小説
- ナノ -




 未だ同室である刀が戻らない中、廊下に座って月を見上げる。今宵は残念ながら満月でも三日月でもないが、明るい月と涼しい夜風は心地いい。そうして膝に置いた掌を数度開閉させては、あの触り心地を思い出していた。

「……随分と、柔い身体であったな」

 俺が近寄っても手に触れても、主はちっともこちらを意識した様子はなかった。昔はあのように手と手が触れずとも、目が合うだけで男女は恋に落ちていたものだ。だが昨今では違うのだろうか? 時代が移ろう毎に文化や価値観は変わる。長いこと人の営みから外れて生活していたせいでその点が曖昧だが、流石に抱きしめた時は動揺していたので全く意識されていないわけではないだろう。

 開かれた『歓迎会』の中でこの本丸にいる多くの刀の顔を見た。その中には天下五剣である大典太光世もおり、互いに「久しいな」と挨拶を交わした。聞けば大典太も俺も本丸の不具合によって呼ばれたらしい。だが付喪神が意味もなく呼ばれることはない。どんな理由があるにせよ、彼女は確かに呼んだのだ。この俺を。ならばそれに応えるのが務めだろう。

 だが職務を全うしようとする反面、先程のことを思い出しては笑みが零れる。
 俺が知る女子たちに比べ随分と肥えている主ではあるが、特に嫌悪感はない。むしろ触れた身の柔らかさを気に入ったほどだ。俺の手に触れている時など警戒心の欠片もなかったが、その無防備さもいっそ愛おしい。
 無防備であるということは、裏を返せば俺を信用しているということだ。まだ来たばかりだというのに彼女は俺の何を見て信用したのだろうか。初めに問答したのがよかったのだろうか。まだ分からないことが多いな。と思う。
 それでも主に刃を向けた時、傍らにいた短刀は自らの柄に手を掛けていた。主からは見えていなかっただろうが、その瞳は鋭く、冗談でもあのまま刃を下していれば間違いなく折られていただろう。それほどの気迫を感じた。思い出しても肌が粟立つ。アレが練度の高い刀の放つ気か。顕現したばかりの俺では敵わんなぁ。と息を吐き出せば、キシキシと廊下の軋む音がする。
 てっきり同室の陸奥守が来たのかと思い顔を上げれば、そこには別の刀が立っていた。

「おや、眠れませんか?」
「お前は……確か織田の刀と言っていたような……?」
「はい。宗三左文字と言います。隣、よろしいですか?」
「ああ、構わんぞ」

 丸い主とは違い、長身痩躯の男は猫のようなしなやかな動きで隣に座す。そうして月を見上げるかのようにしてゆったりと顔を上げると、こちらに視線を定めてきた。

「それで? 主の抱き心地は如何でしたか?」
「はっはっはっ。困ったな。思っていたより多くの刀に見られていたらしい」

 何ともまぁ、多くの刀に慕われている主である。特に、言葉ではなく目で物を言う刀たちばかりに。

「よかったですね。向かったのが大倶利伽羅で。小夜や僕であればそのまま折っていましたよ」
「おお、怖や怖や。見た目にそぐわず随分と血気盛んなことだ」
「ええ。これでも魔王の刻印を貰っている身ですから。不届き者には容赦しない質なんです。覚えていてくださいね」

 口元は笑んでいるが、目の奥は笑っていない。先程の大倶利伽羅の不機嫌さが微笑ましいほど、宗三左文字の瞳は底冷えするような冷たさを持っていた。
 無意識に体が震える。これが、武者震いという奴か。

「やれやれ……これでは眠れそうにないな」
「フッ、来たばかりの頃は誰でもそうですよ。徐々に慣れます」
「ははっ、そうか」

 それまでには手を引け、と言っているのだろうか。この刀は。まだ手は出していないのだがな。この手で柔い肉に触れた以外は。と、そこまで考えて俺も反撃に出る。やられてばかりは性に合わないからな。

「成程なぁ。さぞ主が大事なのだろう。そこで、だ。一つ問いたい。お前はその手で、主に触れたことがあるのか?」

 冷めた視線を向けてくる相手に負けじと目だけで笑ってやれば、宗三はふと口元を緩めた。

「……さて、それは一体どう意味なのでしょう。あなたがしていたように主を押し倒し、好きなように触れたことがるのかと……そう聞いているのですか?」

 やれやれ。先程の大倶利伽羅といい宗三左文字といい、やけに審神者に対して過保護なのは“懸想”しているからなのか。それとも『主人を守る』という刀としての意識なのか。来たばかりで日が浅い身には判断が難しいが、彼らが腹に据えかねているということだけは理解出来る。早々にやらかしてしまったらしい。だが肉の器にはしゃいでいたのも事実だ。素直に謝ることにする。

「そんなに怒られるとは思っていなかったんだがな。やれやれ。降参だ。正直に答えよう。俺は顕現したばかりだからな。この脆い身体のことがもっと知りたくなったのだ。それで主に我儘を言った。許せ。――とは言わんが、悪気ややましさだけであの行為をしたわけではない。それだけは信じて欲しいのだがな」
「……まぁ、肉の器に戸惑う気持ちは分からなくもありませんから。今の言葉は信じましょう」

 ここにいる刀の多くは人の肉の柔らかさを知っている。それは自らの刃で人の肉を絶ったことがあるからだ。ぶつり、と肌を食い破り、肉を食み、血を啜った。その感触を、皆覚えている。だからこそ、この肉体が不思議でならない。触れれば肉の柔いところがある。骨の硬い感触がある。心の臓に手を当てれば鼓動が掌を打ち、耳を塞げば血潮が轟轟と音を立てて頭の中を流れていく。
 今までに経験したことのないことばかりだ。自らに足があることも、己の意思で進む道を決めることが出来るというのも。不可思議で、心もとなくてしょうがない。だからこそ自然と主である審神者の元へと足が向いたのかもしれない。
 視線を宗三から外し、先程までいた部屋へと移す。そこには既に人影はなく、灯りすら灯っていなかった。

「夜這いに行こうとしたら今度こそ折りますよ? 今のあなたは弱いですから。僕の練度でも破壊することが可能です」
「何とも恐ろしいことだ。“籠の鳥”とは思えんな」
「曲がりくどいことは嫌いなんですよ。面倒なので。それに鳥だって籠が壊れれば飛んでいきます。どういう風に“籠”が開くかは、教えませんけど」

 飼い馴らされた鳥が自らの力で“籠”を破壊し、外の世界へと飛び立つことはあるのだろうか。刀である俺には分からないが、この刀がただの『籠の鳥』でないことだけはハッキリと分かる。
 これ以上争っても負けるだけだ。負け戦でも戦う時は戦うが、今はその時ではない。俺はやれやれ。と嘆息すると、口の端を緩めた。

「……分かった。もうせんよ」
「そうですか。“二度目”がないのなら安心しました」

 俺と同じように口元を緩める宗三だが、きっと“二度”もあんな触れ方をしたら今度こそ折りに来るだろう。仏の顔は三度までと言うが、ここにいる刀は一度しか許してくれないらしい。何とも戦刀らしい考え方だといっそ笑いたくなる。

「ところで宗三左文字よ。お前は本当に主に触れたことがないのか?」

 あの柔い肌に。
 簡単に掴まれ、好きなようにされてしまう手に。指を通り抜ける髪と、飾ることをしないあるがままの香りに。触れたいと、きっと誰よりも強く、そう思っているであろうに。

 投げた視線の先、宗三左文字がゆっくりと立ち上がる。来た時と同様、その細い体躯をしなやかな柳のように揺らしながら。そうして落ちる薄紅の奥に冷たい色を湛え――――嗤う。

「さあ?」

 歪められた口元と目元。その歪さにゾワリと嫌な感覚が全身を満たす。反射的に自身の柄に手をかけ抜刀しかけた瞬間、明朗な声が響き渡った。

「そこまでじゃ。それ以上はわしが許さん」

 宗三左文字の後方。立っていたのはこの本丸の初期刀だと紹介された若い刀――陸奥守吉行であった。

 主が全幅の信頼を寄せるだけあり、その瞳はまっすぐと俺達を捕えている。だがそれだけではない。若い刀だが、有無を言わさぬ気位を感じさせる。よもやよもやだ。来たばかりとはいえ、この天下五剣を気迫で押してくるとは……やれやれ。俺は本当に『弱い』らしい。
 肺と呼ばれる器官に溜めていた空気を吐き出せば、宗三左文字がゆったりとした口調で相手を詰った。

「ようやくお出ましですか。遅いですよ、陸奥守」
「すまんすまん。大倶利伽羅が起こしてくれざったら朝まで寝ちょったやろう」
「まったく。僕は人の尻拭いをするほどお人よしじゃないんですよ? あなたがしっかりしないでどうするんです」
「なははは……すまん」

 先程の気迫はどこへ行ったのか。二振りは随分と親し気に話している。先程は眠れそうにないと思ったが、今では疲労のあまり深く寝入ることが出来そうだ。
 まったく。持ち主である主はのんびりしているというのに、刀たちはやけにしっかりとしている。それこそ番犬のようだ。牙よりも恐ろしい、鋭い刀身を以てして。あの審神者はそれを知っているのだろうか。知っていて尚、それでも彼らを『刀だ』と信じて飼っているだろうか。……いや、多分ないだろうな。出会って一日も経っていないが、何となくそう思う。あれは鈍感な人間だ。俺が見てきた中で一番の。とびきり鈍くて警戒心の薄い、愛しく柔い人間だ。そして俺は――

『アレ』の血が、欲しい。

「それでは部屋に戻ります。後はお願いしますよ」
「おう! 任せちょけ」

 どんと胸を張る陸奥守に対し、宗三左文字は若干冷たい目を向ける。だがそこにはこちらに向けてきた冷たさや敵意は微塵もなく、むしろ親しさからくる呆れの色だけが乗っていた。見せつけられる信用度の違いに苦笑いを浮かべていれば、気づいた陸奥守が腕を引いてくる。

「ほいじゃあわしらは寝る準備をするぜよ。布団の敷き方は分かるがか?」
「いや、あいにくだがサッパリだ」
「ほぉか。教えちゃるき、こっちに来とうせ」

 陸奥守に連れられ部屋へと戻る。途中宗三左文字へと視線を投げれば、彼は既にこちらに背を向けていた。見た目にそぐわず苛烈な刀であった。暫くは大人しくしておこう。
 そう思い視線を戻せば、驚くほど至近距離に陸奥守が立っていた。思わず、息をのむ。

「おんしから主の匂いがするのぉ……。何もしちょらんな? 宗三は怒っちょったが、わしはおんしを信じたいきに。正直に答えてくれんかの」

 そんな気配は全くなかったが、この刀も怒っているのだろうか。しかし宗三左文字ほどの怒気は感じられず、俺は悩む。

「俺は手荒な真似はしておらんし、主にも許可を得たうえで触れた。主は許してくれたが、お前はどうする?」

 この本丸で最も長く審神者と過ごしている刀であり、誰よりも信頼されている刀だ。彼がどんな判断を下すのか待っていると、陸奥守は拍子抜けするほどあっさりと引き下がった。

「主がええ言うちょるならわしからは何も言わん。さーて、寝るかのぉ」
「む? それで良いのか?」

 布団を敷き始める陸奥守に問えば、我が本丸の初期刀はあっさりと頷く。

「さっきも言うたけんど、主がええ言うちょるならわしは何も言わん。確かに主は無防備やけんど、何も出来ん人がやない。おんしが主に刃向けちょったなら許さんが、そうでないなら範疇外じゃ。好きにしとーせ」

 よいせ、という掛け声と共に布団を敷き終わると、陸奥守はさっさと横になってしまった。

「ここに体を潜らせたらえいがよ。わしは先に寝るきに。おやすみ」

 そう宣言するや否や、陸奥守は本当にすぐさま寝入ってしまった。何だかすっかり気が抜けてしまったが、俺も彼に倣って布団に潜り込んでみる。

「お? おお。これは良いな。ひんやりとして柔らかく、心地が良い」

 す、と目を閉じれば暗闇が広がる。ただの刀であった頃から眠り続けていた身だ。今更『眠る』という行為に戸惑ったりはしない。それに今日は様々なことがあった。実際横になってわかったが、全身が怠い。これならば問題なく眠ることが出来るだろう。
 暫く無心で呼吸だけを繰り返していると、意識が遠のき始める。皆は顕現したばかりの頃『眠る』ということが出来なかったらしいが、俺はあっさりと寝入ってしまった。それこそ、隣で眠る陸奥守のように。
 だが俺は全く気付くことが出来なかった。眠ったとばかり思っていた陸奥守が、どんな顔でこちらを見ていたのかを。そして彼が何を思い、何を考えていたのかも。
 分からぬまま時が過ぎていく。俺の時間は、まだ動き出したばかりだ。


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