小説
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あの人は時々酷く脆くなる。
幼い心に負った傷が、思い出したように彼を締め付ける。

「うっ…」

誰もが寝静まった夜、彼の小さなうめき声に目が覚める。
無意識なのだろう。胸を苦しそうに掴む指先は白く染まり、なだらかな額にはじっとりとした脂汗が滲んでいる。

「あなた、」

浅い呼吸で上下する背に額をつけ、何度もあなた、あなたと呼んでやれば徐々に彼の意識が覚醒してくる。

「…サクラ?」

伸ばされた手は夏を帯びたように熱く、少しばかり汗ばんでいる。
けれど気にせずその手を取れば、初めてその手が震えていることに気づき彼は驚愕した。

「お、れは…」

揺れる瞳の奥深く、癒えぬ傷に瞬いて大丈夫よと口づける。

「私がいるわ」

ドクドクと早鐘を打つ胸板に耳を当て、自由な片腕でその背を抱く。
汗で湿った寝間着は不快だろうが、それでもその寝間着ごと背を抱いてやれば子供のような仕草で彼が私を抱きしめ返す。

「サクラ…」

自分の名前が、こんなに切ない響きを持つことを初めて知った。
彼はいつだって私の知らない世界を教えてくれる。

「大丈夫。大丈夫よ、あなた」

撫でる掌の下、徐々に落ち着いていく鼓動と筋肉の動きを感じながら何度も何度もあやしてやる。
ぐずる子供のように、縋り付く腕に愛撫を返す。
あなたは一人じゃないよと、あなたを愛しているわと抱いた指先から彼の体に流し込んでいく。
私の心が、彼に届くようにと。

「…すまない…」

小さく聞こえてくる謝罪には答えず、ただ大丈夫よと背を撫でた。
徐々に撫でる指先の力を弱くして、間隔も開けていけば穏やかな寝息が聞こえてくる。
ようやく寝入った夫の寝顔に、そっと笑みを零した。

「おやすみなさい、あなた」

もうすぐ子供たちも独り立ちする。
いつかこの家を出ていくだろうと高を括っていたはずなのに、訪れる寂しさに人知れず彼は苦悩する。
だけど大丈夫。私だけは、最期まであなたの傍にいるから。

「大丈夫だからね。我愛羅くん」

ずっと昔に呼んでいた、彼の名を呼べば夫がうんと答える。
寝言か、それとも習慣か。無意識に漏れたような吐息交じりの応えに笑みを零し、万感の思いを込めて“あなた”と呼んだ。
触れ合った指先には、沢山の皺が刻み込まれていた。


end

五十代くらいの我サク。
子供たちがそれぞれ家を出ていく前の寂しさに昔の孤独を夢に見てうなされる我愛羅くんと、それを敏感に察知して宥める良妻サクラちゃんの話。





彼の前で紅をさすのは苦手だ。
着替えや下着姿を見られるのも苦手だが、化粧をする姿を見られるのが一番嫌いだ。
醜い自分を見られているみたいで、一番嫌気がさす。

「まだこっち見ないで」

里の行事に出るため、普段はしない化粧にため息が出る。
私は紅をさすぐらいしか普段はしない。

「何をそんなに悩むんだ?」

鏡台に並べられた化粧道具の一覧を見て彼が首を傾ける。
男にはわからぬ悩みだと嘆息し、ただ嫌なのよとだけ答えておいた。

化粧は嫌いだ。
肌に悪いとかどうとかではなく、単に己の醜い姿と改めて向き合わなければいけないような気になるから嫌なのだ。
彼は私のことを美しいだのなんだのと褒めてくるが、私自身はあまりそうは思わない。見た目の美醜やスタイルの良し悪しは置いておくとして、人の顔には心が出る。
だから私の心の奥底に住まう醜い心が顔に表れているんじゃないかと、そしてそれを必死に隠さねばならないのかと思うと、憂鬱なのだ。

「俺はお前の化粧をした顔も好きだがな」

特に紅を引いた後の色づく唇は色っぽい。
そう言って小筆を手に取り紅につけた彼は、その柔らかな筆先をお構いなしに私の唇に乗せてくる。

「どんなお前でも俺は愛してる。綺麗だぞ、サクラ」

そんなことを、そんなまっすぐとした瞳で言わないでほしい。
どんな顔をすればいいのか困るからだ。

「ふっ…頬紅はいらないんじゃないのか?」

揶揄する彼にうるさいと返し、乗せられた紅を上下で合わす。
馴染んだ色に彼は目を細め、色っぽいと囁いた。
その声の方が断然色っぽいなどと、口が裂けても言ってはやらないけれど。

「あなたって性悪だわ」

薄紅に色づく頬に粉をはたき、上がった体温を隠すように顔を背け鏡の中の自分と対峙する。
後ろで間抜けた顔して欠伸をする夫の姿に、思わず笑みが零れてしまった。


end



いつだって妻を女性扱いすることを忘れない我愛羅くんと、そんな我愛羅くんにほだされるサクラちゃんの話。


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