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待ち人



雨が降る。
水たまりに写った空はどんよりと重く、滴が落ちる度に世界を歪める。
そんな小さな鏡のような世界を踏み砕き、サクラは一人紫陽花の咲き誇る庭園に立っていた。



長編閑話【待ち人】



今年も梅雨がやってきた。重たい空に止まない雨。見慣れた番傘の赤色に、咲き誇る色とりどりの紫陽花たち。そうして視線を上げれば山の中、幾重にも連なる鳥居が視界を彩る。
今年も一人、連休を利用してやってきたサクラは宿の裏庭とは別の庭園へと足を運んでいた。

(宿の裏庭もすごいけど、やっぱり植物園もすごいわね…)

宿にも庭師がいるだろうが、それとはまた別に設けられたこの時期限定の紫陽花園は大層なものだった。
広く肥大な土地を利用した施設は存外大きく、人の手で手入れをしているというよりかは自然に咲いているものを少し整えているような雰囲気だ。
けれどそれは決して乱雑なものではなく、自然が作り出す優美な、けれど厳かな美しさを損なわない見事な景観であった。

(でもやっぱり季節外れだから人が少ないわね…なんかちょっと、寂しいかな…)

元々この地は避暑地として名を馳せている。この地が栄えるのはもう少し先の時期だ。
けれど全く人がいないわけでもなく、サクラのように今時期の有様を楽しんでいる人もそれなりにいる。
とはいえ今日は雨だ。元より少ない観光客も更に少なく見える。だがまぁ、落ち着いて見ることが出来ると思えばいいかと気を取り直し、咲き誇る紫陽花たちに目を向ける。

裏庭は表の庭園に比べ少しばかり面積が小さい。それでも見事な花を咲かせてはいるのだが、紫陽花園の醍醐味である花々の間を練り歩くことは難しい。
なのでサクラは左右で色の違う紫陽花たちに囲まれながらゆっくりと通りを歩き、時折しゃがんでは雫が跳ねる様を見つめていた。

「綺麗…」

雨に濡れる紫陽花は何故こうも綺麗なのだろうか。
勿論陽の下で見る紫陽花も美しい。けれど暗い空の下、冷たい雨に身を晒しつつ、それでも咲き誇る紫陽花たちに目を奪われる。
涙に濡れて萎む己の心とは違い、雨が降れば降るほど艶やかに香り立つ。そんな紫陽花に心を奪われるようにしてじっと眺めていれば、ぬかるんだ砂利道を踏みしめる音がした。

「こんなところにいたのか」
「あ…うん。久しぶりね」

後ろから近付いてきたのは、サクラ同様赤い番傘を差していた想い人であった。
しゃがんでいた膝を立てようと思ったところで、男、我愛羅はサクラ同様に膝を折り紫陽花を見つめる。

「美しいな」
「うん。本当に」

結局立ち上がることを止め、サクラは我愛羅と並んで紫陽花を見つめる。
空から一つ一つと音符のような雨粒が落ちる度、紫陽花の花弁が弾かれた鍵盤のように揺れる。
植物たちの演奏会みたい。
思わずくすりと笑うサクラに我愛羅は視線を移し、それから傘を傾けサクラの方へと手を伸ばした。

「サクラ」

呼ばれて振り向けば、サクラの頬に我愛羅の指先が当たる。
そうしてそのまま冷たい指先を感じつつ目を閉じれば、大して間を置かず唇に柔らかな感触が降ってくる。

「…見られちゃうよ」
「誰も見てないさ。傘で隠してるからな」

赤い番傘が二つ。互いに重なり合って二人の姿を隠す。
そうして響く雨音が二人の声を消し、揺れる紫陽花たちが見物客たちの視線を奪う。
外にいながらも誰にも気付かれぬよう口付た二人はそっと顔を離し、それから僅かばかり頬を緩めあった。

「何だかいけないことしてるみたい」
「皆には内緒だからな。あながち間違いではないさ」

そう言って立ち上がった我愛羅はサクラに片手を差し出し、サクラもその手に己の手を重ねる。
そしてその際サクラは己の番傘を畳むと、えいと悪戯半分に我愛羅の傘の中に身を滑り込ませた。

「お前な…」
「ふふっ、いいでしょ?」

ずっと待ってたんだから、たまにはご褒美頂戴よ。
そんな言葉を胸の中だけで続け、我愛羅の腕に寄り添い肩に頭を乗せる。

降りしきる雨の中、傘を差していたとはいえじっとしていれば体は冷える。
己の体に触れるサクラの冷えた体温を感じつつ、我愛羅は零れそうになる熱っぽい吐息を喉の奥に押し込め、本能の赴くままサクラの肩を抱いた。

「行こう」
「うん」

触れた肌は柔らかく、冷たい。
早くこの体をあたためてやらなくては。
そう思いつつも逸る気持ちは純粋なだけではいられない。
どうにも男としての本能に負けそうだと自身に呆れつつ、それでも寄り添うサクラに想いが傾いていく。

「今日は…沢山話そう」

帰るまで時間はたっぷりとある。
逢えなかった時間を補うほどに話をしようと視線を投げれば、それを受けたサクラはうんと頷き微笑んだ。

ぬかるんだ道は歩き辛く、けれど咲き誇る紫陽花たちに見送られるのは悪くない。
逸る気持ちは相変わらず自身を急かすけれど、二人はその気持ちすら楽しむかのようにゆっくりと歩を進め、一つの傘の中で寄り添いながら宿への道を辿るのであった。



end



雨の中逢引する我サクちゃん。



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