『触れる』ということ
スキンシップに慣れた頃の二人。(フランスに行く少し前)
弘香は今の今まで異性との接触は苦手だと思っていたのだが、どうやら認識を改めた方がよさそうだ。と最近ではよく考える。
「ヒロちゃん、ただいま」
ギュッと抱き着いてきたのは、小学生の頃から成長を見守って来た年下の友人――もとい今彼である知だ。仕事ではなく買い物から帰って来ただけだというのにこの男、事あるごとに弘香を抱きしめたり抱き着いて来たりとスキンシップが多い。
最初はその度に驚いていた弘香であったが、最近では慣れてきたのか、驚くことなく「はいはい」と適当に受け流している。
そして今日もいつものように「おかえり」と口にしながら振り向けば、柔らかな栗毛が頬に当たる。
「なによ。甘えてんの?」
「うん」
肩口に頬を押し付け、へにゃりと笑う大きな子供に弘香はため息を一つ零す。
「仕方ないわね。珍しく手が空いてるから構ってあげるわよ」
「やったあ」
子供みたいな声で、子供のように喜びながらも知はあっさりと椅子に座っていた弘香を抱え上げる。そしてその椅子に自分が座ると、向き合うようにして弘香を膝の上に下ろした。
「……あんた、意外と力あるのね」
「んう? ヒロちゃんぐらいなら普通に持てるよ? ボク」
両手を腰に回して抱き寄せ、弘香の胸元に顔を埋めた知の頭を撫でつつ弘香は内心驚いていた。いつもゆるふわなうえ、恵より細いからあまりそういうイメージがなかったのだが、これで意外と力があるらしい。
弘香は柔らかく、少し毛先に癖がある髪を指で何度も梳く。それから指を少しずらし、耳の裏を軽く撫でれば途端に「ふぎゅう!」と甲高い声が胸元から飛んできた。
「ひ、ヒロちゃん」
「なに驚いてんのよ。それとも、感じちゃった?」
揶揄うように笑う弘香に、途端に知はぷくっ。と染まった頬を膨らませ、不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。
「ヒロちゃんのイジワル」
「生粋の甘えっ子が何言ってんのよ。悔しかったらやり返してみな――ひゃっ」
悔しかったらやり返して見ろと言いかけた弘香の太ももを、知の手がするりと撫でる。途端に弘香は素っ頓狂な声を上げ、反射的に知から距離を置こうと肩に置いていた手を突っぱねる。が、背中を抱かれているために離れることが出来ず、のけ反るだけで終わった。
「あ、あんたね! どこ触ってんのよ!」
「ヒロちゃんが揶揄うからでしょ。ボクだって男だよ?」
「だからって突然……!」
抗議しようとした弘香の首筋に、知は口を開けて齧りつく。
「んッ!」
ビクッ、と思わず体が跳ねてしまったのはあくまで驚いたからで、感じたからではない。断じて違う。
弘香は頭の中で誰ともなく言い訳をしながら「ちゅっ、ちゅっ」と音を立てて首筋に、服の隙間から見える鎖骨に唇を落とす男の頭を見下ろす。
「やってくれるじゃない……!」
「ボクだってやられっぱなしじゃないもんね」
べ。と舌を出す生意気な態度に、カチンときた弘香はそのまま知の頬を掴んで固定すると、ギョッとした顔をする知の口の中に舌を突っ込んだ。
「にゅっ」
今まで舌を入れるキスはしたことがない二人である。本来ならもっと雰囲気がある時にするのだろうが、この時の弘香は『如何に知を驚かせつつ意趣返しするか』に注意を向けており、自分がどれほど大胆な行動に出ているか気付いていなかった。
「んむっ……、ひ、ひろひゃ……」
にゅるりとした、熱く湿った、それでいて自分のとは厚みの違う舌が口内に侵入してきたことに知の全身が沸騰したように熱くなる。
そのうえ、自分からしたこととはいえ膝の上には愛しい人の重みがあるのだ。細くとも柔らかな太ももだったり、丸いお尻だったり。
だからこそどうしていいか分からず硬直する知に、弘香は勝ち誇ったような気持になりながら軽く舌先を撫でてから口を離す。
「ふふん。どうよ」
「ヒロちゃん……」
この年上の恋人は、自分が今どういう体勢で、何をしたのか自覚があるのだろうか。
知はグツグツと煮えそうになっている頭の中でも必死に理性を手繰り寄せ、無自覚な恋人を潤んだ瞳で見上げる。
「ボクじゃなかったら今頃大変な目にあってたよ?」
「なんでよ」
これだもんなぁ。という言葉は心の中だけで続け、知は無言で弘香の胸に顔を押し付ける。
正直言えばコレだって相当欲を煽る行為ではあるのだ。
弘香は着痩せするタイプなのか、思っていたよりもずっと大きい。勿論グラビア雑誌に載るほどではないのだが、柔らかな感触が分かり、谷間が自然と出来る程度にはあるのだ。
知は悩みながらも弘香の腰を抱き寄せる。が、熱を持ちかけた下腹部がギリギリで当たらない場所までである。そこはまだ、弘香には触れてほしくない部分だった。
「恵くんもこんな気持ちだったのかなぁ……」
「はあ? なんでここで恵くんが出てくんのよ。私と恵くんはこんなこと一度もしたことないっつの」
「分かってるけどそうじゃないんだよぉ」
「はあ? なによ、それ?」
恵も事あるごとに「鈴さんは鈍いから……」と遠くを眺めるような目をしていた。当時は「なんだかよく分からないけど恵くんも大変なんだなぁ」と軽く考えていたのだが、いざ自分の身に降りかかるとここまで大変だとは思わなかった。
知は無自覚な恋人の胸の感触で色んな衝撃を吹き飛ばすかのように無言で顔を押し付けた後、ゆっくりと顔を上げた。
「なによ」
弘香は白い手を伸ばして知の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
かつて弘香と共にラブホテルに入った時。弘香は自嘲するような声で『不感症なのよ』と伝えてきた。それを忘れたわけではない。
勿論その後に続けられた『キスもセックスも好きではない』という発言も、しっかりと覚えている。今のところ弘香は知からのスキンシップを拒絶したことはないが、本当はどこまで触れても平気なのか。それが分からなくて未だに深い関係にはなれずにいる。
(ボクだって興味がないわけじゃないけど、ヒロちゃんがイヤがることはしたくない。今まで付き合ってきた人たちとボクは違うんだってこと、ちゃんと分かってもらいたいから)
知だって男だ。欲がないわけではない。それでも自分の腕の中にこうして黙って収まってくれている姿や、穏やかに寝入る姿を見ているとそういう気持ちも萎んでいく。
今はまだ、弘香に自分との接触に慣れてもらうことが目標なのだから焦ってはいけない。と深く自身に言い聞かせ、知は頬を緩める。
「んーん。なんでもない。ただどんなことをされてもヒロちゃんのことが好きだなぁ。って思っただけ」
「……あっそ。相変わらず物好きな人ですこと」
ツンとそっぽを向くが、単なる照れ隠しであることは言及せずとも分かる。知は『どうしてこんなかわいらしい人がいて浮気なんてできたんだろう』と弘香が付き合ってきた恋人たちに心底疑問を抱きながら、再度腕に力を込めて弘香を抱き上げた。
「うわっ ちょっと」
「暇ならイチャイチャしよ〜」
「別に暇じゃないし! ただの休憩!」
「じゃあ休憩終わるまでボクと一緒にいよう」
「よっく言うわよ。どーせ私が拒否しても傍にいるくせに」
「本当にイヤがってたらしないよ〜。ボクはもう大人ですから」
特大サイズのビーズクッションに寝転がり、知はそのまま弘香を抱きしめる。
「でもイヤじゃなかったら、もっと一緒にいてほしいな」
「………………この甘ちゃんめ」
悪態を吐きながらも弘香は知の腕から逃れることはしない。むしろ諦めたようにその体に体重を預けると、グリグリと薄くとも広い胸板に顔を押し付けた。
「あと五分で戻るから」
「はーい」
今度は知が弘香をあやすように柔らかな黒髪に指を通す。
一度肩の上までざっくりと切ってしまったが、また少し伸びてきた。短い姿も新鮮でよかったが、知は長い髪の方が好きだ。長いとそれだけ指に絡めたり、梳く時の楽しみが続くからだった。
今も知は弘香の髪を指先で優しく梳きながら、クルリと指先に巻き付けては離す。
弘香はそんな知の動きはぼんやりと横目で眺めながら、頬を押し当てた胸から聞こえてくるあたたかな心音に微睡むように目を閉じる。
やはり知は今までの恋人とは何かが違う。そう思いながら――。
終わり