浮気
タイトル通り浮気するサクラちゃん。
話があちこちに飛んで読み辛いかもしれません。
※我愛羅くんもサクラちゃんも別の人と関係がある描写含んでます。
その日私は地下のバーにいた。
普段は足を運ばない、そんなところに何故私がいるのかと聞かれれば、それは高校以来久方ぶりに会った彼と一緒にいたからだった。
『…久しぶりだな』
久しぶりにヒールを履いて出かけて、見事人にぶつかってこけた私の前に立って彼はそう言った。
高校時代の時はあまり動かなかった表情筋が、今ではすっかり綻ぶようになっていて少し驚いた。
地面に突っ伏したままの私の手を取った彼は、少しだけ頬を緩めていた。
カラン、と彼が唇をつけるグラスの中で氷が傾く。
私が頼んだカクテルとは違う、落ち着いた色が彼の喉を通っていく。
「それにしても春野がヒールとはな。驚いた」
「そりゃヒールぐらい履くわよ。女だもの」
「…それもそうだな」
彼とまともに接触をしたのは高校三年のたった一年間だけだ。
クラスが一度も重なることがなく、三年の時も同じ図書委員だからという理由だけで顔を合わせただけの、顔見知り以上友達未満という間柄に過ぎなかった。
「まぁ高校以来だものね。お互い変わっててもしょうがないことだわ」
「その通りだな」
適当に割り振られた図書当番。
顔を知っている隣のクラスの女子ではなく、離れたクラスの彼と当番を組むことになったのはとても不安だった。
「酒を嗜む歳にもなったしな」
「まぁ嗜むっていうより、安酒を沢山飲んで酒を知った気分になってるだけだけどね」
初めて顔を合わせた時、全くと言っていいほど表情筋を動かさなかった彼に私は酷い苦手意識を覚えた。
事実彼は仕事ぶりは真面目で迅速ではあったが、他人とコミュニケーションを図るということはしなかった。
だから初めの頃、隣同士に座りながらも私たちの間に会話はなかった。
それが今では互いに隣同士に腰掛けながら酒を飲み交わすまでになっている。
時間とは恐ろしいものだ。
「卒業してから会ってなかったから、知らなかったわ。我愛羅くんってここら辺に住んでたのね」
「いや、住みだしたのは最近だ。引っ越したばかりでな。散歩を兼ねてぶらぶらしてたんだ」
仕事終わり。
普段ならば人が込み合う電車に辟易しながらも毎日通る改札を抜けて自宅に戻るが、今日は何となく、翌日が休みだったからかもしれないが、いつも使う駅ではなくその三つ手前の駅で降りた。
少しばかり都市部に近い、私の住む場所に比べて繁栄した場所だ。
「仕事、何してるの?」
そこそこ有名な大学に進学した彼だ。
さぞ立派な職業にでも就いてるだろうと思ったが、彼は意外にもしがない一般企業の平社員をしていると述べた。
「退屈な毎日さ。小さなミスと変わらない日々を過ごすだけの、刺激のない人生だ」
「世の人間は得てしてそんなものよ。逆にそれが幸せなことなのかもしれないけどね」
互いの目の前にあるお酒は半分ほど消費されている。
疲れた体には大量の酒を与えるより、良質の酒を少しずつ浸透させていく方が贅沢で心地よかった。
全くと言っていいほど言葉を交わさなかった彼と私が親しくなったのは、図書当番を初めて数か月ほどたってからだ。
その日は試験日が近くて、各学年の生徒たち数名が図書室を利用して勉強していた。
実際自分たちも当番を兼ねつつ勉強をしていたのだが、その際私は自分の教科書として開いた古典の教科書が彼のだとは気付かぬまま使っていた。
普通は気づくだろうと思うかもしれないが、ちょうど開いていた頁はラインを引くような所もなく、補足はノートに取るようにと指示されていた。
まっさらな頁を見て自分の物だと気づけるほど、私は普段から自分の教科書を熱烈に眺めてはいなかった。
「それにしてもバーなんて初めて来たわ。テレビで見るよりずっと賑やかなのね」
「店にもよるがテレビでは初めから雰囲気が作られてるからな。他人の存在が少ないから静かでおしゃれだと感じるんだ」
「成程ねぇ」
トントン、と彼の指先が机を叩く。
初めは気のせいかと思ったけれど視線をノートからずらせば、彼の真意の読めない瞳が私を見ていた。
『それは俺の教科書だ』
ノートの端に書かれた、綺麗な文字を眺めて数度瞬く。
それから慌てて教科書を裏返し、氏名記入欄を見て青ざめた。
そこに私の名前はなかった。
「ご、ごめん…」
周囲の邪魔をしないよう、極力抑えた声音で謝罪するが届いたかどうかは分からない。
だから私も彼と同じように、己のノートの切れ端に再度ごめんなさい、と書いて彼の視界の端に追いやった。
「そういえば、あの時もこんな感じだったわよね」
「ん?」
視界の端の文字を読み取り、構わんと綴られた紙面が向けられる。
たったそれだけだったけど、私は確かに彼と話をしたことになった。
多分それからだったと思う。
彼と時々、ああして紙面で言葉のやり取りをし始めたのは。
綺麗な字を書く人だな、と思ったのだ。
言葉はぶっきらぼうでも、並んだ文字の美しさは確かに目を引いた。
聞けば書道教室を開いているお母さんから習っていると言った。
だから綺麗なのかと納得した。
「ふふっ、図書当番の時にさ、時々ノートの端っこで筆談してたじゃない?」
「ああ…懐かしいな」
少し口角を上げた彼に私も目を細め、あの時私の目を奪った様々な文字たちを思い出す。
「私ねー、我愛羅くんの字の、払いとか、跳ねとか、何かそういうのが好きだった。特にシンニョウの、シュッ!って伸びたところとか、格好いいなぁ〜とか思ったよ」
「文字に格好いいと言われてもな。どんな顔をすればいいのか迷うぞ」
言いつつも喉の奥で楽しげに笑う、彼の伏せた瞼がちょっと可愛らしい。
優しい顔をするようになったと思う。当時に比べれば。
「うん…でも好きだった」
色んなことを話した。
短い時間、図書館でしか顔を合わせない私たちには、あの時間だけが全てだった。
ノートの端っこで、書いては消して、書いては消してを繰り返し、私たちは何度も話をした。文字を交わした。
誰にも教えてない、今でも私の記憶の中で生きている秘め事は懐かしさと同時に甘く切ないものを口内に広げていった。
「…そういえば、春野もこの辺りに住んでるのか?」
「ん?んー…私はいつも三つ先の駅で降りるの。今日は何となくぶらつきたくてね。少し手前で降りたの」
「成程な。だから今日まで顔を合わせることがなかったのか」
彼の指に指輪はない。今はフリーなのだろうか。それとも結婚はしてないだけで彼女はいるのだろうか。
「だが夜にぶらつくのはお勧めしないな。夜に賑わう店も多いんだ。女性一人で歩くには危険すぎる」
「うふふ、心配してくれてるの?優しいのね」
普段なら、私もこんな時間にあまり知らない余所の土地をぶらぶらしたりなんてしない。
ただ今日は、そういう気分だった。
「…しょうもない話だけどね、寂しかったのよ…誰でもいいから人の声がするところにいたかったの、私」
今お付き合いしている彼は一年近く前から転勤で余所に行ってしまった。
会える回数も電話する回数も減った。どこで何をしているのか、よく分からなくなった。
「…恋人はいないのか?」
「いるわ。でももう随分長いこと連絡してない」
彼に勧められて入会したSNSにも、もうログインしていない。
初めはそこで彼が何をしているのか把握できていたが、私の知らない土地で飲み会の写真をアップされていたり、そこに知らない女性の姿が写っていると不安になって見なくなってしまった。
それに彼を監視しているみたいであまり気分がいいものじゃなかった。そんな重たい女になりたくなかった。
「そういう我愛羅くんは?」
「この間振られた」
「へえ?」
苦笑いする彼の横顔を眺めれば、記憶の中より遥かに大人びた横顔がグラスに口をつける。
上下する喉仏が男らしく、それでいて妙に色っぽかった。
「俺は一つのことに熱中すると連絡を忘れる質らしくてな。長いこと放っておいたら振られた」
「そりゃ振られるわよ。女の寿命は短いの。綺麗でいられるうちに恋愛してないと、売れ残りのバーゲン品になっちゃうもの」
「…なかなか重たい一言だな」
驚いたような顔をする彼を見上げ、私はだって、と自嘲気味に頬を歪める。
「私も今彼に放っておかれてるもの。バーゲン予備軍よ」
そういえば、彼が私に話しかける時。ノートの端っこで始める対話をする時、彼は決まってトントンと二回机を叩いた。
丸く整えられた爪先ではなく、指の腹で叩いた音だった。周囲に響かないように、私にだけ聞こえるような音で始まるそれが合図のようなものだった。
「洋服のバーゲンは好きだけどね、自分自身がバーゲン品になるのはまっぴらごめんよ」
「まぁ…そうだろうな」
男の人には苦手な話かもしれない。
でも、誰でもいいから愚痴りたかったのかもしれない。一人の寂しさを、紛らわせたかったのかもしれない。
「その点男の子っていいわよねぇ〜…幾つになっても買い手がつくんだから」
「そうか?ビール腹のおじさんや髪が薄い男でもか?」
「…それはちょっと…難しいかな…?」
詰まる私に彼はそうだろうと言って笑い、飲み干したグラスに浮かぶ水滴を指先で拭う。
「俺に恋愛は似合わん。"私のこと本気で好きじゃないくせに"と怒られて初めて彼女のことが本気で好きだったのかどうかを考えた位なんだからな」
「見た目にそぐわず酷い男ね、あなたって」
「見た目は優男にでも見えるのか?」
「人によっては魅力的ね」
氷で味が薄まった酒はあまり美味しくはなかったけど、それでも缶で飲む安酒に比べればマシである。
喉を焼く感覚も薄まった、アルコールだけが体に残る。
図書当番をしていた学生も今ではこうして酒を飲んでいる。
「春野は別れる気は無いのか?今の彼氏と」
「うーん…どうだろ。多分わざわざ別れ話なんてしなくても、自然と消滅するんじゃないかな。私と彼の間柄なんて」
今の彼は大学からの付き合いだ。結構な長さになる。
でもどうしてそこまで彼を信用してないと言うか、淡白なのかと聞かれれば、彼と同じように私も彼が本気で好きかどうかが分からなかった。
キスもセックスもしたけれど、何となく、いつも寂しかった気がする。
「お前もなかなか酷い女だな」
「そう?賞味期限の短い女をほっといて、他の女に手を出す男の方がよっぽど酷いわよ」
気持ちはわかるけどね、とは喉の奥にだけ押し込んで、薄まったアルコールで無理やり腹の底まで流し込む。
喉を焼く熱さを忘れるぐらい、一瞬腹の底が重く、気持ち悪くなった。
「…付き合いは長いのか?」
「それなりに、ね。惰性で付き合ってたのかもしれないわ。私もあなたと同じよ。本当に彼が好きかどうかなんて、考えたことなんてなかったもの」
別に彼に悪い所があるわけじゃない。そりゃ喧嘩をすることはあったけど、比較的少なかった気がする。
何と言うか、怒るほどでもないと思ったのかもしれない。私が我慢して目を瞑っていれば、それで丸く収まるならいいやと投げていたところも確かにある。
「…分かんないのよ、私」
淡い光を反射させる、磨き上げられた机に突っ伏して吐息を零す。
酒で体温は上がったはずなのに、体の芯は冷えているみたいだった。
私の初恋は小学生の時だった。
クラスで一番足が速い男の子が好きだった。
でも告白する勇気なんかなくて、結局その人に彼女が出来るまでどこか淡い気持ちを抱いていた。
それからは適当に、コロコロと一目惚れや淡い想いを抱く相手が変わっては懸想して、でも結局告白することもされることもなく中学時代を終えた。
そして高校に入って相変わらず恋バナに花を咲かせ、淡い期待を抱き、彼と出会った。
私のファーストキスを捧げた相手は、彼だった。
図書当番が最後の日、卒業を控えた私たちの最後の時間はとても静かに過ぎて行った。
卒業式の練習を繰り返し、冬の寒さが身に染みる中私たちは今みたいに隣り合って座って呆っとしていた。
課題もない、試験もない。受験も終えた私たちは暇を持て余していた。
『誰もいないね』
トントンと、彼の癖が移ったように机を二度叩いてから紙面を見せる。
図書室に私たち以外の人がいなくても、私たちはこうして文字でのやり取りをした。
『そうだな』
『ヒマだね』
『ああ』
とても短い間隔で、交わされる言葉もとても短い。
でも本当に嫌なら付き合ってくれるはずがないと自分に都合よく解釈し、私は彼に向かって紙面を向けた。
『今日で当番最後だね』
『そうだな』
『明日からどうするの?まっすぐ家に帰る?』
『ああ』
『そっか』
図書当番最後の日、昼食時お弁当を囲む私の友達の一人が小声で申告してきた。
“私、彼氏とちゅーしちゃった”
私たちが学生の頃、今みたいに恋愛や性についてあけっぴろげではなかった。
保健体育を正しく習うまではキスで子供が出来るのだと信じていた子も多かった時代だ。
今みたいにセックスがどうのとか避妊がどうのとか、そんな話が出来るほど私たちは知識を有してなかった。
だから、単なるキス一つだけで、私たちは大人に見えたのだ。
『あのさ、一個、聞いてもいい?』
『何だ』
キス したことある?
その文字を書くだけにどれだけの時間を費やしたか。そしてどれだけ緊張したか。
それでも急かすことなくじっと待ち続けてくれた彼は、根は優しい人なのだと改めて思う。
『変に思わないでね!我愛羅くんは女の子と キス したことある?』
恥ずかしかった。
ドキドキした。
変に思われないか、厭らしい女だと思われないか不安だった。緊張した。
でも彼は、さらりと紙面に文字を並べた。
『ない』
断罪のような美しい文字だった。
「…春野」
彼の、昔より一層低くなった、少しお酒で掠れた声が私を呼ぶ。
目の前のグラスに中身はなかった。
「…何?」
彼の文字はいつだってまっすぐ整って、バランスがよくて、綺麗で、私の憧れだった。
周りの女の子たちが書くのとは違う、角が丸くなったぶりっ子のような文字でもなく、クラスの男子みたいに書きなぐったような滅茶苦茶な文字じゃない。
彼だけが描ける、彼だけの文字が、羨ましくて、綺麗で、大好きだった。
「寂しいのか?」
彼に“ない”とあっけなく返された私は、何となくほっとしたような残念な気持ちを抱いたような、何とも言えない微妙な思いを胸に抱えた。
それでもそっか、と返事をして、それから私たちは言葉に困った。
あんな話題を持ち出して、平気な顔をしていられるほど私たちは大人じゃなかった。
『ハルノはあるのか』
彼は私の名前を書く時いつもカタカナだった。
初めは漢字を知らないのだろうかと適当に流したが、図書当番を勤めて長くなっても彼はそれを崩さなかった。書きやすかったのかもしれない。
カタカナだと、画数が少ないから。
『私もないよ』
二人しかいない、初対面の頃とはまた違った気まずさを感じながら鉛筆を動かした。
ノートに書いた文字が僅かに震えて、手に汗が浮かんだ。
「…そうね…」
じわりと浮かんだ手の汗が気になって、拭きたくても恥ずかしくてできなかった。
そのうちに顔まで熱くなって、暖房のせいじゃない熱が体を燃やした。
「春野」
彼の声が重なる。
記憶の中の声と、隣から聞こえてくる低い声。
彼の手が、私の手を握った。
『キョウミがあるのか』
彼の問いかけに、私は益々恥ずかしくなった。
厭らしい女に見られるのが恥ずかしかった。“そういうこと”に興味があると思われるのが嫌だった。
でも、強く閉じた瞼を開けて恐る恐る彼を窺ったら、その意識はどこかに飛んで行った。
『が、あら、くん』
彼が身を屈めた。
私の肩に手を置いて、それからゆっくりと近づいてきた。
彼の瞳の色が私と同じ色をしているのだと、その時ようやく気づいた。
「…大人のキスね」
「酒の味がするからか?」
触れ合わせた唇は震えていた。
私のせいか、彼のせいかは分からない。
けど、初めてのキスは今思えば子供騙しみたいな、重ねただけの拙いものだった。
歯が当たることはなかったけど、唇の感触が生々しくて、相手から伝わる熱に違和感を抱いた。
でも、嫌じゃなかった。
『………』
『………』
どのくらい重ねていたのかは分からない。
彼から初めて、彼から去っていた初めての口付は、とてもドキドキして、とても恥ずかしかった。
どうしよう、と思ったけど言葉にできなくて、息をするのもやっとで、自分が今までどうやって呼吸をしていたかも忘れるぐらいに胸が詰まって苦しかった。
全身が心臓になったみたいにドキドキバクバクして、目の前が歪んで熱かった。
「あの時とは違うだろう?」
「そうね。一体何人の女の子とそうしてきたの?」
記憶の中の口付はそこでお終い。
あの後すぐに図書室の扉が開いて、図書委員の先生が入ってきた。
互いに真っ赤になった私たちを見て、暑いなら暖房切ったらよかったのに、と苦笑いしたのがやけに印象的で、よく覚えていた。
「そんなに多くないさ。春野みたいに手慣れてるわけじゃないしな」
「あら、聞き捨てならないわね。まるで人を尻軽みたいに言わないで」
私だって、あれから少ないけど、幾人かの男性と付き合った。
セックスをしたのは今の彼が初めてだったけど、あの誰もいない図書室で重ねた口付け以上にドキドキはしなかった。
やっぱり私は、今の彼が本当に好きじゃないのかもしれない。
なら、今の私は、当時の私は、彼が好きだったのだろうか。
そうでなければ平気な顔をしながらも、昔と同じようにただ唇を重ね合わせただけの彼に対してこんなにもドキドキするとは思えなかった。
「…出るか」
「うん…」
伝票を手にとって、彼が先に席を立つ。
互いに一杯しか引っ掛けてないはずなのに、私の足はふらついた。
「お金、」
「いい。驕る。一杯だけだしな」
軽く笑う彼に頬を緩めて、いつの間にか熱を持った頬に手を当てる。
熱い。
本当にそう思った。そして、それが妙に可笑しくて、やっぱり恥ずかしかった。
「少し夜風に当たるか?」
「うん」
地下のバーから地上に戻って、ネオンが煌めく周囲を見渡しほうと吐息を零す。
頬だけでなく吐く息も熱かった。
彼に促され一歩を踏み出す際、慣れないヒールのせいで再びぐらついたら彼の腕が私を支えた。
「酒、弱いのか?」
「さあ?分かんない」
「…お前な」
軽く呆れたような彼が、自然な流れで私の手を握る。
彼氏とは違った手。指。けど、嫌じゃなかった。
「少し歩こう」
「うん」
行き先なんて聞かなかった。知らなくてもいいと思った。
ただ彼について行きたかった。彼の手を握っていたかった。
彼の高くなった背を、眺めていたかった。
「ここを抜けたら住宅街になる。今の時間だと殆ど人は歩いてないがな」
「そっか」
夜の街を抜け、街路樹と街灯だけが佇む、高いマンションが周囲を圧倒する舗装された道を歩く。
カツカツと、私の久しぶりに下駄箱の中から引っ張り出したヒールが高い音を立てる。
「段差、気を付けて」
「うん」
辿り着いたのは比較的綺麗なマンションのエントランス。
結局私は彼にそのままついてきてしまった。
「こっち」
「うん」
でも私は彼の手を解かなかった。
二つのエレベーターが並ぶ中、一つのエレベーターがちょうど降りてきて中から一人の男性が出てくる。
「どうも」
「こんばんは」
会釈と挨拶を交わし、私たちはそれに乗り込み扉を閉じる。
エレベーターが内臓を押し上げていく感覚が、ますます私を非現実の世界に導くようだった。
「引っ越したばかりでまだ綺麗に片付いてないけど、躓くようなものは転がってないから」
「ふふ、大丈夫よ」
あなたがいるから。
それはさっきと同じように喉の奥に押し込んで、腹の底に戻したけど今度は気持ち悪くならなかった。
どこか、ふわふわとした気分だった。
「ん…」
暗い中、一つの扉を開けた彼に促され、足を踏み入れた途端に口付られる。
高い位置からのキスに、彼の身長が伸びたことがよく分かる。
「シャワー、浴びる?」
問いかけながらも私に答えさえる暇なく口付てくる。
昔とは違って色んなやり方で口付てくる彼に応えるのに必死な私は、気づけば彼が使っているであろうベッドに押し倒され額に口付られる。
「バーゲン品にするにはもったいないな」
「ん…そう?」
瞼に、鼻先に、頬に、耳に、首筋に、彼の指先が触れ、唇が触れ、優しく唇を重ねられ愛撫される。
もうシャワーを浴びる?という問いかけに答えることすら忘れていた。
「春野…」
「はぁ…ん…名前…名前で呼んで。サクラって言って?」
抱きしめてくる、彼の広い背中を撫でながら懇願する。
吐息交じりの甘く掠れた声が私の名前を呼ぶ。
初めて口付た図書室のあの時間が、全身が心臓みたいになった時間が動き出す。
「サクラ…サクラ…綺麗だぞ、サクラ…」
「あっ…!が、あらくん…我愛羅くん…!」
たった一杯のお酒で過ちを犯すほど、私はお酒に弱くないし、きっと彼も同じだ。
だから、私たちは合意の上で行為に及んだ。
寂しいという気持ちを持っていたとしてもこれは紛れもない浮気だった。
でも、もう私の気持ちは連絡を取っていない彼氏よりも久しぶりに出会って肌を重ねる彼の方に傾いていた。
彼に愛されることに、私は悦んでいた。
求められるのが、嬉しかった。
寂しい女と分かっていながら、彼の手に溺れた。
優しい手だった。
「…んっ…」
瞼の裏が眩しい。
そう思って目を開ければ、薄く開いたカーテンの隙間から人工的ではない明かりが漏れていた。
朝が来た。
目覚めた私の隣に彼の姿はなく、彼の匂いが染みついたベッドに私は眠っていた。
「…おはよ」
「ああ、おはよう」
ベッドから起き上がって、裸の自分に衣服を纏う。
乱れた髪を整えて部屋を出れば、キッチンで彼が料理をしていた。
「一人にしてすまなかったな。シャワーならこの先の一番奥だ」
「ん…ところで何作ってるの?」
美味しそうな匂いと、フライパンが何かを焼くジューッといい音がする。
思わず覗きそうになった私に苦笑いして、彼は菜箸を軽く振った。
「だし巻き卵。結構得意なんだ。美味いぞ」
「自分で言うくらいなんだから期待しておく。って言ってももうご飯できそうね…」
顔だけ先に洗って、ご飯食べてからお風呂借りようかな、と今にも鳴きだしそうな腹に手を当てていれば彼があ、と声を上げる。
「タオルはあっちの棚に入れてあるから、朝食終えてから風呂でもいいぞ」
「うん、じゃあそうする。お腹減っちゃった」
それに結局昨夜はお酒しか飲んでいない。おつまみも多少口に入れたが、食事と呼べるほど大したものじゃなかったし、量も多くない。
私は彼に教えてもらった通りまだ真新しい棚を開け、そこから綺麗に折りたたまれたハンドタオルを手に取り洗面所に行く。
まだ引っ越したばかりだと言う彼の言葉通り、物が揃っていない洗面所に化粧が取れた私がいた。
「…妙にすっきりした顔しちゃって。変なの」
朝起きれば必ず不機嫌そうな、不幸な女、みたいな顔をした私がいたのに、今日の私は学生の時みたいに寝ぼけた面をして立っている。
まるで憑き物が落ちたみたいに、あどけない顔だった。
「我愛羅くんって自炊するんだね」
「まぁな。と言ってもまだそんなにうまくはないがな、卵焼き以外」
身なりを整え、洗面所から出てきた私にご飯にしよう、と彼は言った。
茶碗に盛られた白米を見た途端、思わずぐうとお腹が鳴ってそれはそれは恥ずかしかったけど、彼は軽く笑っただけだった。
向かい合って手を合わす。
いただきますと重なる声が、初めてなのに懐かしい気持ちになったのが不思議だった。
違和感なんてどこにもなかった。
「あ、本当だ!卵焼きすっごく美味しい!」
「そうだろう」
ふふん、と胸を張る彼に頬を緩め、鮮やかな色を広げる卵焼きに箸を通す。
浮気をしたっていうのに罪悪感なんて抱くこともなく、こうして浮気相手の男の手料理を口にする私はとんでもなく酷い女なのかもしれない。
それでも私の舌は彼の自信作の卵焼きを美味しいと思うし、目の前の彼は浮気者の私を詰ることなく箸を動かした。
大学生時代から付き合ってきた彼と過ごした時間よりも彼と過ごした時間は短いはずなのに、私たちは誰よりも長く一緒にいるみたいに当たり前に向かい合ってご飯を食べた。
だし巻き卵の黄色は最後まで色鮮やかだった。
end
お酒に酔って過ち犯す二人、っていうよりもほとんど確信犯な二人。質悪ぅ…
視点が過去と現在を行き来してるのは、サクラちゃんの思考があっちにいったりこっちにいったりしてるのを表現したかったからなんですが…
読みにくいな、これ…(´・ω・`)
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