- ナノ -

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 少し遅めのランチを取った後、二人は美術館を見て回ることも、有名な建築物を求めて町を歩くことも、緑が美しい公園に赴くこともせず、ただ花々が飾られた橋の上から運河を眺めていた。

「…………」
「…………」

 そよそよとゆるやかに靡く風は冷たくはあるが心地好い。黒い鉄製の柵には等間隔で植木鉢が下げられており、その間に二人は立っている。
 傍から見れば静かに観光しているようにも、別れ話をする前兆のようにも感じられるだろう。だが実際は、とても穏やかな気持ちで二人してこの風景を、風を、匂いを、楽しんでいた。

「いいところね」
「でしょ? 初めて来た時から好きなんだ。今日は行かなかったけど、ストラスブールからここに降りて来るルートが一般的なんだよ」
「へえ。じゃあ何で今回は飛ばしたの?」
「強いて言うならゆっくりしたかったからかな。ストラスブールにはイル川があるんだけど、そこの遊覧船は大きくて、観光客も多いから、コルマールと違ってのんびり話をするのには向かないんだ」

 そもそも川の面積が違うのだから当然と言えば当然なのだが、知は弘香と『観光』をしたいのではなく、ゆっくりと、フランスならではの美しさや空気を感じて欲しかった。そして昨日はクロエに奪われてしまった会話も楽しみたかった。
 弘香はその取り繕うことのない素直な言葉に、揶揄うことはせず静かに「そう」と返す。
 そうして暫く黙った後、ゆっくりと、流れる舟に乗って楽し気に会話をする観光客たちを見下ろしながら口を開いた。

「それで? あんたのどこが“死骸”なわけ?」

 舟に乗っていた時の話を蒸し返すとは思わなかったのだろう。知は一瞬驚いたような顔をするが、すぐに弘香と同じように視線を運河へと戻した。

「それ、今聞く?」
「なによ。聞かれたくなかったの?」
「いや。話してもいいんだけど、ヒロちゃん怒らないかな、って」
「怒られるような話でもするつもり?」

 訝る弘香に対し、知は珍しく悪戯っ子のように口元を緩めながら「うん」と頷く。当然弘香は目を疑ったが、知は開き直ったのか、それとも隠す気がないのか。柵に手をかけたまま話し出す。

「昔さ、ボクがまだ中学生だった時、ベルとヒロちゃんが高知の大きな川で遊んだこと、覚えてる?」
 穏やかな声で問いかけられ、弘香は咄嗟に脳内の記憶をひっくり返す。そうしていつだったかは忘れたが、確かに地元の安居渓谷に皆で出かけ、その時に恵と知にスマホを使って映像を繋いだことを思い出した。

「あの時、慌てた様子のベルとか、笑ってるルカちゃんとか、楽しそうに泳いでるカミシンお兄ちゃんとかいたけど、ボクは、ずっとヒロちゃんばかり追いかけてた」

 最初にビデオを繋げたのは弘香だが、すぐに忍がカメラ係を変わってくれたのだ。そうして逃げようとする鈴の腕を掴み、驚く恵と知に向かって『見えてるかー!?』と声高に叫んだことを覚えている。
 当時の恵は見ていて面白いぐらいあわあわとしていたが、知はただポカンとしていただけに見えた。だが実際は随分と違っていたらしい。

「恵くんは、もう高校生だったから赤くなったり青くなったりして大変そうだったけど、ボクは……あの時が初めてだった」

 長期休暇である夏休みに高知へと帰り、あの事件を通して関係が深くなったメンバーで川遊びに出かけた。
 恥ずかしがる鈴を瑠果と共に引きずって、高知では売っていなさそうなお洒落な水着を三人で買った。弘香も多少は『恥ずかしい』と思いはしたが、なんだかんだ言って高知での水遊びには慣れている。
 結果としてすぐにそちらに夢中になり、気付けば水着を纏っていることも忘れていつも通り二人にカメラを向けていた。

「あの時、恵くんはベルばっかり見てたからちっとも気付いてなかったけど、ヒロちゃん、水着がズレてるのに気付いてなくてさ。カメラにしっかり谷間が映ってて、ドキドキした」
「は!? ウソ?!」

 あんたどこ見てんのよ! という気持ちより、水着がズレていたことに気付かなかった自分にショックを受けた弘香である。が、すぐさま「あんたどこ見てんの?!」と忘れずに突っ込んだ。

「その時だよ。ボクが初めてヒロちゃんを『年上の女の子』じゃなくて、本当の意味で『異性』として意識したのは」
「ッ……!」

 弘香はちっとも気付いていなかったが、鈴も瑠果も弘香もそれぞれ髪を結んでおり、少女から“大人の女性”へと変わろうとしていた女性陣の細くて白いうなじには濡れた後れ毛が貼りついていた。それが大層色っぽく、恵も知も非常に困ったものだ。

「しかもさ、水着って濡れるとやっぱり体にはりつくでしょ? お尻の形とかもなんとなーく分かって、すっごいエッチだなぁ……って」
「ほんとにどこ見てんのよ?!」

 まさかまさかである。あの『ふわふわぽわぽわ』した、たんぽぽの綿毛のような男がそんな目で自分たちを見ていたとは思わず心底驚く。だが血相を変える弘香に対し、知は「だから言ったじゃん」とあっけらかんと言い放つ。

「ボクだって男だよ。って」
「そ、それは……そう、だけど……」

 二人が付き合う前。ラブホでごたついた時も知は自分の意思で弘香と一緒に入浴することを決めた。実際になにかがあったわけではないが、弘香だって知の裸を見ているのだ。
 当時のメンタル状態が最悪だったため当時は何も考えていなかったが、今思えば背中以外も綺麗だったと思い返して弘香の顔が赤くなっていく。
 そんな弘香を尻目に、知は恥ずかしがる様子など一切見せずに心境を語り続ける。

「で、その日の夜、ボクは初めて精通したわけです」
「ぐふっ!」

 言葉のボディーブローが弘香のみぞおちにクリティカルヒットする。ゴホゴホと咳込む弘香に対し、知はただおかしそうに笑うだけだった。

「驚いたでしょ」
「ぁったりまえよ! ほんと、ほんとにもう、あんたってやつは……!」

 思わず震える手で拳を握る弘香ではあるが、知はいつもと変わらぬ顔で笑うだけだ。そこに気色ばんだ様子はなく、欲情の色もない。ただ穏やかに当時の自分を見つめ返し、一つの『思い出』として正しく語っているようだった。

「それに、ボクの初恋は確かにベルだったけど、でも、恵くんの『初恋』とは、少し違った」

 いつも一緒にいたから分かる。ベルに恋をした恵の姿は、知から見てもキラキラ光っていて、パチパチと線香花火のように弾けて、目を焼くような輝きと熱量があった。
 だけど知は、それだけの熱量をベルに向けたことはない。

「恵くんがベルを守ろうとしている時も、ベルと一緒に楽しそうに話している時も、ボクは、嫉妬なんて一度もしたことがない」

 むしろそれが『当然』だとすら思っていた。ベルの傍に竜がいることも、その逆も。竜がベル以外の女性を大切にする姿なんて想像出来なかったし、ベルが竜以外の誰かを特別に想い、接する姿も見たいとは思わなかった。

「でも、ヒロちゃんの周りに知らないAzがいた時は、ものすごくお腹の中がムカムカした」

 当時まだ中学生だった知はその感情がどこから来るものなのか、何が原因なのか分からなかった。だからてっきり食事に当たったのかと思ったが、体は至って健康で、原因が分からなかった。

「そんな時、ベルを追いかけ回す悪質なファンが出てきたでしょ? ヒロちゃんも怒ってたけど、竜が一番怒ってた」

 悪質なストーカーのような、カメラ頭をした不気味なAzだった。
 弘香は何度も警告を出し、セキュリティも強化したが、相手の方が一枚上手で全て無駄に終わった。そんな時ベルが自ら『囮になる』と言い出したのだ。

「恵くんはものすごく怒ってたし、不安そうだった。ベルになにかあったら、って思うと気が気でなかったんだと思う」

 ベルの決死の囮作戦は初めうまくいかなかったが、数度繰り返すうちについにストーカーを引っ掛けることが出来た。その時の恵の怒りようと言ったら……。知は肩を竦めて当時の様子を語る。

「ほんとーーに、ものすごーーく怖かったんだから。恵くんが本当に『竜』になっちゃうかもしれない。って、思った」

 それほどまでに現実世界の恵も、電子の世界での竜も怒り心頭だった。そんな竜の姿を見て、知はふと考えたのだ。

 もしストーカーにあっていたのがベルではなく弘香だったら? と。

「そこで初めてボクは、ベルに向ける気持ちと、ヒロちゃんに向ける気持ちが『違うんだ』ってことに気が付いた。だって、ヒロちゃんがあの時のベルみたいにストーカーにあってたら、ボクはベルの時みたいに冷静でいられたか分からなかった」

 実際『U』の中では天使の姿で弘香をサポートしていた知である。理性を失いそうになっていた竜の横っ面を可愛らしい手でビンタして正気に戻したり、勝手に飛びだそうとした竜の鬣や角を引っ張って頑張って押しとどめたりしたのは天使だ。
 その後ストーカーをしていたAzをデータが復旧できそうにないレベルにまでボコろうとした竜を止めたのはベルだが、ギリギリまで竜を御していたのは間違いなく天使だった。

 当時の事を思い出した弘香が「あれかぁ」と青い顔をするほどに、当時の竜はすぐにでもプッツンしそうなほどにやばかった。

「でもよかったわね。私にストーカーする物好きなんていなくて」

 事実そんなAzはいなかった。時には軽薄そうなAzに声を掛けられた時もあったが、ベルのマネージャーとして有名な弘香だ。自身のスキャンダルがベルにも影響を及ぼすと考えていたため、一度も相手をしたことはない。
 加えて時には知り合いのAzや竜が助けに来てくれたため大事に至ることはなかった。
 だが腕を組んで「どうだ」と胸を張る弘香に対し、知はものすごーく生ぬるい瞳を向ける。

「やっぱり気が付いてなかったんだ」
「は? なにが」
「ヒロちゃんも人気あったんだよ。でもベルが竜に『ヒロちゃんのことも守って欲しい』ってお願いしてくれたから、竜はヒロちゃんに声を掛けようとしたAzたちに中指立てて『用があるなら俺に言え』って睨んで、ヒロちゃんのことも守ってくれたんだよ」
「はあ!? マジで?!」

 全く気付いていなかった弘香が天地がひっくり返ったかの如く驚けば、知は「本当だよ」と言って肩を竦める。だがその顔はどこか釈然としないというか、不満げであった。

「知らなかったのは申し訳ないとは思うけど、そこまで不服そうな顔しなくても……」
「え? ああ、違うよ。ヒロちゃんが悪いんじゃなくて、迫力のないAzを持った自分をちょっと恨んでただけ」

 確かに知のAzが幾ら凄もうと怖くはない。むしろ真逆の“癒し系Az”として名を広めてしまった。知も恵のように『男らしく好きな人を守りたい』という気持ちを持っているならば、非情に微妙な気持ちになっても仕方のないことだろう。

「昔は気にならなかったけど、ヒロちゃんを守れない自分の姿を見ると、やっぱり情けない気持ちになったよ」

 弘香のAzと知のAzはそれほどサイズに差はない。むしろリーチなら弘香の方がある。クリオネのような体はふよふよと浮かぶにはいいのだが、大切な人を守るにはあまりにも腕が短すぎた。

「あの姿じゃヒロちゃんを守ることは出来ない。抱きしめることさえも。……それが、すごく悔しかった」

 竜はいつだって知にとってヒーローで、憧れだった。純粋な気持ちで応援することが出来たし、いつも格好いいと思っていた。
 だけど初めて竜の手に包まれている弘香のAzを見た時、知の心臓は竜に爪を立てられたかのように痛んだ。

「あれが“嫉妬”だって気付くのに、すごく時間が掛かった。何も出来ないのはボクなのに、竜はヒロちゃんを守ってくれただけなのに、竜の両手に包まれて笑ってるヒロちゃんを見た時、ボクは、初めて竜に対して醜い感情を抱いた」

 そうしてそんな自分を酷く怨み、憎み、嫌った。暫く『U』にログインすることも出来ず、心配した恵と目を合わせることも出来ず、知はただ泣くことしか出来なかった。

「あの時恵くんがめげずにボクに話しかけてくれなかったら……。恵くんが、ボクのめちゃくちゃな話を根気強く聞いてくれなかったら、ボクの気持ちが何なのか、ボクはずっと分からないままだった」

 何度も「恵くん、ごめんね、ごめんね」と謝る知の、順不同で分かりづらい話を、恵は必死に聞き取り頭の中で組み立て、ようやく知が弘香に『恋』をしているのだと気付いた時は、盛大に驚いた。

「でも、おかげでスッキリした。ヒロちゃんに向ける気持ちがベルと違うことはなんとなく分かってたけど、ベルへの気持ちは“綺麗”なものだったから……」

 そうして自分の恋心を自覚してすぐに弘香が川遊びの映像を投げてきたのだ。知の意識が弘香に集中するのも無理はない話だった。

「川が綺麗だったことも、みんなが楽しそうにしていたことも、なんとなくは覚えてる。でも、ヒロちゃんの姿ほどハッキリ覚えてるわけじゃない」

 楽し気に響き渡る笑い声も、鈴の恥ずかしがる声も、千頭が川に飛び込む音も、忍の注意する声も、何もかも理解出来ないまま耳を通り抜けていくだけだった。

 その代わり、弘香の一挙手一投足だけはすべて覚えている。

「メガネからコンタクトに変えたばかりで、つい癖でメガネを上げようとしたところも、髪の毛を結びなおす姿も、しのぶくんに呼ばれて振り返った時の顔も……本当に、全部覚えてる」

 弘香にとっては何てことのない動作を、知は一つ一つ脳裏に刻み付けるようにして見ていた。
 それをこうもあっさりと暴露され、弘香の顔は茹蛸のように赤くなっていく。

「なっ、なん……!」
「……そんな顔されると期待しちゃうんだけどなぁ」
「はっ、――ッ!」

 パクパクと、声にならない声を上げていた弘香が思わず両手で口を塞ぐ。限界まで見開かれた瞳は動揺して震えており、知は思わず苦笑いを浮かべた。

「もう一度言うよ。ボクはもう、ベルに助けられた時のボクじゃない。小学生でも、中学生でもない。成人した“男”だよ」

 改めて突き付けられた事実に、弘香は動揺しながらも、それでも見開いた目で知を見返す。

 自分より高い背に、太くなった首筋。薄くとも広い肩幅に背中、抱き寄せられた時に触れた胸板の感触。握られた指の太さ。関節の大きさ。手の平も弘香の手なんか簡単に包んでしまえるほど大きくて――どこを見ても弘香が思うような“子供らしさ”は残っていなかった。

「ヒロちゃん以外の女の子と付き合ったことはないけど、そういう欲だってあるよ」
「ッ!」
「それに、ヒロちゃんが初めて男の人と付き合った時、ボクは心の中でずっと『早く別れちゃえばいいのに』って思ってた」
「……それは……」

 弘香に初めて恋人が出来た時、知はフランスにいた。『U』で会った時につい自慢してしまった弘香に対し、天使の対応は酷く淡泊だったことを今更ながらに思い出す。

「そういえば、確かに『そうなんだ』しか言われてなかったわね」
「むしろ『そうなんだ』って言えただけでも花丸あげたいぐらいだよ。だって本当は『なんで付き合ったの? どこが好きなの? 好きじゃないなら今すぐ別れてよ』って言いたかったもん」
「重ッ!」

 思わず引いた弘香に対し、知は「今更だよね」と悪気無く笑う。いつも変なところが似ている兄弟だな。と思っていた弘香ではあるが、こんなところも似ているとは思わなかった。
 というより、外面を除くあらゆる部分がこの兄弟は似ているとすら思い始めていた。

「でも、結局二年以上付き合ったでしょ? その二年間、ボクはひたすら自分を磨いたよ。ボクが帰国してもまだその人とヒロちゃんが付き合ってたら、ヒロちゃんをどうにかして奪わないと。って考えてた」

 弘香はざっくりとした感覚で『三年付き合った』と言っているが、実際は『四捨五入して三年』である。正確な年月は今更調べるつもりもないが、何となく訂正したいようなしたくないような、複雑な気持ちを抱いた。

「そのうえ別れた理由が理由でしょ? ボクは『一度でいいから竜になりたい』って思ったよ」
「ボコボコにしようと思ったの?」
「ううん。頭から噛み砕いてやろうと思って」
「こッわ!!」

 咄嗟に両腕を交差させて自身を抱きしめる弘香だが、知は至って変わらぬ態度で「だって」と優しく告げる。

「クリオネって頭に口があるんだよ? だったらボクも捕食しに行くのが道理じゃない?」
「待て待て。あんた『竜の体だったら』って前提で話してたんじゃないの? 竜のファイトスタイルは拳でしょ?」
「でもほら。ボクの気質を反映したのがあのAzなら、やっぱり噛み砕いての捕食になるのかな。って」
「こッえーよ! ホラーじゃねーか!」

 元彼その一のAzが、クリオネ姿の天使に捕食される。あの王冠の乗った可愛らしい頭が割れ、そこから伸ばした六本の触手でAzを捕食し栄養分を吸い取るなど――恐ろしすぎて弘香の顔から血の気が失せる。
 だが知は「それで済んだら安いほうだよね」と一切譲らない。

「むしろあれだけヒロちゃんを傷つけておきながら今ものうのうと生きていると思うと腹立たしいよね」
「待って待って。唐突のヤンデレオーラについていけない」
「ヤンデレじゃないよ? 普通に相手のことが憎いだけ」
「もっと悪質じゃねーか!」

 まさか知にこんな一面があったとは思わずドン引く弘香だが、知は一切気にしていない。むしろ元彼その二についても「酷い人だよね」と優しい声で詰り始める。

「ボクがどんなに欲しくても手に入れられなかったヒロちゃんを手にしておきながら浮気するなんて……。ボクは嫉妬と怒りでどうにかなりそうです」
「もう終わった。もう終わった関係だから。お願いだからバーストしないで」

 思わず知の腕を掴んで懇願する弘香に、知は不思議そうな顔で首を傾ける。

「ヒロちゃんはもう許したの?」
「許したっていうか、あんな男のためにあんたの手を汚す必要はない、って言ってんの。……大事にしなさいよ。ベルの衣装を汚すわけにもいかないし」

 実際に知が現実世界で弘香の元彼その一、その二を殴ろうと、電子の世界で殴ろうとベルの衣装が物理的に汚れるわけではない。だが気持ちの問題なのだ。

 知には暴力や痴情のもつれと言った汚い世界に触れては欲しくなかった。

 そんな弘香の呟きに対し、知は愛おしそうに目を細めて弘香を抱き寄せる。

「やっぱりヒロちゃんは優しいよね。どうしてこんなに優しくて可愛い人を一人に出来たんだろう。ボクには分からないや」
「いや……。あんたぐらいだから。そんなこと言うやつ」

 疲れた気持ちでぺったりと知の胸板に頬をくっつければ、優しく頭を撫でられ、額に唇が当てられる。

「…………ちょっと前まではまともにキスも出来なかったくせに」
「今でも本当はドキドキしてるよ」
「うそつけ」

 キスされた額を両手で押さえ、ぶつくさと小声で文句を言う弘香の頬は赤い。そんな愛らしい恋人の姿に、知はますます愛おしさを募らせていく。

「――かわいい」

「は?! な、なによ突然!」
「だって、本当にかわいいんだもん」

 トロトロと蕩けた――それでいてどこか熱っぽく潤んだ色素の薄い瞳。その中に弘香は閉じ込められる。
 それを理解した途端、弘香の顔はますます赤くなり、全身を流れる血液は沸騰したかのようにグツグツと煮立って行く。

「あ、あんたの美的感覚はおかしい! しっかりしろよ、デザイナー!」
「ボクの美的感覚が本当に狂ってたら、アレックスは声をかけてくれなかったよ。ヒロちゃん、こっち向いて」
「やめろぉ! そんな声で私を呼ぶなあ!」

 まるで声だけで溶かされそうなほど甘く、熱っぽい声に咄嗟に弘香は逃げ出す。だが当然逃がしてくれるはずもなく、知にあっさりと腕を掴まれる。

「危ないから走っちゃダメだよ。ヒロちゃんに何かあったら、ボクは死んでも死にきれない」
「話が飛躍しすぎじゃない?」
「そんなことないよ。確かにここは治安がいいけど、絶対に安全だとは言い切れないから」

 実際に各国から観光客が訪れているのだ。質の悪い人間がいないとも限らない。
 何せ弘香は細くて小さいのだ。日本人女性からしてみれば平均的な身長であっても、恰幅のいい男性からしてみれば格好の的である。何かあった時に傍にいなかったとなれば、知は自分を許せない。
 だからこそ「離れないで」と真摯な声で切実に訴えれば、恥ずかしがっていた弘香もようやく視線を合わせる。

「……ねえ」
「なに?」
「あんたって、本当に私のことが好きなのね」

 何を今更。心の底から知がそう思っていることが表情に現れる。だがそんな知を見上げながら、弘香は今この時になってようやく、本当の意味で知のことを『異性』だと認識した。

 それも、ハッキリと『成人した大人の男』として。

「……改めて言うけど、六年の差ってあんたが思っている以上に大きいのよ」

 初めて会った時は小学生と高校生だった。本気で結婚を考えたうえでの真剣交際であれば未成年者との恋愛も許されはするが、大体がそうではない。だから日々テレビで報道され、しょっ引かれていくのだ。

「私はあんたよりずっと早く年を取るし、老いていく。顔や手にシワが出来て、病院に行く回数も増えていく」

 男性と女性とでは『女性の方が長生きをする』という数字上のデータは出ている。だから『年の差があればそれだけ長く一緒にいられる』と安易に考えることも出来るが、やはり相手より先に老いるというのは女性としては頷きがたい事実である。

「浮気されてばかりいたからって、あんたに浮気されても平気なわけじゃない」

 今はよくても、十年、二十年と時が経った時に知に言い寄らない女性がいないとは言い切れない。五十代になれば若い娘も言いよっては来ないだろうが、三十代は範囲内だと決めてすり寄ってくる女がいるかもしれない。
 それこそ、あの『総務課』の女性社員のように。

「私は特別綺麗なわけじゃないし、顔が可愛いわけでもない。鈴みたいに優しいわけでも、瑠果ちゃんみたいに思いやりがあるわけでもない」

 出産を控えている鈴と、既に子持ちになっている瑠果。どちらも夫の話をする時は恥ずかしそうだけれど、それ以上に幸せそうだった。

「……不感症だし」

 小さな声で、ぽつりと零された言葉に弘香の手を握る知の指に力が入る。
 そんな素直な反応に対し、弘香は軽く息を吐いた後口元を緩めた。

「気付いてるわよ。あんたが、私を気にしてあんまり触ってこないこと」

 確かに頭や髪を撫でたり、こちらで挨拶をするかのようにハグをしてくることはある。だが性的な触れ合いに繋がるような、そんな触れ方は一切してこない。

 不感症になる原因は様々だ。男性との初体験がトラウマになることもあれば、パートナーとの相性が悪い時もある。心理的に不快になるだけならまだしも、時には実際に吐気を催し、トイレに駆け込んでしまう人もいる。
 知が弘香を気遣って淫らに触れないことも、肉体関係はおろかディープキスすらしたことがないことを、弘香はちゃんと気付いていた。気にかけていた。
 ただその優しさに甘えて何も言わなかった。何もしなかったのも事実である。

「一緒にベッドに入ってもそう。あんた、いつも何もしてこないでしょ。私、ちゃんと気付いてた。……知ってたのよ」

 知が一人でベッドを抜け出し、ひっそりと処理していたことを弘香は知っていた。
 それでも言えなかった。自分から誘うことは出来なかった。誘われたとしても何とか理由をつけて断っただろう。それほどまでに弘香にとって男性との行為は苦痛を伴う。肉体的ではない。精神的に、だ。

「気持ちよくないからとか、そういう問題じゃない。ただ……」

 あの生ぬるい空気が苦手なのだ。ハアハアと獣のように息を荒くして、血走った眼で自分を見下ろしてくる男の醜悪さといったらない。

 弘香はギュッと、震えそうになる体を両腕で強く抱きしめる。
 知はそんな弘香を、彼女の痛みを自分の痛みのように感じているかの如く、辛そうな顔で見下ろしていた。

「…………怖いのよ。私は。いつだって誰かの“一番”になれたことがないから」

 この一言を言うのに、この事実を受け止めるのに、どれほどの年月をかけただろう。どれほどまでの勇気を必要としただろう。

 目の奥が痛くて熱い。鼻の奥がツンとして、喉が絞られたように狭くなって吐息が震える。

 誰だって“自分が特別じゃない”と分かっている。それでも、実際にそれを認め、口にするには、過去の栄光があまりにも眩過ぎた。

「ベルの隣にいる時だけが、私は“誇れる私”でいられた。例え誰かの“一番”でなくとも、本当の“一番”であるベルの傍にいられるだけで、幸せだった。誇らしかった。自分が――大嫌いな自分のことも、好きでいられた」

 多くの人にとってBellは『愛すべき歌姫』だろう。実際ベルを一番に想っている人間は竜以外にもいるかもしれない。それでも、鈴は、ベルは、ずっと昔から『竜』の“一番”で“特別”だった。

「別に、恋愛感情があったわけじゃない。それでも、竜の“特別な存在”になれたベルが羨ましかった。あんなにも一途に想われて、愛される姿が、羨ましかった」

 両親に愛されて育てられた。それは分かっている。社会に出てより一層強く実感したし、相応に感謝もしている。
 だけど当時は気付けなかった。近くにいたから分からなかった。親の愛が『与えられて当たり前のもの』だと、無意識のうちに思っていたのかもしれない。

「鈴の前では話さないように気を付けてたけど、やっぱり無意識にそう思ってたのよね。だから『誰かの一番』になれないと分かった時、すごく……ショックだった」

 親に愛されていたからこそ、大切に育てられていたからこそ、自分が“大事にされなかった”事実に打ちのめされた。

 恋人に二股をかけられ、浮気され、倒れるまで会社にこき使われて――それでもまだ、心のどこかで願っていた。誰かに、誰かの“一番”になることを、諦められなかった。

「だったらせめて営業で一番を取りたかったし、それが無理なら事務方面で最も有能な社員になりたかった。でも実際は能力関係なしに愛想と顔で選ばれるのよ。信じられる? 顔がよけりゃクソみたいな上司だって優しくなるのよ。私の方がずっと優秀なのに、ミスだって少ないのに、何も出来ない子ばかり優遇されて可愛がられるのよ」

 コピーを取るだけなのに誰かが「大丈夫? 手伝おうか?」なんて声を掛けながら寄ってくる。業務用の大して美味しくないお茶を淹れただけでも「いつもと味が違うなぁ」なんて有頂天になる上司がいる。必死に案件を片付け、営業先とメールを交わす弘香を尻目に暇そうな社員とくだらない話に花を咲かせる。
 それが許されるだけの立場であれば弘香も無視出来た。だけどそれが自分より後から入って来た社員だった場合は? 契約社員だった場合は? 弘香は募るイライラをキーボードを叩くことでやり過ごすしかなかった。

「そのうちそんなことにイライラする自分すら嫌いになった。私は自分のことを好きだと思える箇所が一つとしてない。クロエみたいに堂々と話せないし、笑顔もふりまけない。総務課のあの子みたいに可愛くもなければ美しくもないのよ!」

 血を吐くような気持で自分の最も嫌う部分まで白状した弘香に対し、知はただ黙って耳を傾けた。
 周囲の観光客たちは痴話げんかかとばかりにチラチラと視線を寄こすが、誰も話しかけてはこない。
 沈黙が二人の間に満ちる中、知は両手で自身を抱きしめて俯く弘香に対し、静かに問いかける。

「……ヒロちゃん。一つ、確認してもいい?」

 その言葉に無言で続きを促せば、知は弘香から視線を逸らさぬままずっと聞きたかったことを口にした。

「ヒロちゃんは、ボクが浮気したら、どうする?」
「………………」

 ――知が浮気をしたら。
 自分以外の、若くて綺麗で愛らしい女性を好きになったら。弘香はどうするのか。

 そんな『勝ち目のない戦』に臨めるほど、弘香は若くもなければ無鉄砲でもない。

 誰もが夢見る『永遠の愛』なんて御伽噺の中にしか存在しないし、男だけでなく女だって浮気をする。物理的距離が離れれば心だって離れていくし、些細な喧嘩や言い合いが発端で相手のことを嫌いになったりする。価値観の違いで相手の大切なものを無下にしてしまい、嫌われることもある。
 人生何が切欠で変わるか分からない。だから弘香は知にどれだけ愛を囁かれようとも信じ切れなかったし、信じようとしなかった。

 そうすることでこれ以上傷つくまいと、自分を守ろうとしたのだ。

 だがどんなに突き放しても、揶揄しても、素っ気ない態度を取っても、知は諦めなかった。

 毎年誕生日やクリスマスといった行事では欠かさず芸術品のような花束を贈ってきた。メッセージカードには弘香を案じる言葉と幸福を願う言葉が綴られていた。
 弘香を見つける度にまっすぐ駆け寄ってきて、柔らかい声で、優しく名前を呼んできた。
 弾むような声が語るフランスでの生活は眩しくて――心から楽しんでいることが伝わってきて、羨む気持ちよりも愛おしむ気持ちの方が強かった。

 そんな知が浮気をしたら自分がどうなるかなんて、分かり切ったことを聞いてくれるな。そう、怨めしいほどに強く思ってしまう。

「あんたが浮気したら? そんなの――」


 ――耐えられるわけがない。


「…………イヤ。イヤよ。そんなの、絶対にイヤ」

 眠れない時は優しく抱き寄せて、囁くような声で話しかけてくれる相手が自分ではなくなるなんて、そんなの悪夢であっても見たくない。
 今日みたいに肩を貸して頭を撫でてくれたことも、安心させるように微笑んでくれたことも、冷たい風から守るように体で庇って、手を握って熱を与えてくれたことも、全て自分以外の“見知らぬ誰か”に与えられるのかと考えただけで、弘香の心臓は張り裂けんばかりに痛みを訴える。

 それでもやはり言えないのだ。「あんたを殺して私も死ぬ」なんて馬鹿げたことも、逆に「相手を殺す」と言うことも。どちらも言えない弘香は、自分を殺すことしか出来ない。

「あんたに浮気されたら、この世から消えてやるわ」

 両親も鈴のことだって大事だ。愛している。大切にしている。それでも、今度こそ弘香は耐え切れずに押し潰されるだろう。

 誰もいない宇宙に一人で放り出されるぐらいなら、深海に身を沈めて粉々になった方が遥かにマシだ。

 そうして出来ることなら、死んだことさえ悟られないままがいい。ただ黙ってひっそりと、知の記憶からも消えてしまいたかった。もう昔のように、怒りや嫉妬に任せて相手も“同じだけ傷つけばいい”と思える強さは、どこにもなかった。
 気付けば涙を流していた弘香に対し、知はグッと唇を噛みしめると、グシャグシャと珍しく自身の頭を片手で掻き乱した。

「――ごめん」
「え……?」
「今から、ものすごく怒られること、言っていい?」
「……?」

 一体何を言うつもりなのか。
 分からずに無言で見上げる弘香に対し、知は赤くなった顔で、今までになく熱を持った瞳で、弘香を真正面から射抜いた。

「今、ボク、泣きそうなぐらい、すごく、うれしい……!」
「…………は?」

 何故『嬉しい』という言葉が出て来るのか。
 分からずにポカンとした顔で見上げる弘香に対し、知は「うぅ〜」と唸りながら両手で顔を覆うと、パンパンと音を立てて頬を叩く。その瞳はいつもより潤んではいたが、弘香のように形にして落とすことはなかった。

「だって、今までのヒロちゃんなら、ボクのこと、全然意識してくれなかった頃のヒロちゃんなら、ボクが浮気したところで『ほらね。やっぱりそうなったでしょ』っていう顔しかしなかったと思う」

 事実今までの弘香なら、知が別の女性の元に行っても「ま、そうでしょうね」という気持ちにしかならなかっただろう。勿論多少は胸が痛むだろうが、その程度だ。今みたいに、この世から消えてしまいたくなるほどの気持ちにはならなかっただろう。

 だからこそ弘香も分かってしまう。気付いてしまう。


 今、自分は、心から知のことを『好きだ』と言ったも同然だということを。


「――――ぁ」


 自分を抱きしめていた腕を、今度は口元に持って行く。

 ずっと信じていなかったはずなのに、ずっと心のどこかでは「釣り合うわけがない」と思って距離を置いてきたはずなのに――単に自覚していなかっただけだった。愛していたのに、愛していないと嘘をつき続けていただけだった。

 考えてみれば分かることだったのに――いや、考えなくても分かることだった。
 本当に嫌いな相手ならキスは勿論、手を繋ぐことすら拒んでいた。一緒に食事を摂っても同じベッドで寝るなど論外だし、こうして一緒に旅行に来るはずがない。

 どうしてこんな当たり前のことを、今の今まで気付くことが出来なかったのか。

 衝撃を受ける弘香に対し、知も泣きそうな顔で笑う。

「――うれしい。本当にうれしいよ、ヒロちゃん。ボク――やっとボクの手が、ヒロちゃんに届いた」

 ずっと捧げ続けた。恋人のいる相手に直接言葉を伝えることは出来ず、また眼中にもない年齢だったこともあり、知はひたすら育てた花に思いを込めて贈り続けてきた。
 何年も何年も――。それこそ弘香が恋人と別れ、社会人になって、倒れても――欠かさず贈り続けた。
 兄である恵からは何度も『もうやめたら?』と言われた。弘香が弟を『異性』として意識する日は来ないだろうと思っていたからだ。

 それでも知は諦めなかった。

 ずっとずっと諦めずにいたから――十年経って、ようやく自分の想いが届いたのだ。ずっと遠くにいると思っていた、焦がれていた女性に。

「初めてアレックスと一緒に仕事をした時も、連名で名前が載った時も、テレビでしか見たことのない有名人と顔を合わせた時も――こんな気持ちにはならなかった」

 泣きそうなほどに嬉しくて、胸が詰まって息も出来ない。言葉が喉に詰まって、どんな言葉も陳腐に聞こえてしまいそうだ。

 だから何も言わずに知はボロボロと涙を零す弘香を抱きしめる。

 あの日、初めて入ったラブホテルで傷ついた弘香を抱きしめた時と同じように、涙する弘香を抱きしめる。それでもその胸中は、あの時とは真逆で喜びに満ち溢れていた。

「――好きだよ。好きだよ、ヒロちゃん。これからもずっとずっと、キミだけを愛してる」

 弘香は『誰の“一番”にもなったことがない』と口にしたが、本当はずっと前から“一番”だったのだ。十年も前からずっと、弘香は知にとって消えることのない“一番星”だった。

「ねえ、ヒロちゃん。約束するよ。神様に誓ってもいい。だから、ねえ」


 ――こっち向いて。


 それは、何度も聞いてきた言葉だった。何度も何度も、それこそ弘香が成人する前から。
 ことあるごとに自分の手を取って、幼い声で呼びかけられてきた。

『ひろちゃん。こっちみて』

 あのどこか舌足らずな声で話す、か細く消えそうな少年はどこにもいない。
 今弘香を抱きしめるのは、十年間ずっと諦めずに弘香を追い続けてきた一人の青年だった。

「……好き。――好きよ。ムカつくぐらい、あんたのことが、」

 流した涙も散々だった過去も吹っ切るように顔を上げた弘香の唇を、初めて知が奪うようにして重ねてくる。
 それに驚いたのは一瞬で、すぐに弘香は応えるように瞼を下ろした。

「………………」
「………………」

 長いようにも、短いようにも感じた重ねるだけのキスは、ゆっくりと離れていく。それから知は黙って弘香の額に自身の額を押し当てると、互いの睫毛が触れそうな距離で笑みを浮かべた。

「もし、これが夢だったら、ボク、一生目が覚めなくていい」
「……バカね。私が許さないわよ。何が何でも叩き起こしてやるから」

 つられたように笑う弘香の頬をまた一筋、流星のような涙が流れていく。それをそっと親指の腹で拭うと、知はふにゃりとしたいつもの笑みを顔いっぱいに浮かべた。

「――好きだよ。ヒロちゃん」
「……うん。私も」

 最後は消えそうな声ではあったけれど。それでもしっかりと知の目を見つめて言い返した弘香に、知は心底幸せそうな笑みを浮かべて見せた。




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