- ナノ -

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 東京を発ってからおよそ十一時間。辿り着いたパリの空港――シャルル・ド・ゴール空港――で、弘香は呆けたように口を開けて立ち尽くしていた。

「Tomo〜!」
「アレックスー!」

 なんと、あの『世界のアレクサンドル』がわざわざ空港に二人を迎えに来たのだ。勿論その隣には彼の妻である深雪夫人も立っており、笑顔で知とハグをしている。

「待ってたわぁ。長旅お疲れ様。大変だったでしょ?」
「ボクは平気だよ! 慣れてるからね。あ。でもヒロちゃんはどうだろう。今回が初めての海外だって言ってたし……」
「あら。それは大変ね。弘香ちゃん! こっちにいらっしゃい!」
「は……。あ! はい!」

 弘香は慌ててキャリーの取っ手をひっつかみ、小走りで二人の元へと駆けて行く。

 アレクサンドルは銀色に近い白髪に、白髭を蓄えたダンディな男性だ。紺地のジャケットに無地のシャツ、ストレートタイプのズボンからは足首が見えており、六十代だというのにどこか若々しさも感じられる。
 仕事中の彼はベートーヴェンの肖像画を髣髴とさせる気難しい表情をするが、今はプライベートな時間だからだろう。誰が見ても穏やかな顔で(むしろ笑うとチャーミングにも見える)顔いっぱいに笑みを浮かべながら弘香に向かって手を差し出した。

「Bonjour! Hiroka. Enchanté.Ravi de vous rencontrer.(こんにちは、弘香。はじめまして。会えて嬉しいよ)」
「ボンジュール、ムッシュ!」

 知と散々練習したとはいえ、それでも世界で最も有名なデザイナーを前にしているのだ。緊張しつつも弘香はしっかりと練習通りに挨拶をする。

 ちなみにフランス語では『H』の音を発音しないので、弘香の名前も『イロカ』と発音される。意識しなければ誰の事を呼んでいるのか分からなくなりそうなので、弘香はフランス行きが決ってからは知に『イロカ』と呼ばせることで耳を慣らしていた。

 そんな努力を重ね、こうして笑顔でアレクサンドルと握手を交わした弘香に二人も優しい笑みを浮かべて歓迎する。

「会えて嬉しいわ。知くんからいつも話を聞いていたから、今日がすごく待ち遠しかったの」
「私こそ、お誘いくださってありがとうございます。光栄です」

 これは嘘偽りない本心である。フゥベー夫妻は大変な有名人である。だからこそこうしたプライベートな時間に会うことは難しい。しかも弘香に関しては完全なる初対面である。
 本来ならば何の繋がりもない、アポイントを取ることすら難しい立場の人たちなのだ。それが知の『恋人』という肩書を持つだけでこうもあっさりと会うことが出来る。
 弘香は改めて『住む世界が違う』という感覚を味わいながら二人の前に立っていたが、当の本人たちはとても好意的に接した。

「弘香ちゃん。こっちの言葉を生で聞き取るのは難しいでしょう? 耳にデバイスを嵌めておくといいわ」
「あ、はい」
「話す時の通訳ならボクと雪さんがするから。勿論、ヒロちゃんががんばるなら応援するよ」
「うん。分かってる」

 必死に練習をした時間を無駄にするわけにはいかない。それこそ知にも手伝ってもらったのだ。例え拙くても自分の意思は自分の言葉で伝えたい。
 それに、性格上年下である知に頼りきりになるのは許せなかった。だからこそ弘香は夫人をまっすぐに見つめ、ハッキリとした口調で意思を伝える。

「お聞き苦しいかもしれませんが、出来る限り自分の力で話したいと思います。よろしいでしょうか?」
「フフ。私たち、頑張る子は好きよ。でも困った時は遠慮なく言いなさい」
「はい。ありがとうございます」

 とはいえ自分が頑張ってフランス語を話すことと、相手の言葉を正しく聞きとることはイコールではない。弘香はすぐさま耳にデバイスを嵌め、今まで聞こえてはいても意味が分からなかった現地の言葉を日本語で聞き取る。

『家では既に子供たちが準備を終えて待っているよ。みんなこの日を待っていたからね。だから空港に迎えに行くのも“誰が行くか”で昨日の夜争ったんだ』
『え〜? そんなことしたの? ボクだって迷わずアレックスの家に行けるのに』
『早く会いたかったんだよ。キミの“お姫様”にね』
「ぐふっ!」

 アレクサンドルと知の会話に、思わずダメージを受けた弘香が呻く。日本ではなかなか聞くことのない『お姫様』という単語が聞こえていたのだろう。同じ日本人女性である深雪夫人も声を上げて笑う。

「驚くわよねぇ。こっちでは臆面もなくこんなこと言うのよ?」
「ええ……。その、大変心臓に悪いと言いますか、驚いたと言いますか……」
「あははは! その遠回しな言い方も日本を思い出すわ! 懐かしいわねぇ〜」

 夫人はフランスに来てもう四十年ほどになる。その間に日本に帰ったのは数回しかないというのだから、弘香の『THE・日本人』な態度が懐かしくもあり、面白くもあるのだろう。
 初めてフランスの土地を歩く弘香を安心させるように明るい声と表情で話し続ける。

「こっちではね、とにかく意見をハッキリ言うことが大事よ。日本にいる時みたいに『はあ』とか『じゃあそれで』みたいな態度はよくないから、イヤだと思ったらハッキリと断りなさい」
「はい」
「あとは外国人観光客を狙った置き引きとかスリ、詐欺も多発してるから、街に出る時は必ず知くんと一緒にいなさい。あの子、アレで結構顔が広いから」
「そう、なんですか?」

 弘香が知る知という男は、とにかくふわふわしてのほほんとして、出来立てのパンケーキのような甘ったるい男でしかない。だが長年フランスで暮らす夫人は力強い笑みを浮かべて弘香の背を軽く叩いた。

「あの子はね、フランスのことを何も知らないままこちらに来たの。言葉も、文化も、宗教でさえも。私も暇を見つけては言葉を教えたけど、あの子はほとんどの時間を現地の人と交流することで覚えた人間なのよ」

 所謂『叩き上げ』というやつだろう。右も左も分からない。言葉も通じない。幾ら翻訳アプリがあるとはいえ、それにばかり頼っていられない状況もあったはずだ。だからこそ知は現地の人と共に過ごすことで様々な知識を吸収し、自分のものにした。

「私たちの周りで彼のことを知らない人はいないわ。勿論、仕事仲間だけでなく、近所の人たちもね」

 弘香の前でアレクサンドルと楽し気に会話をする知の背は、初めて見た時から随分と伸びている。キャリーを引く腕だって、弘香を難なく抱き上げられるほど力がある。もう自分が知る『少年』ではないのだと、分かってはいるのに今でも本当は戸惑っている自分がいる。
 そのことに弘香は気付いていながらもずっと『見ない振り』をしてきた。

 だがそんな弘香を叱るように、あるいは目を覚まさせるかのように、鈴は言った。

 ――今の知くんを見てあげて。知くんは、もう子供じゃないよ。

 優しくも確固たる意思が感じられる声だった。
 弘香はフゥベー夫妻と共に空港を抜けながら、異国で見る空をまっすぐ見上げた。



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「Tomo〜!」
「Ça fait très longtemps! Vous allez bien ?(久しぶりね! 元気だった?)」

 フゥベー夫妻の家に辿り着くと、すぐさま彼らの息子『オスカー』と娘の『ルシィ』が知へと笑顔でハグをする。その後ろには彼らの子供であるマティスとクロエも立っており、順番にハグをして再会を喜んでいる。

『この間は会えなかったから、今日がすごく楽しみだったの! 元気そうでよかったわ』

 そう口にしたのはアレクサンドルの娘、長女の『ルシィ』だ。彼女はデザイナーである両親から生まれた娘らしく、古典美術を愛する美術家――アーティストだ。実際に何度も個展を開くほどの実力者でもある。

 背は知より少し低いが、明るくハキハキとした声で話す活発的な女性だ。
 茶髪のロングヘアーは艶々として美しく、瞳も同じく明るい茶色であまり『異国感』を感じさせない。だがその勢いというかバイタリティは弘香を圧倒した。
 だが知は当然慣れており、相変わらず人を安心させるような笑みを浮かべてハグを返している。

『うん! 久しぶりだね、ルーシー。ボクは元気にしてたよ。そういえば、この間は個展の開催おめでとう! ボクも行けたらよかったんだけど、アレックスが離してくれなくて』
『ハハハ! 父さんは本当にTomoと仕事をするのが大好きだな。でも時には彼を自由にすべきだと思うよ。特にルーシーが個展を開いた時はね』

 ルシィを『ルーシー』と愛称で呼ぶのは、彼の兄でありアレクサンドルの息子である『オスカー』だ。
 彼もルシィと同じく茶髪だが、その色は少し明るい。どちらかといえばイエロー系の茶髪で、瞳の色も濃いめのグリーンをしている。顔立ちが似ているから兄妹だと分かるが、違っていれば赤の他人だと思ったことだろう。
 そんなオスカーに対し、アレクサンドルはおどけたように肩を竦めた。

『仕方ないだろう? Tomoの帰国予定もあったから、今のうちに全部やっておこうと思ったんだ』
『聞いた?! 娘の個展より自分の仕事を優先したわ!』
『たまたまだよ。いつもは愛する娘を優先するさ』
『あはは。じゃあまた近いうちに開いてよ。今度はアレックスに内緒で行くからさ』
『OK! 約束よ』

 笑顔で知の肩を叩いたルシィは、黙ってやり取りを眺めていた弘香へと視線を移す。そして笑顔で両手を広げた。

『あなたが“Hiroka”ね! Bonjour! ずっと会いたかったのよ!』
「ウィ! ボンジュール! マダム」

 弘香は「初対面なのだから挨拶は握手だろう」と思っていたのだが、ルシィはとても気さくな性格なのか、驚く弘香を他所に思いっきりハグをする。
 年齢は弘香よりも十歳以上歳上ではあるのだが、日本にいる二十代よりも若々しい印象を与える人だった。

『もう本当に本当に会いたかったの! Tomoったら『U』に行けば会えるよ〜。なんて言ってたけど、全然会わせてくれなかったんだから!』

 信じられない! と言わんばかりに大きく目を見開くルシィに、弘香は「どういうことなの?!」と心底困惑して咄嗟に知へと目配せする。勿論弘香を見ていた知がそれに気付かぬはずがなく、するりとルシィと弘香の間に入ってへにゃりと笑う。

『だってボクもヒロちゃんと話したかったんだもん』
『だからって紹介してくれてもいいじゃない。あなたの話を聞いて何年経ったと思ってるの? 一年? 二年? それとも三年?』
『ん〜、忘れちゃったなぁ』

 のほほんと笑う知に毒気が抜かれたかのようにルシィも笑う。そんなルシィの後ろから、オスカーも優しい笑みを浮かべながら弘香に向かって手を差し出してきた。

『Bonjour,Hiroka. はじめまして、僕はオスカー。僕もキミに会いたかったよ』
『Bonjour.はじめまして、ムッシュ。お会い出来て光栄です』

 たどたどしくはあるが、それでもこの一カ月と少しの間で詰め込んだフランス語を必死に駆使して挨拶する。そんな弘香に対し、オスカーもにっこりと笑みを返した。

『キミのことは昔からTomoから聞いていたんだ。こんなに可愛らしいお嬢さんだから、Tomoは秘密にしていたんだね』
「うぐ……!」

 オスカーも弘香からして見れば彫の深い、爽やかでありながらもどこか甘やかな気品が漂うイケメン中年である。そんな相手から『お嬢さん』だの『可愛らしい』だのと言われ、弘香の頬が赤く染まっていく。
 そんな弘香に対し、知は思わずムッとした表情を見せた。
「ヒロちゃん、なんで赤くなってるの」
「だ、だって……!」
「オスカーは既婚者だよ」
「分かってるわよ!」

 コソコソと小声でやり取りをするが、向こうもデバイスをつけているのだろう。二人の会話にニンマリとした笑みを浮かべている。

『可愛いわぁ。本当に可愛い。Hirokaはとてもシャイなのね!』
『応援したくなるカップルだね』

 そんなことを話し合う兄妹の後ろから、ずっとソワソワしていた子供たちが遂に声を出す。

『Bonjour! Hiroka! 私はクロエよ!』
『Bonjour,Hiroka. はじめまして。ぼくはマティスだよ』
『Bonjour! はじめまして! Hirokaです』

 クロエは父親と似たグリーンの瞳をした少女で、弘香よりほんの少しだけ背が高い。明るい金髪をポニーテールで纏めており、知とは違った意味で可愛らしい顔立ちの少女だ。
 その一つ年上だというマティスはスラリとした線の細い男の子で、日に焼けた肌と明るい茶髪、青い瞳の柔らかい顔立ちをしている。だからこそ照れくさそうに笑う顔が初々しかった。

『私たちもずっとHirokaに会いたかったの! だって私Bellがすっごい大好きで、大ファンなの! それをTomoに話したらね、いつもBellの隣にいるAzがあなただって教えてくれたの! もう信じられないぐらい興奮しちゃった! だっていつもBellの隣でクルクル飛んでいる姿を見て、いつも小鳥みたいで可愛い。って思ってたの。だからあなたに会えるのが本当に楽しみだったわ!』
『あ、ありがとう。とてもうれしいわ』

 高校生らしい、キラキラとした瞳とまっすぐな好意に弘香は別の意味で頬が熱くなる。思えば自分にもそういう時期があったのだと思うと懐かしくも恥ずかしくもなるのだが、やはり裏表のない純粋な好意はただただ嬉しかった。
 対するマティスも、クロエ同様Bellのファンらしい。知からベルや弘香の話を聞き、今日という日をずっと待っていたとしどろもどろに話す。

『ぼくもクロエと同じで、Bellのファンなんだ。コンサートにも行ったよ』
『本当!? ありがとう!』
『コンサートも素晴らしかったけど、隣でBellをサポートするキミもすごかった。Bellと同じぐらい輝いてたよ』

 ニコリと、白い歯を見せてはにかむように笑うマティスに思わず弘香のハートがキュンと音を立てる。が、すぐさま知が「ヒロちゃん」と釘を刺すように低い声を出した。

「なんでボクは『お子様』扱いだったのに、マティスにはときめいてるの?」
「だ、だって……ほら、あんたは、その、子犬みたいだったけど、マティスくんは王子様みたい、っていうか……」
「…………どうせボクは子犬だよ」

 ツーン。とそっぽを向く知に、弘香は思わず「ごめんって」と謝罪する。そんな二人に深雪が声を上げて笑い、アレクサンドルも肩を震わせている。

『さあ、挨拶はここまでにしてパーティーを始めよう! Tomo、Hiroka、こっちに来なさい』
「荷物はあとで部屋に運びましょう。まずは乾杯よ!」
「はーい」
「はい!」

 アレクサンドルを先頭に、カラフルに飾り付けられたダイニングへと足を踏み入れる。そこには既に沢山の料理が並べられているが、深雪は「まだあるわよ〜?」と楽し気に笑みを浮かべながらグラスを弘香へと渡す。

「遠慮せずに好きなだけ食べなさいね」
「はい。ありがとうございます」

 渡されたグラスには、子供たちがいることを考慮してだろう。お酒ではなくブドウジュースが注がれたが、日本で飲むものとはまた違った、芳醇で、それでいてほんのりと甘いそれに弘香の頬も自然と緩んでいた。





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