小説
- ナノ -


夫の不安



時折、君がいない世界というものを考える。

君に逢わず、君を知らず、別の人生を歩んでいたならばどうなっていたかを考える。
例えば別の誰かを愛したかもしれないし、ずっと独り身だったかもしれない。
愛する我が子とは別の子を育てていたかもしれないし、そもそも幼い頃に死んでいたかもしれない。

そんなことをつらつらと意味もなく考えては思考の海に沈む度、君の淡い髪色がちらりと瞼の裏で揺れていく。
流れ行く花弁の欠片のように、淡く光を反射しながら揺らめくその美しい光景が瞼の裏に焼き付いて離れない。

「…サクラ…」

たった三文字、されど三文字。
そこに宿る命の音は例えようがないほどに愛しく、胸を苦しくさせる。
時に苦しく、時に悲しく、時に辛く、時に困惑する。
その名の持つ意味に、篭る感情に頭を抱えたくなる。蹲りたくなる。叫びたくなる。
どうしていいかわからず、一人で立ち尽くす。
この感情を、なんと呼べばいいのだろうか。

「分からないんだ」

君を愛しく思う感情が“愛”なのか“恋”なのか。
それとも単なる“情”なのか。
それがわからず苦しくなる。
俺は人の子として育っていない。
化物として、兵器として育てられた俺に人の心の機微などわからない。
それでも、君が伸ばしてくれた腕を取りたいと、思ってしまうほどには飢えている。
まるで、人に憧れる化物のように。

「ふふ…何を悩んでいるのかと思ったら」

二人目の子が宿ったその腹は、今や初産の時のように膨れている。
五体満足で産まれた一人目の我が子は今はぐっすりと寝入っている。
夜半、母体には毒かもしれないが寝物語に付き合ってくれた妻に情けないながらも弱音を吐いていた。二人目なのに、何を不安に思うのか。
己でも理解できない感情を妻はあっけらかんと笑い飛ばした。

「そんなものはね、死ぬまでわかんないものなのよ」

穏やかに瞼を伏せて紡ぐその白い手は、柔らかな仕草で腹の子を撫でる。
慈しみを持ったその指先に、掌に、己は躊躇する。

「愛なんて人それぞれよ。形も、想いの表し方も」

そっと開いた瞼の奥に煌めく世界の色に、俺は息を飲む。
彼女の世界はいつだって俺には見えないものを写している。

「私だってまだわからないわ。でも、きっとこの子達が示してくれる」

私とあなたが繋いだ子よ。
続けられた言葉に唇を震わせれば、妻はそっと微笑んで俺の手を取った。

「触って」

促され、導かれるままに触れた彼女の膨れた腹の奥、小さな芽吹きがトクン、と確かに跳ねる。
己は此処にいるぞと、確かに主張してくる。

「悩んでいいの。苦しんでいいの。完璧じゃなくていいの」

手の甲を擦る指先のあたたかさに、柔らかさに、視界が滲んでくる。

「あなたがあなたのままでいてくれれば、それでいいの」

私にとって、あなたがありのままでいてくれることの方が大事なの。
もたらされる言葉のなんと優しいことか。
妻に恵まれた己にふと笑みを零しながら、触れていない腕を広げて妻を抱きしめる。

トクン、と腹の子と同じ命の音が己の腕の中から伝わってくる。それがどうしようもないほどに只々尊くて、愛おしかった。

「俺は、不甲斐ないな」
「それでもいいのよ。完璧な人間なんてどこにもいないんだから」

穏やかに笑う妻の吐息が耳元をかすめてくすぐったい。
渦巻いていた不安は既になりを潜め、今は穏やかな夜空だけが心の中に広がっている。

「サクラ」
「うん」

回された腕のあたたかさ。
触れた皮膚の下から感じる鼓動。
腹の奥で呼吸する、新しい命。
そのすべてに感謝しながら、俺は煌めく世界を見つめ返す。

「ありがとう」

俺はこれから先、何度この言葉を彼女に対し口にするだろう。
そしてそれに対し彼女は何度同じように笑んでくれるだろう。
いつの日か互いの顔に皺が寄り、体も満足に動けなくなる日が来ても、それでも彼女はこうして己に対し微笑んでくれるだろうか。

「うふふ、こちらこそ」

母親にしてくれて、ありがとう。
返される言葉のあたたかさに喉がぎゅっと締め付けられて鼻の奥がつんとする。
なきそうだと、柄にもなく思いながらただ彼女を強く抱きしめる。

早くあいたいね。
呟く彼女に頷いて、どうかこの子も無事に産まれてくれますようにと顔も知らない誰かに祈った。


end



二人目の時に不安を感じる我愛羅パパ。
多分一人目の時はもっと酷かったり。(笑)



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