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現パロで年下我愛羅くん→年上サクラちゃん
時々、あの夏を思い出す。
学生の頃の、暑く、騒がしいあの夏の日。
人里離れた田舎町で過ごした、たった一週間の恋。
社会の歯車の一つとなった今でも思う。
あの時以上の恋はきっともう、二度と訪れない。
一夏の恋は永遠に、俺の中で昇華されない恋となった。
【永遠(とわ)の初恋】
当時俺はまだ学生で、勉強もするがやはり遊ぶことが好きな一般的な男子だった。
その日は夏休みに入ったばかりで、田舎に住む祖父母の家に帰省した初日のことだった。
当然その地に友人はいなかったが、好奇心に駆られ一人で外に出ていた。
とはいえ都会と違い田舎には何もない。
あるのは田んぼと畑と農機具だけだ。商店街も寂れているし、軒下の猫だって終始寝こけている。
元気なのは川で遊ぶ小学生ぐらいだ。犬だって暑さに茹って地面に伏せている。
それでも俺は拾った棒切れをペン回しのようにして回しながら、公道に沿って歩いた。
暫くすると学校が見えてきて、俺は少し立ち止まってからその学校に向かって歩き出した。
そこは全校生徒が二十名前後しかいない、町唯一の小学校だった。
校庭には誰もいなかったが、プールがあるのだろう。体育館の奥の方から子供たちのはしゃぐ声が聞こえた。
知らない学校と言うのは何故ああも心をくすぐられるのだろう。
俺は好奇心に促され、自身が通っていた物とは違う建物に足を踏み入れる。
そうして首を巡らせつつも廊下を歩いていると、どこからか突然ピアノの音が聞こえ始めた。
夏休みの間でも音楽の授業があるのだろうか?
首を傾けつつピアノの音源を辿り、古めかしい校舎の奥の方で“音楽室”のプレートを見つけた。
(此処か…)
元より俺は部外者だ。だからこそコソコソと体を屈め、開け放っていたドアから少しだけ中を覗いた。
中にいたのは、白いワンピースを着た女性だった。
被っていたのだろう、花飾りがついた麦わら帽子を机の上に置き、薄紅色の髪を一つに纏めた彼女は美しかった。
白い鍵盤の上を走る細い指は蝶のように羽ばたき、ペダルを踏む足は小鹿のように軽やかだ。
荘厳なピアノから紡ぎだされる軽快なメロディは穏やかな横顔の彼女には似つかわしくないほどに賑やかで、鮮やかだった。
そんな彼女の紡ぎだす音色に感覚だけでなく時間さえ奪われたような心地でいると、突然演奏を止めた彼女がこちらに首を巡らせてきた。
「ねぇ、そこのキミ。そんな所にいないでこっちに来なさいよ。暑いでしょう?」
一瞬誰のことを言っているのか分からず呆けたが、すぐさま此処には自分と彼女しかいないことに気付き顔が赤くなった。
何故かは分からないが唐突に恥ずかしくなったのだ。
まるで女子更衣室を覗いていたかのような後ろめたさを覚え、まごついていると、彼女は椅子から立ち上がり俺の前までやってきた。
「ほら、隠れてないで出ておいで。教室の中は意外と風が入って涼しいから」
そう言って彼女の白い手が俺の手を掴み、その柔らかさと温かさに目を見開いている間に木製の椅子に座らされた。
「この辺じゃ見ない顔ね。引っ越してきたの?」
「あ…いや…おばあちゃん家に遊びに…」
「ああ、成程。そういうことか」
俺の回答に彼女は朗らかに笑うと、鍵盤に指を置き、軽く音を立てる。
「ピアノ、好き?」
「え。いや…あんまり、考えたことない…」
事実今までの自分は音楽と言えば適度にサボれるいい遊び時間だった。
歌うことはあまり好きではなかったが、リコーダーや打楽器などで演奏するのは好きだったのだ。
しかしピアノは範疇外だ。あんなもの分かるわけがない。
首を横に振る俺に彼女はそっかと笑うと、椅子に座っていた位置を半分ずらし、残りの部分を叩いてきた。
「じゃあちょっとコッチに来て。ここに座って?」
「え?!」
一体何を言っているんだこのお姉さんは。
固まる俺に彼女は笑うと、いいから。と再び強引に手を引っ張ってきた。
「あ、ああああの、」
「大丈夫大丈夫、変なことしないから」
こんなにも女性と密着したことなど今までなかった。
あとほんの少しで、それこそ数ミリ単位横にずれれば彼女に触れる距離。
未だかつてないほどに全身が熱くなり、心臓が喧しく鳴る中、彼女は鍵盤に指を置くと俺の体を肘で突いてきた。
「指を乗せて」
「え?ど、どこに?」
突かれたことで盛大に肩を跳ねさせたが、彼女はそこに突っ込むことなくどこでもいいから、と促してくる。
ピアノなんて本当に全然分からなかったのだが、俺は勧められるまま適当に指を置き、彼女を伺った。
「ん!よし、じゃあちょっと弾いてみよっか」
「え?!お、俺ピアノ分からな…」
全て言い終わる前に彼女の指が鍵盤を押す。
途端に目の前からは先程よりも大きな音が鳴り響き、全身を打ってくる。
俺はその迫力に息を呑むが、彼女に突かれたせいで反動的に鍵盤を押してしまう。
「適当に弾いてみて。何でもいいから」
そんな滅茶苦茶な。
思いつつも恐る恐る鍵盤を押してみる。一つ、二つ、三つ。一度、二度、三度。
目の前から聞こえてくる音はその都度色を変え景色を変え、部屋中を彩っていく。
彼女は俺の出す音にうんうんと頷いてから、じゃあ行くよ。と悪戯に笑って指を動かし始めた。
それからは何だか、魔法にかかっているようだった。
自分が出していた単一の音とは違う、彼女に彩られた音たちが波となって全身を打ってくる。
思わず圧倒されそうになったが、彼女に肘で突かれれば自然と指が動き、彼女の動きを真似るように指が跳ね始める。
楽譜も何もない、どの鍵盤がどの音階かも分からない。適当に指を動かしていたにも関わらず、それはまさしく一つの音となり歌となり、世界を彩り始めた。
不思議だった。
不思議なくらい、全身が高揚し、楽しくなった。
ピアノに触れたことが全くないとは言わない。それこそ音楽の授業中や掃除時間の間、悪戯に友人たちと触ったことはある。
しかしこんなにも心が奮えるような、全身の血液が生命を謳歌するような、こんな気持ちになったことはない。
彼女の白い指が躍る度、自身の武骨な手が鍵盤を叩く度、体が揺れ、頬が緩み、生きているということが素晴らしいことのように思えてきた。
そうして出鱈目な音楽にすべてを乗せ鍵盤を叩いていると、彼女が先程よりも少しだけ大きな声で尋ねてくる。
「楽しい?」
見上げた先にはキラキラと光る翡翠の宝石があり、俺はその瞳に魅入られつつもしっかりと頷いた。
楽しかった。
何よりも、どんな時間よりも、どんな宝石よりも輝いていた。本当に楽しい時間だった。
「どうだった?ピアノ」
何時まで弾いていたのだろう。自然と指を止めた白い鍵盤の前で半ば放心しながら考える。
「…凄かった……こんなにも楽しいと思ったのは…初めてかもしれない…」
止めたはずなのにまだ指が動いているような心地がする。全身が余韻に震え、指先がブルブルと震えている。
怖れにも似た高揚感。一度二度と深呼吸していくうちにそれは徐々にさざなみとなって全身に広がり、霧散していった。
「キミ結構センスあると思うよ。私もすっごく楽しかったし」
本当にそう思っているのだろう。自分より年上とは思えないほど屈託のない笑みを見せる彼女に再び頬が熱くなるが、俺も頷いた。
「俺も…楽しかった」
ドキドキと高鳴る胸を抱えたまま、俺は彼女と学校の前で別れた。
正直その日はどうやって家まで帰ったか覚えていない。晩御飯の時も、風呂に入っている時も、思い出すのは彼女と全身に響いた音楽だけだった。
気付けば湯船の縁で指を躍らせていた。音の出ないそこで指を動かしてもしょうがないというのに、俺は何度も何度も指を動かした。
彼女の白い指が、忘れられなかった。
次の日も学校に行った。
本当はもっと早く出て行きたかったけれど、昨日と同じ時間に家を出た。
そうして駆け足にならないようあえてゆっくり道を歩き、学校の前で立ち止まった。
ピアノの音はしなかった。
けれど不安よりも確かな確信をもって再び音楽室に行き、彼女と会った。
「やっぱり来たわね」
「…お姉さんもね」
悪戯っ子のように笑う彼女は、昨日とは違い黄色いノースリーブにショートパンツという目のやり場に困る格好だった。
昨日以上にしどろもどろになる俺に彼女は不思議がったが、すぐに半分だけ空けられた椅子を叩いた。
「さ、今日も遊ぼっか」
その日から俺は彼女と一緒にピアノを弾き続けた。
楽譜も何もない、本当にその場で、即興で奏でる音楽会。
出鱈目な音階を包み込み、一つの音楽に仕立てるのは彼女の魔法の指。蝶のように舞い、羽ばたく白い指。
俺はその魔法にかかったように鍵盤を叩き、いつも違った感動に打ち震えていた。
「楽しいね」
「うん!」
彼女とはくだらない会話もした。けれど話すよりも鍵盤を叩いている時間の方が多かった。
言葉を交わすより音を交わしている方が、何だかずっとずっと尊いような気がしたのだ。
そして何よりも深く、彼女を知れたような気がした。
「今日は雨だったから来ないかな〜、って思ったんだけど」
「俺もお姉さんが来ないかと思ってた」
晴れの日も雨の日も、俺は毎日学校に通った。
けれど俺は一週間しかこの地に滞在する時間がなかった。両親の予定もあるし、自分だって友人たちと遊びに行く予定があった。
それらをすべて放りだしてまで、ここにいたいと思っていた。子供ながらの駄々だった。
だが彼女とのことは誰にも言いたくなかった。親にも姉兄にも、友人にも。俺と彼女だけの秘密にしたかった。宝物のような時間だったから。
最後の日は皮肉な程晴れていた。
山の向こうでは入道雲がぐっと顔を出していて、青い空を圧迫するように押し上げていた。
大木の下に出来た木陰では農夫たちが休んでおり、川では相変わらず子供たちが遊んでおり、蝉もトンボも忙しなく飛びまわっていた。
そんな中俺はやっぱり学校への道をまっすぐ進み、彼女と相対していた。
「…そっか。明日帰っちゃうんだ」
「うん…」
一曲弾いた後に、俺は明日から此処に来れないことを告げた。
話し出す時に今までにないほど緊張し、心臓が押しつぶされたような心地がしたけれど、彼女は黙って聞いてくれた。
「じゃあ寂しくなるね」
足をぶらつかせる彼女は薄水色の綺麗なワンピースを着ていた。
白い二の腕と足が目に焼き付くほど綺麗な出で立ちは、幼心に男の性を刺激した。
「…ごめん…」
彼女の横に座ったまま、一つ、また一つと鍵盤を押していく。彼女に魔法をかけられなければただの音にしかならない、寂しい音だけが部屋に木霊する。
「謝ることはないよ。だってしょうがないじゃない。決まっていることなんだもの」
横目で伺った彼女は優しく微笑んでいて、俺は思わず泣きそうになって唇を噛みしめた。
離れたくなかった。
もうどこにも行かず、彼女とずっと、毎日こうしてピアノを弾きたかった。
けれど自分は子供で、親と一緒に暮らさなければならない歳で、彼女は大人だった。
「じゃあ今日はいっぱい楽しもう。悲しい音楽は止めにしてさ、楽しい思い出にしよう!」
朗らかに笑う彼女に導かれ、俺は再び鍵盤に指を乗せる。
そうして彼女が笑ってくれるよう、悲しい音階は選ばないよう気を付けて弾いた。
楽しかった。
馬鹿みたいに、悲しくて哀しくて、思い出す度に涙が出そうになるくらい、楽しかった。
どこまでも紡がれる音楽は透明で、生命力に溢れてて、悔しい位心を踊らされた。
そうして日が沈むまでピアノを弾いた俺は、ついにボロボロと涙を零し始めてから指を止めた。
「っ…かえりたく、ない…!」
彼女が好きだった。彼女の紡ぎだし、彼女と一緒に弾く音楽が好きだった。
たった一週間でピアノが大好きになった。音楽も、どの授業よりも好きになりそうだった。
なのに、もう別れなくてはいけない。
女の子の前だというのに情けない位涙を流す俺に、彼女は困ったように微笑んでから抱きしめてくれた。
「素敵な一週間だったわ。あなたに会えて、私は本当に幸せだった」
「俺だって…」
今までにない位楽しい夏休みだった。楽しくて濃厚で、忘れられない一週間だった。
蝉の声と、茜の空と、優しい風と、柔らかなぬくもり。汗と、彼女の甘い香り。そのどれもが、忘れられない宝物になった。
「きっと、またいつか逢えるわよ。生きてさえいれば、きっと…」
優しい彼女の腕の中で、俺はバカみたいに声を上げて泣いた。
こんなにも泣いたのはきっと母親の腹から出て以来だろう。そう思うぐらい泣いて泣いて、涙が枯れ果てたと思うぐらいに泣いた。
そうして空が茜から群青色に変わる頃に体を離し、俺は彼女を見上げた。
「また、逢える?」
「うん。きっと」
微笑む彼女の顔が近づいてきて、俺は自然に目を閉じた。
触れた唇は熱くて、柔らかくて、優しくて、甘い香りがした。
「約束よ、我愛羅くん」
けれどその約束は果たせなかった。
翌年も同じように学校に行ったが、彼女は現れなかった。
その翌年も更にその翌年も、俺は滞在できる間ずっと学校に通い詰め、彼女を待ち続けた。
けれどその想いは一向に報われることなく、俺は遂に学校に行くことを止めてしまった。
あの時の、あの夏の間で膨れ上がってしまった恋は、ずっと俺の心の中に残っている。
甘く切ない傷跡として、何よりも尊い宝物として、光り輝く星屑のように、今も尚生きている。
「我愛羅、そろそろ出番だよ」
「…ああ、分かっている」
マネージャー兼姉であるテマリに呼ばれ、俺はそっと控室の椅子から立ち上がる。
今日俺は自身の初となるソロ・コンサートに向かおうとしている。
彼女と別れてから始めたピアノは今では生きる糧となり、俺に新たな世界を与えてくれている。
「落ち着いて行けよ、我愛羅」
「当たり前だ」
背中を叩く兄の背を叩き返し、俺はスポットライトが輝くステージへと足を踏み出す。
今日までピアノを愛せたのは、きっと今でも彼女への想いがあるからだ。
あの時、あの夏の日、あの場所で彼女と弾き続けた一週間。
かけられた魔法はきっと今でも生きている。
俺は檀上にしっかりと立ち、腰を折る。
そうして見上げた先に見つけるのだ。
一番星のように輝く、あの薄紅色を。
end
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