07
賑やかな週末を終えた翌日。二人は遅い朝食を済ませると、パリの東駅へと来ていた。
「TGV?」
「そうだよ。今日行こうとしているところは車だとものすごく時間が掛かるから」
TGVとは『高速列車』の略で、所謂『新幹線』のことだ。パリを中心とした主要都市を結んでおり、一部を除けば大体の観光地に数時間で辿り着ける。
だからこそ切符も安くはないのだが、一体どこへ行こうというのか。何も聞かされないまま駅に来ていた弘香はジロリと年下の恋人の顔を睨み上げる。が、知は気付いていないのか無視しているのか。素知らぬ顔で風に髪を遊ばせていた。
「ちょっと。そろそろ行先を教えてくれてもいいんじゃない?」
「ん? やっぱり気になる?」
「行先も知らないでTGVに乗るほどバカでもお人よしでもお気楽でもないのよ、私は」
夫人から「くれぐれもバッグから目を離さないように。しっかり体に抱き込むようにして抱えていなさい」と言い聞かせられていたため、弘香は皺が寄るほど強く鞄の紐を握り締めながらにじり寄る。
対する知は相変わらずのほほんとした顔で笑うばかりで、今日も華麗に弘香のイライラを受け流していた。
「今から行くところはねー、けっこう有名なところだよ。ボクも好きな町なんだ」
「だからどこだ、って」
聞いてんのよ! と言おうとした弘香の声に被さるようにしてアナウンスが響く。咄嗟に顔を向ければ、これから乗る予定の車両が駅構内に入ってくるようだった。
「アレに乗るよ」
「……はあ。分かったわよ」
何故か行先を秘密にしたいらしい。
どこかワクワクとした様子の恋人の姿に溜息を吐きつつ、減速しながら、少し軋むような音を立てて止まる鉄の塊を見つめる。
中に入れば、日本の新幹線に比べたら掃除の甘さが目立つ。だが不衛生なわけではない。
座席は明るめの紫色をしており、日本と違って座席が回転しない。だから進行方向を向いている座席と、後ろ向きの座席があった。
「やった。ボクたちは進行方向のシートだよ」
「はいはい。よかったわね」
呆れつつも座れば、沢山の人たちが続々と乗り込んでくる。元よりフランスは日本と違い他国と地続きのため、様々な見た目の人たちがいる。そのためパッと見ただけで『フランス人だ』と分かるものでもない。
それに年がら年中観光客が来るのだ。今もフランス語に交じって他国の言語が飛び交っており、中には中国語や韓国語、日本語といったアジア圏の言葉も聞こえてくる。
「割と日本人もいるのね」
「ヒロちゃんが思ってるよりずっと多いよ。ただみんなこっちに話しかけてくるときは英語を話すから、あんまり日本語を聞くことがないんだよね」
「あー……。でもフランス人って英語苦手じゃなかったっけ」
実のところ、観光大国であってもフランス人はあまり英語が得意ではない。まったく出来ないわけではないのだが、観光業で働く人に比べ一般市民は英語が苦手な人が多い。だから英語で話しかけても無視をされる可能性が高いのだ。
「フランス語で話せば親切にしてくれるんだけど、発音が難しいからねぇ」
「あとは挨拶よね。まさか『ボンジュール』にあそこまでこだわりがあるとは思わなかったわ」
「その一言があるだけで店員さんの態度が変わったりするから、お店でもカフェでも必ず挨拶はしてね」
「分かってるわよ」
知と付き合うまではフランスなんて教科書かテレビで軽く触れる程度だった。大まかなことは知っていても細かなルールは知らない。
だからこそ知と付き合いだしてから必死に勉強していたのだが、未だに異なる文化には驚かされてばかりだった。
「ふぁ……」
「眠いなら寝ていいよ? リクライニング機能殆どないけど」
「うん……。じゃあ、ちょっとだけ」
見た目にそぐわずバイタリティのある弘香だが、流石に眠気には勝てない。
事実初日と昨日はどうにかやり過ごしたが、やはり時差ボケというものは生じている。むしろ二人きりになったことで無意識に張っていた緊張感が緩んだのだろう。弘香はぐったりと知の肩に頭を乗せて目を閉じた。
「目的地までどのくらい……?」
「三時間ぐらいかな」
「ああ……。うん……。じゃあ、起こして」
「了解」
ぽんぽんと優しく、あたたかな手の平であやすように頭を叩かれる。そのままゆっくりと撫でられ、指先で髪を梳かれている内にあっという間に弘香は夢の世界へと飛び立っていた。
――その後の記憶は酷くぼんやりとした曖昧なものだった。
正直に言えば昨夜あまり眠れなかったことも原因なのだろう。終わりのない回廊をグルグルと回り続けるかのように浅い眠りを繰り返した結果、弘香は目的地に着いた後もどこかぼんやりとした顔で駅のホームにあるベンチに座り込んでいた。
「ヒロちゃん、大丈夫?」
「うん……。でも、あと五分ぐらい待って……」
移動中の景色を見るどころか、起きていた時間すらほぼない。それほどまでに眠り続けていたのだが、その割に全然スッキリとしない。そんな弘香の、珍しくぼやけた声に知の表情も歪む。
「ごめんね。やっぱり今日は家でゆっくりした方がよかったね」
「ううん……」
確かに家に居た方がゆっくり出来ただろう。今日はフゥベー夫妻も美術館に行くと言っていたので、二人でのんびりしようと思えば出来た。
だが弘香が外に出ることを望んだのだ。人で賑わう中にいれば多少は気分も晴れるだろうと思って。
だが想像以上に時差ボケの症状が酷く、徹夜明けのハイな気分が抜けた後のような倦怠感が全身を襲っていた。
「知くん」
「なに?」
「肩かして」
「いいよ」
遮るものがない駅構内に冷たい風が通り過ぎていく。徐々に体温を奪っていきそうな風から弘香を守るように知がギュッと手を握れば、弘香はぼんやりと知の肩に頭を預けたまま、その手を見下ろした。
「……あんたの手ってさ……」
「ん?」
「恵くんより白くて柔らかいけど、やっぱり男の子なのよね……」
ぼやぼやとした、どこか間延びしたようにも聞こえる声で話しながら弘香は知の指に触れる。
関節のゴツゴツとした硬い感触。弘香よりも高い体温。幅広く、丸く整えられた爪。そこでふと弘香は自分の小指が知の親指の半分ほどしか太さがないことに気付いて笑ってしまう。
「あんたの指、私の約二倍じゃない」
「ヒロちゃんが細いだけだよ」
揶揄っているようにも聞こえるが、知の声はひどく甘い。事実知は誰にも相談せず、ひたすら悩み、苦悩し続けている弘香を甘やかす気でいた。
そんな知の耳朶を打つ柔らかな調べに、弘香もゆっくりと瞬きを繰り返してから顔を上げる。
「もう大丈夫よ」
「そう? でも、せっかくだからゆっくり行こうか」
弘香の鞄を知が肩に掛けたまま手を伸ばしてくる。弘香も黙って差し出された手を握れば、知はゆっくりとした足取りで歩き出す。そして駅を抜けた瞬間、晴れ渡った空と眩い太陽の光が視界を焼いた。
「今日もいい天気ね」
「アルザスは特に降雨量が少ない地域だからね。ドイツと国境が近いし、ワインでも有名なんだよ」
アルザス地方はフランスの北東部に位置しており、ライン川を挟んでドイツと接しているため、あちらの影響を濃く受けている地域でもある。そしてここ――『コルマール』は運よく第二次世界大戦の戦果を免れたため、旧市街地には中世からルネサンス期に建てられた建造物が多く残っている。
実際映画や物語の舞台にされることも多い。それほどまでに絵本のような可愛らしい街並みは有名で、観光客にも人気があった。
「アルザス地方を観光するなら先にストラスブールで下りて、それからコルマールに来るルートが人気なんだけど、ボクが見せたかったのはコルマールの町だから、こっちに直接来ることにしたんだ」
天気も良く、時間帯も昼を過ぎているため多くの観光客が訪れている。中心地に行くまで徒歩で十五分ほどかかるが、知は弘香の体調を考えてタクシーに乗り込んだ。
「別に歩いてもよかったのに」
「楽できるところは楽しないと」
バスもあるが、観光客が多く、人に酔う可能性もあった。出来る限り弘香には無理をさせたくない知が笑顔で宥めるなか、タクシーの運転手は車を走らせる。
徒歩で十五分なのだから車であればあっという間だ。流れる景色に感心する暇もない程に早々と着いたことを若干物足りなく思いながらも、弘香はタクシーを降りてすぐに「おおっ」という感嘆の声を上げた。
「すごい。絵本みたい」
「でしょ?」
どこか誇らしげに笑う知が「見せたかった」というのも頷けるほど、コルマールの町は明るく賑やかで、華やかで可愛らしかった。
通りに隙間なく建つ家々の外壁は白だけでなく、ピンクやオレンジ、黄色や水色などのパステルカラーが多い。更に“コロンバージュ”と呼ばれるドイツ式の「木骨組(もっこつぐみ)」様式で建てられているため、石造りの家々が多いフランスの中でも異色とも言える。
だが違和感があるわけではない。むしろ日本の綺麗に舗装された道路と違い、石畳で出来た街並みによく映えていた。
そして至る所に植えられたゼラニウムの花が一層町を華やかに、明るく見せる。
「でも、意外。車がすごい多いのね」
「やっぱり観光地だからね。日本みたいに歩行者レーンに白線が引かれているわけじゃないから、ボクから離れないでね」
「うん」
石畳の上を、音を立てながら車が走っていく。勿論とんでもないスピードを出しているわけではないが、思った以上に車の行き来が多くて弘香は驚いていた。
他にも観光列車とも呼ばれる「プチ・トラン」が走っており、各国の観光客が乗っては楽しそうに町並みを眺めている。
幾ら町全体の雰囲気や建物の外観が御伽噺に出てきそうであっても、ここは現代の街なのだ。車も走ればバイクも走る。当然自転車だってある。事実二人の背後から一台二台と自転車が走り抜けていき、あっという間に人ごみの中に消えて行った。
「なんというか……不思議なところね」
「コルマールは小さな町だけど、すごくおもしろい場所でもあるんだよ。あとものすごーく有名な人の出身地でもあるから、そういった意味でも人気が高いかな」
「有名な人? 誰?」
しっかりと繋がれた手に促されるまま、敷き詰められた石畳の上を歩きだす。
通りには既に到着していた観光客が歩き回っており、そこここで写真を撮る姿が見られる。カフェのテラス席も相当数埋まっており、ただでさえ狭い道幅が更に狭く感じるほどだ。
だが二人は朝食の時間が遅かったうえ、殆どの時間を移動に費やしたためそこまで空腹を感じているわけではない。むしろこの二人は『食べなくてもある程度動き回れる』という食に対する意識が薄いため、食欲を刺激する匂いを全て無視して町を歩いていた。
「フレデリク・オギュースト・バルトルディ。自由の女神像を設計した彫刻家だよ。彼はフランスのコルマール出身なんだ」
「は? 自由の女神像って、アメリカにあるアレ?」
「そ。ボクもアレックスに教えられた時はビックリしちゃった」
いやいや。ビックリではすまないだろう。そう思うものの、言われてみればフランスは世界でも名だたる芸術家を輩出している国でもある。驚きもあるが、納得の気持ちも強かった。
「じゃあ、彼の生家とかもあるの?」
「あるよ。今は改装されて『バルトルディ美術館』になってる。彼が作った作品が沢山展示されてて、女神像の模型もあるよ」
「色々と凄い場所なのね……」
半ば圧倒される気持ちで話を聞きながらも、弘香は何故アレクサンドルが知をここに連れてきたのか分かる気がした。
「あんた、本当にファンシーな世界が似合うわね」
「……それ、褒めてる?」
サイズを縮めればそのままミニチュアハウスとして通じそうなカラフルな家々と、あちこちに咲き乱れる沢山の花々。
そんな絵本の世界を具現化したような町に、何故この男はこうも似合うのか。
半ば呆れた気持ちで呟いた弘香に対し、知は微妙な声音で尋ねる。実際誉め言葉として受け取っていないのだろう。不服だと思っていることがありありと分かる眼差しを弘香へと向ける。
だが弘香は半分は誉め言葉として口にしていた。
「褒めてんのよ。何だかんだ言ってあんたも“芸術家”じゃない」
プログラミングもするが、基本的にはデザイナーである。だからこそ芸術が盛んな国に留学して勉強したのだろう。そう言葉の裏に滲ませる弘香に対し、知も「そうだけどさぁ」と肩を落とす。
「でも、フランスにいる間、アレックスは本当に沢山の場所に連れて行ってくれたよ。アルザス地方だけじゃない。それこそフランス全土を、時間を見つけては案内して、見せてくれた」
勿論写真などの映像で見ることは出来た。動画サイトで検索すれば一発で散策動画などが出て来る。
だがアレックスは直に見て、体験してこそ感性が磨かれると信じており、夫人と共に様々な地域へと知を連れて行った。
「それでも全部回り切れたわけじゃないけどね」
美術館にしてもそうだ。ルーヴルなどとてもではないが一日では回れない。実際パリだけでも美術館は五十七館あり、フランス全土となるとその数は千を超える。四年間で行ける数などたかが知れていた。
「でも、こうして色んな景色に、空気に、人や文化に触れる機会を作ってくれたことは、本当に感謝してる。やっぱり映像で見るのと、実際に来て、歩いて、触れるのとでは全然違うから」
ドレスをデザインするのに建築様式など学んでも意味がない。その考えは間違いではない。だけどその場所、その土地に住む人たちの感性や、景色からインスピレーションを受けることは絶対にあるのだ。
国籍も年齢も違う二人ではあるが、やはり同じ“デザイナー”として外部から刺激を受けることの重要性を理解している。だからこそ知は出来る限り自分の足で見て回ることを好み、アレックスもそんな知に付き合って時間が許す限り、色んな場所へと連れて行った。
「ヒロちゃん。ボクはね、前にも言ったけど、自分がすごく恵まれた環境にいる人間だってこと、分かってる。だって現役のすごいデザイナーが寝食を共にして、プライベートな時間も旅行に連れて行ってくれるなんて、他じゃ絶対にありえない」
事実アレクサンドルは『気難しいデザイナー』としても有名だ。弟子らしい弟子も殆どいない。知のように一時期面倒を見ていた者も僅かにいるが、皆それぞれの分野で活躍している。そこには娘のルシィも含まれており、その多くが『芸術家』として羽ばたいていた。
だが同じ『デザイナー』に進んだ者はいない。それこそ知ぐらいだろう。同じ『デザイナー』として一から教育し、また共に仕事に立っている人間は。
「アレックスは自分の信念や考えを簡単には曲げないし、相手が誰であっても似合わないものは「似合わない」ってハッキリ伝えられる立場にいる。優れたセンスの持ち主で、柔軟性も持っているけど、誰にでも『寛容』なわけじゃない」
むしろ『逆』と言えるだろう。アレクサンドル・フゥベーは己の信念とセンス、感性を信じ抜き、絶対の自信をもって仕事に挑む職人でもある。
そんなアレクサンドルに刺激を受けた人間は大体が彼と同じように『己の信念』を持つため、実際にアレクサンドルと会っても雰囲気に圧倒されて何も言えなくなるか、激しく意見の対立を起こしてしまうかのどちらかだ。
だからこそ知の、自然と『相手の意見に聞く耳を持ち、尊重する』という姿勢がアレクサンドルの一見頑固にも見える態度とうまくバランスを取っていた。
勿論知とてデザイナーの端くれである。己の信念ややりたいこと。譲れないものはある。そういったものは都度アレクサンドルに伝えている。だがアレクサンドルと意見が衝突した際には激しく口論するのではなく、知は静かに問いかけた。
「“アレックスにとって、この仕事は何?”それが、いつもボクがイライラし始めた時に聞いたことだった」
自分の意見が通らない時。自分の考えが相手に正しく伝わっていない時。
激情家でもあるアレクサンドルが顔を赤くして怒鳴り声を上げそうになる度、知は静かな瞳で、声で、ゆっくりとその言葉を発した。誤魔化すことも偽ることも許さないと言わんばかりの硬い声ではなく、凪いだ湖のような静かな気持ちで尋ねた。
「それを聞くとね、アレックスはいつも一瞬怒鳴りそうになるんだけど、相手が子供だから。と思って、止まるんだよね。その時にもう一回同じことを聞くと、アレックスはボクにでも分かるように言葉を噛み砕いて教えてくれた」
そうすることで難解だと思われているアレクサンドルが何を考えているのか。何を求め、何を完成形としているのかが周りの人たちにも分かるようになった。知を通して自分が思い描く映像を真摯に伝え、周囲はそれを理解する。
その時に知は決めたのだ。どんなにピリピリとした緊張感が漂う制作現場であっても、自分だけは怒ってはならないと。その時の感情や怒りに任せて暴走するのは『信念を貫き通す』のではなく、ただの『押しつけ』になるのだと。
「ボクは、ヒロちゃんみたいに口喧嘩が出来るタイプじゃない。恵くんみたいに物理的に強いわけでもない。だけど、ボクにしか出来ないことがあるんだって、アレックスと一緒にいて、理解した」
次第にアレクサンドルは知と仕事をしている時は穏やかな表情を見せることも増えた。それは自分の意思が相手に正しく伝わることでスムーズに製作が進むことの喜びと、己が見つけた小さな蕾が日増しに成長していく喜びを感じていたからだ。
そしてその、かつては小さな蕾だった花は今、花が咲き乱れるコルマールの町で、萎みかけている花に向かって優しい笑みを向けた。
「ヒロちゃん。確かに世界は広くって、時々人は冷たくて、ひどいこともされるし、言われるけど、それでもボクは、この世界が好きだよ」
「……わたし、は……」
知の、明るくまっすぐとした、それでいて柔らかな声が弘香の耳朶を優しく嬲る。その台詞に息が詰まりそうな心地にもなるが、完全に否定出来るほど幼くもない。
言葉に迷う弘香の手を取ったまま、知はヘラリと笑った。
「ヒロちゃん。ボートに乗ろっか」
「へ? ちょ、うわっ!」
いつの間にボート乗り場へと来ていたのか。チケットを買った知は船乗り場で待っていた男性に「Bonjour」と挨拶を交わす。
今船着き場に泊っている一隻は割かし大きい。最大で九人ほど乗れるだろう。恰幅がいい人がいればその分減るが、三人並んで座れる程度の幅はある。とはいえ全ての舟がそうではなく、一回り程小さな舟も運河を渡っている。
船着き場にも行列というほどの列は出来ていなかったため、次に来た少し小さめの、六人乗りの舟には乗ることが出来た。
『やあ! どこから来たんだい?』
『日本だよ。彼女はフランスが初めてだから、コルマールに連れてきたかったんだ』
舵取り役の、五十代ぐらいの体格のいい男性が知へと話しかける。それに対し知が流暢なフランス語で返せば、途端に男性は笑みを深めた。
『それは嬉しいね! ありがとう! コルマールはいい町だよ。今日は天気もいいし、風も冷たくない。最高の観光日和だ』
『だね。ボクが初めて来た時は雨だったから、マリア様が彼女を祝福しているのかも』
コルマールはカトリック教徒が多いため、聖母信仰が根強いのだ。それに因んだ軽口を交わす知に対し、舵取りの男性も朗らかに笑う。
『今日はキミにもいいことがあるよ』
『ありがとう』
そうして規定人数を乗せたボートはゆっくりと船着き場を離れ、小魚が優雅に泳ぐ運河を渡り始める。
「プティット・ヴニーズ。『小さなベニス』の異名は伊達じゃないわね」
イタリアの北東部に位置する都市であり『水の都』としても有名なヴェネツィア。それに劣らない魅力があると言われるプティット・ヴニーズは、事実とても美しい世界を見せてくれる。
水上から見上げる家々は花で彩られており、時折運河を横切るように泳いでいく水鳥達の姿が愛らしい。
よく晴れた陽が降り注いでいるため水面はキラキラと輝いているが、家々を抜けた先にある緑豊かな公園からは木々が腕を伸ばしているため木陰のカーテンが出来ており、暑さは感じない。
むしろ時折当たる日差しのあたたかさに肌が熱を持つのが心地好いほどだった。
「……綺麗」
時折見えるホテルの看板や、何を売っているのか一見分からないお店の窓から見える吊り看板ですら趣がある。
そうして風に乗ってくる香りは、カフェに近ければコーヒーやパンといったかぐわしいものになり、木々や花々が多ければ甘く爽やかな香りになる。
頬や髪を撫でる風は日本に比べて冷たいが、湿度がないためカラリとしている。
同じ舟に搭乗している人々の中にアジア人はおらず、様々な言語が飛び交うが、皆一様にこの景色を楽しんでいるようだった。
弘香もぼんやりと閉じた足の上に肘を置き、頬杖をつきながら夢心地な気分で舟に揺られている。その隣に座っていた知は、そんな弘香の呟きに気付いて視線を向けた。
「気に入った?」
「うん」
船尾に座っているためどうしても他人の頭や動きなどが視界に入るが、今はそれすらも気にならない。
むしろどこか不思議で、まるでこの世ではないどこかに来たような気分に陥っていた。
勿論あちこちから話し声は聞こえて来るから静寂に身を包んでいるわけではない。それでも、不思議と弘香の耳にはそれらの音が入っていなかった。
(あの日見た川とは全然違う。そりゃあ日本とフランスなんだから違って当然なんだけど、なんていうか……)
ゴウゴウと、閉じた瞼の裏に幼い頃に見た暴食の化身が音を立てて流れていく。
ここしばらく聞いていなかった悪魔の嘲笑に弘香が無意識に眉間に皺を寄せれば、すぐさま知が弘香の手を握った。
「大丈夫だよ。ヒロちゃん」
「ぁ、」
隣から聞こえてきた声と、いつの間にか冷えていた指先から伝わるぬくもりに弘香が咄嗟に瞼を開ければ、丁度緑のカーテンを抜けた瞬間だった。
再び光り出す水面に交じり、穏やかな瞳で弘香を見つめる知の柔らかい顔立ちが目に飛び込んでくる。
「心配しなくていいよ。ね?」
ギュッと握られた手に、弘香を安心させるような、あたたかくてふにゃりとした笑み。
途端に耳の奥で一際強くゴウッ、と風と川の唸る声が聞こえたが、知の手が弘香の頬に当てられ、そのぬくもりが冷えた肌に伝わっていくのと同時に消えていく。
「ヒロちゃん。こっち向いて」
「……もう向いてるじゃない」
「そうなんだけど、そうじゃなくて」
輝く水面の中で見る知の肌は、やはり白く見える。それでも一緒に搭乗した白人に比べれば色が濃く見える。実際弘香が知らなかっただけで、散歩好きな知はしょっちゅう時間を見つけては外を歩いている。そのせいか意外と足腰に力があり、持久力もあった。
思い返せばホテルで一緒にお風呂に入った時も、存外しっかりとした体をしていた。今更ながらに思い出し、何故か恥ずかしい気持ちになって弘香は戸惑う。
そうしてつい視線を逸らしてしまった弘香に対し、知は少しだけ笑って優しく風になびく髪を指先で撫でてから手を離した。
「ねえ、ヒロちゃん」
「……なに?」
「ヒロちゃんは、フランスに来てよかった。って、思う?」
思いがけない問いに弘香は落としていた視線を上げる。だが知の表情は先程と変わらず穏やかなままで、橋の上で談笑する人たちを見上げている。
「……思ってるわよ」
来てよかったと思っている。それは本当だ。だがほんの少しだけ、後悔もしていた。
(……だって、ここに来たら尚更分かってしまった。あんたと私の間に流れた時間は、決して同じじゃない)
知がフランスに渡り様々な体験を通して学んだ四年間と、弘香が過ごした四年間は同じではない。勿論そんなことは言われるまでもなく分かっている。理解している。だが、理解出来ていたと思っていたのは、結局ただの『外側』だけだった。
(中身が全く違う。私が予想していたフランスの生活と、この子が実際に過ごした四年間という時間は、あまりにも密度が違いすぎる)
あらゆる著名人やデザイナー、アーティストたちと握手を交わせたのは単に知がアレクサンドルの弟子だからではない。確かにアレクサンドルのバックアップがあったおかげもある。実際大きな後ろ盾があるだけでも卵たちは伸び伸びとした環境で、心持ちで製作が出来る。
だが結局最後に物を言うのは実力なのだ。
どれほど有名な人の元で学ぼうと、その人自身に才能がなければ蕾のまま萎んでしまう。だからこそしっかりと花を咲かせた知は、弘香が思う以上に才能がある人間で、その道に祝福された人間でもあるのだ。
ただの一企業で働くのが精々だった自分とは違う。
――そう思ってしまう自分が、確かにいるのだ。弘香の心の中に。
「ヒロちゃんは、自信があるように見えて、本当はけっこう臆病だよね」
「ッ!」
ビクリ。と弘香の体がその一言に小さく跳ねる。気付けば俯いていた顔が眺めていたのは景色ではなく、木造の舟の底と、そこに乗っている自分の小さな足だった。
「昔はもっと堂々として、怖い者知らずだったから、ベルの方があわあわしてたのを覚えてる」
事実昔の弘香は怖いもの知らずだった。今のように一つのことに深く悩むこともなければ、長々と引きずるような性格でもなかった。
だが――。
「……私ももう二十七よ。人は成長と同時に衰えていくし、臆病にもなるのよ」
いつまでも無鉄砲ではいられない。考えているように見えても、当時の自分は何も考えていなかった。見えていなかった。だからこそあそこまでひたむきに、がむしゃらに、全てを薙ぎ倒すような勢いで邁進することが出来た。
だけど歳を重ねて視野が広がるごとにその無鉄砲さは鳴りを潜め、様々なものを見聞きし、取り入れていくうちに二の足を踏むようになった。
「――いつまでも子供ではいられないの」
(若いアンタと違って)
まだ二十一で、弘香と違ってやりたいことが沢山あるはずだ。弘香はもう、何もかもが煩わしく、恐ろしくなってしまった。
権力を持てば持つほど群がってくる人間の瞳に欲が宿り、いつ追い落とされるか分からない恐怖に駆られることになる。
褒められても「どうせ世辞だ」と思うようになり、自己肯定感が目に見えて減っていく。それでも何とか自分を持ち上げようとしたが、あの激務の日々では出来るはずもなかった。
余裕がなかったのだ。そして仕事を辞めた今でも、弘香の心を何か、黒いモヤのようなものが覆って視界を塞ごうとしている。
だがそれを恐ろしく思うよりも、身を任せた方が“楽だ”と思ってしまう気持ちの方が強いのだ。
流れに身を任せてしまえば、あの川に身を投げてしまえば、楽になれる――。
そんなことを考えてしまう弘香に、知はのんびりとした声音で話しかけた。
「ヒロちゃんは、傷つくのが怖い?」
――当然だろう。
そう返したい気持ちはあるのに、言葉が喉につかえてうまく出てこない。それでも無意識に俯き、額に手を当てればクロエが羨んだ髪が垂れてくる。
鳥の囀る声に交じって明るく陽気な話し声がそこここから聞こえる中、弘香は血を吐くような思いで知の言葉を『肯定』した。
「……そうよ。怖いのよ。私は。歳を重ねる度に、人の嫌なところを見る度に“世界は汚い”って思ってしまう。何もかもが嫌になって、投げ出したくなる。誰も信じたくなくて、信じられなくなって……でも、そんな自分を嫌いになっていく自分がいる」
大人になればなるほど思い知る。傷つくことが怖い。恥をかくことが怖い。目立たず、ひっそりと部屋の隅で膝を抱えて息をしていた方がもっと無難に、何事もなく平坦な毎日を過ごし、そのまま老いて死ねるのではないか――。
そんな気持ちが、暗く淀んだ気持ちが思考を覆い隠していく。
いつまでも無鉄砲な少女ではいられない。スターを取って無敵な状態でいられるのはほんの数秒でしかない。それすらゲームの話だ。現実は、いつだって残酷で、醜く、悪戯に嘲笑しながら弘香を傷つけていく。
「“子供らしさが死んだとき、その死骸を大人と呼ぶ”」
「ッ!」
「イタリアの小説家、ブライアン・オールディスの言葉だよ」
つまり弘香が“死骸だ”とでも言いたいのだろうか。この男は。
睨むように見つめるが、知の瞳には侮蔑の色も、落胆の色もなかった。ただ穏やかな水面を写し取ったような、凪いだ瞳が弘香を見ていた。
「でもね、ボクだって“死骸”なんだよ」
「……なに、言ってんのよ」
知の一体どこが“死骸”だというのか。
弘香の目にはいつだって、目の前にいる男は眩しく映っていた。
名だたる著名人とのパイプがあって、世界のアレクサンドルの後継者で、友人で、弱冠二十歳という若さでレッドカーペットを歩く大物新人だ。
ベルの衣装を手掛けていた学生時代から大きく羽ばたいて、今では世界で最も有名なアーティストの衣装まで手掛けている。
光り輝く道を歩んでいる男のどこに『死んだところ』があるというのか。訝る弘香に対し、知はいつものようにへらりと笑う。
「ヒロちゃんはボクを子供扱いしたいみたいだけど、ボク、言うほど子供じゃないよ」
そう言って前を向いた知に続くように、舵を取っていた男性から『頭を下げて!』という声が飛んでくる。
弘香がハッとして前を向けば、背の低い橋の下を通ろうとするところだった。それを理解するよりも早く、知の手が弘香の後頭部に伸びて頭を抱き込んでくる。
「このままでいて」
「――――」
無理やり、それこそ頭を下げさせるように力が込められているわけではない。むしろ抱きしめるように、折り重なるように胸に抱きこまれ、弘香の心臓が不思議と強く脈打つ。
そんな自分に驚き、信じられない気持ちでいたものの、案外すぐに橋の下を通り抜けたことによりあっさりと解放される。
「もうすぐ遊覧も終わっちゃうね」
「…………そう、ね」
ボートでの遊覧は精々三十分程度だ。
先程知に抱き込まれたことで一層ぐちゃぐちゃになった頭の中は思考が纏まらない。そのうえ妙に騒がしくなった心臓の音が鼓膜の奥で響いて、聞こえ始めていた川の音がかき消されていく。
目の前がグルグルと回りそうな心地の中終えた小舟での遊覧は、景色を楽しむよりも思考が掻き乱されるだけの厄介な時間だった。
「ヒロちゃん。下りるよ」
「え、あ、うわっ!」
来た時同様、知に手を取られて立ち上がる。木造で出来た小舟は人の動きに合わせてゆらゆらと揺れる。そのため二人の前に立っていた少々身幅の広い男性が立ち上がった瞬間、大きく舟が揺れ動いた。
『おお! ごめん! 大丈夫かい?』
『はい。大丈夫です』
男性はアメリカ人らしく、英語で話しかけてくる。それに対し知が笑顔で返す中、弘香は完全に思考が止まった顔で知に抱き着いていた。
――否。知の腕が弘香をしっかりと掴み、抱き寄せていたのだ。
(…………は? は?!)
グッと腰に回された腕の力は強い。咄嗟に抱き寄せられたため、弘香は抵抗することも出来ず知の胸板に顔を寄せていた。
(え……? いや、ちょっと、ちょっっっと待って? え? なにこれ。この子、こんなに力強かったっけ?)
呆然とする弘香に気付いたのか、それとも単に男性との短い会話が終わったからなのか。視線を下に向けた知は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている弘香を見遣って数度瞬く。
「どうしたの? ヒロちゃん」
「へ?! べ、別に?!」
全然『別に』という感じではないのだが、慌てて離れようとした弘香の腰を知は珍しく有無を言わぬ力強さで抱き寄せる。
再びギョッとする弘香だが、知は気にせず船着き場に足を乗せると――グッと足腰に力を入れ、弘香の腰を抱いて舟から下ろした。
「はい。大丈夫?」
「………………」
木造とはいえ、それでも硬い床の上に立っているはずなのにまるで雲の上に立っているかのように覚束ない。
そんな弘香の動揺と困惑を何となくだが察したらしい。知がそのまま弘香の手ではなく、腰を抱いて歩き出す。
「少し休憩しようか」
「え、あ、ちょっと、」
思わぬところで知の『男らしさ』を見せつけられた弘香が盛大に動揺する中、知は気にせず弘香の腰を抱いたまま近場のカフェへと足を踏み入れる。そうして店員にいつも通りの笑顔で「Bonjour」と声をかけ、空いている席へと弘香をエスコートした。
「はい。ここ座って」
「ちょ、ちょっと……」
「そういえばお昼まだだったよね。何か食べようか」
比較的空いていたこともあり、すぐに女性店員がやってくる。半ば呆然としていた弘香だが、慌てて「ボンジュール」と挨拶をすれば、年若い店員は笑顔で「Bonjour!」と返してくる。
どうやらアジア系の観光客にも慣れているらしい。ほっとしたのも束の間、知は慣れた様子で注文をし、ウェイトレスはそれを伝票に書き込み去っていく。
「……ちょっと。私にも選ばせてよ」
「半分意識飛んでた人が何言ってるの」
「なッ! 誰のせいだと……!」
途中まで言いかけたところではたと気付く。今ここでそれを暴露してしまえば自分が知を『男性』として意識したことがバレてしまうのではないのか。
そう考えたら何も言えなくなり、不自然に言葉を止めた弘香に知はおもしろそうに目を細めて頬杖をつく。
「どうしたの? 今何か言いかけたよね?」
「な、んでもないわよ」
「ふぅん? そう。じゃあ、言いたくなったら言ってね」
何なのだ。この男は。
咄嗟に視線を逸らした弘香ではあるが、すぐさま睨みたい気持ちになる。それなのに心と体の行動が一致せず、どこかソワソワとした居心地の悪さも感じる。
浮足立っている、というわけではない。むしろ背筋がムズムズとして落ち着かないのだ。
弘香は気付かれないようにチラリと視線を向けたつもりであったが、ずっと弘香を見ていたらしい。知とバッチリと視線が合ってしまい、音が立ちそうな勢いで顔を逸らす。そんな一連の動作を見ていた知は堪えきれずに吹き出した。
「ぶはっ! ヒロちゃん、あからさますぎるよ」
「わ、笑うな!」
「そんなこと言われても」
声を上げて笑うのを我慢しているのだろう。俯く知の肩が震えている。それに対し弘香が謎の羞恥心と怒りを覚えていると、先程のウェイトレスが飲み物を運んできた。
「ほら、ヒロちゃん。体が冷えたでしょ? 冷めないうちに飲もうよ」
ニコニコと、心底楽しそうな笑みを浮かべている知に文句の一つや二つ、三つや四つも言いたくなったが、すべて押し込み湯気を立てるカップを手に取る。
もこもことした泡にはリーフの模様が描かれており、一目で『カプチーノ』だと分かる。ミルクでマイルドになっているとはいえ、それでもコーヒー独特の苦みと香りがゆっくりと鼻腔へと抜け、あたたかさが全身へと沁み渡っていく。
「ふぅ」
ほっと息を零した弘香の前では、知も何食わぬ顔でカップを傾けていた。だが手にしているカップのサイズも漂ってくる香りの濃さも違う。
まさか知が砂糖もミルクもなしにコーヒーを飲めるとは思っていなかった弘香が内心で驚いていると、知はゆっくりとカップをソーサーに戻した。
「ヒロちゃん。今ボクが砂糖もミルクも入れずに飲んだことに驚いてたでしょ」
「そ、そんなことは……」
「顔に書いてあるから分かるよ。ヒロちゃんって案外分かりやすいよね」
クスクスと笑う知は心底おかしそうで、弘香はムッとする気持ちと、恥ずかしい気持ちとで胃の中が熱くなる。(それがコーヒーのせいだとは微塵も思わない辺り、弘香もだいぶ毒されているのだろう)
「でもボクが頼んだのは『カフェ・ノワゼット』って言って、初めから少しミルクが入ってるんだ。だから追加で入れなかっただけだよ」
「何よ。やっぱりミルクがいるんじゃない」
「フランスのコーヒーって深煎りだからものすごーく苦いんだよ? 気付けの一杯でもない限りエスプレッソは飲まないよ」
逆にそれを飲めば目も覚めるわけなのだが、デートの日にわざわざ苦虫を噛み潰したような顔を見せるのは流石に頂けない。
「そう考えると日本のコーヒーは飲みやすいかも。会社だと普通にブラック飲んでるから」
「え? マジで?」
「だって砂糖もミルクも入れる手間が惜しいんだもん。ブラックのままでもこっちのエスプレッソに比べたら全然マシだよ」
「……そんなに?」
「うん」
四年間の生活で舌も鍛えられたらしい。どこか優雅にも見える所作で再びカップを持ち上げる知をマジマジと見遣っていると、再びウェイトレスが来て二人の真ん中に一際大きな長方形の木製プレートを一枚置く。
そこには『出来たてだ』と言わんばかりに湯気を立てる一枚の薄い“ピザ”に似たものが乗っていた。
「これって……」
「アルザスの郷土料理だよ。『タルト・フランベ』って言ってね。薄焼きのピザみたいな感じかな」
乗せる具材によってはデザートにも前菜にもワインのお供にもなる万能料理である。
今回知が頼んだのは薄切りされたベーコンと玉ねぎにたっぷりとチーズが乗ったオーソドックスなタイプだ。知はそれを慣れた手つきで切り分けると、一緒に運ばれてきた皿に乗せて弘香へと渡す。
「じゃあ、食べようか」
いつも二人で食事をする時。知が弘香に「ご飯できたよ」と声をかけ、向かい合って食事をとる時と同じ台詞を口にする。
その一言に弘香は不思議なほど安堵した。
「んっま」
「焼きたてだから生地がサクサクしておいしいね」
「いやちょっと……フランスおかしい。なんで食べたもの全部美味しいのよ」
「さすが美食の国≠セよねぇ。あっつ」
「舌火傷するんじゃないわよ?」
焼きたて熱々の生地は薄いからサクサクしている。それでも噛めば噛むほどもっちりとした弾力も感じられ、薄切りされたベーコンの塩辛さと、燻製されたようなスモーキーな香り、スライスされた玉ねぎの蕩けるような甘さがクリームチーズとマッチして得も言われぬ美味しさを作り出している。
思わず天を仰いだ弘香に対し知ものほほんと笑いながらタルト・フランベを口にするが、熱々の生地に小さく悲鳴を上げる。
そんな“いつも通り”の姿に、弘香も次第に落ち着きを取り戻していた。