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女性の肌は甘い。
いや、それとも相手が“彼女”だからそう思うのか。
恵は一人息を荒くしながら、籠ったベッドの中でグッと歯を食いしばる。
途端に現実の自分を反映するAzである竜も歯を食いしばったが、決して何かに腹を立てたわけでも、悔しい思いをしたわけでもない。
ただ、そう。ただ“耐えている”のだ。この、最愛の歌姫からもたらされる甘い“罰”に。
「竜」
そっと頬に当てられた磁器のように美しい白い手が、くすぐるかのように竜の頬を、恵の頬を慈しむように辿っていく。
「うぅ、べ、る」
「ふふっ、いい子。でも、動いちゃダメ」
淡い唇が毒を吐くように、歌うように言葉で恵を縛り付ける。
ベッドの中で一人、磔にされた少年は目を閉じる。甘く、苦しいこの所業はいつまで続くのか。
始まってからまだ数分しか経っていないのか、それとももう一時間ぐらいは経っているのか。
それすら分からないまま、竜はギュッとシーツを掴む指に力を込めたのだった。
『少年よ、大志を抱け』
――女性の肌は甘い。
それこそ昔、機嫌がよかった父親が出張帰りに『得意先からのもらい物だ』と言って自分たちに渡してきた“和菓子”のようだと思う。
チョコレートや飴玉とは違う、上品な甘さ。香り立つような花の匂い。
しっとりとした餡と、それを包み込む求肥はもっちりとして、初めて食べた時は感動した。
こんなにも見た目も中身も美しい食べ物があるのかと、知と二人で驚いたものだ。
だからすぐに飲み込むのがもったいなくて、恵は暫く口の中で転がした。
柔らかく舌に絡みつき、蕩けていく甘い餡も、餅のように、けれど餅とは違った柔らかさと伸びやかさを保つ求肥も、口内から鼻腔へと抜けていく優しい香りも、何もかもが衝撃的で、甘美だった。
「ベル――」
無意識に名を呼べば、竜の目の前でトロリと熱を孕んだ瞳が一度、二度と瞬く。
そうして白い手が竜へと伸び、そのまま「ふっ」と熱い吐息を零しながら微笑んだ。
アカウント数が五十億を突破して久しい『U』の中。二人は『強制ログアウト』をされないギリギリのところで求めあう。
十数年前から問題視されているSNSを通した『未成年への性的被害』。これを抑えるため『U』でも幾つかの予防策が取られている。
その一。マイルーム以外では衣服の着脱が出来ないこと。衣装チェンジは一瞬で済まされるため、下着姿を晒すことはない。『水着』は際どいものでなければ認可されており、着替えも可能だ。
だが下着姿になれるのは『公式が認証したAz』にだけ限られており、更にその許可が下りるのも下着メーカーのCMや広告撮影時のみと徹底管理されている。それ以外では決して人前で衣服を脱ぐことは出来ない。
その二。性的欲求が高まる、あるいは何かしらの興奮状態に陥った場合、AIが自動判別して『強制ログアウト』が行われる。
本来ならば感覚がリンクしている『U』で『強制ログアウト』しようものなら色々と危ないのだが、日々更新され続けている『U』の技術だ。人体に影響が出ない程度に視覚と声帯から順繰りに感覚が切断されるようになっている。
そして再度ログイン出来るまでに設けられた時間は三時間。その間に『頭を冷やせ』というのが運営側からの通告である。
勿論例外は存在する。それは武術館で行われる格闘技だ。これも相当頭に血が上っていない限りは『強制ログアウト』されることはない。
その三。性的な単語やセクハラなどの、身体を揶揄する、あるいは貶める発言に対しては文字化けするよう措置が取られている。
例えば「可愛いね」「綺麗だね」という発言は許されるが「おっぱい大きいね」「リアルで会ってホテルに行こうよ」などと言おうものなら文字化けする。例え音声であろうと、AIが登録している特定の脳波信号と一致すれば即座に理解不能な音へと変換される。
これにより年齢性別問わず、性的な発言による被害を減らしている。勿論中にはその目を掻い潜る猛者と言う名の命知らずもいるのだが――あまりやりすぎると公式から警告が来るため大体の者はやめる。そういう風に出来ていた。
その他の細かい措置は都度更新されているため、今後も増えていく可能性は十分にある。
だからこそ大人たちもある程度の安心感を持って子供たちを『U』で遊ばせているのだ。
とはいえ、年頃の男女がいい雰囲気になれば気持ちも高まるというもの。
今までそんな気分になったこともなければ恋人がいたこともない二人は『性的な高ぶり』を覚えたことが殆どなく、だからこそ、自分たちが初めて『強制ログアウト』を喰らった時には呆然としたものだった。
「…………へ?」
鈴は間の抜けた声を零しながら自室の天井を見上げ、恵は枕に顔を押し付けて「うあああああ〜〜〜」と悶えた。
それが約一月前のこと。
切欠は何だったのか。鈴も恵もあまりよく覚えていない。だが何となく、そう、何となく『あ。これは所謂“そういう雰囲気”なのでは?』と察してしまったのだ。だが察してしまったが故に、優秀過ぎるAIは警告を出した。
「お前らまだ未成年やろがい」と。
そうして『U』の世界からはじき出されること数回――。
本日『U』は若干のシステムの変更を行った。
何せ今までの『U』では恋人同士であろうと夫婦であろうと、互いに感情が昂ると容赦なく弾き出されていたのだ。それに不満を持った各国のユーザーからクレームと要望が入り、運営側は“『恋人』や『夫婦』関係であるAzに関してだけは規制を少しだけ緩める”という旨を発表した。
とはいえ誰がどのAzと恋人なのか、夫婦なのかは分からない。
だから各人がマイルームで設定する必要があった。『フレンド登録』ではない。新たに設けられた『パートナー登録』を、だ。
だがこれさえ済ませば愛の言葉を届けられるのである。
基本情報である国籍や生年月日だけでなく、パートナーとなるAzを互いに登録し合い、それが一致すれば規制が若干緩くなる。だがナンパを目的としているAzに悪用されないよう、登録のための必須事項が多く、また登録できる相手は一人だけと決まっている。一夫多妻制である国に関してはまた後日、様子を見ながらシステムを変更するとのことだった。
そうして現在、多くの人たちがすぐさま設定をし――燃え上がりすぎないよう注意しながら互いに愛を囁く姿がアチコチで見られるようになった。
その通知は城にいた竜にも、メインストリートを飛んでいたベルにも届いている。二人は互いに『相手にどう切り出せば……』と悩みながらも、刻々と近付く逢瀬の時間に向けて心臓を高鳴らせていた。
元より竜にとって『ベル』は唯一無二の歌姫であると同時に、オリジンである恵の“ヒーロー”でもある。
あの暴漢の如き父親から自分たち兄弟を守ってくれた。一人で、遠く離れた高知から会いに来てくれた。それがどれほど恵の心を救ったか。
そして鈴にとっても、恵は自身を奮い立たせてくれた恩人である。
いつまでも蹲って前に進むことが出来なかった、あの日、あの場所、あの雨の中で時間が止まったままだった鈴が足を動かすことが出来たのは、恵が、竜がいたからだ。
だからこそ互いに『特別な存在』であり『守りたい存在』でもあるのだ。
それがいつからこうなってしまったのか。
ベルは勢い余って竜の胸の中に飛び込んでしまった自身の頭の中で問う。
竜もまた、ベルの細い体を抱き留めながら考えていた。
自分たちは、世に言う『恋人同士』であるのかと。
「ベル」
「竜」
「あ」
「あ」
「先にどうぞ」
「先に話していいよ」
「あ」
「あ」
何度言葉が被れば気が済むのか。
互いにカアッと頬を染めながら、いそいそとくっつけていた体を離す。
「えっと、その、だい、じょうぶ?」
「え? あ、うん! 竜が抱き留めてくれたから、大丈夫」
目深に被っていたフードから顔を出し、ローブを脱いだベルは照れたような笑みを浮かべる。途端に竜の胸はキュンと疼いたが、すぐさま頭を振ることで煩悩のようなトキメキをかき消した。
「その、メインストリートはどんな感じだった?」
「賑わってたよ。でもこのシステム変更もこの先変わっていくだろうし、まだまだ試運転みたいな雰囲気もあったかな」
「そっか。いい方向に転がるといいけど」
「うん。みんなも、すごく楽しそうだった」
時には愛の言葉すら文字化けしていたのだ。それを考えれば存分に恋人とイチャイチャ出来るのは喜ばしいことだろう。
そんなことを考えつつ、ベルは脱いだローブを両手で抱えて上目遣いに竜を見遣る。
「そ、それでね、竜」
「うん」
「その……」
互いに「好き」という言葉を伝え合ったことはある。だが当時は「恋人になって欲しい」という意味合いは含まれておらず、ただ純粋な『好意』としての「好き」――所謂「Like」の気持ちしかなかった。
それがいつの頃からか、互いの肌に触れることに胸が高鳴るようになった。
自分以外の異性を見て欲しくない。傍に置いて欲しくない。そんな独占欲のようなものが頭を擡げるようになった。
特にベルはアンベイルされた後も愛され続けている歌姫である。日頃から弘香が目を光らせているとはいえ、言い寄って来ないAzがいないわけではない。現に弘香は何度もその手の輩に警告を出しては時に通報している。
竜もアレ以降表立った活動はしていないが、今も尚熱い視線を向ける層はいる。
互いに注目の的であるが故に、この『秘密の城』で顔を合わせる時間が何よりも楽しみであり、癒しであった。
しかし今更どんな顔をして「恋人になって欲しい」と言えばいいのか。分からずに俯くベルに、竜も暫し黙った後、そっと手を差し出した。
「とりあえず、中に入ろう」
「あ、うん」
差し出された手に、ベルは己の小さな手を重ねる。その疑うことなど知らない、慣れた仕草に竜は目を細め、か細い歌姫をバルコニーから私室へとエスコートする。
「あれ? 部屋のレイアウト、少し変えた?」
「うん。壁紙と、家具の配置をね」
薄暗い部屋の中に灯る光は電球の明るい光ではなく、蝋燭の淡い、あたたかみのある揺らぎだけだ。それでも部屋の中がどんな状態かは分かる。
以前は荒れ放題だった部屋も、城を復元する際に綺麗にしている。骨組みだけしか残っていなかった天蓋付きベッドにはレースのカーテンが取り付けられ、竜が暴走した際に破損した家具も元通りになっている。
飾られた額縁の中、たった一つだけ――あのバラを持つ女性の額だけは相変わらずヒビが入っていたものの、全体的に綺麗になっていた。
ベルは改めてぐるりと部屋を見回した後、竜に促されるままベッドに腰かける。
「えっと……それで、最近はどう過ごしてたのかな、って……」
どう切り出していいのか分からず、結局無難な話題を選ぶことになる。そんなベルに対し、竜も同じ気持ちだったのだろう。どこかほっとしつつ近況を語る。
だが竜がふと零した「久武先輩ってモテる?」という言葉に鈴はキョトンと目を瞬いた。
「しのぶくん? そうだね。うちの学校ではすごい人気だけど……。それがどうかしたの?」
「いや……。その……。ベルに話すのも、変な話だとは思うんだけど……」
二人が知り合って既に一年以上経っている。恵はあの事件を切欠に転校し、今は別の学校に通っていた。そこでやたらと女生徒に告白されることが増えたのだと恥ずかしそうに話す。
「気持ちは嬉しいんだけど……。その……す、好きな人がいるから、ちゃんと断りたくて」
だがどういう風に断ればいいのか毎度悩んでいるから、経験者からアドバイスが欲しいのだと、竜の姿で少年らしく恵は語る。その姿を、Azの向こうで赤ら顔で俯く少年の姿を、ベルはじっと静かな瞳で見つめていた。
「だから……。ベル? どうしたの?」
いつもなら「ええ?!」や「そうなんだ」と相槌を打ってくるはずのベルが無言なことに気付き、竜は俯かせていた顔を上げる。だが自身を見つめる青い瞳を見た瞬間、竜は、恵は、息を呑んだ。
「……恵くん、好きな人がいるんだ」
責めるような口調ではない。だがどうにも、逃げたくなるような、それでいて逃げ出せないような圧力を感じる。
目には見えない、じわじわと足元から這い上がってくるような闇夜のような怖気に咄嗟に竜が身を引けば、ベルは「ふぅーん」と感情の籠らない声で相槌を打ち、顔を隣に座る竜からバルコニーへと移した。
「そうなんだ」
一体どうしたというのだろうか。この年上の愛おしい人は。
竜は混乱しながらも「ベル?」と名前を呼ぶが、ベルの顔が竜に向くことはない。だがその瞳は閉じられることなくどこかを見つめており、竜は少しだけベルのことを恐ろしく感じた。
「――いいなぁ」
「へ?」
「恵くんに想われている人も、恵くんに告白出来た人も。羨ましい」
竜はその一言に言葉を失う。だがベルは自身が何を口にしたのか分かっているのかいないのか。相変わらず静かな瞳のまま、ようやく竜に向かって顔を向ける。
かと思えばその白い手を伸ばし、呆然とする巨躯を柔らかなベッドの上に押し倒した。
「ねえ、恵くん」
「な、なに?」
「その人は、どんな人?」
するりと、ベルの白い手が竜の頬から喉へと伝っていく。まるで蛇のように、するすると。
その感触に肌を震わせ、竜が無意識に唸ればベルはおかしそうに口元を緩めて「ふふふ」と妖しく笑う。
「いいなぁ。恵くん、どんな顔でその人と会うの? 嬉しそうな顔? それとも、緊張して赤くなるの?」
「べ、ベル、誤解だよ、僕が好きな人は――うぐっ!」
ずしりと、柔らかな重みが、倒れ込んだ竜の、恵の腹部へと圧し掛かってくる。まるでソファーに腰かけるように竜の腹に座ったベルは、そのままゆっくりと上体を曲げて竜の顔へと唇を近付けていく。
「べ、ベル」
勇ましい竜の姿からは想像出来ないほど、か細く震えた少年の声が零れ落ちる。それでもベルは動きを止めることなく、どこか怯えたような瞳で自身を見上げて来る竜の頬を撫で上げた。
「――動かないで」
「ッ!」
囁くような、それでいて絶対的な支配者のような言霊の力でベルは竜を縛り付けてしまう。それでも必死にシーツを掴む竜に対し、ベルはどこかうっとりとしたように艶やかに微笑むと「いいこ」と零した。
「いいなぁ。恵くんに好かれる子って、どんな子なんだろう。見てみたいなぁ」
「〜〜〜ッ!」
するり、するりと、白魚のような腕が、指先が、くすぐるように、弄ぶように竜の首筋を行き来する。まるで鳥の羽でくすぐられているかのような感覚に竜が、恵が必死に声を噛み殺せば、ベルは上体を倒して竜の体に倒れ込む。
「――早いね。心臓の音」
「そ、れは、」
「ふふっ。かわいい」
ゾクゾクとした痺れのような熱量が、竜の背筋を辿っていく。脈打つ心臓の音を堪能するかのように目を閉じるベルの体を包み込みたい気持ちはあるものの、先程「動くな」と命令されたばかりである。
だからこそじっと耐える竜に満足したのか、ベルは顔を上げると改めて竜の頬を両手で挟み込む。
「あなたの目に映る人が、わたしだけになればいいのに」
「!!」
ちゅっ。と、驚く竜の鼻先にベルの唇が軽く触れる。
息をすることも忘れてしまうような衝撃を覚えているのは竜だけで、ベルは相変わらず、どこか熱に浮かされたような、心ここに在らずの状態で竜の肌に指を馳せていく。
「あなたの目も、耳も、唇も、この牙も、尖った爪も、この胸の奥にある心臓も、心も、全部わたしだけのものになればいいのに」
「ベ、ル」
いつもの、キラキラとした少女のような瞳をした歌姫はどこにもいない。
竜の目に映るのは、深海の瞳にほの暗い嫉妬の色を浮かべた、感情を忘れた人形のような美しいAzだった。
「どんな声でその人の名前を呼ぶの? どんな眼差しでその人を見つめるの? わたしの知らない顔で、声で、その人に愛を囁くの?」
「べ、ベル、違うよ、ベル、話を聞いてっ」
だが必死に懇願する竜が頭を擡げても、ベルはそれを押さえつけるかのように竜の頭をベッドに押し付け顔を限界まで近づける。
そうして驚き、慄く竜に対し、ベルは赤い口唇を開いて「いやよ」と告げる。
「聞きたくない」
「ベルッ!」
「うん。そう。わたしは“Bell”。分かってる。こんなことしちゃダメだって。でも――」
ベルはそこまで話すと唇を閉じ、倒したはずの上体をゆっくりと起こして竜の、無数の牙が並ぶ口唇を指先で撫でた。
「変なの。わたし、今、すごく、あなたのことをイジメたい」
「ッ!」
「好きなのに。こんなにも好きなのに、大好きなのに、変だよね。でも、ウソはつきたくないから、ちゃんと言うね」
ドクドクと、竜の左胸の奥で、頭の奥で、心臓の音がうるさく音を立てる。きっとその音は胸に手をついているベルの手の平を伝い、彼女にも届いていることだろう。
それでもベルは相変わらず何を考えているのか分からない顔で、瞳で、竜を見下ろすだけだった。
「好き。好きよ、竜。でもね、あなたの幸せを素直に願えない。応援してあげられない」
――だって、あなたが好きだから。
ハッ、ハッ、と、竜は獣のような浅い呼吸を繰り返す。だがそれは恐怖に慄いているからではなく、愛する女性から愛の告白を受けたからだった。
しかもこんなにも熱烈な――校舎のどこかに呼び出されて「好きです!」と熱い気持ちを一方的にぶつけてくるのとでは訳が違う。
ドロドロとした愛憎渦巻く強烈な感情を、まるで命すら懸けているかのような硬い声で、目の前にいる美しい人は竜に浴びせかけたのだ。
「ねえ、竜。わたしだけを見て。他の人なんて追いかけないで。本当のわたしを愛せなくても、今ここにいる“Bell”だけは愛して」
だがこの愛おしい人は、竜が想像していたよりもずっと鬱屈した想いを抱いているらしい。
先程の感情を無くした人形のような表情から一変し、今は眉間には皺が寄せられ、苦しそうに、まるで泣き出す寸前のように長い睫毛が震えている。
だから竜は両手を伸ばして抱きしめようとしたが、またしても「動かないで」と告げられて動きを止める。
「いいの。分かってる。竜は、恵くんは、誰のものでもない。あなたはあなただけのものだって、ちゃんと分かってるの」
「ベル、違う、違うよ! 僕は、」
「お願い。もう、何も言わないで」
どうして何も言わせてくれないのか。どうして自分ばかり言いたいことを言って、僕の話を聞いてくれないのか。
そんな鬱憤じみた考えが思い浮かばないでもなかったが、泣きそうな顔で見下ろす人にそんな暴力じみた言葉を投げかけることなど出来ない。
それは自身が最も嫌う“人間の形”そのものだったからだ。
「ベル、」
「お願い。今この時だけでも、わたしのものになって。他の誰のことも見ないで。わたしだけを見て。わたしだけを愛して」
――お願い。竜――
そんな、切なる願いを跳ね除けることなど出来るわけがない。
竜は観念したように後頭部を枕に沈め、スッと全身から力を抜いた。
「――いいよ。ベル。キミの好きなようにして」
「竜……」
「でも、お願いだから、泣かないで。キミに泣かれると、僕はどうしていいのか、分からなくなる」
伸ばすことの出来ない手の代わりに、胸中で自身のことを「変態だな」と罵りながらも舌を伸ばす。そうしてベルの頬を流れる真珠のような涙を舌先で拭えば、途端にそれは舌の上で雪のように溶けてしまう。
甘さもしょっぱさも感じない。無味無臭のデータでしかないことが今は虚しい。
そんな竜の慈しむような愛撫に、ベルはくしゃりと顔を歪めて涙を零す。
「ごめん、ごめんね、竜。幻滅したよね。キライになったよね」
「ならない。キミをキライになるなんて、この先どんなことが起きても絶対にありえない。だから泣かないで」
「うぅ……。ごめん、ごめんなさい、竜。好きよ。好きなの。大好きなのよ。愛してるの。ウソじゃないわ、本当なの。本当、なんだから……」
グスグスと泣きじゃくるベルの涙を、竜は飽きることなく舐めとり続ける。愛犬が飼い主を慰めるような優しい愛撫は、徐々にベルの荒れ狂い、荒んでいた心を落ち着かせていく。
「竜。わたし、あなたに触れたい」
「いいよ。ベル。好きにして。僕は、キミの“奴隷”だから」
そう。竜は、恵は、紛れもなく“奴隷”である。ベル限定の――ベルだけに愛を捧げる、一生の献身と奉仕を捧げる愛の奴隷だった。
だからこそ主人の願いは叶えなくてはならない。
誰の前であろうと膝をつくことを良しとはしない絶対的な王者が、神話の支配者は、ただ一人。愛する娘の前では汚泥も啜るし地べただって這う。愛とは、そういう絶対的な感情なのだ。
だからこそ竜は自らの首に枷を嵌め、その鎖の先をベルに握らせた。
生かすも殺すもベル次第――。それを、明確に伝えたのだ。
「奴隷、だなんて……ふふっ。変なの」
「キミが笑ってくれるなら何でもいいよ。道化でも奴隷でもペットでも、好きにして」
ベルは、紛れもなく『歌姫』であり恵と知にとっての『ヒーロー』である。そして恵自身意識していなかったが――彼は彼女を“崇拝”してもいた。
絶対的な支配者が、ただ一人。純白の、穢れを知らない翼を持つ歌姫に目を奪われ、心を奪われ、恋をし、愛を捧げるのだ。
だからこそ喜んで自らの手足に、首に、枷を嵌めてこうべを垂れる
この体も命も何もかも、あなたのものだと、贄のように手足を投げ出して横たわるのだ。
彼女が望むのであればどんな願いだって叶えよう――。
そんな竜の強い意志を感じ取ったのか、ベルは涙を止めると改めてその頬に手を伸ばした。
「竜。好きよ。わたしのものになって。これからもずっと、わたしだけを見て、愛して。他の誰も追わないで」
「――ベル。キミがそれを望むなら、僕は何がなんでもそれを叶えてみせる。愛してるよ、ベル。だから、僕をキミだけのものにして」
じゃらり、と二人の間で見えない鎖が音を立てる。
竜の答えにベルは心底幸せそうに、とろけるような笑みを浮かべる。そしてそっと――あの日出来なかった口付けを、その黒い肌の上に優しく落としたのだった。