小説
- ナノ -



我サク夫婦。アンニュイな感じ。優しさと、寂しさと。それを上回る彼女の幸せ。



【手記―彼女の思い出―】


―暑い夏。

思い出すのは、綺麗な青。
ふっくらと膨らんだ、わたあめみたいに大きな入道雲。
燦々と降り注ぐ太陽の光と、サラサラと足元を駆け抜けていく砂。
エンジに焼けた彼のサンダルと、海辺で被った私の麦わら帽子。

実家の縁側で食べた、真っ赤な果肉と甘い汁。スイカの色。
―あなたの髪の色みたい。
なんて言って笑ったら、三回瞬いた彼が困ったように眉根を寄せた。
話下手な彼なりの、勘弁してくれ。のアピール。
思わず笑って濡れた布巾に手を伸ばす。ヒヤリとしたそれが冷たくて、少しだけ気持ちよかった。

日が落ちて、夜になってから二人で歩いた。
真っ暗な夜道。
砂隠と違って、木の葉の星は少し見えづらい。
―少し寂しいね。
と空を見上げて呟いたら、同じように見上げた彼が首を傾けた。
―今日は、月が綺麗だからな。
月が星の光をかき消してしまうように、私の気持ちもいつか何かに消されてしまうのだろうか。

そう思うと怖くなって、何も言わずに手を繋いだ。

握り返してくれる強さが、嬉しかった。


子供が出来てから、そんな風に穏やかに季節を過ごすことが減った。
子供は小さな怪獣だ。毎日毎日、元気にはしゃぎまわる。
折角綺麗に洗った洋服も夕方になれば泥んこだ。
砂隠の砂はサラサラとしているけれど、水で固めれば立派な泥になる。
乾けばあっという間に落ちていく癖に、たまーに地味にこびりついている。

―ああもう、まったく!
なんて腰に手を当てて、子供が脱ぎ散らかした服を拾っていく。
お風呂場まで点々と続いていく怪獣たちの足跡。
片付けはちゃんと出来るくせに、どうして洋服は脱ぎ捨てていくのか。
一体誰に似たのかしら。と一度母親に愚痴ったら、昔のあんたそっくりだわ!なんて大笑いされて口をへの字に曲げた。

彼は服を脱ぎ散らかしたりはしない。
いつでもキッチリカッチリしている、自慢の旦那様。
だけど時々怠惰になる。
ソファーで就寝なんてよくある姿だ。
―お願いだからお風呂ぐらい入って欲しいのだけど。
思った時には仕方なく怪獣たちを仕向けることにする。
腰に乗られた彼が潰されたカエルみたいな声を出すのがちょっとだけ面白い。

時折彼はそのまま怪獣たちを引き連れてお風呂に入ることがある。
我が家の怪獣はお風呂が大好きだから、二度目のお風呂も大歓迎だ。
下手すると私たちより長風呂なんだから、木の葉の温泉はもう少し大きくなってからにしよう。と二人で決めている。


お祭りがある日は、家族皆で出ることにしている。
といっても彼は忙しいから、終始一緒にいることは出来ない。
それでも少なくとも一時間は一緒にいてくれるから、子供たちの笑顔はいつも以上に輝く。
―ねえ、お父様。
ようやくアカデミーに入学した愛娘が彼の手を握りながら話しかける。
―今日ね、新しいお友達が出来たの。
小さく柔らかい手を握り返しながら、背の高い彼は嬉しそうに口元を緩めて娘を抱き上げる。
―そうか。よかったね。
綻ぶ口元と、短くも優しい響きを娘に返す。
いつまでたっても口下手な彼だけど、娘はそんな彼を愛している。
そして自分が愛されていることもちゃんと分かっているから、娘はうん!と元気よく頷いて彼の首にしがみついた。

大きくなったら、いつかこの手も離れていく。
そんなことを考えながら、私も愛娘の柔らかい髪に指を通した。
娘の髪質は、彼にそっくりだった。


遊び疲れた我が子が眠りにつくと、私は可愛い寝顔を見つめながらゆっくりと一日の出来事を思い返す。
楽しいことも、辛かったことも。
嬉しいことも、悲しかったことも。
ありとあらゆる出来事を思い出して、それから我が子の額にキスをする。
むにゃむにゃと緩む柔らかな頬が可愛くて、荒んだ心も一瞬で溶けてしまうのだ。

それから少しして、彼は帰ってくる。
へとへとになった身体を引きずって、寝不足気味な顔で「ただいま」と呟く。
昔に比べて沢山眠るようになった彼。消えない隈を指でなぞって、私は笑って「おかえり」と返すのだ。

我が家では徹底させているうがい手洗いを例外なく彼も行い、私がお風呂の準備をしている間に子供の寝室に滑り込む。
そうして私がしていたように、子供たちの寝顔を見つめてじっとしている。
まるで金魚鉢を覗く猫みたいな背中を、私は遠くから見つめてくすくす笑う。

お風呂から上がると、短いけれど楽しい二人だけの晩餐会が始まる。
一本の徳利を用意して、その日あった出来事を肴に少しずつ言葉を交わす。
お互い酔うつもりはない。けれど少しだけ楽しみたい。
だからテーブルの上に一本だけ用意して、頬杖をついて微笑みかける。
ほんのり漂うお酒の匂いと、その匂いに酔ったみたいに少しだけ頬を緩める彼が好きだった。


そんな日々を綴っていても、私たちはいつか離れ離れになるのでしょう。
それは時間が隔つのかもしれないし、病かもしれない。
子供より先に逝ければいいけれど、子供が先に発つかもしれない。

そんな不安定な毎日なのに、どうして私の心はこんなにも満たされ、喜びと愛に満ちているのでしょうか。

あなたの手が私の手を握る時。
子供の声が、私を求め、呼びかける時。

例え私の最期がよくない場面であっても、きっと私は幸せを思い出す。
愛と喜びに満ち溢れた日々を思い出し、あなたと二人で眺めた、真夏の星空を思い出す。


例え私の手が皺だらけになって、あなたの髪に白髪が混ざっても、お互い体が言う事を利かなくなっても、それでもきっと私は幸せでしょう。

どうかこの気持ちが、永久に続きますように。
あなたと子供たちの幸せが、いつまでも続きますように。

毎日寝る前にお願いする。私のささやかな習慣。
眠る子供の額にキスをするのと同じように、私は毎日お願いするの。

明日も、明後日も。一年後も、十年後も、いや―百年後だって、あなたとの愛が続きますように、って。
それから、子供たちが幸せでありますように、って。

だから、ねぇ。
あなたと手を繋いで眠る夜が今日で終わったとしても、私後悔しないわ。
だって、確かに私は幸せだったんですもの。
今だって、幸せよ。

だから、ねぇ。

私のために泣いたりしないで。
子供たちのために、自分を折ったりしないで。

あなたはあなたのままでいて。
ずっとずっと、一緒にいるから。

例え空の上にいったとしても、私はずっとあなたの傍にいるから。

だから、ねぇ。


私が幸せだったこと、覚えていてね。



end




最後までお読み下さりありがとうございました。
そして拍手ありがとうございました!!m(_ _)m
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