その後の二人
本編でカットしたデートに行く準備をするヒロちゃんの話。
デートをすると約束し、知が飛びだしてから早数十分。シャワーを浴び終わった弘香は丁寧に髪を乾かしている最中であった。
(思えば、あの瞬間だったのかな。私があの子をそういう目で“意識”したのは)
弘香の長い髪を、まるで宝物のように指で掬って乾かし始めた。あの瞬間、弘香は確かに「こんな風に自分に触る人、周りにいなかったな」と考えたのだ。
(よくよく考えてみれば、今までの彼氏よりよっぽど酷い顔も姿も見られてるのよね。それこそ高校生の時とか……。バカ笑いしてる姿とかしょっちゅう見てただろうに)
よくもあんな可愛げのない自分を好きになったものだ。そう考えた瞬間、知の言葉が耳の奥で思い出される。
――かわいいよ。ヒロちゃんは、かわいいよ――
「ッ……!」
じわじわと、弘香の頬が赤く色づいていく。チークいらずなほど染まった頬を鏡で睨むようにして見返しながら、弘香はせっせとヘアオイルをつけた毛先を乾かしていく。
そうしていつもより丁寧に髪を梳かし、薄めに化粧をする。正直厚化粧をしたところで素顔を知られているのだから盛るだけ無駄だろう。だからこそ手早くメイクを済ませ、次は衣装棚を漁る。
「……何を着るかが問題よね」
下着は、もしまたホテルに行ってもいいように綺麗なものを着けている。勝負下着、というわけではないが、それなりに気に入っているデザインだ。
とはいえあの初心で奥手な知のことだ。初デートでベッドインすることはないだろう。というより、百パーセントの確立でない。
(ま、それはいいんだけど。あくまで気分の問題と言うか、そういうアレだし)
自分で自分に言い訳をしながら、弘香はあれこれと鏡の前に立ち、服を当てていく。
(コッチ……? いや、コレの方がいいか? あー、でもコレだと気合入れすぎ、って感じよね。大学生に入れ込むホステスか、っての)
大量に衣類を持っているわけではないため、今ある服で懸命にコーディネートを考える。
(こんなことならもっと頻繁に服を入れ替えるべきだった……。いや。無理だな。そんな暇も余裕もなかったわ)
懐に余裕があっても心に余裕がなかった。
弘香は改めて息を吐きだしつつ、青みが掛かったグレーのプリーツ袖のブラウスに、オフホワイトのパンツを合わせる。首元にはゴールドチェーンの小さなネックレスをつけ、爪先にワンポイントのリボンが付いたバレエシューズを下駄箱から取り出した。
「まあ、こんなもんか」
これならどこへ行くにしても恥ずかしくないだろう。
準備を終えた弘香は、ふと姿見に映った全身を見つめる。
「……流石に痩せすぎよね……」
会う度に恵から忠告されてはいたのだが、弘香は殆ど聞き流していた。だがこうして改めて見ると強く実感する。これはちょっと、流石にヤバイぞ。と。
「正直ウエストも緩いしな……。ベルトで固定してもまだ不安が……」
最悪新しいベルトを買うか。なんて諦めていると机に置いていたスマートフォンが震える。一瞬会社から電話でも来たのかと身構えたが、実際には知からのメッセージが来ただけだった。
『もうすぐ着くよ!』
文字だけ見ても心が弾んでいる様子が伝わってくる。
弘香は無意識のうちに笑い、すぐさまハッとした。
「いやいやいや。何浮かれてんのよ、私」
子供じゃあるまいし。そう冷静にツッコム気持ちもあるが、考えてみれば知とこうして二人きりで、互いを『恋人』と認定して出かけるのは今日が初めてである。
弘香はどこかソワソワと落ち着かない気持ちになりながら玄関とリビングを行ったり来たりし――遂に知からの『着いたよ!』というメッセージを受け取り肩を跳ね上げた。
「ヒロちゃん、お待たせ――」
すぐ行く。と返事を送った弘香がエントランスに降りると、Vネックタイプの、グレーのドルマン風ニットとジーンズを合わせた知が出てきた弘香の姿を見てパチパチと瞬きを繰り返す。
「なに」
「かわいい! ヒロちゃん、すごくかわいいね!」
キラキラとした瞳で、照れ隠しに悪態をつこうとした弘香をじっと見つめたかと思えば即座に褒めちぎってくる。
お世辞――ではないのだろう。知の、星が瞬いていそうな瞳を見ていればそれぐらい分かる。
弘香は言葉に詰まりそうになりながらも、どうにか「ありがと」とぶっきらぼうに礼を述べた。
「あんたも……まあ、似合うじゃない」
「えへへ。たまにはパーカー以外も着るんだよ?」
「似たり寄ったりじゃない」
口では可愛げのないことを言ってはいるが、改めてパーカー以外の服を着ている知を見ると何とも不思議な気持ちになってくる。
弘香はチラリと横目で流し見た後、スッと片手を差し出した。
「……ほら。手、繋ぐんでしょ」
「! うん!」
元気よく返事をして頷いた知の手が、ギュッと弘香の手を握り込む。が、その握り方はまるで『遠足に行く時に隣の子と手を繋いでね』と言われたような色気を感じさせないもので、思わず半笑いになってしまう。
「バカね。手を繋ぐ、っていうのはね――」
「へ?」
キョトンとする知の手首を軽く振って力を緩めるよう伝えると、弘香はそのままスルリと――指の腹と腹をわざと触れ合わせるようにして知の手の平全体を撫でてから、指を深く絡めて握り締めた。
「こうやって握んのよ」
「――ッ!」
経験値の違いがこんなところでも出て来る。
知は思わず赤くなった顔を見られまいと反対側に顔を逸らすが、身長差があっても染まった耳元と首筋はハッキリと目に映った。
「なによ。緊張してんの?」
「し、してるよ……。だって、初めてヒロちゃんとこ、恋人つなぎ……してるんだもん……」
キュッと、絡めた指でも返事をするように力を込められ、弘香もなんとなく頬に熱が昇ってくるのを感じ取る。
「……そ。ほら、もう行くわよ」
「う、うんっ」
軽く握った手を揺らせば、途端に知の顔が弘香の方へと戻ってくる。そうして改めて視線を合わせれば――いつも恵が鈴に向けるのと同じような、蕩けた瞳が弘香を写し取った。
「ヒロちゃん。好きだよ」
「……ッ!」
今ここで、また告白するかっ!
心の底からツッコミたい気持ちはあったが、弘香はキュッと唇を噛むことでそれに耐える。代わりにじっとりとした目で知を見遣り、大きく一歩を踏み出した。
「分かったから行くわよ!」
「はぁい」
相変わらずふわふわとした声で、まるで雲の上を歩くかのように、弾んだ足で追いかけて来る姿は子犬のようにも大型犬のようにも見える。
それでも弘香が窺うように視線を向ければ、先程まで「緊張している」と言ったのが嘘のように幸せそうな顔が弘香を見下ろしていた。
「なによ。デレデレしちゃって。もっとしっかりしなさい」
「うんっ。でも、だって、大好きなんだもん」
「ああもう! 言うな!」
「えへへ。ヒロちゃん、照れてる?」
「うるっさい! 手ぇ離すわよ!」
「ヤダ!」
半分は本気であったが、半分は冗談だった。そんな弘香の手を知は「絶対に離すもんか」と言わんばかりに深く絡めとり、改めて隣に並んでゆっくりと手の平越しに感じられる体温に頬を緩めた。
「ヒロちゃん」
「なによ」
「大好きだよ」
「…………分かったってば」
もう言い返すのも面倒だ。そんな声音でありながらも、長い黒髪から覗く白い耳はいつもより色付いている。
そんな素直じゃないのにどこまでも可愛らしい恋人の姿に、知は心底嬉しそうに頬を緩めたのだった。
終わり