小説
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 ここ数日、妙な気配がすると思っていた。


『大典太光世』それが俺に与えられた名だ。用がなければ常に蔵に入れられていたかび臭い刀。そんな俺が呼ばれた時、俺たちの主である彼女は酷く驚いた顔をした。

『え、ええええええ?!?! 嘘?! 嘘でしょ?! 大典太光世?! 何で?!?!』

 何でと言われてもこちらが『何で?』と言いたくなるような態度だった。慌てる彼女を足元にいた狐と――名を「こんのすけ」という――当時近似であった陸奥守が必死に宥めていたのを今でも覚えている。ふくよかな体に慌ただしく言葉を紡ぐ口。背丈は小さいのにちょこまかとよく動き、何だか冬の毛に覆われた雀のようだと思った。
 だが俺の霊力は鳥を落としてしまう。審神者とはいえ、彼女の霊力はお世辞にも高いとは言えない。むしろ俺の方が霊力は高く、そのせいで彼女を取り殺してしまうのではないのかと不安を覚えた。しかし騒ぐだけ騒いだ後落ち着いたのか、審神者はすぐに俺に向き直るとぐっと拳を握って宣言してきた。

『縦に短く横にデカい! 器の大きさはお猪口級、腹周りの太さは横綱級、態度の大きさは富士山級! どうも、審神者の水野です! ようこそいらっしゃいました! 天下五剣様ー!!!』

 わー!!! と両手を叩いて俺を『歓迎』した審神者に目をむけば、陸奥守もこんのすけも同様に喜び笑っていた。それが、理解できなかった。
 俺は用がなければ常に蔵に仕舞われているような刀だ。名前ばかりが立派で、武器として扱われたことは殆どない。武器として呼ばれたと聞かされた時も半ば信じることは出来ず、俺は彼女を自身の『主』として信用していいのかどうか、それすら迷っていた。

『あー。見て見て小夜くん。雀だよ。懐かしいなぁ〜。昔じいちゃんの家に行った時にこうしてお米撒いたんだ〜。そしたらね、雀が飛んできて食べるんだよ』

 顕現して数日。内番などで仮初の肉体に感覚を慣れさせていると、どこからともなく審神者の声が聞こえてきた。俺が近寄れば雀が死んでしまうかもしれない。そう思いその場を離れようとしたのだが、続いて聞こえてきた声に自然と足が止まった。

『そういえば、あの大典太光世さんは小鳥が近づけないほど霊力が強いんだってね。でも私だってそんなもんなのに、死なないってことはあの逸話嘘じゃないかな〜、って最近思うんだよね。だって私生きてるし。仕事も真面目だし、絶対悪い刀じゃないよね』

 呑気とも言える伸びやかな声は俺がいることに全く気付いていないのだろう。小夜左文字の声は小さすぎて聞こえなかったが、彼女の声はよく聞こえた。

『逆に言えばさぁ。彼からしてみれば自分より霊力の低い人間に扱われるのって嫌じゃないのかな? 呼び出したのは私だけどさ、拒否権はあると思うんだよね。そりゃあ拒否されたところで野生には返せないから『刀解』か『錬結』しか術はないんだけど、無理に従わせてたら嫌だなぁ〜。って思うんだよ』

 踵を返すはずだった足はピクリとも動かなかった。いや、動かすことが出来なかった。まるで木の根が巻き付き固定されてしまったかのように、俺はただただ審神者の口から零される自身への思いを耳にしていた。

『ん? うん。まぁそうなんだけど。ほら、うちって戦績も良くないし、資材だってまだカツカツでしょ? 今もなかなか出陣させられないでいるし、もし武器として扱われたいのであればすごい屈辱的なんじゃないかな、て。何だか申し訳なくてさー。もっと霊力の高い人の所に顕現してたら“俺より霊力が高いから安心だな”って思えるんだろうけど、私の霊力じゃあねぇ……。もし私のことを“殺してしまったらどうしよう!”とか思わせてたら悪いなー。って思ってね。でも実際私生きてるしね! もし悩んでたら“大丈夫だよ!”って言ってあげたいなぁ』

 壁に背を押し付け、独り言のような審神者と小夜左文字の会話を盗み聞く。相変わらず小夜左文字の声は聞こえない。だが審神者が「うん。うん」と頷く声だけが鼓膜を揺らす。
 心地よい雨音にも似た優しい響きが、鼓動のように鳴り響く。

『いやいやいや! そんな軽率に話しかけられないよ! だってすごい刀じゃん。天下五剣って。そりゃあ審神者になるまでは刀の事全然知らなかったけど、今はそうじゃないし。やっぱり知れば知る程私みたいな奴が“主”って言われるのはなー。ちょっとなー。って思うんだよね。宗三も言ってたけど、歴代の主に名前を連ねられるような人間じゃないんだよ、私。頭が切れるわけじゃないし、リーダーシップがあるわけじゃない。自慢できるものが一つもない中で彼が来てくれたんだよ? これって凄いことだよね! え? いや! 勿論小夜くんが来てくれたのだって嬉しいよ!! 小夜くんいなかったら困ることいっぱいあったし、むしろいてくれてよかったっていうか、会えて嬉しいっていうか。え? あ、うん。それは勿論。皆にも思ってるよ。むっちゃんもそうだし、宗三や江雪さんにもね。出会い頭にやらかしちゃったけど、皆に会えて私はすごい幸せだよ。だけど皆がそうであるとは限らないじゃない? 皆選びたくて私を選んだわけじゃないし。強制的に私を“主”と呼ばなきゃいけない環境で、しかも私の方が霊力が低いんだよ? ストレスになってないといいんだけど。不安になるんだよね。進軍もさ、最近上手くいってないし』

 耳に届いた彼女の真摯な思い。俺達を『刀』として、一つの『武器』として、そして『神』として見る彼女の言葉に、嫌味や裏があるようには思えなかった。驚くほどまっすぐな心が紡ぎだす言葉は水のように透明で、あるはずのない心がじんじんと痛んだ。

『小夜くんにとってもそうだけどさ、顕現した皆にとってこの本丸が少しでも“いい場所”であればいいなー。って思うんだよね。戦争中に何言ってんだ、って感じなんだけどさ。ここに帰ってきた時だけはほっとできるって言うかさ。“あー、帰ってきたなぁ〜”って自然と思えるような場所にしたいな。って思うんだ。疲れてても、嫌なことがあっても。そういうところに来ると何だかほっとしない? そこの管理人が私っていうのがアレなんだけど、言っちゃえば私は建物である本丸を借りて、名義上管理してるだけなんだよね。だってこの本丸を作ってるのは皆じゃない? 畑を耕して、馬の面倒を見て、ご飯を作って布団で寝る。生活してる皆でこの本丸を作ってるんだよ。私一人で何かしたわけじゃない。むしろ一番何もしてないのが私なんだよね。戦に行くのも、畑を耕して作物を育てているのも、戦場に連れて行く馬の面倒を見てるのも全部皆なんだからさ。情けないよねー。何が“主”なんだろ。審神者ってよく分かんないや。一番何もしてないくせに一番偉そうな位置にいるんだよ? 意味分かんなくない? 皆刀だからって何でもかんでも『はいはい』って言いながら付いてきちゃだめだよ? ダメなところあったら言ってね? 私完璧じゃないからさ。皆でいい本丸にしようよ。そんで戦に勝とうよ。勝って平和になったら皆とはお別れしなくちゃいけないけど、皆が傷つくよりのんびり眠れる環境の方がずっといいよね。あ! そうなったら結局巡り巡って私めっちゃ働かなきゃじゃん! こうして喋ってる暇ないよね?! ごめんね小夜くん! よし、休憩終わりー!! さっさと続き片付けるとしますか! あ、いいよいいよ。小夜くんはもう少し休憩してな。さっき帰ってきたばっかでしょ? ごめんねー、長話に付き合わせちゃって。でも小夜くんと話せて楽しかったよ! 聞いてくれてありがとね。じゃ、また後で』

 衣擦れの音がしたかと思うと、床が軽く軋んだ後静かになる。彼女は部屋に戻ったのだろう。そして先程口にしていたように仕事の続きに取り掛かったのだろう。俺はドクドクと自身の左胸から脈打つ音と、火種の中に放り込まれたような熱を全身に感じていた。心地よい、透明で柔らかな水のような言葉を聞いていたはずなのに、俺の全身は熱く火照っていた。

『……あつい……』

 彼女のことを“主”と呼びたくなったのは、その時だった。

 そんな彼女が政府に呼び出されたのが数日前。出立したその日には戻ってこず、翌朝手土産と共に本丸に帰ってきた。その時は特に何も思わなかったが、何となく本丸の空気が一瞬揺らいだ気がした。だがそれは彼女を迎えるために皆が集まったから“気”が乱れただけだと思ったのだ。特に彼女に好意を向けている刀たちはキラキラとした表情で取り囲む。本人は『一番何もしていない』と口にしていたが、この本丸で誰よりも好かれ、大事にされているのは彼女だ。それは偏に彼女が『主』であるということもあるが、彼女自身が誰よりも俺達を大事にしてくれているからだ。武器として、神として。本質を間違わず当たり前のように受け入れ、また返してくれる彼女の御心が心地よくて皆彼女を求めるのだ。
 いつも朗らかで負けん気が強くて、前向きで己の責務に対し真摯な者を、我々は疎んだりしない。
 彼女の言葉はいつも嘘がない透明色だ。まっすぐで、裏表がない。心を差し出すことを恐れない。ためらうことすらしないというのは、どれだけ恐ろしいことなのか自覚していないのも凄い。我々は末席と言えど『神』の名を与えられし物。やろうと思えば彼女を幾らでも誑かし、攫い、隠すことが出来る。だがそんなことをすればきっと彼女の持つ輝きはなくなってしまうだろう。野花のように、あるがままだからこそ彼女の心は美しいのだ。言葉に迷いがなく、嘘がない。いつだって俺たちの刀身に染み渡るような言葉の数々は暖かく、陽だまりのようだと思う。

 だからこそ、そんな彼女を脅かすものは赦さない。彼女が俺に『斬れ』と命じなくとも、俺は怪異も病も斬る刀だ。彼女が「視えぬ」というのなら俺が斬る。それが、俺が彼女に返してやれる唯一の事だから。

「だから、俺はお前を赦さない」

 眠る審神者の足元。蠢く黒い影は嫌な気で満ち溢れている。人を呪い、憎悪する汚物のような匂いがする。ここ数日、彼女の周りから妙な気配がすると思っていたのだ。この本丸には余所とは違い『にっかり青江』も『石切丸』もいない。妖を斬る『髭切』や『膝丸』もいない今、これを斬れるのは俺だけだ。
 黒い影は幾重にも形を変える。定まらない形は腕のようなものを形成したかと思うと、俺ではなく彼女に触れようとその触手を伸ばした。

「触れるな」
「!!」

 抜いた刀身で影を斬る。俺は太刀だから夜目は利かないが、怪異に対しては別だ。それに主である彼女さえ傷つかなければそれでいい。それだけハッキリしていれば己を振るうのに躊躇はしない。

「……今の一撃だけでは消えんか。存外しぶといな」

 俺の練度は高くない。だから一撃で屠ることが出来なかったのだろう。俺がもっと強ければ彼女をこんな目にあわさずに済んだのに。情けない。何が天下五剣だ。名前だけ独り歩きした無様な刀。だがそれでも、斬れぬ刀でないことを今証明してやろう。

「う……うぅ……」
「! どうした」

 一組だけ敷かれた布団の中、苦しそうな主の声が聞こえる。足元の影に気を配りながらも目を凝らすが、暗い部屋の中では何も見えない。だが確実に“ナニか”がいる。蠢いている。カサカサと布団の上では聞こえるはずのない乾いた音が、主の苦しむ声に合わせて大きくなる。

「や、だ、やめて、やめてよ……! そんなことしないで、誰か……! たすけて……!」
「「主!!」」

 俺の声と、誰かの声が重なる。開かれた襖の奥から飛び出してきた小さな影は、足元にいる主に纏わりつく“ナニか”を斬った。

「ギィイ!」
「この人に触るな。お前たちみたいな薄汚い“澱み”が触れていい人じゃない。そして僕も……お前たちのような“澱み”は連れていかない」

 開け放たれた襖と、障子の向こう。廊下の奥から差し込む月明かりによって、短刀を構えた小夜左文字の姿が露になった。

「小夜左文字……」
「嫌な予感がしたんだ。ずっと主の様子がおかしかったから」

 初期刀である陸奥守に並び、彼女が信頼する短刀であり、彼女にとっての懐刀――小夜左文字。彼は俺のように怪異を斬れる刀ではないが“復讐”に敏感な刀だ。この影が纏う邪気、所謂“澱み”に気づき、こうして駆け付けたのだろう。

「お前たちは今日の昼間“ここ”に現れたな。陸奥守さんが教えてくれた。彼は視えなくても分からない人じゃない」
「……頼まれたのか。陸奥守に」
「はい。“自分では斬れぬ存在だろうから、頼まれてはくれないか”と……」
「……そうか。やはり敵わんな。あの男には」

 二振りで刀を構える。黒い影は相変わらず不気味に蠢き、幾重もの触手を伸ばしてくる。

「主が言っていた! 誰かに首を絞められる夢を見る、と! しかも自分だけじゃない、家族や親しい人が目の前で殺されるのを、何もできずに見ているだけしかできない夢だ、って!」
「成程。人の夢に入り込み、尚且つそこで“首を絞めていた”のがこの触手たちか。趣味の悪いやつらだ」

 こちらには向かってこず、ただひたすら主ばかりを狙う触手を斬り飛ばしていく。しかし斬っても斬ってもそれは無限に生えるようで、小夜左文字と共に小さく舌を打つ。

「どこかに本体があるはず……それを斬らなきゃ意味がない」
「そのようだ。だがどこにあるのか……先程よりはマシだが、俺は夜目が利かない。小夜左文字。すまないがお前が見つけてくれ」
「分かりました」

 先程よりはマシだが、未だに苦し気に呻く主に触れようとする触手をひたすら斬り飛ばしていく。小夜左文字も俺の死角から伸びる触手を斬り、そして声を上げた。

「大典太さん! そのまま強く刀を振り下ろして!!」
「! 斬る!!」

 ガツン、と何かに当たる感触がし、次の瞬間には砕け散ったのが分かった。パラパラと布団や畳の上に散乱する欠片の向こう、主の足元に蠢いていた影は奇怪な叫び声を上げながら消えて行った。

「う……うぅ……」
「「主!!」」

 再び俺たちの声が重なった瞬間、廊下から複数の足音が聞こえてくる。

「主!」
「主はご無事か?!」
「小夜! 怪我はありませんか?」

 飛び込むようにして入ってきたのは、初期刀である陸奥守と、へし切長谷部。そして宗三左文字の三振りと、陸奥守と同室である三日月宗近が「何かあったのか?」と顔を覗かせてきた。

「主! 主!」
「早う起きんか!」
「ちょっと……一体何事です?」

 影が消えたとはいえ、目覚めぬ主を陸奥守と長谷部が抱き起こす。ぐったりと力の抜けた体からは生気が感じられず、二振りが必死に呼びかける。もう黒い影はどこにも見当たらない。だが俺はもう一度自身を構えると、二振りに「退け」と命令する。

「何をする気だ、大典太光世!」
「俺が出来ることは斬ることのみ。だが俺がただのかび臭い刀だと思ったか? 侮るなよ。俺は“大典太光世”、天下五剣の一振りだ!」
「ちょっとあなた!」
「主!」

 これがどう転ぶかは分からない。だがこのまま呼びかけたところで“主”は戻ってはこないだろう。だから俺は主である彼女に向かって刀を構え、血相を変える皆を尻目に自身を振り下ろした。他の誰にも「視えていない」、彼女に絡みつく無数の蜘蛛の糸にも似た“呪い”を断ち切るために。

「……うっ、」
「主!」

 皆の声が重なる。御簾の隙間から見える肌はいつもと違い蒼白で、まるで蝋人形のようであった。だが糸を斬ったおかげだろう。彼女の体は徐々に生気を取り戻し、ゆっくりと息をし始める。

「……あれ……? むっちゃん……はせべ……なんでここに……?」
「頼むき心配させんでくれ……心臓が止まるかと思うた……」
「ああ……よかった……ご無事で何よりです、主……」

 項垂れる長谷部と、主の頭を抱き込む陸奥守に彼女はぐったりとした体のまま「えー……?」と困惑気に呟いている。詳しい事情は分かっていないだろうが、宗三左文字も主が「死にかけていた」と理解したのだろう。さっと顔色を変え、彼女の前に膝をつく。

「ちょっとあなた、酷い顔色ですよ! どこか苦しいところはありませんか? 必要なものは?」
「え……いや……よくわかんない……でもなんか……のどかわいた……」
「はっ! この長谷部、すぐさま水をお持ちいたします!」
「長谷部! マッハですよ!」
「分かっている!」

 己の機動力を生かし、風のような速さで長谷部が部屋を飛び出していく。俺では到底追いつけぬ速さで消えた彼の背中を見送っていると、のそのそと同じ天下五剣である三日月宗近が近づいてきた。

「ふむ。良くない“気”が流れているな。石切丸でもいれば祓ってもらえたが……」
「生憎だが、お前の親戚はいないぞ」
「そのようだ。主は霊力が低いからなぁ。この程度の“澱み”もまともに祓えんのだろう。可愛そうな子だ。まったく」
「……あまり心配していないのだな。お前は主を好いている身だろう。何故そうも飄々としていられる?」

 先程彼女が目を覚まさなかった時。陸奥守や長谷部だけでなく、俺の背にも冷たいものが流れた。しかし隣に立つ三日月宗近からはそのような空気は感じず、ただゆったりと笑んで佇んでいた。それがあまりにも“異質”で、気味が悪かった。

「何。怪異を斬ることが出来るお前がいるのだ。それに俺が騒いだところでどうしようもない。むしろ誰かが冷静でいなければ困るだろう? 年長者の務めというやつだ」

 はっはっはっ。と笑う三日月だが、全く笑えるような状況ではない。現に宗三左文字と小夜左文字は何かを感じ取ったのだろう。一瞬だけ寄越された瞳からは限界まで高められた殺気を感じさせた。だがそれらはすぐに逸らされ、未だにうにゃうにゃ何かを言っている主へと戻された。

「……お前は一度“空気を読む”ことを覚えた方がいい。夜道で刺されても俺は知らんぞ」
「ほお? 俺はてっきり“空気は吸うもの”だと思っていたが、いつの間にか“読むもの”に変わっていたのだな。知らなかった。いい勉強になったぞ」
「……はあ……」

 本当に刺されても知らんぞ。と思っていると、再び廊下を駆ける音が聞こえ、盆に水差しと湯飲みを乗せた長谷部が戻ってきた。

「さあ主、どうぞ」
「ん……ありがとう……」

 いつもより緩慢な動作で湯飲みを傾けると、彼女もようやく頭が回ってきたのだろう。ふう、という吐息と共に陸奥守に支えられていた背を正した。

「えっと……ところで皆、ここで何してんの?」
「ええ……ちょっとあなた、そこからです?」
「いやだって……マジで分かんないんだもん……」

 困惑する主に対し宗三左文字は呆れた顔を向け、陸奥守は苦笑いを零す。長谷部は安堵したように表情を緩め、小夜左文字はそっと刀身を仕舞った。俺達はどうにか主を守ることが出来たらしい。久々に肝が冷えた出来事だった。

「今から説明するけんど、主。おんしはこじゃんと危ない状態やった」
「え? 私が?」
「はい。俺たちは詳しくは分かりませんが、詳細は大典太光世と小夜左文字がご存知かと」

 長谷部の視線がこちらに向く。隣に立つ三日月宗近はただにっこりと微笑んでおり、口を開くことはなさそうだ。俺は一つ息を零すと陸奥守たちとは反対の位置に座り、何があったかを説明する。

「あまり怖がらせたくはないが、寝入った後あんたの足元に黒い影が蠢きだしてな。“怪異”というよりは何者かが寄越した“呪い”みたいなものだった。あんたの体中にも蜘蛛の糸みたいにして張り付いていたしな」
「うげえ! マジか!! え?! もういない? いないよね?!?!」
「ああ。すべて斬り捨てたからな。安心しろ」
「わー!!! ありがとう大典太さん!! 流石天下五剣!!!」

 ぎゅっ、と両手で握られた手は柔く生暖かい。この手をもう少しで失っていたのかと思うと嫌な汗が流れるが、無事だったのだ。今彼女はこうして息をし、あたたかな血を体中に巡らせている。ちゃんと生きているのだ。そう思うと自然と顔が俯き、彼女の手に自身の額を押し当てていた。

「…………あんたが無事でよかった……」
「お、おお…………えと、どうも…………」

 ビクリ、と丸っこい指先が慄いたが、俺はもう少しだけ彼女に触れていたくてそのままでいた。周りの奴らも怒るかと思ったが、特に止めに来ることもなかった。そうしているとようやく自身の胸が早く脈打っていることに気づき、ハッとする。

「……あの、大典太さん」
「何だ?」

 呼ばれて顔を上げれば、眠る時も御簾を外さなかった主がどこか照れた様子で「あー」とか「うー」とか言いながらもぞもぞと肩を揺らし、手を離す。かと思えば意を決したように「よし!」と小さく呟いたかと思うと、俺に向かって離したばかりの両腕を広げてきた。

「大典太さん! ちょっと、こう……カモン!!」
「……家紋?」

 首を傾ける俺に宗三左文字が呆れた顔で「いいからお行きなさい」と背を押してきた。存外強い力で押されたため、俺は殆ど距離のなかった審神者の腕に飛び込む形となる。
 これは流石にまずいのでは?! と体が硬直したが、すぐに俺の背に彼女の小さな手が触れた。

「えっと、私のこと、助けてくれてありがとうございます。あと、不安にさせてごめんなさい。大典太さんは知らないかもしれませんけど、こうして人肌を感じながら背中をぽんぽん、ってされると、何だか落ち着きません? 怖かった時とか、不安な時とか。あと緊張してる時とか。とにかく、そういういつもと違う状態の時って、こうすると体から余計な力が抜けていいんですよ」

 そうして何度もぽんぽんと背を叩かれていると、気付かないうちに力が入っていた体が弛緩していくのが分かる。成程……。これが、“人”というものなのか。

「……なら、あんたにも必要なことだろう。ずっと酷い夢を見ていたのだろう? よく頑張ったな」

 彼女の柔く小さな体に、そっと掌を当てる。そうして彼女がするように力を抜いた掌で数度背中を叩いてやると、俺の肩口に顔を埋めていた彼女が「うっ……」と呟いた。
 な、何だ!? 痛かったのか?!?!
 慌てて体を離そうとしたが、彼女の指先が服を握りしめていることに気づき、寸でのところで動きを止める。震える彼女は御簾の奥で震える息を吐き出したかと思うと、今まで一度として聞いたことのないような声で小さく「こわかった」と呟いた。

「……そうか。気づいてやれなくてすまなかったな」
「うぅ……大典太さんはわるくないです……変なのがいたことに気づかなった私が悪いので……みんなもごめんね……こんな夜遅くに……」

 未だに震える声で謝罪する彼女の手は、その声と比例するようにまだ震えている。よっぽど怖い夢だったのだろう。俺たちは殆ど夢を見ることがないから分からないが、あれだけ魘されていたのだ。彼女にとっては相当堪えたのだろう。現に陸奥守を始めとし、宗三左文字と小夜左文字も彼女の頭や背を撫でている。
 長谷部は触れることを躊躇っているのか、彼にしては穏やかな声で「主は何も悪くないですよ」と何度も繰り返し宥めていた。

 その後暫くして落ち着いた主に、俺と小夜左文字が事の詳細を伝え、陸奥守が外で起きていた様子を話す。

「ワシもおんしらが中で戦っちょることは分かっちょったが、どいてか入れざった」
「ああ。俺と陸奥守は昼間主が魘されていたのを知っていたからな。二人して起きていたんだ。そうしたら小夜が駆けてくるのが見えて、俺達も部屋を飛び出した。だがどういうわけか、小夜が通ることの出来た廊下に俺達は入れなくてな。見えない壁のような何かで阻まれているようだった」

 不可思議な現象は本丸内でも起きていたらしい。見えない何かに阻まれた二人は焦ったが、どれだけ叫ぼうと周りが起きてくる気配はなかったという。そのうちに三日月宗近が陸奥守の不在に気づき、廊下で刀を抜く二人に何があったのかと尋ねた。そこへ宗三左文字が現れた。彼曰く、弟刀である小夜左文字の不在を訝しみ本丸内を捜索していたら声が聞こえたので、不思議に思って足を運んだらしい。
 だが彼ら以外に起きてくる刀はおらず、それがまた不思議だと皆で首を傾ける羽目になった。

「幾ら主の部屋と俺達刀剣男士の部屋が離れているとはいえ、俺と陸奥守の声は結構大きかったと思うんだが……」
「ええ、そうですね。近くを歩いていた僕の耳にはしっかりと聞こえてきましたから」
「俺は陸奥守がすぐに寝付かぬのが不思議でな。深く寝入らず目だけ閉じていたんだ。そうしたら長谷部が来てな。二人して何をするでもなく、ずっと座り込んでいた。そのうちに誰かが部屋の前を横切り、二人が同じように飛び出してな。あとは先程説明した通りだ」

 長谷部に続き、宗三、三日月の証言を経てもしや、と思う。だがこの本丸にそんなことが出来る人物も刀もいるとは思えない。それに今は落ち着いたとはいえ、主に不安を抱かせるのは避けたい。俺は同じ天下五剣である三日月宗近ではなく、初期刀である陸奥守へと視線を移した。

「……今日はもう遅いき、続きは明日にせんか?」
「ああ、そうだな。これ以上は主の体にも良くない。今日はもうお休みになられた方がいい」
「え。で、でも……」
「不安ですか?」

 直球な宗三に主は一瞬口ごもるが、すぐに「はい」と頷いた。それはそうだろう。彼女はここで知らぬ間に死にかけたのだ。そう簡単に休めるものではない。しかしでは一体どこで休ませるのか。と思っていたら、宗三左文字はとんでもないことを口にした。

「でしたら皆で寝ましょうか。大広間であれば全員で寝ても平気ですし、それでしたら怖くないでしょう?」
「お、おい宗三!!」

 慌てたのは長谷部だけだ。陸奥守も「何もせんき、安心しとうせ」と主に笑いかけているし、小夜左文字も「僕があなたを守るよ」とその手を握っている。左文字兄弟から殺気を向けられた三日月も今は呑気に微笑みながら「どれ、爺が子守歌でも歌ってやろう」などと宣っている。
 ならば俺が言うことは一つしかない。

「安心しろ。もし何かあっても俺が斬る。あんたには指一本触れさせないから、今は休め」

 そう言って彼女の頭に手を置けば、主はこっくりと頷いた。

「では決まりましたね。長谷部、嫌ならあなただけでも部屋に帰りなさいな」
「なっ! だ、誰が嫌だと言った! 主! 勿論この長谷部、どこまでもお供いたします!」
「おんし、今何時やと思いゆう? そがな声出したら皆起きろうが」
「はっはっはっ、長谷部は元気だなぁ」
「ぐっ……!」

 皆で長谷部を弄る中、俺と主も立ち上がる。この部屋で全員が寝るにはまりにも狭いので、広間に移動するためだ。だがここで主が呆然とした声で何事かを呟く。その足元には先程俺が割った何かの破片が転がっており、彼女はそれを震える手で拾った。

「どうして……」

 彼女が拾った破片。それは粉々に飛び散った真っ黒な硝子の欠片であった。呆然とする彼女の手首には太い紐だけが巻かれており、そこに鎮座していたはずの水晶はどこにもなかった。









男前な大典太さんが書けて満足です。(笑)


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