちゃ怖い! めっちゃ怖いよ!!! 何で皆こんなところに来ても平然としてられるわけ?! 何回か読んだことあるけど怪談小説とかさぁ、怪異の世界にトリップしちゃった☆ みたいな小説とかでもさぁ、何で皆あんなに勇気いっぱいなわけ?! 普通に怖くね?! 無理だよ! 怖ぇよ!! 歳が歳ならちびってたわ!!!」

 わーわーと一人で喚く。誰が聞いているとも分からないのに。誰がいるかも分からないのに。私はパニックのあまり、自分の感情を言葉にして吐かなければ落ち着くことが出来なくなっていた。

「今だから言うけど“怖くない”って言ってた心霊映像とかも超怖いです!!! 貞子より“呪怨”の方が怖いです!! 一時期『ア゛ア゛ア゛』って言うの流行ったけどアレ実際暗い部屋で聞こえてきたら心臓死ぬからな!!!! あと、あの男の子の名前何だっけ? 呪怨のさぁ〜……忘れたけど、足元見たら蹲ってとか、知らん間に部屋の中走り回られてるとか、考えただけでも怖すぎて無理!!!! あと血が苦手だからグロテスクなのもダメです!!! 医療ドラマの手術シーンとか見てらんないです!!! 臓器とか映すんじゃねえよバーカ!!!! 作り物だと分かっててもリアルすぎるんだよ! 何だよあれ!!! 誰がそこまでのリアリティを求めろって言ったよ! 監督か! 監督なのか! それとも配給先か!! それとも小道具の人たちの比類なき探求心の賜物なのか! 凄すぎていっそ嫌なんだよ! 伝われよこの気持ち!!!」

 ハア、ハア。と収縮する肺と胸に合わせて息が弾む。言うだけ言っても怖さは薄まらず、私はびっしょりと手汗を掻いて冷たくなった掌をギュッと握りしめる。

「うぅ……怖いよぉ〜……遺書はちゃんと書いて親に渡してるけど、やっぱり死ぬのは怖いよぉ〜……親より先に死にたくないよ……母さん絶対泣くよ。父さんも元気なくなっちゃうよ。兄ちゃんのとこ子供生まれたばっかりなんだよ。まだちゃんと顔も見れてないのに、叔母ちゃん死ぬのやだよ……せめて子供の顔見てから死にたいよぉ……本当は死にたくないけどさぁ……」

 叫ぶだけ叫んで、喚くだけ喚くと今度は力が抜けてくる。蹲る視界の中、乾いた土の上には蟻一匹いない。ざりざりと指先を押し当てれば、土はあっさりと抉れた。

「……でも人間死ぬ時は死ぬからなぁ……事故でも災害でも。地震、火事もそうだけど、水害とかもあるし……交通事故とかもそうだよね。自殺以外では皆『今日死ぬ』なんて思ってないもんなぁ……」

 土に尻を付け、体育座りの状態で朽ち果てた本丸を見上げる。誰もいなくなったのであろう。埃だらけで、誰にも手入れされていない棄てられた本丸。ここには一体どんな審神者がいて、どんな刀たちがいたんだろう。
 赤い世界では何も分からない。姿の見えない蝉だけが、延々と鳴き続けている。

「…………ん? 蝉?」

 最初は混乱しすぎて疑問に思わなかったけど、蝉の鳴き声がする割には暑くない。私は今Tシャツにジャージのズボンを履いているが(今回スーツは着なかった)上にカーディガンを一枚羽織っている。私の本丸の季節は現在梅雨。だから蝉が鳴くには少し早いのだ。それに蝉と言えば夏だが、カーディガンを羽織っていても暑くはない。むしろ心地いいぐらいだ。肌を撫でる風はないが、照っている太陽に晒されているにも関わらず熱を感じない。
 どういうことだ? 太陽は偽物なのか? 架空の世界なのか?
 本丸も言わば『仮想空間』であることに変わりはないが、季節に合わせた気温差はちゃんと感じられる。春は暖かいし、梅雨はじっとりと湿って時折肌寒い。夏になれば気温が上がって暑くなるだろうし、冬になれば雪も降るだろう。それなのに、どうしてここは何も感じないのだろう。

「……もしかして、悪い場所じゃない……の、かも……?」

 恐る恐る立ち上がり、土で汚れたであろう尻を叩く。改めて見上げた本丸はやはりどこか禍々しいが、先程に比べれば怖くない気がした。

「……よし。行くか」

 意を決して本丸に向かって歩いていく。とはいえ丸腰なので物陰に隠れつつ、だが。

 建物は全体的に廃れていて、中は暗く生き物の気配はない。恐る恐る近寄って触れた縁側は砂でざらついている。が、農具小屋のように血痕はついていなかった。何度か掌で押して底が抜けないかを試し、そっと膝を乗せてみる。

――ギッ、

「ヒっ」

 鴬張りの床じゃあるましい。何故鳴くのか。まぁ老朽化している分軋みやすいのだろう。
 私の体重のせいでもあるだろうがな!!! しょうがねえよ! 願ったところで体重って落ちねえんだもん!!!
 片膝を乗せた状態で暫く固まったが、やはり誰かが出てくる様子はない。もう片方の膝も乗り上げ、更に両手を付き、周囲を伺う。それでも何も起こらない。一先ずほっと息をつくと深呼吸し、ついに部屋に乗り上げた。

「うっ、わぁ……何これ……」

 一番手近な部屋に入ったものの、そこは荒れ放題だった。室内戦でもあったのだろうか。畳は斬られたかのようにボロボロで、掛け軸は落ち、花瓶は割れ、棚は倒れている。
よくよく見てみれば転々と血痕も残っている。やはりここで戦闘が起こったのだ。でも本丸で戦闘って……敵が乗り込んできたのだろうか? 考えるだけでも震えてくる。うちの刀はまだ強くない。もし強い敵に乗り込まれたら終わりだ。私だけじゃなく皆も折られてしまうだろう。
 幸いなことに土足のまま上がったので怪我をすることはなかったが、割れた花瓶や何かの破片は散らばったままで、とてもじゃないが素足では歩けそうになかった。

 隣の部屋を覗くがそこも同じように荒れていた。襖は袈裟切りにされた状態で転がっており、足跡もついている。私の足が二十四センチだから、それより少し大きいとなると脇差ぐらいだろうか。脇差や短刀は室内戦でも力を発揮できるから血痕が少ないのだろう。だがそうなると、他の刀がいたであろう部屋は……? 想像した瞬間足が竦む。
 だがここでじっとしていても事態が急変するとは思えない。私は再度深呼吸をし、逸る心臓を宥めて歩き出す。

「……うわ……」

 続いて覗いた部屋は案の定酷い有様だった。壁に飛び散った血痕は裏返った畳や押し入れの襖にまで付着している。あまりにも生々しいソレは鼻の奥で血の匂いがしてきそうなほど悲惨だった。
 どれだけ血を流せば死ぬのか。残念ながら私には分からない。医療関係の仕事に従事していれば詳しかっただろうが、血がダメだから医療については完全なる無知なのだ。それこそ風邪とかインフルエンザとか、食中毒とかしか思い浮かばない。本当しょうもない。

 内心で自信を詰りつつ更に歩くと、大広間へと出た。そこは他の部屋に比べて綺麗だったが、廃れていることに変わりはない。机は真っ二つになった状態で隅に転がり、座布団は中身が出ている。だが血の跡はなかった。
 奥の厨を覗けばやはりというか。地震が来た時のように荒れ果てていた。食器は割れ、棚は倒壊している。差し込む茜色が余計に恐怖と不安を煽り、私はそっと厨を後にした。

「あと行けそうなところは、っと……」

 広間から出て少しだけ考える。今まで見てきたものを考えると他の部屋も同じようなものだろう。これだけ歩き回っても何かが起きる様子はない。どうしたものか。と考えていると、ふと鍛刀場のことが頭をよぎった。

「……ちょっと覗いてみるか」

 別に好奇心だけでこう思ったわけじゃない。ただ私の本丸では現在鍛刀を一時的とはいえ禁止している。どこに不具合があるか分からないからだ。だが私は他の本丸に知り合いがいるわけでもないし、余所の鍛刀場がどうなっているのかも知らない。朽ちているとはいえ本丸は本丸。この際だから本来の鍛刀場がどんなものなのか見てみよう。そう思っての行動だった。

 だがここで、私は驚くべき存在と顔を合わせてしまった。


(…………敵、短刀……?!)

 そう。鍛刀場の扉を開けた先にいたのは、何と小刀を咥えた蛇のような骨だったのだ。こいつは見たことがある。敵の短刀だ。そしてその短刀はなんと、稼働している鍛刀場の様子を見ていたのだ! ど、どういうことなの?!?!

「!!」
「ヒッ!」

 気配を感じたのだろう。振り向いた敵短刀は当然こちらに飛び掛かってくる。その奥ではパチパチと火種が弾けており、何かが鍛刀されている最中であった。だが呑気に観察している場合ではない。こちらは丸腰なのだ。私は咄嗟に転がっていた木の板を蹴飛ばし、敵短刀はすかさずそれを切り落とす。
 そして再びこちらに向かってくる敵短刀の刃が届く前に、私は駆け込んだ広間で拾った座布団を投げつけた。

「待って待って待って待って!!! 私丸腰!!!! 敵じゃないから!!! いやあんたからしてみれば敵かもしれんけど敵意はないから!!!! だから刀を向けないで!!!」

 叫びながら座布団を切り落とす敵短刀に向かってホールドアップする。私が丸腰なのは向こうも分かっているのだろう。一気に飛び掛かっては来ず、ゆらゆらと空中を漂っている。
 私の後ろは厨だ。右半分を壁に押し付け膝を曲げて縮こまってはいるが、もし襲い掛かられたら厨に逃げて、割れた食器でも何でも投げつけてやる。その前に殺されるだろうけど。

「その、勝手に上がっちゃってごめんなさい。ただ私もよく分かんないうちにここにいたっていうか、帰り方が分かんないんだよね。邪魔するつもりは本当になかった! ごめん!! 疑ってるかもしれないけど私一人だから! 丸腰だから! あんたたちの敵である刀剣男士は一振りもいないし、私の懐に隠したりもしてない! それは本当! マジのマジだから信じて!!」

 私の言葉がどれだけ届くかは分からない。そもそも敵短刀が言葉を理解するのかも分からない。それでも必死に呼びかけていれば敵短刀はもごもごと口を動かし、地面にその体を付けた。一体何をするつもりなのか。緊張で呼吸さえも震える私の視界の中、敵短刀は口の中の短刀を咥え直すと暫し硬直し、それからずりずりと這って近づいてくる。

 だあああああああああああああ怖い怖い怖い怖い怖い!!!!!!!!! もうめっちゃ怖い!!!!! どれだけ怖いかって言うと台所に大量発生したGの集団並みに怖い!!!! ん? それはちょっと違うか。いやでも怖いじゃん! 恐怖じゃん!! あーーーーー!!! 正直無理です!!!! 怖い!!!!!

 心中で必死に叫ぶ中、敵短刀は刻一刻と近づいてくる。うねうねと体をくねらせながら近づいてくる様は恐怖でしかない。蛇は平気だけど、蛇は刃物咥えてないからここまで怖くはない。こいつらは刀剣男士を屠ることが出来る存在だ。丸腰の私なんて簡単に殺せるだろう。もし私が剣道を習っていたり、武道の心得があったら多少なりとも戦えたかもしれない。最悪テニスとかゴルフとかのスポーツでもいい。箒とか農具で対応できたかもしれない。だけど私が出来るスポーツなんて精々が卓球程度で、テニスなんて体育の授業で少し齧った程度だ。ゴルフなんてゲームの中でしかしたことないし、柔道や空手なんてもってのほかだ。
 モブの中のモブ。それが私という存在なのだ。

 だから、この状況は間違いなく“詰んだ”ってやつだ。

 ああ……母さん、父さん、兄ちゃん、皆……ごめんよ。私先に死ぬわ。
 スッと目を閉じ、死を覚悟した瞬間だった。敵短刀がすぐそこまで近づいたかと思うと――何故かそのまま私の足の上に顎を乗せてきた。

「…………What?」

 思わず英語が出てきてしまったのは洋画が好きだからかな。邦画より洋画の方が好きだから自然と出てきてしまったのかもしれない。
 あ。洋画を見る時は字幕派です。役者さんたちの生の声を聞きたいのと、吹替に違和感を覚えるタイプだからです。

 なんて考えてる場合じゃねえんだわ!!!!!!!!

「あ、あの……えっと……?」

 尚も這い上がってきた敵短刀は私の太ももあたりで落ち着いた。いや、お前猫かよ。何でそこなんだよ。審神者ビックリだわ。
 驚きすぎていっそ思考がクリアになる中、そろそろと曲げていた足を延ばしていく。敵短刀は動かず、ただもごもごと口を動かしている。

「………ク……ン……」
「え? 何? 何て?」

 濁り、掠れた声は酷く聞き取りづらい。まるで風邪で声が枯れている時にやけ酒して更に声をダメにした感じの、がさついた声だった。だがそれでも声を掛ければ敵短刀は再度口を動かし、こちらを見上げる。

「……シュ……ク……ン……シュ、クン……」
「……しゅ、くん? “主君”って言ってるの?」

 よくよく見てみれば、敵短刀の体には至る所にヒビが入っている。咥えている短刀も刃こぼれが酷く、今にも壊れてしまいそうな程に重症だった。だけど、どうしてだろう。この短刀に見覚えがある気がする。酷い有様で、禍々しい気に包まれているからよくは見えないけど、私はこの短刀を知っているんじゃないかと思った。

「ド……シテ……シュ……クン……」

 太ももの上で敵短刀が途切れ途切れに言葉を零す。大きくなったり小さくなったりする声は吹けば飛んでいきそうな程に弱弱しい。きっとこの子は、長くない。

「シュ、クン……ド、シテ……ドウ……シテ……ボク、ハ……」
「……ね、ねえ、きみ……大丈夫?」

 恐る恐る手を伸ばし、そっと敵短刀の頭部に触れた瞬間――。敵短刀の目に強い光が宿った。

「シュクン!!!」
「ぎゃああああ!!!!!!」

 飛び起きた敵短刀は小刀を咥え直す。てっきり斬られるのかと思ったが、痛みはいつまでも襲ってこない。思わず「あれ?」と思って開けた瞼の先で、煌めく軌跡が敵短刀を一刀両断にした。

「……シュ……クン…………ノ……マモリ…………ニ……」

 赤い世界の中、敵短刀の体が砕け散っていく。昨夜壊した真っ黒な水晶とは違う、鉄の塊が砕けていく。ボロボロ、ボロボロと。
 敵短刀の体が千々にばらけていく中、私に向かって二本の腕が伸ばされた。

 褐色の肌に昇る、倶利伽羅竜。そして紺地に白の縦縞模様から伸びる腕に続く、白い布――。私の、私の刀たちの手だ。

「「主!!!」」

 二人の腕が私を掴む。勢いよく身体が引っ張られる中、まるで映画のワンシーンのように砕けていく敵短刀の刃が目に焼き付いていく。その時世界は完全にスローモーションだった。右手と、左手。それぞれの手がしっかりと私を掴み、引き寄せる腕に籠る力の入り方も、砕け散る短刀の目から消えていく光の色も。私は、全て忘れてはいけないことなのだと思った。

 そして、私の背後から現れた、黒い影のことも。

『ニガ、サナイ……!』

 黒い、禍々しい手が私の片足を掴む。しかしそれはすぐさま別の軌跡によって断ち切られ、私は明るい世界の中に放り出された。

「ぐへえ!!」
「おっとお!! でかした伽羅坊!! 山姥切!!!」
「鶴さんこそナイスキャッチだよ! 主! 怪我はないかい?!」

 どうやら“明るい世界”は鶴丸の白い着物だったらしい。駆け寄ってくる刀たちだけでなく、鶴丸と燭台切の手すら無視した私は、張り裂けた空間に向かってあらん限りの声で叫んだ。

「前田藤四郎!!!!」

 消えていく短刀の破片。どこかで見たことがあると思ったその短刀は、私が何度も手入れをし、目に焼き付けた大事な一振りと同じだった。
 ざらついた声と変わり果てた姿で分からなかったけれど、あれは確かに『前田藤四郎』だった。

 驚く皆の前で空間に走った亀裂が閉じていく。斬られた短刀は空中に溶けるようにして消え、黒い手は痛みに悶えるような声を上げながら亀裂から遠ざかっていった。


 私の足首には、酷く禍々しい色をした痣が出来ていた。




prev / next


[ back to top ]