甘える・甘やかす
互いにスキンシップを始めた頃の二人。(レッドカーペットを歩く前)
弘香がいつものように大型ディスプレイの前に陣取り、様々な業界人から寄こされたメールを確認している時だった。
「ヒロちゃん、ただいま」
「おかえり。って、ココあんたの部屋じゃないんだけど」
呆れながらも弘香がクルリと椅子を回転させれば、恋人兼仕事仲間でもある知がへにゃりと笑う。
「だってヒロちゃんがいるところがボクの帰るとこだもん」
「ここは仕事部屋だっつの」
すげなく言い返しながらも追い返さない辺り満更ではないのだろう。あるいはもう諦めているのか。
それでも一度だけ溜息を零した弘香に、知は近付きそのまま弘香の前に膝をつく。そうして弘香の両足を両腕で抱き込むと、揃えられた太ももの上に顎を置いた。
「なによ。甘えん坊め」
「んえ〜。だってぇ」
ワシワシと弘香が呆れながらも柔らかな髪を掻き乱すように撫でれば、途端に知は間延びした声を上げる。だが弘香の手を払いのけることはなく、大人しく撫でられ続けている。
その姿が犬のようで、弘香は「子犬が成長して成犬になった感じか」と思いながら乱したばかりの髪の毛を指先で整える。
「嫌なことでもあったの?」
「ん? んーん。ただヒロちゃんにくっつきたかっただけ」
ふにゃふにゃとした顔で、幸せそうに、甘ったるく笑う知に弘香はため息を零す。だが別に嫌だと思っているわけでも、呆れているわけでもない。単なる照れ隠しだ。
それが分かっているからこそ知もニコニコと笑みを浮かべながら弘香の太ももの上に頬を当て、そっと目を閉じる。
「ヒロちゃん」
「なによ」
「足、あったまった?」
何気なく零された一言に、知の髪の毛を弄っていた弘香の指先がピクリと反応する。
膝掛を出す程ではないが、少しばかり「寒いな」とは思っていたのだ。
まさかそれを見抜かれているとは思わず目を瞬かせれば、知は「違った?」と言わんばかりに顔を上げて弘香の顔を覗き込んでくる。
「ヒロちゃんの足、冷たかったから。少しはあったまったかなぁ、と思ったんだけど」
ギュッ、と知は弘香の足を抱き込んでいる。そこで弘香はようやく冷たくなっていた足先も、足の裏も、知の腕とお腹で温められていたことに気付く。
言わなければ分からないことではあるが、こうして弘香のことを考えている行動をとる。そんな年下の恋人に驚きながらも、ゆっくりと手の平を動かし、形のいい頭を撫でた。
「そうね。少しは、あったまったかな」
「よかった」
整えたばかりの髪の毛を、再び乱すように手の平で雑に撫でる。それでも知は嬉しそうに相好を崩す。
何だかんだ言って弘香は知の柔らかな髪の毛を触ることが好きだった。対する知は弘香に触れて貰えるのであれば何でもいいタイプである。
その姿は『恋人同士』というよりも愛犬を可愛がる飼い主と、飼い主に甘える大型犬にしか見えないが、本人たちが互いに癒されているのであればそれでいいのだろう。
「今日の晩ご飯はお鍋にしようか」
「うん。いいよぉ。何鍋がいい?」
「あんたが好きなものでいいわよ」
部屋の中は温かいとはいえ、外は冷えてきている。これからは温かいものが美味しくなる季節だ。
弘香はこうして知と一緒に囲む夕飯を密かに楽しみにしているところがある。
何せこの男、弘香と付き合うようになってから徐々に料理の腕を上げているのだ。それもこれも弘香の胃袋を掴まんとすべく努力しているからなのだが、弘香自身それに気付いていないわけではない。
むしろほんわかとした笑顔と共に告げられる「ヒロちゃん、ご飯できたよー!」と弾むような声とあたたかな食事はすっかり弘香を虜にしていた。
それを知が自覚しているのかどうかは分からないが、こうして好きに料理をさせると大概予想以上に美味しいものを作ってくれる。だから弘香は内心で「シェフの気まぐれ料理」と名付けていた。
「ん〜……。じゃあ今日はトマト鍋にしよう! 最後にご飯とチーズ入れて、リゾットにしたらおいしいよ」
「オッケー。それじゃあ買い物行くか」
「うん!」
弘香の足を開放し、立ち上がった知が自然と手を差し出してくる。別にフランスでもないのだからエスコートする必要はないのだが、弘香は黙ってその手に自分の手を重ねた。
冷えていた足も、指先も、体温が高い知と触れあっているとすぐにあたたかくなる。
弘香は一回りほど大きな手をギュッと握ると、見下ろしてきた知に口元を緩めた。
「晩ご飯、楽しみにしてるわ」
「うん! おいしく作るから、待っててね」
甘え上手でありながら、甘やかし上手でもある。そんな恋人の心まであたたかくなるような笑みを見返しながら、弘香も出かける準備をするのだった。
終わり