- ナノ -

11 - エピローグ

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 いつもの和定食屋で夕飯を取り終えた後、二人はもうすぐ退去する予定の弘香が借りているマンションへと来ていた。

「この部屋とももうすぐお別れか〜」
「そもそもヒロちゃんにはこの部屋狭すぎだよ」
「そうなのよねぇ……。でも駅が近くてスーパーにも行きやすかったから、便利ではあったのよ」

 風呂場は狭く家賃は高かったが、悪い面ばかりでもなかった。だからこそ部屋を借り続けていた。そんな弘香も、ここを去る日がもうすぐ来る。

「あんたは“アトリエ”どうするのよ」
「そのまま借りるよ。出来るだけ空けたスペースにはヒロちゃんの機材を置きたいから」
「……それはどーも」

 二人が現在それぞれ住んでいる場所は一人暮らし専用だ。だから二人で住むには手狭なため、引っ越しをすることに決めていた。
 最初は渋った弘香ではあるが、知が「この機材を置けるところに住みたくない?」という機会オタクにとって一番重要なワードを言い放ったため、最終的には頷いた。

 とはいえ、知は寝食専用の部屋とは別に“アトリエ”を持っている。仕事に必要な資料やフランスで手に入れたデザイン集、実際に仮縫いを起こしたドレスなどを置いている部屋だ。自身が寝泊まりする部屋は格安のボロアパートなのだが、アトリエはしっかりとしたところに借りている。

 普通逆じゃない? と思った弘香ではあるが、知曰く『アトリエの方に大事なものを全部置いてるから、ボクの部屋にあるのは布団と調理器具ぐらいだよ』というなんとも殺風景な部屋に住んでいるようだった。
 衣服も少ないうえ美容品なども一切持っていない。そのため知の引っ越しに必要な段ボールは極僅かだった。

「フランス語の勉強は今後もするけど、これからは引っ越しの準備もしなきゃいけないのかぁ」
「休みには手伝いに来るから、頑張って断捨離しようね」
「……捨てるもの、古くなった洋服とかかな……」

 元彼その二の部屋から持って帰ったものは既に処分している。あとは箪笥の肥やしになっている、数年前に買ったきり袖を通していない服を捨てるぐらいだろう。
 そんなことを考えつつ、弘香は浴室の電気をつけた。

「それじゃあシャワー浴びて来るから、いい子で待ってるのよ」
「……はい」

 幼い子に言い聞かせるように、弘香は知の額に軽く唇を落としてから着替えを持って脱衣所へと消える。知はそんな弘香と、これからすることになる行為に心臓がドクドクと早鐘を打ち始めていた。

「あぁ〜……! 恵くん、どうしよう……。ボク、ちゃんと出来るかな……」

 思わず兄に相談したくなった知ではあるが、こんなこと相談されても恵は困るだろう。実際知が「ヒロちゃんと付き合えるようになったよ」と報告した時も「え……? え?!」と非常に驚き――むしろ驚き過ぎて膝を机で打って身悶えたぐらいなのだ。これ以上驚かせては心臓が止まるかもしれない。
 だからこそ知は一人相談会を開いていたのだが、すぐさま聞こえてきたシャワーの音にギクリ。と体が強張る。

「……しゃ、シャワーの音なんて、ラブホでもきいたもん……」

 一体誰に言い訳をしているのか。ドクドクと強く脈打つ心臓を服の上から抑えながら赤い顔で呟く。
 だが耳を澄ましているわけでもないのに水がタイルを叩く音や、シャワーを止めた際に漏れるであろう弘香の息遣いさえ聞こえてきそうで、知は咄嗟にテレビの電源を入れる。
 途端にシャワーの音は耳に入らなくなったが、内容など分かるはずもなかった。

「テレビ見てたの?」

 数十分後、シャワーから上がって来た弘香の言葉に知は無言で頷く。だがまったく頭に入っていないどころか、誰が出ているかも理解していなかった。
 そんな知のガチガチに硬直した空気を悟った弘香は、軽く息を吐いてから未使用のタオルを取って投げる。

「ほら。あんたも入ってきなさい」
「あ、う、うん」

 ギクシャクと、ロボットのような動きで歩き出した知の背を呆れたような顔で見送る。だがそんなところが童貞らしい。少しだけ愉快な気持ちになりながら、弘香はベッドに腰かけた。

「……鈴は、恵くんとする時どんな気持ちだったのかな」

 恵も知も、鈴と弘香からしてみれば幼い時から見てきた少年たちだ。それが今ではすっかり大人になってしまった。そのうえあの時の子供と夜を共にするようになるとは……。夢にも思っていなかった。

(でも、変なの。今はもう、イヤじゃない)

 今までは他人と同じベッドで寝ることすら嫌だったのだ。弘香は。
 別に潔癖症というわけではない。ただ相手の体温や呼吸を感じるのが嫌だった。だから肌を重ねるのもイヤだったし、キスをするのだって、出来ることならしたくなかった。

「そう考えると本当、なんであいつらと付き合ってたんだろう。我ながら不思議だわ」

 不思議というか、理解出来ない。そう思う気持ちはあったものの、じゃあ初めから知と付き合っていればうまくいったのか。と聞かれたら違うと断言出来る。
 弘香にとっては苦しい数年間であったが、だからこそ知から向けられるひたむきな愛に気付くことが出来た。それがどれほどあたたかく、弘香を優しく包んでくれたか……。傷つくことを知らなかった弘香であれば気が付かなかっただろう。
 むしろ無鉄砲な自分がさらに天狗になり、知を傷つけたかもしれない。そう考えるとあの数年間も無駄ではなかったようにも思えて来るから不思議だ。

「まあ、問題があるとすればちゃんと勃つかどうかなんだけど……」

 初めての時は男性だろうと女性だろうと緊張するものだ。人によっては勃たない人もいる。弘香はふと自分の体を見下ろし、そっと視線を逸らした。

「……本当に勃つのか? あいつ」

 ないわけではない。全体的なフォルムから考えてみれば弘香は『ある』方だ。勿論雑誌に載るほどのサイズではないが、持てる程度にはある。

「寄せれば谷間も出来るし、挟めなくもない、か?」

 むにむにと自身の胸を持ち上げたり寄せたりして首を傾けていると、脱衣所から出てきた知が「ひょっ」と素っ頓狂な声を上げる。

「な、なななにしてるの?!」
「え? ああ。サイズ確認」
「なんで今!?」

 シャワーから上がったばかりとはいえ、知の顔は真っ赤だ。弘香は「本当に初心なんだから」と呆れた目を向けたが、すぐにたじろぐ知を手招きした。

「ほら。こっち来なさい」
「あう……で、も……」
「いいから早く。おいで」
「あい……」

 まるで飼い犬を呼ぶかの如く呼びつけられたが、知は抵抗することなく素直に近づいて行く。だがその足が一歩前に進む度、冷水を浴びたはずの体は熱を増していくようだった。

「ほら。こっち来て。なんでそんなにギクシャクしてんのよ。いつもはこっちの許可なく抱きしめて来るくせに」
「だ、だって……今日は……その……」

 恋人として初めて“そういう意味”で夜を共にするのだ。今までみたいに甘えたり甘やかすだけの状態ではいられない。

 そんな知の葛藤を知ってか知らずか、あるいは無視する気か。弘香は無言で自身の隣に座るようベッドを叩いて促す。それに一瞬躊躇したが、結局知はおずおずと腰を下ろした。

 ――が、その瞬間弘香に両肩を押され、ベッドに背中から倒れ込む。

「ひ、ヒロちゃん?!」
「なに驚いてんの、よっ! っと」

 ――ヒュッ、と、驚く知の喉から乾いた音が立つ。

 何故なら寝転んだ知の腰の上に、上を一枚着ただけの弘香が跨ったからである。

「ひ、ひろちゃ――んむっ」

 動揺してまともに動けない知の頬を両手で掴むと、弘香はそのまま顔を寄せて唇を重ね合わせる。途端に知の全身が硬直するが、弘香は構わず触れるだけのキスを繰り返す。
 互いの皮膚の表面がほんのりと触れるほどに浅いキスから始まり、徐々に重ねる密度や深さを変えていく。そうして時にはフェイントをかけるように頬や鼻先、目尻や眉間にも唇を落とし、その度にビクリと体を震わせて反応する知に吐息だけで笑う。

「あんた、本当にガチガチね。大丈夫?」
「だ、だいじょばない……」

 ベッドのシーツを皺が寄るほど強い力で掴み、全身を赤く染めた知は既に息も絶え絶えだ。そんな知の熱を持った両頬を手で挟むと、いつも知を甘やかす時と同じ力加減で、スピードで、髪に手を入れわしわしと頭を撫でてやる。
 それに対し知は驚いたものの、すぐに黙って弘香の手を受け入れた。そうしておずおずと、上体を起こし始めたので弘香も腰に跨っていた体を太ももの上へ移動させる。

「落ち着いた?」
「うん……」

 未だに心臓は早鐘を打ってはいるが、息も出来ないほどの混乱は落ち着いてきた。知は悪戯をして叱られた犬のようにしょぼくれた目で弘香を見上げる。

「ヒロちゃん……」
「なに?」
「ボクも触っていい?」

 弘香はその言葉に「本当に気にしいなんだから」と半ば呆れつつも「いいわよ」と答える。弘香だって分かっているのだ。知が自分を気遣って勝手に触れないことを。

 でなければとっくの昔に知の手は弘香に触れていたし、ベッドへと押し倒していただろう。勿論それだけの度胸が本当にあるのかと聞かれたら甚だ疑問ではるのだが、未だにシーツを強く掴んでいることからも我慢していることが伺える。
 だからこそ頷けば、知は震えるほど力を込めていた手をシーツから離し、弘香の背中に手を回した。

「気持ち悪くない?」
「平気よ。あんたこそ、ちゃんと息しなさいよ」
「だって……。気持ち悪いかな、と思って」

 弘香も前まではそう思っていた。キスの合間に肌に触れる相手の息が気持ち悪くて仕方なかった。けれど目の前でギュッと目を閉じて、呼吸をするのを我慢して必死に欲を耐える姿を見ていると、無性に笑ってしまいたくなるような、愛おしみたくなるような、そんな気持ちでいっぱいになったのだ。
 だからこそ笑って知の柔らかな髪を梳きながら頭を撫でてやると、途端に知は弘香の胸元に額を押し当てた。

「ヒロちゃんは、ずるい」
「なにがよ。どこがよ」
「ぜんぶ……」

 ギュッと、弘香の背に回された腕はいつもより熱く、力も入っている。だが不快ではない。むしろ頑是ない子供をあやすように弘香は知の頭を優しく抱く。

「私だっていつもより脈速いのよ。分かるでしょ?」
「うん……」
「あんただけじゃないんだから」

 詰っているようにも聞こえるが、その実弘香の声は甘く優しい。それだけでも知の背筋にゾクゾクとした震えが走る。
 まるで骨ごと肉を――神経も何もかも溶かされていくような心地になりながら、熱を持った瞳で弘香を見上げる。

「ヒロちゃん」
「なに?」
「――キス、していい?」

 サラサラと、知の髪を撫でていた弘香の指が止まる。代わりにその手は頭部から頬へと移動し、じっと自分を見つめる知の瞳に自らを写した。


「――いいよ」


 弘香が許可を出すと同時に、知は首を伸ばしながら弘香の頭を抱き寄せ、唇を重ね合わせる。

「ん……」

 ちゅっ、ちゅっ、と触れては離れ、重ねては離す。互いの肌の間で僅かに響くリップ音に煽られ、次第に唇を触れ合わせる間隔も、その深さも増していく。

「ヒロちゃん……ヒロちゃん」
「んぅ」

 弘香よりも大きな手の平が、熱を帯びた手の平が弘香の頬を包み込む。そうして撫でるように指先が耳の形を辿り、髪を指先で撫でる。
 そうしてどちらからともなく唇を開けて舌を伸ばせば、互いの吐息が口の中で混ざり合う。
 以前ならただただ気持ち悪くて「無理して付き合っている感」が拭えなかった深いキスも、弘香は自分から求めるように知の肩にしがみつきながら舌を絡め、甘やかすように優しく撫でては先端を吸い上げる。

「ふッ、んっ」

 ブルリ、とその度に知の背筋が震えるが、離れようとはしなかった。むしろ「もっと」と言わんばかりに弘香の腰を、頭を抱き寄せ、これ以上にないほど密着する。
 途端に弘香の股に硬いものが当たったが、気にすることなく互いの吐息を交わし、肺を相手の香りで満たしていく。

「はあ……ヒロちゃん……大丈夫?」
「ん……平気……」

 互いに息が上がるほど夢中でキスを繰り返し、半ば酸欠状態になった弘香が白い肌を染め上げながら顔を離す。

 その目はトロリと蕩け、唾液で濡れた唇は艶々と光っている。寄せられた眉根と、潤んだ瞳。零される吐息は熱っぽく、初めて見る恋人の艶めかしい表情と姿に知は溢れる唾液を慌てて飲み込む。

 ドクドクと早鐘を打つ心臓は力強く全身に血液を送り続け、兆しを見せた下半身はのっぴきならない状態にまでなっている。
 というより、恥ずかしながらも弘香の肌に触れているのだ。萎えるなどありえなかった。

「ははっ、すごい……」

 自身の肌を押し上げる熱量に、弘香は思わず笑ってしまう。だがその瞳は知のことを笑えないほどに熱を帯び、ドロドロとした欲を感じさせた。
 事実弘香は今までにない“悦”を覚えている。たかがキスだけで――弘香の腹の奥底が熱を帯び、熟れた果実のようにじゅわりと果汁を溢れさせていくような感覚に肌が粟立つ。

「はあ……」

 互いの唾液で濡れた唇を舌先で舐めるようにして拭い取り、弘香はそっと自身の腹部に手を当てる。

 痛みを覚えている時に触れる動きではない。

 むしろ見せつけるかのように、弘香は細い指先を下腹部に向かって撫でおろした。


「――早く、ここであんたを抱きしめてやりたい」

「――――ッ!」


 キュン、と弘香の下腹部が疼いたように、知の熱を持った分身も強く脈打つ。

 あけすけといえばそうなのだろう。だが妙に色気と勝気が綯い交ぜになった弘香らしい台詞に、知は獣のような衝動に駆られそうになる。
 それでも寸でのところで理性を手繰り寄せ、弘香を抱きしめながら唇を重ね合わせる。

「ヒロちゃん」
「ん、」
「見ても、いい?」

 なにを。とは聞かない。知の汗ばんだ手の平は既に弘香の柔肌に直に触れている。ズボンもスカートも履いていなかったのだから、下着など丸見えだ。
 だが上に着た衣服はそのままだ。寝巻替わりにしていたロングTシャツを、弘香は自身の手で脱ぎ去る。

「――きれい」

 チカチカと、知の前で星が飛ぶ。
 白熱灯の下で晒された下着姿の弘香を、知は喉を鳴らしながらじっと見つめる。対する弘香も、知の瞳を真正面から受け止めながら熟れた頬を見られまいとするかのように顔を逸らす。

「……幻滅してない……?」
「なんで? するわけない。わかってるくせに」

 グッと知が腰を引き寄せれば、途端に弘香の濡れ始めた場所に昂ったものが当たる。ズボンと下着を挟んでいるにも関わらず、その熱も硬さも感じられ、弘香の目が羞恥と興奮で潤んでいく。

「……こんなの私らしくないって、思わない……?」
「思わない」

 弘香の不安を一つ一つ、ハッキリと否定していく知は改めて弘香の染まった頬へと手を伸ばす。
 そうして逸らされている目を自身へと向けて欲しくて、弘香の名前を呼ぶ。

「ヒロちゃん。こっち向いて」

 弘香の瞳は一度、二度、と迷うように右から左へと移ったが、その後はゆっくりと知と目を合わせた。

「――キレイだよ。本当に、ヒロちゃんはキレイだ」
「……初めてじゃないのに?」

 その一言に知の蕩けていた目が丸くなる。弘香は一瞬「間違えた」と思ったが、それは杞憂に終わった。

「だから? 行為が初めてじゃなくても、ヒロちゃんが自分から“欲しい”と思ったのは、ボクが初めてでしょ?」
「――ッ!」

 今度は弘香が驚く番だった。限界まで目を見開き、自分を見下ろす弘香に知はうっとりとした笑みを顔いっぱいに浮かべる。

「元彼? それがなに? 今までその人たちがどんなにヒロちゃんを求めても、ヒロちゃんが求めたのはボクだけだ」
「知くん……」

 弘香はおそるおそる、知の頬へと手を伸ばす。だがその手が触れるよりも早く、知は自ら弘香の手を取り、柔らかな手の平に頬を寄せた。

「ねえ、好きだよ。ヒロちゃん。何度でも、何度でも言ってあげる。ヒロちゃんが心の底から信じられるようになるまで、何度だって言うよ」

 ――ボクの愛が尽きることはないんだ。

 不遜なまでの自信を持って口にする知の唇が、弘香の手の平へと寄せられる。
 そこに刻まれた皺ですら愛おしむ様に舌先で撫で、驚いて震えた弘香の背を抱きながら指先を口に含んで優しく歯を立てる。

「昔の人のことなんて思い出さないで。ボクだけ見てて」
「ぁ、」
「ボクだけがキミに触れることを許して。他の誰にも、キミには触れさせないで」

 ドサリ、と、今度は弘香の背がシーツに触れる。知の熱が移ったかのように、熱を帯びたベッドの上で弘香は自分を一心に見下ろす“男”の顔を見上げる。

 かつてはか細くて頼りない少年だった青年は、今では弘香の指先に熱すぎる程の唇を押し当て、獣のような瞳で弘香を見下ろす“男”へと成長していた。
 弘香はそれに怯えることはなく――むしろ呆れてしまうほどの歓喜に胸を震わせながら、知の頬を両手で挟んだ。

「――約束する」

 例えこの先何があっても、例え裏切られることがあったとしても、弘香は知を信じ、愛し続けると。
 そして知もまた、死が二人を分かつその時まで、弘香の手を離さないと誓う。

「――ありがとう」

 知の唇を全身に浴びながら、小さく呟いた弘香に知が顔を上げる。そうして今にも零れ落ちそうになっている雫を吸い取るように唇を押し当てれば、弘香の震える指が知の裸の背中へと回された。

「十年間、ずっと好きでいてくれて――愛してくれて、ありがとう」

 子供にとっての十年は、気が遠くなるほど長い時間だ。
 大切な大切な、かけがえのない、一生涯戻ってこない栄光の時間だ。
 その殆どを自分に捧げさせたことを申し訳なく思う気持ちもあるが、それ以上にただ“嬉しかった”。嬉しかったのだ。弘香は。ずっと誰かの“一番”にはなれないのだと諦めていた心が、ようやく野ざらしにされていたままだった傷ついた心が、満たされていくのが分かる。

 知はそんな弘香に慈しむような、重ねるだけの長く長いキスを送るとゆっくりと瞼を押し上げた。

「――好きだよ。ヒロちゃん。これからもずっと、キミだけを愛してる」

 夜はゆっくりと更けていく。

 ようやく本当の意味で、心も体もすべてが同じラインに立つことが出来た。
 名実共に“パートナー”として歩みだした夜は、二人に取って忘れられない日になるだろう。



  エピローグ



 フランスから帰国して早一週間。弘香は鈴の家でのんびりと向かい合ってお茶を楽しんでいた。

「押しかけといてアレだけどさ、予定日まであと数日じゃん。来てよかったわけ?」
「うん。今日はこの子も大人しいし、何もしないのも体に悪いから。それに、ヒロちゃんの話も聞きたかったし」

 鈴のお腹にいる子はしょっちゅう蹴りを入れて来るらしい。時には激しく暴れることもあるらしく、鈴は「絶対この子格ゲー好きになるよ」と夫に似ていることを示唆しては笑う。
 それに対し弘香も「だろうね」と言って笑い返せば、鈴は改めて「お土産ありがとう」と言って微笑んだ。

「でも、まさか二人が配達員に扮してやってくるとは思わなかったな」
「あんたたちが相手だとつい羽目を外しちゃうのよねぇ」

 苦笑いする鈴が言う通り、二人は『お届け物でーす!』とインターフォンを押して元気よく挨拶をした。そうして鈴の代わりに出てきた恵に対し、知が「お土産だよー! ハンコの代わりに笑顔くださーい!」と言いながら抱き着いたのが数十分前のことだ。

 今は知が買ってきたお土産を開け、恵に説明している最中だった。
 そんな兄弟の睦まじい姿を二人も揃って穏やかな顔で眺め――鈴は「それで?」と声を潜めながら少しだけ身を乗り出す。

「ヒロちゃん。なにがあったの?」
「なにがって……なにが?」
「とぼけないでよ。幾らわたしでも、ヒロちゃんの雰囲気が変わったことぐらいわかるんだから」

 不服そうに唇を尖らせる鈴に、弘香は数度瞬いた後にんまりと笑う。

「なになに〜? 気になるの? 気になるの? 鈴ちゃんっ」
「あ! またそんな顔して! もーっ、はぐらかされないんだからね?」
「あっはっはっは!」

 心底愉快そうに笑う弘香は、フランスに飛ぶ前に会った時よりも生き生きとしている。その姿は高校生時代を思い出させ、自然と鈴を懐かしい気持ちにさせた。
 そして同時に、安堵もした。
 少し前に感じていた『どこかに消えてしまいそう』な雰囲気はどこにも残っていないからだ。

「ま、収まるところに収まったといいますか。そういう感じよ」

 弘香は椅子の背もたれに体重を預けながら、ちらりと用途不明のお土産に目を白黒させる恵を笑い飛ばす知の横顔を眺める。
 そこにはもう迷いも困惑もない。ただ知のことを受け入れたことだけが分かる表情だった。

「ふぅーん……。あ。そういえば、そのスカーフ素敵だね。どこで買ったの? フランス?」

 首を傾ける鈴が気にしたのは、弘香の首に巻かれた一枚のスカーフだった。
 だが弘香はその言葉にビクリと体を震わると、おずおずと視線を鈴へと戻す。

「あー……これは、その……アレクサンドルのご夫人から頂いたもので……」
「え。すごい。じゃあブランド品?」
「うん……」

 あの後弘香は知が仕事に出かけている間にスカーフのことを調べ――自分が渡されたスカーフリングが特別な意味を持つことを知り、悲鳴を上げた。

「その割には嬉しそうじゃないね」
「いや、嬉しいんだけどさ、分不相応というか、なんというか……」

 てっきり深雪夫人の好意かと思っていたのだが、まさかこのスカーフとスカーフリングにそれ以上の意味があるとは思っていなかった弘香である。
 帰って来た知に死ぬような思いで問いかければ、知もまさか弘香が自力で調べるとは思っていなかったらしい。初めは驚いた顔を見せたが、すぐさま「まあ、心強い後ろ盾が出来たと思っておこうよ」と相変わらずのマイペースさでこれを流したのだった。

「ていうかさ。私、鈴に一つ聞きたいことがあったのよ」
「え? なに?」

 弘香はちらりと兄弟の動向を気にしてから席を立ち、鈴の隣に腰かける。

「あ、あのさ……」
「うん」
「その……恵くんってさ、夜……する時って、淡泊な方? それとも、逆?」
「はあ!?」

 思いもよらない質問をされて鈴が盛大に驚けば、恵と知が「どうしたの?」と揃って声を掛けてくる。それに対し弘香が「女同士の話だから、こっち来たら口利かないわよ」と告げれば、途端に知が動こうとした恵の腕を掴んだ。

「お腹の子に障るから、あんまり大きな声出さない方がいいわよ」
「だってヒロちゃん……!」
「ごめんって。でも、揶揄ってるわけじゃないのよ。マジで本気の質問。だから真面目に答えて」
「〜〜〜ッ!」

 鈴とて弘香の目を見れば分かる。決して揶揄っているわけではないと。それでも恥ずかしくて頬が熱を持たずにはいられない。
 そんな鈴に対し、弘香は一つ息を吐きだしてから首に巻いていたスカーフを少しだけずらした。

「……コレ。酷いでしょ」
「あ」

 モダンアート柄の奥から覗いたのは、弘香の白い肌にこれでもかと飛び散った花弁の痕――所謂『キスマーク』だった。

「あいつ、付け方教えたら加減なくやりやがって……!」
「あ〜……」

 鈴にも覚えがある。こちらはお互いが初めて同士だったため何度も試行錯誤をする羽目になったが、初めて成功した時はそれはもう――思い出すのも恥ずかしいぐらいあちこちに散らされたものだった。

「その感じだと覚えがあるのね」
「うん……。めちゃくちゃある……」
「ってことは、やっぱり夜の方も……」
「……うん。その……激しいというよりかは……ねちっこい?」

 恥ずかしがる鈴ではあるが、実際恵との夜の営みは問題でもあった。

 なぜなら――

「体力が、桁違いなんだもん……!」

 そうなのだ。日頃体を動かし、鍛えていた恵とは違う。むしろ真逆とも言っていい。アウトドアよりもインドアな鈴には何度も付き合える程の体力はなかった。

「痛いこともしないし、酷いこともされないんだけど、むしろすっごく優しいんだけど、全然逃がしてくれないの……!」

 それこそ蛇の如く絡みついて離してくれないのだ。

「最初は体力がない自分が『申し訳ないな』って思って、頑張って付き合ったこともあるんだけど、恵くんの回復力おかしいよ! 絶対ポーション持ってるって!」

 プロゲーマーの夫を持つ妻らしい単語が飛び出てきたことに弘香は生ぬるい目を向けつつ、内心では「お前もか!」という気持ちでいっぱいだった。

「あれでしょ。指一本動かせなくなるまで抱き潰してくるんでしょ」
「ど、どうして、それを……!」
「うちのも一緒だからよ」

 アレ。と顎で指し示す鈴がちらりと視線をやれば、不安そうにこちらを見遣る夫である恵と、視線が合った鈴に笑顔で手を振ってくる知がいる。
 人畜無害を絵に描いたような朗らかな笑みに癒されながらも手を振り返した鈴だが――すぐさま「え?!」と弘香へと視線を戻した。

「うそ!?」
「ウソだったらどれほどよかったか……」
「ええ……。意外。全然そんな風に見えないもん」
「私もビックリよ。あいつ、全然離してくれないのよ」

 初めての時はあんなにもぎこちなかったのに、二回目、三回目と回数を重ねていくうちにストッパーが外れていったのか、逃げ腰を打つ弘香をしっかりと抱き込んで離さなかった。

「優しいのよ。優しいんだけど、マジで離れない」
「分かる……」
「もう“お前は蛇か?!”って突っ込みたくなるほど密着してくるし、逃げようと思っても引きずり戻してくる」
「分かる……!」
「だんだんベッドで溺れているような気持になる」
「分かる……!!」

 鈴と弘香は互いにがっしりと手を取り合うと、声を潜めながらも「だよね」と力強く確認し合う。

「そのくせめちゃくちゃ『好き』だとか『可愛い』だとか連呼すんのよ!」
「するする! 蕩けそうな声で『大好きだよ』とか『愛してる』とか言ってくるの!」
「すっごい分かる! いや、それで誤魔化そうとすんな?! って思うんだけど、息も絶え絶えだからこっちは何も言い返せないのよ!」
「そう! それ!」

 白熱する二人ではあるが、あくまでも声は潜められている。限界まで顔を近付けてヒソヒソ話をする女性陣の姿に、件の兄弟は揃って「仲いいなぁ」「盛り上がってるなぁ」という顔をしているだけだった。
 この二人に関してはお互いに嫉妬メーターが働かないのである。決して故障中なわけではない。

「はー……。やっぱりそうだったか……」
「だねぇ……」
「チッ! あいつら兄弟かよ。…………兄弟だったわ」
「んっふ」

 素でボケてしまった弘香の一人ボケツッコミに、思わず鈴は吹き出してしまう。そうして肩を震わせて笑う親友に対し、弘香は「笑うな!」とツッコミながらも自分も笑いだす。

「あー、ホンット、あいつら外面は全然似てないのに、変なとこ似てんのよね」
「Azも全然違うタイプなのにね。どっちも有名人だし」
「一人はプロのゲーマー、一人はデザイナーで職種も違うのに仲はいいし、どっちも『ふざけんな!』って思うぐらい顔がいい」
「二人共料理上手で、優しいよね」
「本当、なんでこんな平々凡々な女共を選んだのやら」

 鈴と弘香は互いに言いたい放題言い合うと、すぐに顔を合わせて笑いだす。

「あ。そうだ。そろそろ私も仕事始めようと思ってさ」
「え。なにするの?」
「フフーン。じっつはぁ、ブランド立ち上げようと思って」
「え?! ブランド!?」

 驚く鈴に対し、弘香は自信満々に頷く。その目は希望とやる気に満ち溢れ、輝いていた。

「知くんが前に言ってたのよ。『自分の名前で仕事がしたい』って。アレクサンドルや名だたるクリエイターと肩を並べて同じ仕事をするんじゃない。自分の名前だけで物を作って売りたいって」
「それで、ブランドを?」
「そ。まだ企画段階だけどね。でもフゥベー夫妻に相談したら『応援する』って言ってくれたし、アレクサンドルのご子息の方々も『必要なら支援は惜しまない』と言ってくれたわ。つまり、私たちが立ち上げる新規ブランドには『超強力な後ろ盾』がいるわけよ!」

 勿論波に乗れるかどうかは弘香の手腕次第だが、高校生時代から前職を辞めるまでその道で生きてきたのだ。商機を逃す弘香ではない。

「絶対に知くんを世界で最も有名なデザイナーの一人に押し上げてみせる。失墜なんてさせないわ」

 学生時代からベルの衣装を手掛けてきただけでなく、フランスではアレクサンドルと肩を並べて仕事をしていた実力派だ。日本ではまだ知らない人も多いが、必ず知のデザインは人の心を掴むと弘香は信じている。
 そんな決意に満ちた弘香に対し、鈴は暫し呆然としたものの、すぐに笑みを浮かべた。

「――うん。ヒロちゃんと知くんなら絶対に出来るよ。わたし、信じてる」

 鈴の嘘偽りない言葉に弘香も笑みを返すが、すぐに「そ・れ・で」と肩を寄せる。

「鈴。あんた育休が終わったらうちで働かない?」
「え?!」
「前の仕事辞めたんでしょ? 赤ちゃんの面倒見ながら復職するのって大変じゃない。その点うちに来れば問題なし。融通利かせてあげるわよ」
「そ、それは……!」

 確かに共働きで、しかも幼い子供を抱えながらの仕事は大変だ。勿論恵の稼ぎだけでも食べていけなくはないが、やはり将来のことを考えれば貯蓄は多い方がいい。
 子供も今後二人目が出来るかもしれないし、学費や突然の入院なども考えればお金は幾らあっても足りないことはないのだ。
 思わずゴクリと喉を鳴らした鈴に、弘香はニンマリと笑う。

「ま、考えておいてよ。こっちだって今そういう話を纏めている最中だし、ブランド名もロゴも考えないといけないから」
「分かった。前向きに検討する」
「ん。よろしく。あ。その時は『U』でも宣伝するから。広告塔として期待してるわ!」
「も〜、ヒロちゃんってば」

 呆れた鈴ではあるが、それでもすぐに笑みを浮かべた。

「でも、知くんのデザインしてくれたドレスはどれも素敵だったから、着るの楽しみだな」
「でーしょ〜? そこは私も認めてるから。何が何でも売り込んで、押し上げて、私たちのブランドを世界に売り込んでやるわ!」
「わ〜。生き生きしてる〜」

 燃え盛る弘香に苦笑いしつつも、鈴はじっとこちらを見ていた二人を手招きする。

「知くん。ブランド立ち上げるんだって?」
「あ。その話してたの? そうだよ〜。ヒロちゃんが代表で、ボクがデザイナー」
「え。なにそれ。初耳なんだけど」

 驚く恵に対し、弘香が鈴にしたのと同じ説明をする。当然恵は驚いたが、弘香が知の実力と今までの功績を懇切丁寧に分かりやすく説明したところ、改めて「僕の弟すごすぎでは……?」とポンコツ化したので放っておくことにした。

「じゃ、そういうことだから。夫婦でよく話し合って頂戴」
「うん。その時はまた連絡するね」
「それはそうと、知くんはもうブランド名考えてるの?」

 先程はポンコツ化した恵だが、ようやく冷静になったらしい。優しく問いかける恵に対し、知は「そうだねー」と視線を上にあげる。そうしてチラリと弘香を見遣った後、眩い程の笑顔を浮かべた。

「“Hiroka”にしようか」
「ふっざけんな! 自分の名前つけなさいよ!」
「え〜。だって“Tomo”だとインパクト少なくない?」
「どーいう意味!?」

 人の名前で遊ぶな! とキレる弘香に対し、知はケラケラと笑う。
 確かにデザイナーの名前をつけたブランドは沢山あるが、恋人の名前をつけようと思う人はそういないだろう。
 苦笑いする恵と鈴だが、正直「知くんなら本気でつけそうだな」という気もしていた。

「じゃあブランド名は保留ということで」
「このやろう……! じゃあロゴはもう決まってんの?」
「ん? うん。『赤いゼラニウム』を元にして作ろうかな。と思って」

 知がそう答えた途端、弘香の表情からスコンと怒りが抜け落ちる。かと思えば片手で目元を覆い、盛大に溜息を吐きだした。

「……もっと他にないのかよ……」
「お気に召さなかった?」
「……そっちも保留」
「え〜」
「よし! 帰るわよ! じゃあね、鈴。恵くん。今度は子供が生まれた時にでも会いましょう」

 突然来たかと思えば突然帰っていく。だがそんな二人に鈴も恵も文句を言うことはない。これについては正直『慣れ』でしかないのだが、今日は休日なのだ。二人にもやりたいことがあるのだろう。そう考えて笑顔で見送った。

「でも、本当によかった」
「なにが?」
「知くんも、ヒロちゃんも、幸せそう」
「――うん。そうだね」

 先程の、鈴と弘香が盛り上がるなか、恵も帰国したばかりの弟に尋ねていた。

『知くん』
『なあに?』
『知くんは、弘香さんと一緒にいられて、幸せ?』

 以前は知の想いが全く弘香に伝わらずにやきもきした恵ではあるが、今の知を見ていると『聞かなくてもよかったな』と思わずにはいられなかった。


『――うん。すっごく、幸せだよ』


 かつては自分が守り続けていた小さな命が、今は大きく成長して自分と同じように誰かを守ろうとしている。

 一途で、ひたむきで、諦めが悪くて――応援せずにはいられない。

 そんな二人の背を揃って眺めながら、恵は鈴の肩を抱き寄せた。

「なんか、当てられちゃったね」
「はは。でも、悪くないと思う。こういうのも」
「そうだね」

 ――大事な人たちだからこそ、幸せになって欲しい。笑っていて欲しい。
 かつては何も出来なかった自分たちだからこそ、この愛しい人たちに守られていたからこそ、今度は自分が守るのだ。そう語った弟の言葉に恵も強く頷き返していた。

 だがそんな真面目な姿を恋人に滅多に見せることがない件の弟はというと――

「あんたねぇ、もうちょっと真面目にブランド名もロゴも考えなさいよ」
「いいと思うんだけどなぁ。ゼラニウムもかわいいし」
「……思い出の花をロゴにするのはありなの?」

 思い出の花。弘香の口から零れた言葉に知が目を丸くすれば、途端に弘香は顔を背ける。その耳は赤く染まっており、知は衝動に任せて弘香を強く抱きしめた。

「ヒロちゃんがかわいすぎる……!」
「なんなのよ?! つーかここ公道! 離れろバカ!!」
「うれしい……。ヒロちゃんにとってゼラニウムは思い出の花なんだね。そうだよね。大事にしようね」
「人の話を聞けーっ!!」

 バシバシと知の肩を叩きながらも、弘香はもうあの時のように知の腕から逃げ出したりはしない。むしろ嬉しそうに笑う知の手をしっかりと掴み、頬を染めながらも「ちゃんと歩け、バカ!」とその目に知をしっかりと写し込んでいた。

 ――赤いゼラニウムの花が揺れる。

 二人が新しく住み始めたベランダには、あの日貰った思い出のゼラニウムがゆらゆらと風に揺られていたのだった。




終わり





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