- ナノ -

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 知が突然フランスに行き、皆が唖然とする中レッドカーペットを歩いたことは記憶に新しい。そして今は帰国してすぐに『一緒にフランスへ行こう!』と言ってきた知と共に、弘香は初めて日本という島国から離れることになった。

「マジでこんなに早く行くことになろうとは……」
「えへへー。アレックスたちも楽しみにしてるってさ」
「だからって帰国した翌月にまたフランスに飛ぶって、あんたも無茶するわね」

 何せ東京からフランスまでは九千キロも距離がある。フライト時間も十時間越えとなかなかにハードだ。だからこそ二人はエコノミークラスではなく、ビジネスクラスで席を取っていた。

「私、海外に行くのはこれが初めてなのよ。ちゃんと現地での言葉が聞き取れるか不安だわ」
「大丈夫だよ。不安なら耳にデバイスを嵌めてて。伝えるのはボクがするから」
「それはありがたいけど……」

 今では当たり前となっている『自動翻訳アプリ』は基本的にどのデバイスにも初めからインストールされている。現に弘香が『U』にログインする際に使用しているイヤホンタイプにも入っている。だからそれをつけていれば向こうの話は訳されるわけなのだが――

「折角ならどこまで出来るか試したいじゃない」
「ヒロちゃんがそうしたいなら、それでいいよ。でも困った時はいつでも言って。ボクもいるし、雪さんもいるから」

 雪さん。というのはアレクサンドルの妻である日本人女性だ。
 旧姓『鏑木深雪(かぶらぎみゆき)』。京都の美大を卒業した後、東京で就職。
 その時に催事としてフランスに渡り自社製品を売っていたところ、アレクサンドル・フゥベーと出会う。その時はまだ恋仲ではなかったが、互いの感性に刺激を受け帰国までの時間を共に過ごす。
 その後一時帰国したものの、アレクサンドルとの出会いが忘れられずに退職。単独でフランスへと飛び、そこからアレクサンドルとの交際が始まった。そして自力で現在の会社へと就職。洗礼されたデザインセンスのある商品を数多く生み出し、一躍有名人に。そして今ではブランドを代表するデザイナーとなっているのだからすごい人だ。

 勿論その夫であるアレクサンドルも若い時からずっと第一線で活躍している猛者である。知と知り合いでなければ死ぬまで画面越しでしか見ることがなかっただろう。そんなとんでもない有名人夫婦と仲良しなこの男は、今日も変わらずのほほんとした顔で空の旅を満喫していた。

「あ。そういえば、雪さんなんだけど、昔は結構サバサバしてたんだって」
「へ〜。なんか意外。あの時話した感じではそんな風には見えなかったけど」
「うん。ハッキリした人だけど、すごく優しいよ。あ、そうだ。前にヒロちゃんの話をした時にね、雪さんは『昔の自分を思い出すわ〜』って言ってたよ」
「お、畏れ多いな……」

 早々とフランスに単独で飛んで自力でデザイナーとして成功した夫人と、日本のしがない一企業、しかも割とブラックな会社に勤めていた自分が似ているなど畏れ多いにもほどがある。
 胃がキリキリとし始めた弘香だが、知はいつも通り笑うだけだった。

「大丈夫だよ。お仕事中の雪さんならともかく、普段はとっても優しい人だから」
「仕事中だとどうなるの?」
「うーん……。日本風に言うなら『般若』かな」
「Oh……」

 何だかんだ言ってまだまだ現役なのだ。仕事に対する情熱は衰えていない。公私をキッチリと分ける性格らしい夫人の激しい一面を聞いて弘香の背に嫌な汗が流れたが、知はケロリとしたままだった。

「大丈夫だよ。今回は仕事の話をしに行くわけじゃないし、ボクも完全なプライベートだから」
「あっちもそうなんだっけ?」
「うん。今は大きな仕事を終えて休暇期間中だから、どっちもリラックスしてると思うよ」

 やはり仕事を抱えている人間は誰しもピリピリしているものだ。だが既に大きな式典は終わっている。アレクサンドルは勿論、妻の深雪も一仕事終えているというのだから心配することはないのだろう。
 現に先日行われたショーに関するインタビューなども全て終わっている。完全なプライベート空間ならばと、弘香も商談に赴く心地から僅かばかり解放された気になった。

「それで、息子さん、娘さんたちもいらっしゃるの?」
「うん。仕事を終わらせて、昨日の夜から家にいるんだって。ボクたちが来るのを心待ちにしてる。ってさ」

 ほら。と言って知が差しだしてきたスマートフォンには、フランス語で『子供もキミたちに会いたがっている!』というメッセージと共に高校生ぐらいの男女の写真が添付されていた。

「どちらのお子さん?」
「男の子はアレックスの娘さん『ルシィ』のお子さんで、次男のマティス。女の子が息子さん『オスカー』の娘さんで、三女のクロエだよ」
「次男と三女ってことは、他にもご兄弟がいるの?」
「うん。でも皆ボクと同じか一個上とかだから、仕事とか休暇旅行中で来られないみたい。皆ヒロちゃんに会いたがってたから、すごく残念がってたよ」
「なんでそんなところにまで私の名前が広がってんのよ……」

 今度は胃ではなく頭が痛くなりそうで額を抑えれば、知は悪気無く「ボクがずっと話してたからだね」と笑顔で答える。

「二人共まだ高校生だけど、すごくいい子だよ。マティスはちょっとシャイだけど、女の子にはすごく優しいから心配しないで」
「それはいいんだけど……。クロエちゃんはどんな子なの?」
「クロエはすごく活発で前向きな子だよ。マティスの一つ下なんだけど、クロエの方がお姉さんみたいなんだ。すごくしっかりしてて、話していても楽しいよ」
「へー。そうなんだ」

 写真ではどちらが上か下かは分からないが、フランスの男性はシャイな人が多いと聞いたことがある。また高校生となれば年頃でもあるし、余計に女性を意識してしまうのかもしれない。
 そこで弘香は改めて自分の格好を見遣り、眉間に皺を寄せた。

「ところでさ」
「ん?」
「一応あんたの客観的な意見を求めて聞くんだけど」
「うん」
「私って、向こうだとどう見られる感じ?」

 仕事を辞めてから一月以上経っているため健康状態はかなり良くなっている。夜もちゃんと眠れているし、食事も以前に比べてまともだ。時には鈴と恵の自宅に呼ばれてご相伴に預かっているし、伸び放題だった髪も今は切り揃えている。加えてフランス行きが決まってからはヘアオイルをつけて欠かさず手入れをしていた。

 それでも弘香は自分の容姿に自信があるわけではない。顔だって総務課の女性社員に比べたら平々凡々というか、よくある『日本人顔』というやつだ。メイク技術だって特に秀でているわけではない。
 美と愛の国でもあるフランスに行けばどんな目で見られるのか。弘香は今更ながらに不安が爆発しそうだった。
 だが知はケロリとした顔で「キレイだよ」と臆面もなく告げる。

「いやいや、お世辞はいらないって」
「なんでお世辞だって言いきるのさ。あのね、ヒロちゃんが気にするほど向こうの人は特別じゃないよ。むしろ『自分の身の丈に合った生活・服装』を意識している人が多いから、みんながみんなモデルみたいな格好をしているわけじゃないし、ブランド品を持ち歩いているわけでもないよ」

 確かに香水などは日本に比べて種類も香りも豊富ではあるが、知から見ても日本人の方がお洒落だと思うことの方が多かった。

「あっちではね、同じ服を着回すなんて普通だし、日本人みたいに何着も服を持っていない人も多いんだ」
「え。それってマジな話なの?」
「うん。中には沢山持っている人もいるけど、そうじゃない人の方が多いよ。だからボクもついパーカー着回しちゃうんだけどね」

 本人が申告する通り、知は昔からパーカーと無地のTシャツを好んで着ていた。ズボンはジーンズかチノパンが多く、靴はスニーカーを好んでおりブーツなどは持っていない。
 それを考えると恵の方が衣装持ちと言えるだろう。とはいえあっちもあっちで無地が多いので、お互いラフな格好が好きなのだろう。結局は似た者兄弟という奴だ。

「ただあっちの人たちは自分の意見をハッキリ言う人が好きだから、ベルよりはヒロちゃんの方が話が合うかもね」
「あー……。鈴は……確かにちょっと、尻込みしそうね」

 実際鈴は自分の意見を堂々と、見知らぬ人に言える質ではない。気心が知れている相手ならば話は変わるのだが、仲が良くなるまでに時間が掛かるため、どうしても聞き役に徹する割合の方が多かった。
 そう考えれば高校生の時から数多の、それこそ外国人とも関りを持ってきた弘香の方が気質としては合っているだろう。
 少しほっとする弘香に対し、知は「あとは」と続ける。

「向こうの女性はノーメイクか薄化粧が普通だから、ヒロちゃんはそのままでいいよ」
「……つまり、私の化粧は薄いと」
「実際ヒロちゃん厚化粧キライでしょ?」
「まあそうなんだけどさ」

 ヘラリと笑う知が言うように、弘香は厚化粧が苦手だ。出来る限り薄化粧でパッと済ませたいのが本音である。

「そもそも化粧って段階が多いのよ。化粧水つけて美容液つけて乳液つけて、化粧下地にファンデーションにって、何層顔に塗りたくるのよ」
「でもヒロちゃん美容液持ってないよね?」
「まあね。色々塗るの嫌いだから、オールインワンでもいいぐらいよ」

 学生の頃は日焼け止めしか塗っていなかったのに、大学生になると周囲にも諭されマナーだと言われ、仕方なく化粧を始めた。最初は好奇心もあって色々試すのが楽しかったが、激務に追われる中の化粧はただただ面倒でしかなかった。

「向こうには『すっぴん』っていう言葉がないんだ。ファンデーションを塗らないことが多いから、わざわざ別に言葉を作る必要がないんだよ」
「羨ましい限りね」

 毎朝死にそうな顔でクマを隠そうとしていた努力を思い出し、弘香の目から感情が消え失せる。だが一時はボロボロになった肌もターンオーバーして復活しており、十代の頃と比べれば多少肌艶は落ちたが、それでもマシな部類には戻った。
 それを踏まえれば今の弘香は美の国へ出ても問題ないのだろう。

「ヒロちゃんはお化粧しなくてもキレイだから、大丈夫だよ」
「だからお世辞はいらないって」
「お世辞じゃないのに……」

 恵もそうだが知も何故こうも美的感覚が狂っているのか。弘香は思わず日本を発つ前にお茶をした鈴との会話を思い浮かべた。



           2



 弘香がフランスに発つ数日前。とあるカフェの一席にて――

「あのさ。鈴だからハッキリ言うんだけど」
「うん」
「あの兄弟、美的感覚狂ってない?」
「分かる」

 即座に力強い頷きが返って来たことに、弘香も「だよね!?」と珍しく高い声を上げて腰を浮かせる。

「こんっなド一般人に、特に美人でもなければ可愛くもない醤油顔によ?! よくもあんな堂々と“可愛い”だとか“綺麗”だとか言えるわよね!?」
「そう! そうなの! 気持ちは嬉しいんだけど『違う! そうじゃない!』って気持ちになるの!」
「分かる!」

 カフェの一席で、弘香と鈴はひたすら『あいつら(兄弟)の美的感覚はおかしい』と大盛り上がりしていた。

「百歩譲って、百歩譲ってよ!? 内面のことを言っているとすればまあ、鈴とかなら分からなくもないのよ。でも私は全然違うでしょ?!」
「う、うーん……。それは……なんとも……」
「いいのよ。ハッキリ言ってくれて。実際私自身瑠果ちゃんみたいに可愛げがある女でもないし、鈴みたいに思いやりに溢れた人間でもないことは分かってるから。むしろ喧嘩上等! みたいなタイプだから」
「いやいやいや……。流石に喧嘩上等は……」

 弘香の激しい気性も、実はツンデレなだけで思いやりのある優しい人だということも鈴は知っている。だがある意味では容赦のない性格だということも知っている。言葉に詰まる鈴に対し、弘香は腕を組みながら息を吐きだす。

「もうさ。よく分かんないのよね。あいつら。揃いも揃ってさぁ。私たちの何がそんなにいいんだか」
「そうだよねぇ……。恵くんもすごいモテるのに、学生の時からずーっと私が好きだった。って言われた時は、本当にびっくりしたなぁ」
「いや。言っても恵くんは分かりやすかったでしょ。特に竜の時は今より独占欲丸出しだったじゃん」
「そうかなぁ」
「あ〜〜。そうだった。あんた気付いてなかったんだった。恵くんは本当、よく鈴を落としたもんだ」

 弘香のように知との年齢差が大きく、また幼い頃から見ており『近くにいたからこそ気付けなかった』というならまだ分かる。実際弘香にとって知の告白はまさに青天の霹靂だった。その衝撃と言ったら。雷が自身に落ちてきたようなものだ。

 だが鈴は違う。鈴は長い間『竜』と時間を共にし、無自覚とはいえ愛を育んでいた。それなのに『竜の気持ちに気付かない』のはちょっと人としてどうなのか。
 そう語る弘香に対し、鈴は何故か生暖かい目を向けた。

「私が言えたことじゃないかもしれないけど、ヒロちゃんも大概だよね」
「なにが?」
「いや……。なんていうか……。割と知くんも露骨だったと思うんだけどなぁ、って……」

 中学卒業と同時にフランスに飛んだ知ではあるが、全く連絡を取らなかったわけではない。むしろ頻繁に『U』の中では会っていた。その当時から既に知は弘香と共にあちこちに顔を出していたのだが、弘香から見た天使の姿と、鈴から見た天使の姿は随分と異なっているようだった。

「はあ? どこがよ」
「だって、私が歌っている時は竜も天使も近くにいてくれたけど、それ以外の時間はずっとヒロちゃんと一緒にいるか、お城の庭園にしかいなかったでしょ?」
「だから?」

 弘香からしてみれば『知くんの行動範囲なんてそんなもんでしょ』といった認識だったのだが、鈴にとっては違う。

「その……天使って結構、当時から色んなデザイナーやアーティストとやり取りしてたの、知ってるよね?」
「まあ、私が色々と連れ回したからね。個人的にやりとりを始めた、って話は確かにチラッと聞いた覚えがあるけど……。それが?」
「あのね、ヒロちゃんはベルのプロデュースで忙しかったから意識してなかったと思うんだけど、その時から天使はすごい人気者だったの」

 高校時代とは違い、別々の大学に進んだ二人は『U』にログインする時間も違った。話し合わなければならない時は事前に連絡をしてから『U』で顔を合わせていたが、それ以外の時間をどう過ごしていたかは話さなければ分からない。
 事実弘香は自身がログインしていない時、ベルや竜、天使が何をしていたかなど知るはずもなかった。

「天使が作る衣装もそうだけど、天使自身も可愛いでしょ? 竜と一緒にいる姿も『可愛い』って言われて、一時は“癒し系Az”なんて言われてさ。ファンみたいな人たちもいたんだよ」
「マジで?」

 本当に知らなかったのだろう。幾ら情報通の弘香とはいえ、大学時代はそれなりに忙しかった。必要な――それこそベルと自分の活動にとって必要な情報だけを選んで他は一瞥しただけだった弘香に、当時の天使がどうだったかなんて記憶の片隅にも残っていなかった。

「元々天使は竜に勝利した数少ない挑戦者でしょ? それもあって注目されてた時期があったの」
「マジか……。全然知らなかった」
「うん。その話が出た時、ヒロちゃんは大学の試験とか、行事とかで忙しくしてた時だったから。殆ど『U』にもログインしてなかったし、LINKでやり取りするだけだったもんね。知らなくても無理はないと思う」

 それに初めて彼氏が出来た時期でもあった。だからプライベートな時間をベルか彼氏か勉強にしか費やしておらず、竜のことも天使のことも二の次どころか三の次、四の次ぐらいだった。だからこそポカンとする弘香に、鈴は苦笑いを浮かべる。

「すごかったんだよ。本当に。天使とコンタクトを取ろうとする人たちがハッシュタグを作ったこともあるんだから」
「マジで?! え、全然知らなかったんだけど!?」
「仕方ないよ。その時のヒロちゃん、電話する暇もないぐらい忙しかったから。何だっけ。経営……戦略……なんとか、っていう授業でディスカッションがどうとかスピーチがどうとか言ってた時」
「あー……。あのクソみたいに忙しかった時間か。懐かしいわ」

 経営戦略論。その名の通り経済について研究する科目である。戦略経営とも呼ばれるこの授業ではとにかく毎回密度も内容も濃かった。頭の回転が早い弘香でさえ毎回の授業に頭を抱えるほど面倒で、思い出すだけでも意識が遠のきそうでもある。

「授業については思い出したくないから置いておくとして。で? 結局天使はどうしたの?」
「うん。最終的にはデザイナー団体が天使を保護してくれたから無事だったんだけど、その団体も『U』の中では特に有名だったから、結果的に『天使はすごい子』みたいな認識になったの」

 弘香が知らない所で既に知は着実に功績を積んでいたらしい。改めて「あの子頑張ってたのね」と思い直した弘香ではあったが、それが何故『自分への態度が露骨だったか』に繋がるのかが分からず眉根を寄せる。

「で? 当時の天使については理解したけど、それが何で私への態度が云々に繋がるのよ」
「ああ、うん。当時さ、天使がよく花をくれたでしょ? 覚えてる?」

 ベルが最初に貰ったバラは、天使が育てた『秘密のバラ』だった。それからも竜の城の一画で花を育て続けた天使は事あるごとにベルや弘香にそれをプレゼントしていた。

「あー。そういえば何回か貰ったわね。最初は普通に渡されてたけど、次第に豪華なラッピングまでするようになってさ。誕生日とかクリスマスとかにはちょっと変わったメッセージカードまでつけてくれたわよね。あの時『やっぱりフランスに行って変わったんだなぁ』って思ったけど……。……なによ。その顔は」

 弘香は度々天使に花を貰っていたことを鈴の話で思い出す。初めは普通に切り取った花を一輪渡されるぐらいだったのだが、次第にリボンが巻かれるようになり、一輪から花束へと変わり、花の種類や色どり、装飾のデザインまで複雑になっていった。それこそフラワーデザイナーもかくや、と言わんばかりの素晴らしい出来だったことは覚えている。
 そんな弘香に鈴は再度生ぬるい視線を送った。

「実はね、ヒロちゃんのだけ特別だった。って言ったら、驚く?」
「…………は?」

 ピタリ。と動きを止め、瞬きすら忘れたように固まる弘香に対し、鈴は「やっぱり気付いてなかったか」と肩を落とす。

「知くん、私にもお花をくれたけど、ヒロちゃんに渡すお花には色んな意味を込めてたんだよ」
「……それって、所謂“花言葉”的な……?」
「うん。ヒロちゃんが当時調べたかどうかは分からないけど、天使は一生懸命選んでたよ。お城の一画で、どのお花が一番綺麗か一つ一つ見て回って、箱もリボンも、その度にデザインして……。本当に、ヒロちゃんのためだけに全部選んで、一から作ってた」
「…………うそ」

 唖然とする弘香に、鈴は「ウソじゃないよ」と苦笑いを返す。事実、竜もそんな天使の姿を見ていた。

「竜も言ってた。『天使の気持ちが届けばいいとは思うけど』って。でも、結局ヒロちゃんは……あの人と付き合ったでしょ?」

 あの人。とは言わずもがな。一人目の彼氏である。弘香は『そういえば花言葉を調べた時に随分と気障な子に育ったものだ』と思ったことを今更ながらに思い出し、天を仰いだ。

「あーー…………。マジかあ〜〜……」
「うん。でも、知くんのすごいところはさ。その後もずっとヒロちゃんにお花を送り続けたことだと思う」

 行事の度に、ではない。天使は育てた花に沢山のメッセージを、想いを込めて都度弘香へと渡していた。その花の意味が一度も伝わったことがなくても、ずっと諦めずに渡し続けた。
 その努力を鈴と恵は長年見てきた。弘香が気付かないことに恵は一時期大変モヤモヤして一度は『僕が直接伝えて来る!』という暴挙に出そうになったほどだ。それほどの長い期間、知は弘香を追いかけ続けた。

「でも、ヒロちゃんがあの人と別れて……。しかも、その……別れ方がアレだったでしょ? だから恵くんがそこでも怒ってね」

 知の思いに気付かなかった弘香に対するモヤモヤ以上に、弘香を傷つけた相手に対して恵は怒り心頭だった。事実『U』にログインすることすら出来なかった弘香のことを気にするあまり、一時期竜のファイトスタイルがまた荒れたほどには凄まじかった。
 どうにかベルが宥めて止めたからよかったものの、恵は鈴から聞いた弘香の状態にやるせない気持ちを抱いていたのだ。

「あの時からだよね。ヒロちゃんがまともに眠れなくなったの」
「……そうだっけ」
「うん。ご飯は、だいぶ適当だったけど。倒れた時よりはまともなものを食べてた。でも……」

 初めての彼氏が浮気をしていただけでなく、自分が『遊び相手だった』と知った時。弘香は多大なショックを受けた。怒りもしたし、憎みもしたし、悔しいが――相応に悲しみもした。
 それが大きなストレスとなったのだろう。弘香は一時期睡眠障害に陥り、睡眠の質も食事量もかなり減った。
 思い出せば苦い気持ちにしかならない。そんな当時を振り切るかのように弘香は首を振ると、自嘲するように唇を歪める。

「……私なんて、さっさと諦めちゃえばよかったのにね」

 フランスにいたのだ。多少なりとも言い寄られることはあっただろう。元より顔立ちもスタイルも悪くはない。優しくて思いやりもある。こんな面倒で鈍感な女を追いかけるなんて、時間がもったいない。
 そう呟いた弘香に、鈴は穏やかに口元を緩めて微笑んだ。

「出来なかったんだよ。ヒロちゃんを諦めることが出来なかったから、今の知くんがいる。だから、そんなこと言っちゃダメだよ」
「……………………」

 弘香は黙って視線を机の上からカフェの向こう、人通りの多い公道へと移す。透明なガラスには無表情のようで、ほんのりと苦悩するかのように眉根を寄せる自分の顔がぼんやりと写り込んでいた。

「ヒロちゃん」

 鈴の声は、高すぎることも低すぎることもない。相手の心を包み込むような不思議な柔らかさと持った声をしている。
 だからその声に名前を呼ばれると、弘香はいつも何も言えなくなる。

「今の知くんを見てあげて。知くんは、もう子供じゃないよ」

 飛行機が順調に空を飛ぶ中、弘香は鈴の言葉を思い出しながらゆっくりと目を閉じた。




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