- ナノ -

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「ふぅ〜、お腹いっぱい」
「おいしかったね」

 あれから数時間にわたってパーティーを楽しんだ二人だが、今はフゥベー夫妻が用意した一室でくつろいでいる。
 リビングでは一家が後片付けをしているようだが、夫人から『客人にそんなことはさせられない』と言われ、こうして二人揃って日が沈みだしたフランスの街を二階のバルコニーから眺めていた。

「……綺麗ね」
「でしょ? 特にこの地域は夕日がキレイに見えるんだ。アレックスも『この景色が気に入って家を建てたんだ』って言ってたよ」
「そうなんだ」

 黒い鉄製の柵で仕切られたバルコニーには、カフェのテラス席のように丸形のテーブルと椅子が二脚セットされている。そこに向き合うように腰かけながら、二人は夕日を眺めていた。

「なんか、変な感じ」
「なにが?」
「正直言って、もっとすごい人たちだと思ってたのよ。『世界のアレクサンドル』も、彼の妻の深雪さんも、ご子息たちも。でも、」

 一緒に食事をしながら会話をして分かった。彼らは特別でも何でもない。極々普通の、あたたく、愛のある家族だった。
 フゥベー夫妻は孫の学校生活について質問をし、その答えに驚いたり笑ったり、自分たちはどうだったと答え、時には弘香に『日本の学校はどうだったんだい?』と興味津々な様子で瞳を輝かせては尋ねてきた。
 弘香がフランス語では説明出来ずに知に頼んで通訳してもらいながら必死に説明する間も、彼らは初めて知る異国の文化に驚き、時には不思議そうに首を傾け、頷いたり疑問を呈したりした。

「私が思っていた以上に彼らは心優しい、普通の人だった。なんだか拍子抜けしちゃった」

 頬杖をつきつつ苦笑いする弘香に、知は優しく目を細め、穏やかに微笑む。

「みんな誰かにとっては“特別”で、だけど世界にとっては“普通の人”なんだよ」
「…………そうかもね」

 ファッション業界にいる人間にとってアレクサンドルは最も有名で、尊敬すべきデザイナーである。だが興味がない人、あるいは彼を知らない人からしてみれば“普通のおじさん”に見えるに違いない。

 それぐらい彼は当たり前に家族を愛する人だった。妻の腰を抱き、娘や息子の肩を抱き、孫たちを愛おしそうに抱きしめる。そうして友人でもあり弟子でもある知を揶揄ったり、逆に揶揄われては肩を竦めて恥ずかしそうにはにかみ笑う。
 アレクサンドルだけではない。深雪夫人も、息子のオスカーも、娘のルシィも、孫のマティスやクロエだって、それぞれ才能を持ちつつも人との会話と美味しい食事を楽しむ、普通の人たちだった。

「あんたはさ」
「うん?」
「最初ここに来た時、何を思った?」

 そよそよと、少し肌寒く感じる冷たい風が二人の髪を、肌を、撫でていく。知は一瞬夕日に照らされる弘香の顔を真正面から見つめ、それから自分も目に痛いほどに輝く夕日へと視線を移した。

「……はっきり言うと、すごく怖かったよ」
「…………そう」

 未知なる世界。見知らぬ世界。
 知にとっては初めての異国で、小さなキャリーケースに詰め込んだ荷物が自分の全てなのだと思うと、ものすごく心細くなった。いつも以上に自分という存在を小さく感じ、大海原に一人取り残され、何も出来ないまま漂っているような気分に陥った。

「ボクはヒロちゃんみたいに、最低限の挨拶ですら覚えないままフランスに飛んだから、本当に一から始めなきゃいけなくて、けっこう大変だった」
「うん」
「でも、怖いと思ったのは空港を下りた時だけだったよ。雪さんが迎えに来てくれて、車に乗っていざ街を走り出した時――ボクの目には、全部が輝いて見えた」

 どこか懐かしむような、それでいて子供のような弾む声。ちらりと知に向けて視線を向ければ、その横顔はどこか満足そうな笑みを浮かべていた。

「日本の建物とは全然違った様式の建物に、アパートメント。広い運河に、色彩豊かな人たち。歩道ではビックリするほど当たり前に抱き合う人がいて、キスをする人がいて……。最初見た時は恥ずかしかったな」
「ははっ。でしょうね」
「でも、すごく“自由だ”って、思った」

 閉鎖的な空間で生きてきた。小さな世界で生きてきた。恵に守られてばかりいた小さくて弱い自分は、自分が思っている以上に小さくて、まるで生まれたばかりの芋虫のように感じた。

「街を歩けば知らない匂いがして、人の声に誘われるまま歩いていたら、たくさんの人が通るパッサージュに迷い込んでた。ガラス張りの屋根から太陽の光が降り注いで、ショーウィンドウがキラキラして見えた」

 “パッサージュ”とはパリでも有名なアーケード街、商店街のことである。入口が狭くて分かりづらいが、そこに入ればどこか懐かしい、レトロでありながらも胸がドキドキと高鳴ってやまない、特別な世界が広がっている。
 勿論パッサージュによってその特色や雰囲気は異なるが、どこも美しく、人が溢れたあたたかくて活気のある場所だ。

「出来立てのパンの匂い。ソーセージの焼ける匂い。あちこちから甘くて、どこか香ばしい匂いがして――。トマトソースのツンとした匂いもしたな」
「お腹減ってたの?」
「うん。初めてパッサージュに迷い込んだ時はお昼時で、すごく人が多くて、お腹も空いてて……。だから余計にキラキラして見えたのかも」

 笑う知につられて弘香も笑う。だけど、と弘香は脳裏に思い描く。きっと知が見た世界は、弘香が想像するよりもずっと色彩豊かで、香り豊かなのだろうと。

「だけど香水の匂いもすごくて、ちょっと酔っちゃって。逃げるように出ちゃったのが悔しかったな」
「あ〜。慣れないとキツイもんね。香水って」
「うん。一つ一つはいい香りなんだけど、やっぱり色んな匂いとまざるとね」

 苦笑いする知に頷いて理解を示せば、知は弘香の目をまっすぐと見つめるようにして視線を戻す。

「それからも、色んな所に出かけたよ。一人で堂々と街を歩けるようになったのは半年ぐらい経ってからだったけど、それまではクロエやマティスの兄弟たちと一緒に街に出かけた。買い食いもしたよ。高校生だったから、帰る時にはお腹が空いて、こっちで出来た友達と一緒に色んなお店に行った。おすすめも教えてもらったよ」

 フランスでは軽食扱いのガレットという、クレープの親戚のような食べ物がある。レタスと卵、ハムやトマトなどを乗せたものを知は好んで食べた。勿論他にもチーズを掛けたものや、バジルやオリーブを載せたもの。アイスやホイップクリーム、果物を載せたデザートのようなメニューもあった。勿論クレープも同様に種類が豊富に存在する。
 他にもベトナム風のサンドイッチである『バンミー』や、中東では定番のピタパンサンドである『ファラフェル』、パリジャンも好む『シャワルマ』など、友人たちと一緒にカフェのテラス席で食べたり、街を歩きながら食べ歩いた時間は美味しくもあり、楽しくもあった。

「みんなそれぞれ好きなお店があってね。クロワッサンだけでもどのお店が一番おいしい、って言い争いが起きるぐらいだった」

 あそこの通りのクロワッサンが一番だ! いいや、あの店が一番美味しい! そんな話を、知は驚きつつも楽しんで聞いた。

 弘香も「こっちの学生も日本と大して変わらないわね」という微笑ましい気持ちになりながら話に耳を傾ける。

「五月になったらバラが咲く公園があってね。そこでデートをする同級生を偶然見つけた時は、隠れちゃった」
「どうして?」
「ヒロちゃんだったら、キスしてる同級生たちのところに行ける?」
「あー……。無理だわ」
「でしょ?」

 クスクスと二人は同時に吹き出して笑う。高校生の時の弘香であれば「うげっ」という顔をしただろう。だが初心な知のことだ。顔を赤らめてウサギのように逃げ出したに違いない。
 そんな想像をすると弘香はますます面白くて、おかしくてしょうがなかった。

「フランスって言ったら美術館が有名でしょ? だけどボクは、セーヌ川の道沿いで絵を描いているおじいさんと話すのが好きだった。いつも足元に、ビーグルに似た焦げ茶色の犬が寝そべっててね。すごく人懐っこくて、子供も、観光客にも、可愛がられてた。今もいるかは分からないけど、とてもステキな絵を描く、優しいおじいさんだったんだよ」

 そこで知はポケットからスマートフォンを出すと、数回指をスライドさせてから画面を見せてきた。

「緻密な絵を描くわけじゃないけど、すごく優しい色使いで、ボクはいつもおじいさんが作り出すステキな世界に、胸がドキドキした」

 知が言うように特別な技術を持った画家ではないのだろう。あくまで趣味で描いたと思われる絵ではあったが、そのあたたかみのある色使いはどこか見ている人をほっとさせる魅力があった。

「言葉は半分も分からなかったけど、おじいさんはいつも笑顔で話しかけてくれた。ボクが初めてスケッチブックを持って行った時も、驚くよりもうれしそうに笑ってくれた」

 タブレットではなくスケッチブックを持って行ったのは、それが安くて取られても困らないものだったからだ。非力な知は誰かにタブレットをひったくられた時に取り返せない。
 だからスケッチブックと鉛筆を持って、そのおじいさんのところに足を運んだ。

「ボクはおじいさんと違って風景を描いていたわけじゃないけど、ボクがスケッチブックに描きだしたドレスのデザインを、宝物を見るような目で見てくれた。それが、すごくうれしかった」

 言葉も分からない。年齢も一回りどころか二回り以上も違う。それでも二人の間には目には見えない絆が生まれていた。

「そのうちボクがアレックスと一緒に仕事をするようになって、おじいさんに会いに行けなくなった時、ボクはおじいさんに手紙を書いたんだ」

 今みたいにフランス語を理解していたわけではない。どこかおかしな文脈だっただろう。それでも『今までありがとう。大好きだよ』と書いた手紙を渡した時、彼は知を強く抱きしめてくれたのだという。

「おじいさんからは、いつも絵具と、シトラスの匂いがした。晴れた日にはおひさまの匂いもして、おじいさんの手は日に焼けてて、シワがいっぱいよって……だけど、すごくキレイだと思った」

 懸命に生き、歳を重ねた人だったのだろう。弘香はそのおじいさんに会ったことはないが、知の目を通して見る世界はいつだって優しく色づいて見える。
 だから静かに、揶揄うことなく「素敵な人だったのね」と返した。

「ボクがフランスにいたのは四年間だけだったけど、日本が恋しい。って思うことはあまりなかったよ。恵くんやベル、ヒロちゃんには会いたいなぁ、とは思ったけど、東京に帰りたいとは、あまり思わなかった」

 それだけ沢山の出会いと楽しみがあったのだろう。知の顔を見ていれば言葉にせずとも理解出来る。
 殆ど沈んでしまった夕日の代わりに夜を彩り始めた星空の下、弘香は改めて過ぎた年月の重みを感じていたのだが――そんな弘香を現実に引き戻すかのように、庭に出てきたクロエとマティスが大きく手を振った。

『二人ともー! 散歩に行かなーい!?』
『そのあと一緒にゲームしようよー!』
「……ふっ。子供たちって本当、元気よね」
「だね。いいよー! ちょっと待っててー!」

 夜の散歩と言っても、この住宅街を軽く歩くだけで危険は少ない。何せここら一帯は皆顔見知りなうえ、フランスで最も有名なデザイナーの孫を襲うバカなどいないからだ。

「ねえ、ヒロちゃん」
「ん?」
「明日は、どこに行きたい?」

 勿論ある程度の予定は決まっているのだろう。それでも尋ねてきた知に、弘香は呆れたような笑みを返した。

「任せるわよ。フランスなんて、観光地ばかりで決めらんないわ」
「ははっ。雪さんも同じこと言ってた」
『二人とも早くー!』

 急かしてくるクロエに二人も手を振り返し、リビングでテレビを見ていた一家に「夜の散歩に行ってくるね!」と知が説明をして外に出る。
 玄関先では既に二人の少年少女が待っており、二人が来るとクロエが眩い程の笑みを浮かべた。

『Hiroka! 一緒に歩きましょ! 私が案内してあげる!』
『クロエ、Hirokaは来たばかりなんだから、ゆっくりさせてあげようよ』
『なによ! この辺をちょっと教えるだけじゃない! 大丈夫よ。ね、Hiroka!』

 知とはまたタイプの違った、やんちゃな柴犬みたいなクロエに弘香は年上らしく柔らかな笑みを浮かべる。

『うん。案内してくれると嬉しいな』
『OK! さあ、行くわよ!』

 当たり前のように弘香の腕に手を回し、くっついて歩き出すクロエは本当に生き生きとしている。
 そんな、弘香が学生だった頃は嫌っていたタイプの彼女を今では不思議なほど穏やかな気持ちで眺めていられる。

(私が同い年だったらこんな気持ちでいられなかっただろうな。綺麗で、可愛くて、嫌味がなくて……。きっと、嫉妬して友達にはなれなかった)

 微笑ましいような、見守りたくなるような。それこそ虹のふもとまで歩いて行けそうなクロエに、弘香は珍しく「年取っててよかったわ」と思ってしまう。

『クロエ』
『なに?』
「ありがとう」

 つい日本語でお礼を伝えてしまったことに気付いて「あ」という顔をしてしまうが、そんな弘香に対し、クロエは沈んだ太陽を髣髴とさせるような笑みを顔いっぱいに浮かべた。

「ド、イタスマスタ!」
「あははっ。うん。ありがとう」

 ほんの少し違うけれど。それでも彼女なりに日本語を勉強してくれたのだろう。「どういたしまして」と日本語で伝えようとしてくれた年下の友人に、弘香も久方ぶりに無邪気な子供のような笑みを返す。

 それを後ろから眺めていた知とマティスはというと――

『ねえ、マティス』
『なに?』
『女の子に嫉妬するのって、カッコ悪いよねえ……』

 街灯が照らす夜道の中でもどこか輝いて見える恋人の背を、どこか切ない気持ちで眺めながら知が呟く。
 マティスはいつも笑顔でいた年上の友人が初めて見せる表情と心境に心底驚き、素直にそれを口にする。

『Tomoもそんな顔するんだね』
『ひどい顔してるでしょ。今すっごくクロエが羨ましいと思ってるから』
『ああ……。うん。でも、相手がクロエだから。諦めた方がいいんじゃないかな』

 クロエは良くも悪くも正直でまっすぐだ。そして自分が「こう!」と思ったら譲らない。だから弘香を気に入ったのであれば、例え知の恋人だろうが何だろうがお構いなくアタックしに来る女性なのだ。
 その性格を知っているからこそ「諦めた方がよくない?」とアドバイスするマティスに、知はガックリと肩を落とす。

『はー……。一番のライバルが女の子とか、ボク勝ち目ないなー』
『Hirokaは魅力的だからね』

 元より弘香の外見はフランス人から見ればエキゾチックに見えて魅力的だ。一度も染めたことがない黒髪は癖がなくストレートで、美容室で切り揃えたということもあって綺麗に整えられている。そのうえ今は生活環境が改善されたので艶も戻っており、陽の光が当たると天使の輪が出来て一層美しかった。
 この黒髪を夫人は勿論のこと、アレクサンドルやクロエも手放しに褒めており、弘香は「たかが黒髪でそんなに?!]」と驚きを隠せなかった。かくいう知も栗毛でふわふわとした髪質なので、弘香の髪を褒められた時は隣で誇らしげに笑っていたものだ。

 勿論外見ばかりが魅力ではない。マティスは知と違い数時間しか共に過ごしてはいないが、だからこそ分かることもある。

 弘香は未熟ながらもフランス語を必死に駆使し、積極的に会話をしようとする努力の人だった。時には言葉に迷い、時には考え込む時間もあったが、頑張って自分の言葉で表現しようとする姿はマティスから見ても輝いて見えたのだ。
 尊敬する祖父の客人だからといって居丈高な態度を取ることもなく、夫人が見ていない所で空いた皿を隅に避けたり、濡れた場所を布巾で手早く拭く姿も見られ、感動すらしていた。

 だからこそ素直にそれを伝えれば、途端に知の手がマティスの肩を力強く掴む。

『マティス? そんなにヒロちゃんのこと見てたの?』
『ご、誤解だよ!』

 まるで獲物を定めたチータのようだ。とマティスは背筋を震わせながらも首を必死に振って『邪な気持ちはない』と伝える。
 勿論知とて分かってはいる。分かってはいるのだが、相手は弘香が一瞬とはいえときめいた相手だ。ついじっとりとした目を向けてしまう。

「はあ……。不安だなぁ」
『Tomo?』
『なんでもないよ』

 楽し気に会話をする弘香とクロエの、子供のように弾んだ声が随所で聞こえてくる家族団欒の声に交じって聞こえてくる。
 弘香がアレクサンドルたちに受け入れられたことを素直に喜びたい気持ちはあるのだが、どうしても彼女の手を取り歩きたかったなぁ。という気持ちも拭えない。
 だからこそ知は仕方なくマティスの背を軽く叩き、二人の背を小走りで追いかけたのだった。


           6



 そして迎えた翌日。二人は一家と共にフランスで最も有名な都市である『パリ』の朝市――『マルシェ』へと来ていた。

『Hiroka! パリに来たのは初めてでしょ?! 私がマルシェを案内してあげる!』
『クロエ、はしゃぎすぎて買いすぎるんじゃないぞ』
『もー、分かってるわよ、パパ。あーあ。明日も休みだったらよかったのに。たった一日しかHirokaと一緒にいられないなんて、残念だわ』

 肩を竦めるクロエに対し、弘香も「私もよ」と答える。事実サッパリとしたクロエとの会話は思った以上に面白く、年齢の割に知識も豊富でいつの間にか彼女との会話に熱中していた。
 おっとりとした鈴とも、可愛くてしっかりしているように見えるが、実は意外と抜けたところのある瑠果とはまた違った魅力がある。そんな彼女と共に歩きながら、弘香は初めて訪れるマルシェに内心では胸を躍らせていた。

「クロエと話すのは本当に楽しいわ。Bellが大好きなのも、私と一緒だしね」
『ええ! Bellが活動を再開したら、絶対にコンサートチケットを当てて、BellとHirokaに会いに行くわ!』
「楽しみにしてるわ。私も、最高の舞台を用意するから期待しててよね」

 今日も一家は耳にデバイスを嵌めている。そのため時折日本語で話す弘香の言葉もフランス語へと翻訳されていた。逆もそうだ。興奮気味に早口で話すクロエの言葉もしっかりと日本語へ訳されている。だが弘香は「次に来た時は絶対にデバイスなしで話してやろう」と心に決めていた。

「マルシェに来たのは初めてだけど、本当に沢山のものがあるのね」
『そうよ! 日曜日はどこもお店が閉まるから、マルシェがないとご飯も食べられないの』
『だからここで色んなものを買うんだよ』

 クロエと共にマティスも補足を入れてくる。そして大勢の人で賑わうテント内を、後ろからついてくる知と一緒に物色していく。

『Bonjour! 一つどうだい?』
『Bonjour! Hiroka,食べてみて』
「え。いいの?」

 果物を販売している店舗の前に来れば、途端に男性店員が目の前でリンゴをカットして渡してくる。突然のことに戸惑う弘香に対し、後ろで黙って眺めていた知が「大丈夫だよ」と答える。

「メルシー(ありがとう)」

 お礼を言いつつ弘香はクロエと共にカットされたリンゴを受け取り、一口齧る。
 途端にリンゴの甘い果汁が口内に溢れだし、シャリシャリとした触感と、ほのかな酸味、芳醇な香りが口いっぱいに広がる。

「セボン!(美味しい!)」
『でしょ?! 果物は今の時期が一番美味しいの。他にもたくさんあるわよ。そっちのブドウも頂戴!』
「ええ?!」

 店員にたかりだしたクロエに弘香はギョッとするが、男性店員は笑顔で一粒ずつ渡してくる。あまりの出来事に呆然とする中、クロエは気にせず笑顔で受け取り、そのまま口に入れた。

『うん! 美味しい! Hirokaも食べて!』
「すごいでしょ。クロエはこういう子なんだよ」
「ジェネレーションギャップというよりは、性格の違いね……」

 朗らかに笑う知に、頬を引きつらせつつも渡されたブドウを口に入れて弘香は体を震わせる。
 軽く歯を立てただけで限界まで張りつめていた皮がぷつりと弾け、瑞々しい果肉が口の中で花開く。柔らかくも弾力があり、甘い果汁は蜜のようだ。
 日本のブドウとはまた違った酸味も感じるが、その美味しさに感動した弘香は咄嗟に知の腕をバシバシと叩いた。

「うっま! なにこれ! 超美味しい!」
『あはは! だよね! 美味しいよね! よし! じゃあ買おう!』

 興奮する弘香を見て笑ったクロエは早速店員にブドウとリンゴを買うことを伝える。
 フランスでは果物だろうが野菜だろうが単体購入が基本だ。勿論グラムでも買える。日本と違って袋詰めされていないことを嫌う人もいるかもしれないが、弘香は「洗えばいける」というタイプだったので気にせずクロエが購入する姿を眺めていた。

「それにしても、実際見てみると驚きよね。魚も肉もそのまま売られてるんだから」

 勿論チーズや一部の生鮮食品はショーケースに並べられ、袋詰めにされているが、果物や野菜はほぼそのまま露店に並んでいる。
 鮮魚であっても貝やカニ、タコなどはそのまま豪快に籠に入れられており、日本ではなかなか見られない光景であった。

「豪快だよね。あとはお国柄の問題かな。日本で同じことをすると絶対衛生管理がどうの、って言われるからねぇ」
「湿気がなくて日本より寒いから出来るんだろうけどね」

 気候の違いは勿論だが、何よりあらゆることに細かい日本を思い出して肩を竦める弘香に対し知は朗らかに笑う。
 そして果物を買い漁っていたクロエとマティスを見つけたのか、肉や魚、チーズを調達しに出ていたアレクサンドルとオスカーが近付いてきた。

『欲しいものは買えたかい?』
『うん! ブドウとリンゴが美味しかったわ。他にも色々買ったから、楽しみにしててね!』

 声をかけたのはクロエの父親であるオスカーだ。それに対しクロエが笑顔で答えれば、パンを買いに行っていたルシィと深雪夫人もマルシェの付近に戻って来たという連絡が来る。
 今回弘香たちは青果が並ぶ場所をメインに通ったが、他にも生活用品や洋服、雑貨を売っているエリアもある。実際マルシェはパリだけでも数十ヶ所ある。古本市や骨董市も個別にあるため、朝食後に回ろう。という話になっていた。

「フランスの朝ご飯は基本的にパンとカフェオレかコーヒーで、アメリカみたいにサラダや卵料理は食べないのよ」
「あとはシリアルかヨーグルトだよね。クロエは毎朝ヨーグルトを食べるって言ってたよ」

 マルシェの外で合流した夫人と知からの捕捉に「なるほどね」と頷いていると、先を歩いていたクロエが振り返り、三人に近付いて来る。

『今私のこと呼んだ?』
『呼んでないけど、クロエのことは話してたよ。クロエは毎朝ヨーグルトを食べてるんだよ、って』
『そうよ! 食べない子も多いけど、私はチーズもヨーグルトも好きだから、つい食べちゃうの』

 照れくさそうに笑うクロエにつられるようにして弘香も笑みを返せば、マティスが振り返って『クロエは食いしん坊だからね』と揶揄うように告げる。途端にクロエは眉尻を吊り上げ、マティスを追いかけその背を叩いた。

「あはは。マティスったら、クロエにだけは強気なのよ」
「普段はシャイでなかなか女性と喋れないのにね」
「“喧嘩するほど仲がいい”ってやつじゃない?」
「あはは! 本当ね!」

 久しく聞いていなかった『ことわざ』に夫人がカラリとした笑い声を上げる。
 そうして賑やかなマルシェを抜け、賑わう街を歩いていると、多くの人たちが通りに面するパン屋やカフェに足を運んでいる姿が目に入った。

「弘香ちゃん。あそこにあるパン屋はね、バゲットが本当に美味しいの。勿論他のパン屋さんにも美味しいバゲットはあるけど、一番のお気に入りは間違いなくあそこね」

 夫人が示したお店からは今も沢山の人が入っては出て行く。その殆どが細長いバゲットを持っており、弘香は夫人が掲げるバゲットの袋とお店のロゴが一致していることに気付いて笑みを深めた。

「楽しみにしています」
「ええ! 本場のバゲットを楽しんで頂戴ね。それから、朝ご飯を済ませたらショッピングへ行きましょう。本当は観光がしたいだろうけど、ごめんなさいね。クロエたちは明日から学校だから、夕方までに帰らないといけないのよ」

 パリにはあまりにも多くの名所がある。シャンゼリゼ通りから始まり、凱旋門、エッフェル塔にルーヴル美術館、コンコルド広場、デパートや専門店が集まるオペラ地区など上げだしたらキリがない。
 他にも多くの美術館や博物館、教会や広場が無数にある。少し足を延ばせばヴェルサイユ宮殿にも行ける。到底一日では案内しきれないほど沢山の歴史ある観光名所が集っているのだ。

 だからこそ明日に備えて早めに戻らねばならない息子・娘家族のことを考えて今日はショッピングをすることになっていた。それでも沢山のお店がある。弘香にとっては観光だろうとショッピングだろうと好奇心が刺激されるのだから、「どちらでも構わない」というのが本音だ。

「勿論です。むしろおすすめのお店を教えてください」
「そう言ってもらえると助かるわ。でもクロエの前では言っちゃダメよ。あの子、張り切り過ぎて弘香ちゃんがヘトヘトになっちゃうわ」

 笑う夫人に弘香は「嘘でも冗談でもないんだろうな」と察する。事実クロエは弘香よりも十歳若いのだ。体力の差を考えたら笑い飛ばすことなど出来ない。

「気を付けます」
「そうして頂戴」

 明るく話す夫人と共にマルシェが開かれていた通りを抜け、フゥベー夫妻がよく利用するというベーカリーカフェで朝食を摂る。
 ここでは焼き立てのパンをそのままモーニングのメニューとして食べることが出来る。そのため地元の人にも愛されているようだった。
 周囲の席ではバゲットやクロワッサンだけでなく、チョコレートが入った有名な菓子パンである『パン・オ・ショコラ』や、タルト生地で作られた郷土料理『キッシュ』を食べている人も多い。
 弘香はオーソドックスなモーニングを頼んだためクロワッサンだったが、バターとイチゴジャムがそれぞれ用意されていた。

「調べるまではフランス人の朝食がこんなにも質素だとは思わなかったわ」
「食べない人もいるぐらいだからね。ボクが通ってた高校じゃ『朝ご飯を食べさせてください』なんて連絡が入った家庭もあったよ」
「マジで?」
「うん」

 クロエは若者らしくベリーとヨーグルトアイスが乗ったフレンチトーストを注文し、マティスはサーモンとほうれん草のキッシュと割とボリューミーだ。
 普段は彼らもバゲットが主な朝食なのだが、休日はこうなのだと弘香に説明する。フゥベー夫妻やオスカー、ルシィも各自好きなパンと飲み物を頼んでいるから実際いつもこんな感じなのだろう。

 そうして始まった朝食では、付け合わせで来たバターもジャムもいらないほどにクロワッサンの味がしっかりとしていた。
 店内の明るい照明が当たり、まるで蜜のように輝く表面は焼きたなこともありサクサクとしている。そしてギッシリと重ねられた層に織り込まれたバターの濃厚な香りと味が、噛む度に濃くなっていくのだ。
 その筆舌に尽くしがたい美味しさに弘香は思わず「フランス語忘れる……」と呟いて天を仰ぐ。そんな弘香に知が皆に「美味しいって」と伝えれば、全員が「そうだろう」と言わんばかりに笑顔で頷いた。
 その後も夫人たちに促されるまま備え付けのバターもイチゴジャムも試したところ、どれも美味しすぎて弘香が撃沈したことは言うまでもない。

「フランスの朝ご飯が質素だなんて言ってすみませんでした」
「あははは! まあ見た目は質素だからね。間違いではないわよ」
「そもそもパンのサイズが日本と違うからね」

 朝食後、遂にショッピングへと赴いた面々が来ていたのは『ヴァンブ』で開催されている『蚤の市(のみのいち)』だった。

 蚤の市。日本風に言えば『フリーマーケット』だ。ヴィンテージものの雑貨や小物、食器や調理器具など、数多くの店が出店している。中には珍しいマニア向けの品物を売っている店もあり、掘り出し物が見つかることも多い。
 何より治安がいいため観光客も多く、青空の下盛んに聞こえてくる声に浮足立つ思いだった。

『Hiroka! あそこのお店だけどね、すっごくおすすめなのよ! アンティークジュエリーのお店なんだけど、素敵なものがたくさんあるの!』

 フランスのショッピングといえばデパートやマルシェ(市場)、パッサージュ(アーケード街)を思い浮かべる人も多いが、こうした蚤の市や専門市も人気だ。事実観光客以外にもクロエのような現地人の姿がちらほらと見られる。

『クロエ! ああもう……。Tomo,すまないね。この調子だと今日は一日Hirokaを離さないぞ』
『はは……。半分は諦めてるから大丈夫だよ』

 逆に言えばまだ半分は諦めていないのか。と隣で聞いていたマティスは思ったのだが、既にクロエは弘香の腕を引っ張って一軒の雑貨屋へと足早に進んでいる。
 その背に続くのは深雪夫人とマティスの母親であるルシィだ。二人ともショッピングが好きなタイプなので、男性陣を置いて各自店を覗いている。
 そんなパワフルな女性陣達に対し、オスカーは肩を竦めて娘の行動を知に謝罪した。勿論知もクロエの性格を把握しているため笑顔で流したが、手を繋いで歩くことすら出来ないのは流石に残念だと思ってもいる。

『パリの観光は明日、Tomoに任せるとしよう』
『頑張れよ、Tomo』

 ポンポンとオスカーとアレクサンドルに肩を叩かれ、知は「任せて」と笑みを返す。それから弘香とクロエが向かった雑貨屋へと足を向けた。

『Hirokaはどれが好き? 私はこれ!』
『そうね……。私は、これかな』

 二人がいたのはアンティークジュエリーの店だ。様々なデザインのネックレスや指輪が並ぶ中、二人はそれぞれ気に入ったブローチを手に取る。
 クロエは目にも鮮やかなゴールドの、ところどころにイミテーションパールがついた花形のブローチを手に取り、弘香は逆にシルバーの、涙のような形をした木の実を加える小鳥をモチーフにした三日月型のブローチを手に取った。

『とっても素敵ね! HirokaのAzみたい!』
「本当だ。言われるまで気付かなかった」

 弘香は意図していなかったが、似ていないわけではない。それに、小鳥と共に象られている三日月もどことなく『U』を彷彿とさせる。

「私のAzに『U』の三日月、か……。そうね。私とBellは、ここから始まったから」

 そして恵や知と出会えたのも、間違いなく『U』があったからだ。

 クロエは何かを懐かしむような瞳でブローチを眺める弘香に目を向ける。
 事実弘香はこの異国の地で、初めて手にするブローチを前に郷愁に駆られていた。

 鈴が、Bellが、初めて『U』の世界で産声を上げたあの瞬間――。
 弘香の世界は、間違いなく広がった。

 確かに先に『U』へと登録したのは弘香だし、鈴を誘ったのも弘香だ。それでも、登録してすぐに見た莫大で広大な世界より、ベルが歌い始めたあの瞬間こそが弘香にとって『U』の始まりだった。

(ベルの歌が導いてくれなかったら、私は今頃どんな大人になっていたんだろう。鈴がいたから、鈴と出会えていなかったら、私の世界はきっともっと狭くて小さかった。恵くんも知くんも、あのちっぽけで狭苦しい世界から抜け出すのにもっと時間が掛かっていたかもしれない。大きな世界へ羽ばたくことが出来なかったかもしれない。でも、そんな私たちを、あの子が――“Bell”が、繋いでくれた)

 勿論華々しい栄光だけがあったわけではない。ベルは一度アンベイルされたし、弘香も現実世界に追われてまともに活動することが出来なかった。
 恵は『竜』として世界中から嫌われたし、知は弘香の知らない所で顔も名前も知らない他人に追いかけ回されていた。

 それでも弘香にとって今や『U』は切っても切り離せない存在になっている。
 事実あの三日月へと手を伸ばすように駆け抜けた。ベルと一緒に。そして今では、竜や天使もいる。

『Hiroka?』

 晴れ渡った空の下。あちこちで人の声が響き渡る賑やかな空間であるにも関わらず、クロエはふと弘香の周りにだけ音が消え失せたような静寂を、静謐さを肌で感じ取った。

 その姿は知り合いの誰とも似ていない。光に照らされ艶めく黒髪も、どこか寂しそうにも見えるのに、優しく微笑んでいるようにも見える穏やかな横顔も。

 いつだってBellの隣で楽しそうに飛んでいた小鳥のような女性が、本当はこんなにも静かで落ち着いた人なのだとクロエは思っていなかった。
 だからこそクロエはふいに思ったことをそのまま声に乗せて届けてしまう。

『Hirokaは、おばあちゃんともママとも違う。本当の意味で『異国の女性』って感じがするわ』

 ハッとしたクロエが口元を抑えるが既に遅く、珍しく抑えられた声で呟かれた一言に弘香だけでなく隣の店でレコードを眺めていた知も振り返る。
 いつも活発的なクロエがこんなにも大人しく、また弘香と距離を感じているかのような言葉を口にするとは思わなかった。

 だが密かに衝撃を受けていた知とは違い、弘香はすぐに心優しい年下の友人に向けて笑みを返した。

「そうね。だってここはフランスだもの。日本人である私は間違いなく“外国人”で、異質だわ」

 テレビや写真でしか見たことのないフランスという国。建築様式も気温も文化も歴史も日本とは異なる。風が運んでくる香りも、通りを歩く人々も。すべてが地元とも東京とも違う。
 それをほんの少し寂しく、心細く思う気持ちを確かに抱きながらも、弘香はそっと、自身の失言に反省し、俯くクロエの肩に手を乗せた。

「でも、私はフランスに来てよかった。だってクロエに出会えたから。『U』ではないこの世界で、等身大のあなたに出会えたことは、間違いなく幸せなことよ」

 良くも悪くも『U』は電子の世界で表に出せない“隠された自分”が浮き彫りになる。それがいい方に転べばいいが、時には悪い方にも転じてしまう。
 弘香が底抜けに明るく活発的な女性だと勘違いされるように、クロエもきっと『U』では“表に出せない自分”の一面を持ち、それがAzに現れていることだろう。

 クロエはそんな自分すら受け入れているつもりでいたが、いざこうして他国の女性に――しかも自分の周りにはいない、時に吸い込まれてしまいそうな優しくもどこか抗えない瞳をする女性に、知らず唇を震わせた。

『……Hiroka、私ね、本当は、Bellみたいな綺麗なAzに憧れてるの』
『そう』
『HirokaのAzも、可愛くて好きよ。でも、私のAzは――』

 作り直しても、作り直しても、結局浮き彫りになってしまうものがある。
 クロエは暫し俯いた後、ゆっくりとスマートフォンを取り出し、自らのAzを弘香に見せた。

『ひどいでしょ? コレ、定期的にストレートかけないと、この状態が維持できないの』

 クロエは酷い天然パーマの持ち主だった。それがAzにも表れており、クルクルと渦を巻いているようにも見える。それがコンプレックスなのだとクロエは苦い顔で再度俯く。

『私の髪の毛、ママに似てるの。ママはボリュームもあって、癖もすごくて……。私もそう。だから小さい時はブラッシングするのも大変で、ストレートの綺麗な髪にすごく憧れた』

 とはいえ定期的にストレートをかければ髪は痛んでしまう。どれほど気を付けようと乾燥してはパサつき、艶がなくなっていく。
 だからこそ余計にクロエは弘香の黒髪を見た瞬間目を奪われたのだ。

『Hirokaは、すごく綺麗。風が吹く度にサラサラと流れていく髪が本当に美しいわ。エキゾチックで、神秘的。……憧れるわ』

 クロエの周りに黒髪の女性はいなかった。祖母の深雪だって、昔は黒かったが今は白く染まっている。親戚や友人、どんなに探しても精々が茶髪で、時折見る日本人の観光客でも髪を染めていたり、ヘアアレンジをした人が多く、また長々と見ていられるわけではなかった。

 だからこそ衝撃的だったのだ。弘香の流れるような自然な黒髪は、クロエからしてみれば喉から手が出るほどに欲しい“美しさ”だった。

『でもね、私、自分のことが嫌いなわけでも、ママが嫌いなわけでもないの。ただこの髪の毛だけは……好きになれない』

 今日も一本に縛った髪の、痛んだ毛先を指に絡めてそっと握る姿は活発なクロエとは思えないほどに小さく見える。

 だけどそんな彼女の気持ちを弘香は痛いほどに理解することが出来た。

 どんなにサッパリとした性格の人でも一つぐらいはコンプレックスがあるものだ。普段は隠していても心の中では悩んでいたりする。
 あの『永遠の妖精』とも呼ばれる世界的に有名な女優――オードリー・ヘップバーンですらコンプレックスがあったのだ。
 コンプレックスがない人間などいるはずがない。

 だが弘香は下手な慰めを口にすることはせず、ただあの日、雨に打たれて項垂れていた自分のように俯く少女に身を寄せた。

『私も、自分の嫌いなところ、たくさんあるわ』

 いつも浮気されてばかりいた。男運のない自分。周りの女の子たちがみんな幸せになっていくなか、自分だけが取り残されたように感じていた。

 過去の残滓に、栄光に、いつまでも縋りついている――。

 そんな自分に弘香はいつからか“消えてしまいたい”と、思うようになっていた。思い続けていた。弘香は、いつまでも無鉄砲な少女ではいられなかったのだ。

「クロエ。私はね、昔から『好きになってはいけない人』に焦がれてしまう女だったの」

 そして見る目がなかった。だから浮気されていたことにも、二股を掛けられていたことにも気が付かなかった。

「本当の私はちっとも強くなくて、臆病で、疑い深くて……。可愛げがない、つまらない女なの」

 最初の彼氏に『おもしろそうだと思ったから』という理由だけで告白され、二股相手に選ばれた。弘香が浮気を問い詰めた時も謝るどころか開き直って『性格はまあ、面白いな。とは思ったけど、結局は機械オタクなだけだったし、体の相性もあんまりよくなかった』と言われて思わずその頬をビンタした。
 それですべてがチャラになったわけではない。むしろ別れる時まで相手の悪質さに気付けなかった自分の甘さを、弘香は心の底から憎んだものだ。

 次に付き合った男は下半身に正直で、弘香にプロポーズをする気でいたにも関わらず何度も浮気を繰り返し、別れようとした弘香に縋る情けない男だった。
 弘香は驚いた顔で自分を見つめるクロエにそっと微笑むと、スマートフォンを握る彼女の手に自分の手を重ねる。

「だけど、そんな私でもいいと言ってくれる人がいた。今でも私は自分のそういうところは嫌いだけど、自分が嫌っている部分を愛してくれる人はいる。私にとっては特別でも何でもないこの黒髪を、クロエが綺麗だと言ってくれたみたいに。クロエの弱さもコンプレックスも、愛してくれる人は絶対にいる」

 高校生の時の弘香だったらこうして相手の弱さに寄り添うことなど出来なかった。むしろ「ウジウジしてんじゃねーよ! 生まれつきなんだから死ぬまで付き合うものなんだし、もっと前向きに考えろっつーの」とでも言って鬱陶しそうに叱ったことだろう。特にクロエは学生時代の弘香にとっては苦手なタイプだ。棘のある言葉しか投げられなかったであろう自分が容易に想像出来る。

 だが何度も他人に踏み躙られ、沢山の人に支えられ、引っ張り上げられた今だからこそ言える言葉がある。悩み、俯く少女に寄り添うことが出来る。

 それが、弘香とクロエの間にある『十年』という歳月の重みであり、違いだった。

『……うん』

 クロエはギュッと唇を噛みしめると、美しくて強い、異国の友人を潤んだ瞳で見上げる。

『Hiroka。私、いつか、この髪も、自分のことも、心から好きになりたい』
『うん』

 クロエは確かに活発で、積極的で、自分の思ったことをハッキリと伝えられる明るい子だ。だけど本当は自分のすべてを受け入れられないところがあって、そんな自分に葛藤してしまう。ただの十六歳の女の子でもあるのだ。
 そんな少女を、かつては自分の弱さを傲慢さと無敵さで誤魔化してきた過去の自分を抱きしめるように、弘香は優しくクロエの肩を抱き寄せた。

『――大好きよ。クロエ。あなたは素敵な女性だわ』

 まだ出会ってから一日しか経っていないけれど、クロエは本当に眩しくて、明るくて、弘香にとっては花火のような子で――だからこそ、嫌いになれなかった。

 昔の自分とは対極だと思う部分も確かにあったが、駄々をこねる子供のように『イヤだ』と突っぱねるような歳の重ね方はしていない。むしろ悲惨な出来事があった数年間があったからこそ、弘香はまっすぐにクロエの悩みも葛藤も、本音も受け止めることが出来た。

 同い年だったら、きっとこうはいかなかっただろう。

 そんな弘香にクロエも体を寄せると静かに微笑む。

『Hirokaは、カッコイイ。Bellと同じくらい――ううん。Bellよりももっと、好きになったわ』
『ありがとう。でも、これからもずっとBellを好きでいてくれたら嬉しい。私にとってBellは、大事な友達だから』
『うん。Hiroka,ありがとう。大好きよ』

 ようやくいつものように、けれどただ明るいだけでなく、落ち着きを持って笑みを浮かべたクロエに弘香も慈しむような目を向けてそっと頭を撫でてやる。

(鈴も、私も、この子も、みんな変わらない。みんな何かに悩んで、苦しんで、嫌いなところがあって……。それを見せないように自分を作ってる。だけど、鈴もクロエもそんな自分を最終的には表に出せた。だからきっと、この子も鈴と同じで克服するんだろうな)

 ――では、自分はどうなのか。

 弘香は自分自身に問いかけながらも、結局答えが出ないままクロエの髪を優しく指で梳く。
 そんな弘香の静かな、それでいてどこか消えそうに儚い気配を肌で感じながらクロエはそっと弘香の手を握った。

『Hiroka』
『なに?』
『私も、Hirokaに会えてよかった。Bellの隣にいた人だからじゃない。本当のHirokaに会えたことが、私は誇らしい』
『……ありがとう』

 今度はフランス語で「ありがとう」と言えば、同じようにフランス語で「どういたしまして」と返される。
 素直で前向きなクロエとの会話が一段落したと思ったのだろう。そっと見守っていた知が二人の元へと歩み寄る。

『クロエ』
『Tomo,今の話はパパとママには内緒にして。私、自分の髪は好きじゃないけど、ママの髪は好きなの。だから、絶対に言わないで』
『……分かったよ』

 事実クロエは母親の髪を嫌ってはいない。むしろボリュームがある分ふわふわとして、羊のようで好きなのだ。だけど自分はふわふわではなくクルクルしているだけだったから、どうしても好きになれなかった。
 母の髪を大好きだと思う気持ちと、ふわふわの髪に対する憧れ――。だけど自分の髪はどうしても好きになれない。
 その複雑な気持ちがしっかりとAzに現れてしまった。それをクロエは改めて実感して苦笑いする。知はそんなクロエの頭を優しく撫でた。

『じゃあクロエと、ボクたち三人の秘密だね』
『うん。絶対に言っちゃダメだからね? 約束破ったら、Tomoでも容赦しないんだから』
『分かったよ。クロエを怒らせると怖いからね』

 おどけたように肩を竦めつつ、知はそっとクロエから離れた弘香へと視線を移す。

「ヒロちゃん。大丈夫?」
「……うん。平気」

 人ごみに攫われてしまいそうな弘香の手を握り、囁いてきた知に小さく顎を引いて頷き返す。事実弘香は大丈夫だと思っていたが、人の心の変化に敏感な知はギュッと眉間に皺を寄せた。

「ヒロちゃ――」
『クロエ。そのブローチ、一緒に買おうか』
『うん!』

 だが心配するような知から顔を逸らし、弘香は出来るだけ明るい声を出してクロエへと話しかける。

 その後は値段交渉をして少し安く購入したブローチを胸元に飾り、二人は蚤の市を端から端まで一緒に練り歩く。
 日本ではお目にかかることがないであろうヴィンテージものの雑貨やアクセサリー。フランスらしい、優雅でクラシックな陶器で出来た食器や、カラフルな小物。
 それらを元気を取り戻したクロエと共に眺め――再び移動してパリで最も有名なパッサージュである『ギャラリー・ヴィヴィエンヌ』で雑貨や服飾店を見て回り、お昼は予めフゥベー夫妻が予約していたレストランでランチをとった。
 その頃には弘香の纏っていたどこか物悲し気な空気も霧散しており、クロエやマティス、深雪夫人やルシィ、オスカーたちと明るく談笑し、見目鮮やかでありながらも美食大国らしい食事の美味しさに舌鼓を打っていた。

『Hiroka! またフランスに来てね! 私もいつか絶対日本に行くから!』

 休日というのはどうしてこうもあっという間に時間が過ぎていくのか。
 学生であるクロエとマティスは自宅へと帰らなくてはならず、夕方にはパリを後にした一行はフゥベー夫妻の自宅で別れの挨拶を交わしていた。

「絶対にまた来るわ。約束する」
『本当に本当よ!? Bellのコンサートも楽しみにしてる!』

 クロエは車に乗り込むまでずっと弘香から離れず、乗り込む時も長く、強くハグをして『絶対にまた会いましょう! 大好きよ!』と力強く宣言した。
 弘香はそんなクロエに笑顔で『また会いに来るし、日本に来たら今度は私が案内してあげるわ』と約束をした。
 マティスとも固く握手を交わし、今度はお互いもっと沢山、色んな話をしようと約束して別れた。

「ヒロちゃん」
「うん?」

 夕食を終え、就寝するだけとなった時間。弘香は冷たい夜風が吹いているにも関わらず、バルコニーに出て景色を眺めていた。

「アレックスと雪さんから伝言。『明日はあなたたちだけで好きなところに行ってきなさい』だって」
「そ。今日は……迷惑をかけた?」

 詳しい会話を聞いていなければ弘香とクロエに何があったかは分からなかっただろう。だが相手は弘香よりずっと長くクロエと接している家族だ。弘香が幾ら取り繕っても綻びがあるかもしれない。
 そう考えて俯き、自嘲するように唇を歪めた弘香に「そんなわけないでしょ」と知はハッキリとした口調で言い返す。

「むしろ逆だよ。誰も知らなかったクロエの悩みを、ヒロちゃんが聞きだした。クロエもずっと、家族にも黙っていた秘密を暴露するのは、すごく勇気が必要だったと思う」
「…………そう」

 本来ならばクロエに嫌われていても可笑しくはない。何故なら弘香がクロエと同じ年頃だったならば、自分が心から羨む女性が傍に立っていたならば――嫉妬せずにはいられなかった。もっと言えば『怨めしい』とすら思っただろう。
 事実『弘香』という存在がクロエのコンプレックスを刺激してしまった。あんなに素直で明るくていい子の心を、苦しめてしまったのだ。

(髪、切っててよかったわ。じゃないと――)

 もしこの黒髪が長いままだったら。弘香は衝動に任せてハサミで切り落としていたかもしれなかった。それほどまでにクロエの姿は弘香の傷ついた姿とよく似ていた。

「クロエは、ずっと“強い子”でいたから。竜と似てるんだよ」

 ――強くて弱い。
 優しいから強くて、優しいから弱い。

 そう口にした知ではあったが、その実弘香にも当てはまる言葉だった。だが知は言わなかった。弘香を追い詰めたいわけでも、刺激したいわけでもなかったからだ。
 とはいえ元々が敏い弘香である。知の言いたいことはしっかりと伝わっており、グッと唇を噛んで俯く。

「…………いやになるわ」

 ――大人になるということは、時に便利で、時に残酷だ。

 クロエよりも十年長く生きてはいるが、その十年だって思い返せば大したものじゃなかったように感じる。実際弘香にとって最も『輝かしい』と思えた時間は間違いなくBellと共に駆け抜けたあの高校時代だ。
 それ以降はただ漠然と、流れる時に身を浸していただけな気がしてならない。

 大学生の時も、社会人になってからも。

 だから本当は、クロエを慰める言葉なんて一つとして浮かんでこなかった。それだけの経験を積んできたと、言える自信がなかったのだ。

「…………今日は、冷えるわね」
「……疲れたでしょ? もう寝よう」

 弘香はクロエがひっそりと零した涙の痕を思い出しながら、知に誘われるまま冷えきった体をバルコニーから離した。




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