- ナノ -

11 - エピローグ



           11


 ヴーッ、ヴーッ、とスマートフォンが震える音で目を覚ます。弘香がパタパタと音の出所を探って手を動かせば、もぞもぞと下敷きにしていた知も動き始めた。

「あさぁ……?」
「……みたいね」

 心底眠そうな間延びした声と共に、弘香は知の腕の中から起き上がりスマートフォンの画面を立ち上げる。時刻は七時過ぎ。平日ならばとっくの昔に起きて用意を済ませ、部屋を飛び出している頃だ。

「私は今日休みだけど、あんたは?」
「ボクも休みだよ」

 ふぁっ、と欠伸を零しながら答える知に、弘香も「そう」と答えながら背を伸ばす。たっぷりと睡眠をとったおかげだろう。その頭は随分とすっきりしていた。

「朝ごはん、どうする? 食べに行く?」
「んぅ……。はっ! 作る! ボクが作るよ!」
「ええ? あんたが?」

 切りに行く暇がなくて腰まで伸びた髪を一本に縛りつつ弘香が訝る視線を向ければ、寝起きだというのにスイッチが入っているのだろう。やる気を出した知が「作ります!」と挙手をしてくる。

「……まあ、いいけど。大して食材ないわよ?」
「あるもので作るのが主夫なんだよ?」
「あんたいつから主夫になったのよ」

 呆れながらもベッドから起き出した知は一人暮らし用の冷蔵庫を開け、卵やレタス、プチトマトと言った僅かに残っていた食材を取り出しながらふとあることに気付く。

「……ヒロちゃん」
「なに」
「ボク、もしかして昨日ヒロちゃんのベッドで寝た?」

 もしかしても何も、見ればわかるでしょうに。
 弘香が呆れた目を向ければ、知は「ひえっ」と血の気の引いた顔を両手で挟む。

「じゃあヒロちゃんはどこで寝たの?! まさか床?!」
「床で寝る家主がいるか! つーかあんたが引っ張り込んだくせに何言ってんのよ」

 事実弘香は後片付けをすることも出来ず、知に腕を引かれてベッドへと倒れ込んだ。その後は「もう何もかも面倒くさい。明日でいいか」的な心境に陥ったため、知を敷布団&毛布代わりにして眠ったのだ。
 確かによく眠れたとはいえ、素直に申告するのは少々恥ずかしい。だからこそつっけんどんな言い方をしたというのに、知はぽかんと間の抜けた顔で弘香を見遣る。

「ヒロちゃんと一緒に寝たの? ボクが?」
「そうよ。人のことガッチリ掴んで離さなかったくせに、よく言うわよ」

 事実一度夜中に目が覚めた時も、寝返りを打とうとした弘香をギュッと後ろから抱きしめ拘束してきたのは知だ。元々シングルベッドに二人で横になるという暴挙に出たため寝返りが打てないのは仕方ないとは思ってはいたが、あそこまで追いかけられるとセンサーでもついているのかと疑いたくなる。
 そんな弘香に知はサッと顔を赤らめた後、素直に「ごめん」と謝罪する。

「ボク途中から記憶があいまいで……。あ! ってことはお風呂も……!」
「そうね。あれから入ってないわね」
「わあ! ほんとにごめんね!」

 ピィピィと必死に謝る姿に、弘香は元より腹を立てていなかったとはいえ、馬鹿らしくなってくる。それに、結局知の腕の中で眠ると決めたのは弘香自身だ。切欠は知だったとはいえ、責めるつもりは毛頭なかった。

「それより、ご飯作る前に顔洗いなさい。あと寝癖すごいわよ」
「うぅ、ごめぇん」

 ふわふわとした髪だから寝癖が付きやすいだろうと思ってはいたが、見事にグシャグシャになっている。もはや鳥の巣だ。そんな寝癖塗れの頭を軽く撫でながら促せば、知は素直に後をついてくる。
 弘香も髪を梳きつつ、真新しい歯ブラシを一本出してやる。

「はい。これ使いなさい」
「あ。ありがとう」

 素直に受け取った知の姿を見て、弘香はあることに気付く。

(そういえば、私の部屋に彼氏が泊りに来たことあったっけ?)

 思い返せば弘香の部屋は精密機器が多いため、満足に寝泊まりできるスペースがない。遊びに来たことや、弘香の様子を見に来たことは数度あったとは思うが、この部屋で共に朝を迎えた異性は知が初めてな気がした。

「……私にもまだあったんだ。初めてなこと」

 驚きのあまりつい口にすれば、歯を磨いていた知が「ん?」と振り返る。その後頭部には相変わらず寝癖がついたままで、弘香はふと笑う。

「何でもないわよ」
「ふぉっか」

 弘香の穏やかな表情に、知も深く追求する必要はなさそうだと判断する。そうして先に準備を終えた知が台所に消えた後、弘香は改めて洗面台の前に立った。

(相変わらずボロボロ。でも、いつもよりはマシな気がする)

 毎朝鏡越しに見る自分の目は、酷く淀んでいるのに攻撃的で、睨んでいないのに睨んでいるかのようだった。それこそ、鏡を覗く自分自身にさえも。
 だが今は、あの攻撃的な瞳が嘘だったかのように穏やかに自分を見返している。

「……変なの」

 ぼやきながら弘香も冷水で顔を洗い、化粧水を手に取る。台所では食材を切る音や、何かを洗う水道水の音、コンロのスイッチが入れられる音などが聞こえてくる。
 以外にも手際よく動いていることが分かり、弘香は咄嗟に顔を出す。

「お鍋とか、調味料とかの場所、分かる?」
「うん。大丈夫」

 結局直すことを諦めたらしい。ふわふわとした髪の毛と同じぐらいゆるい笑みを浮かべながら知は弘香に言葉を返し、背を向ける。

 料理をするために立つことがない台所を、今は正しく使っている人がいる。

 弘香はその背を少しだけ眺めてから、洗面所に戻って用意を整える。それを終えれば必要になるであろう皿の大きさや種類を聞きながら準備をし、知が作り上げた朝食に「おお」と感嘆の声を上げた。

「意外。あんた料理上手じゃない」
「でしょ〜? 恵くんに比べたら微妙かもしれないけど、ボクだってそこそこ料理できるんだから」

 知が作り上げたのはフワフワとしたチーズオムレツに、プチトマトを彩りにしたレタスのサラダ。ジャガイモを縦長にスライスして作ったコンソメスープだった。主食は残っていた食パンを半分に切ってキツネ色になるまで焼いたトーストだ。
 普段食べないか、適当にコンビニのパンやおむすびで済ませる弘香にしてみれば十分すぎるほど立派な朝食だ。
 だからこそ素直に感心し、褒めれば知は嬉しそうに笑みを浮かべて胸を張る。

「じゃあ、食べよっか!」

 一緒に食べる。昔はそれが当たり前だったのに、ここ数年は随分と機会が減ってしまった。だからこそ面映ゆい気持ちになりながらも狭い部屋で向かい合って座り、箸を手に取る。

「いただきます」
「いただきまーす」

 食事前に手を合わせたのも、思えば久しぶりだ。それほどまでに食がおざなりになっていたことを改めて痛感しながらオムレツを口にし――弘香は目を見開いた。

「うっま! え、なにこれうっま!」
「でしょ?! おいしいでしょ?! ボクこれ自信あったんだ!」
「え。え?! マジで?!」

 ふわっと巻かれた卵の中はトロトロで、チーズの濃厚な香りが鼻腔に広がり、抜けていく。それなのにくどくなく、全体的に優しい味付けになっている。
 驚く弘香に知も興奮したように「上手に出来た!」と胸を張っている。

「ふっふー。実はね、オムレツだけはボク、恵くんより上手なんだ!」
「え? マジで?」
「うん! 実はねー、恵くんは半熟にするのが苦手なんだ。いろいろ気にしちゃって、完全に火が通らないと安心できないみたい」
「ああ……。納得したわ」

 鈴のことを思ってだろう。「半生は危険!」と思っている節は確かにありそうだ。日本の鶏卵はしっかりと検査がされているため安全品質なのだが、それはそれ。鈴が絡むと過保護が天元突破する男に何を言っても無駄なことは弘香も分かっている。
 だからこそ「理解した」と頷けば、知もほくほくとした顔でオムレツを口に運ぶ。

「だからね、ボクと一緒にいれば毎日おいしいご飯が食べられるよ」
「隙あらば自分を売り込んでくるわね」
「だって、今まで何もしなかったから他の人にヒロちゃん奪われたわけでしょ? だから今度はボクから奪いにいかないと」

 ね? と言って笑う顔は無邪気なのに、何故か弘香の脳裏には鈴の外堀をじわじわと埋めていった恵の姿が思い浮かんだ。

(あ、兄弟だからか。変なとこ似てんのね、この子達)

 見た目こそ正反対だが、やはり似ているところがあるらしい。弘香は呆れた顔をしつつも黙々と食事を口に運ぶ。

「……まあ、売り込みポイントとしてはいい線行ってるわ」
「やったぁ」

 とことん弘香に褒められると嬉しいらしい。嘘ではない、心からの笑顔を見せる知の朗らかな顔と、ぽこぽこと花でも飛ばしていそうな空気に弘香の頬が自然と緩んでいく。

「認めるわ。あんた、料理上手ね」
「やった! ヒロちゃんのお墨つき、いただきました!」

 目の前で満面の笑みを浮かべる男の顔を、弘香は穏やかな気持ちで眺める。確かにまだまだ幼い部分はあるが、弘香の素直になれない態度を、心を、言葉を、うまく受け流し、時に包み込んでしまえるのは一種の才能だろう。

 思えば彼氏その一その二は弘香がキレると逆上するか、宥めるだけ宥めて後に繋げようとはしなかった。おそらく他にもこのような男は沢山いるだろう。そう考えれば、真正面から弘香にぶつかられても逆上することなく、弘香と視線を合わせてきた知の度量は大したものかもしれない。

「……あんたさ」
「うん?」
「私に八つ当たりされて、イヤじゃなかった?」

 弘香とて自覚している。昨日は随分とヒステリックになっていたことを。自分を心配して傘を傾けてきた知を突き放すだけでなく、勝手に逆上してラブホに連れて行き、盛大に困惑させて迷惑をかけたのは弘香だ。
 だからこそキチンと尋ねておかねばと思ったのだが、当の本人はキョトンとした顔で弘香を見返すだけだった。

「イヤじゃなかったよ?」
「何で?」
「んー……。だって、今までのヒロちゃんだったら『子供には分かんないわよ』って言って、ボクのこと視界にも入れてくれなかったと思うから」

 グサリと、弘香の胸に知の言葉が突き刺さる。
 事実弘香は今の今までそうだった。知が心配してきても『ありがとう』か『まだ子供のあんたには分からない世界だから』『言っても分かんないでしょ?』『説明するのも面倒だわ』と言って向き合ってこなかった。

 それを考えるとますます「なんでコイツは私が好きなんだろう?」と首を傾けたくなるのだが、知は頬を引きつらせる弘香に向かっておかしそうに笑う。

「でも、誰よりもボクを子供扱いしたのもヒロちゃんだけど、誰よりもボクのことを早く評価してくれたのも、ヒロちゃんだったんだよ」
「え?」

 初めてベルに衣装を渡した時。あの場に弘香はいなかった。勿論あの時ベルは手放しに天使を褒めた。『すごい』と青い瞳を輝かせ、喜ぶ姿に天使は嬉しくなった。
 そんな知の密かな努力を、才能を見つけたのは弘香だ。偶然ベルの衣装データを整理していた弘香がそれに気付き、バラの花に組み込んだ特殊なデータを発見し、解析した時に言ったのだ。

「『あんたやるじゃない! ベルのデザイナーとして特別に採用してあげるわ!』って、そう言って、初めてボクに“仕事”をくれたのは、ヒロちゃんだった」

 弘香は莫大な金銭が動くベルの事業で得た利益は基本的に匿名で様々なチャリティーに突っ込んでいたが、業務を委託したところには相応の支払いをしていた。そこに知もいたのだ。

「最初はお金なんかいらないのに、って思ったし、実際にボクはそう言ったけど、ヒロちゃんが教えてくれたんだ」


 ――あんたが作ったものは価値があるの! あんたがお金を受け取らなかったら、あんたが作ったドレスも、その才能も、時間も、何もかもが“お金を払う価値のないもの”に成り下がるのよ! そんなものをベルに着せられるわけないでしょ?! だから黙って受け取りなさい! それがあんたの作ったもの、才能、努力、存在そのものの“価値の証明”に繋がるんだから!


 スパスパと言いたいことを言って、驚く知に弘香は結構な額を寄こしてきた。勿論まだ子供だった知に口座などなかったため弘香が管理していたが、渡仏する際にそのお金が役立ったことは間違いない。

「――嬉しかった。ずっと恵くんに守られてばかりだったボクが、初めて“自分にも何かが出来るんだ”って思えたから。だから、言葉が通じないフランスに行ってもがんばることができた」

 右も左も分からない。言葉も土地勘もない場所で一から学ぶのは心細く、大変なことだった。それでも、あの時弘香が当然のような顔をして投げかけた言葉が当時の知にとって光だった。力になった。そして今もまだ、胸の中で輝いている。

「ボクが初めて自分から“やりたい”と思ったことを、見たかった世界を、示して、照らしてくれたのがヒロちゃんの言葉だった。だからボクにとってヒロちゃんは、ベルとは違った意味で特別で、ずっと、憧れだった」

 広大な『U』という電子の世界で縦横無尽に飛び交う弘香の姿は、当時の知にとっては一際眩しく見えた。それこそ大勢の前で歌うベルと同じぐらい、キラキラして見えたのだ。

 それから竜と共に交流を重ねるにつれ、心優しいベルよりも、ビシバシと言いたいことを言い、やりたいことをやり、相手の実力を年齢性別関係なく賞賛し、時には提携を結ぶ弘香の姿を目で追うようになった。

「楽しかった。ヒロちゃんを追いかけるのは、すごく大変だったけど、追いかけていくうちにすごく広い世界に連れて行ってもらえた」

 確かに表舞台に立ち、有名になったのはBellだ。だがその裏で色んな人間と話をし、手を結び、ベルを世界の舞台に押し上げたのは弘香である。その背を追いかけていくうちに見えた様々な世界を、知らなかった舞台裏の世界に、知は魅了された。

「『U』に初めて登録した時には見つけられなかった。分からなかった。本当に『広い世界』を見せてくれたのは、ベルでも竜でもなくて、ヒロちゃんだったんだよ」

 ベルのデザイナーの一人となった後も、弘香は天使を連れて様々な国のデザイナーと交流した。そのうちの一人がアレックスだったのだが、『U』では別名義で登録していたため弘香は当初気付いていなかった。

「ヒロちゃんは知らないだろうけど、ボクとアレックスを繋いだのもヒロちゃんだったんだよ。だからね、ヒロちゃんはボクにとっては一番星みたいな人なんだ」

 キラキラキラキラ輝いて、いつだって眩しくて、あたたかくて、焦がれていた。そのうち『あの星が欲しい』と思うようになり、知はアレックスと個人的に連絡を取るようになった。

「アレックスはまだ子供だったボクの能力を評価してくれた。だからボクが連絡を取った時、すぐに返事をくれたんだ。『キミは、こちらの世界に来るべきだ』って」

 その言葉は幼かった知に強烈な衝撃を与えた。ぼんやりと日々を生きていた知の中に、初めてベルと弘香意外の強烈な光が舞い込んできたのだ。

「ボクもあの世界に行きたい。あの人たちが見ているものを、ボクも見たい。そう思った」

 だからこそ、そこに向かって走り出した。心配する恵や周囲の声を振り切って、ただ一人。自分の背を押してくれた弘香の言葉を道しるべのように胸に立て――日本を飛びだす決意をした。

「ボクが“フランスに行きたい”って言った時、みんな止めたよね」
「そりゃあ、あんたまだ子供だったし」
「うん。でも、ボクが何をやりたいか。どんなことがしたいか。説明した時、ヒロちゃんが言ってくれた」

 ――プロの技術に驚いて潰れるぐらいなら、あんたは初めからベルの衣装デザインなんてしてないでしょ。治安とか学費とか、向こうがその問題を解決してくれるなら、あんたはキチンとした教育を受けるべきだと思う。それだけの才能を、あんたはちゃんと持ってる。

「いつだってヒロちゃんはボクを『お子様』扱いしたけど、いざという時は、誰よりも早くボクの“価値”を説いてくれた。ずっとボクを『守らなきゃ』と思ってた恵くんやベルには悪いことしたな、って思う気持ちもあるんだけど、やっぱりボクは、フランスに行ってよかったと思うよ」

 ずっと自分を守り続けてくれた恵の手を放すのは心苦しかった。だが知だって、守られてばかりなのは嫌だったのだ。自分に出来ることがあるなら、何だってやってみたかった。それこそ、日本を飛びだしてでも。

「フランスに行ったあとは、アレックスの家族がいろいろと、本当にたくさんのサポートをしてくれた。奥さんが言葉を教えてくれた。娘さん夫婦が、お子さんと一緒にボクを街に連れ出してくれた。ボクより少し年下の子供達がいろんな遊びを教えてくれた。全部、日本にいたら体験できないことだった」

 フランスの学校でイヤな思いをしたこともある。悪口を言われたり、嫌味を言われることなんてたくさんあった。それでも知は一度も気にしたことがない。何故なら――

「ヒロちゃん、いつも言ってたよね。『弱い犬ほどよく吠える』って。アレックスも同じこと言ってた。『嫌味も嫉妬も、みんなボクの能力に気付いているから焦って口にするんだ』って。だから、ボクは堂々としていればいい、って。ボクが大きくなるまで、アレックスが盾になってくれるって。……だから、いつかアレックスには借りっぱなしになっている恩を返さないといけないんだけどね」

 珍しく苦笑いを浮かべた知ではあったが、すぐにいつも通り、柔らかい笑みを口元に浮かべた。

「だから、ボクにとってはヒロちゃんが一番星。恵くんにとっての一番星がベルだったみたいに、ボクの特別は、ヒロちゃんだよ」

 竜が惜しむことなく多大な愛情をベルへと捧げたように、知もまた、違った形で弘香へそれを与えようとしている。

 弘香は暫し呆然とした顔でそれを聞いた後、ゆっくりと知から視線を逸らした。

「…………私、そんなこと言ったっけ……」
「言った言った。ちゃんと言ったよ。ボク覚えてるもん」
「うそぉ……」

 確かにそんなことを言ったような気もしなくはないのだが、当時の弘香は怖いものなしに活動していたため、気が大きくなっている部分があった。社会人になった今であればそんな適当な、それこそまだ十代の男の子を広大な世界に放り投げる台詞を無責任に言い放つことはなかっただろう。
 だがそれがあったからこそ今の知がいるのだと思うと、弘香は過去の自分を褒めたいような、もう少し考えて発言しろよと叱りたくなるような、不思議な気持ちになった。

「ま、まあ……。あんたがいいなら、いいんだけど」
「うん。だから、ヒロちゃんは何も心配しないで。ボクにずっと愛されてて」
「あ?! ……愛って……あんたねぇ……」

 愛されてて。なんて、よくもそんな小っ恥ずかしい台詞を言えたものだ。これもフランスにいたせいだろうか? 弘香は赤くなっていく顔を見られまいと手で口元を隠すが、知は気にせずニコニコとしている。

「ホントだよ。だってずっと好きだったんだから。今更キライになるぐらいなら、何年もヒロちゃんのこと好きでいられないよ」
「褒めてんだか貶してんだか分かんないわね、それ」
「これから先もずっと好きだよ。っていう宣言だよ」
「うぐっ」

 揃いも揃ってこの兄弟は……! と弘香は汗まで浮いてきた顔を冷まそうと手をうちわ代わりにして扇ぐ。
 むしろフランスに行った分、知の方がストレートなのかもしれない。

 そんなことを考えつつ、弘香は知へと視線を定めた。

「今度は真面目な話。あんた、活動するなら日本とフランス、どっちにするの?」
「うーん……。住むなら日本かな。道路も綺麗だし、あっちはいい加減な人が多いから。ボクは平気だけど、ヒロちゃんはストレス感じるかも」

 何気に弘香と共にいること前提で話しているのがアレだが、弘香は敢えて無視して話を進める。
「じゃあ、フランスで活動するメリットは?」
「そうだね。基本的にボクの名前は日本よりもフランスの方が有名だから、仕事をするならあっちの方が有利だとは思う。でも今はネット社会だし、いざという時は『U』を通して話ができる。だから大きな式典に呼ばれたり、大御所からの製作依頼を共同で処理する以外では向こうにいるメリットもそこまで感じないかな」

 実際言葉でさえ今は自動翻訳アプリが働き、スムーズにやりとりが出来るようになっているのだ。直接現地に赴かずとも仕事自体は出来る。そう伝える知に、弘香も頷いた。

「そう。でもまあ……フゥベー氏ご一家に挨拶する時は、フランス語話せた方がいいでしょうね」
「え……。じゃあ……!」
「か、勘違いすんな! 別にそういう意味じゃないから! ただ、その、今後あんたがいない時とか、あんたのサポートする時に話をする機会があるかもしれないから勉強するだけで、そういうアレじゃないから!」

 白い肌を染め、必死に言い返されても単なる照れ隠しにしか見えない。目に見えて喜んだ顔をする知に、弘香は徐々に居たたまれない気持ちになっていく。

「だぁーかぁーらぁー! そういう期待に満ち満ちた顔すんなってば!」
「だって……うれしいんだもん」
「あーもー……」

 トロトロと、兄弟揃って蕩けた蜂蜜みたいな目で恋しい女性を見るのはどうにかならないのか。
 まさか自分がその視線を向けられる側になるとは思ってもみなかった弘香が項垂れれば、知はぱやぱやと花でも飛ばしそうな勢いで身を乗り出してくる。

「ヒロちゃん」
「なによ」
「こっち向いて」

 項垂れて床の模様を見るともなしに眺めていた弘香がその言葉に暫し固まった後、そろそろと視線を上げれば、相も変わらずパンケーキのようなふわふわとした男が心底幸せそうな笑みを浮かべる。

「えへへ。ヒロちゃん、やっとこっち見てくれた」
「……昨日からも見てたでしょ」
「うん。でも、そうじゃなくて」

 ギュッと、弘香の机の上に投げ出されていた手を、知の手が握ってくる。包むようなそのぬくもりに、弘香はふいに自身が嫌悪感を抱いていないことに気がついた。
 そんな弘香に、知はふわふわとした声で告げる。

「やっとボクのこと“大人の男”として見てくれたんだな。と思って」

 ――大人の男。そういえば、以前約束していたことを思い出す。

 弘香の舌に合うほど料理上手であったなら“大人の男性”として認めると。だがそれ以前に、弘香はもう認めざるを得なかった。

 目の前にいる、かつてはどうしようもなく庇護欲を掻き立てられた少年が、今では自身を包み込むほど大きくなっていることに。

「……そうね。私の裸を見て全身真っ赤になるぐらいには男だったわね」
「あう! そ、それは言わないでほしかったというか、なんというか……」

 揶揄えば、バカ正直に思い出したのだろう。一気に肌を染める知に弘香は思わず吹き出す。

「そういうところはまだまだお子様ね」
「う、うぅ〜! 悔しい……!」

 ギュッと眉間にしわを寄せて唸る知に弘香はクスクスと笑い、珍しく――というよりも、人生で初めてかもしれない言葉を口にした。


「――じゃあ、キスしてみる?」


 不感症であることを抜きにしても、弘香はあまり他人との触れ合いが得意ではない。勿論肩を組んだり握手をするぐらいなら幾らでも出来るのだが、恋人と二人きりになった時、べたべたとくっついたり、肌を重ね合わせるのは好きではなかった。
 そんな弘香が自分からこんなことを口にしたのは殆ど初めてと言っても過言ではない。

 それを知るはずのない知ではあるが、それを抜きにしても弘香の発言に目を丸くし、それからあわあわと更に肌を赤く染め始める。

「え、え、あの、それって……!」
「イヤならいいけど」
「す、する! します!」

 二十歳になったというのに、これではまるで中学生だ。真っ赤になって返事をする知に再び笑いそうになるも、弘香は黙って「ん」と目を閉じて顔を向ける。
 途端に目の前から緊張している空気が漂ってきたが、弘香は無視してそのまま待つ。そうして五秒、十秒と経った頃――ようやくチョン、と唇の皮膚と皮膚が触れ合うような微かな感触がした。

「…………は?」
「な、なに?」

 パッと離れて行った気配に思わず閉じていた瞼を開ければ、首まで真っ赤にした知が服の上から心臓を抑えながら泣きそうな顔で弘香を見遣る。

「……呆れた。あんなのキスって言わないわよ」
「うっ、だ、だって、ボク、初めてで――」

 フランスにいた癖に何故キスの仕方も知らないのか。アレクサンドルはその辺の教育を怠っていたとしか思えない。
 弘香は呆れつつも、心底恥ずかしがって丸い瞳を少女のように潤ませる知の頬に両手を伸ばし、そのまま自分へと向けさせた。

「いい? キスって言うのはね、こうやってすんのよ」
「――――!」

 先程の、金魚の口が指先にちょんと触れたような『子供じみたキス』ではない。
 弘香はしっかりと互いの唇の感触を、熱を、伝えるかのように重ね合わせる。

(やっぱり柔らかい。それに、意外と体温高いのよね、この子)

 そっと瞼を押し上げれば、途端にギュウと強く閉じられた瞼の様子が分かって可笑しくなる。カチコチに固まった体は石のようで、弘香はおかしくも、愛おしくもなった。

(ほんと、可愛いやつ)

 ふにふにとした唇の感触を楽しむ様に柔らかな下唇を自身の唇で食んだ後、弘香は『ちゅっ』と小さく音を立てて唇を離した。

「どう? わかっ――」

 分かった? と聞こうとした弘香の口が止まる。

 そこには、弘香を呆然と見つめる知の瞳は、昼中だというのに満点の星空を写し取ったのかと錯覚してしまいそうなほど、チカチカと光り輝いていた。

「……大丈夫?」
「ぁ、う……」

 ギュウ、とパーカーに皺が寄るほど強い力で知は心臓を抑えている。その顔は茹蛸の如く真っ赤で、うまく呼吸すら出来ていない。このままだと酸欠になって倒れるのでは? そう危うんだ弘香が声を掛けようとした瞬間、知はぽろり、と輝く瞳から星を落とした。


「ぼく、いま、たんさんのうみに、おちたみたい、だった」


 ――炭酸の海。


 それは、あれだろうか。ドボン、と音を立てて落ちた瞬間、沢山の気泡が視界いっぱいに広がって、全身の肌という肌をシュワシュワという音が撫でていくのだろうか。それはきっと――

(あの川よりは、ずっと綺麗だろうな)

 瞬く弘香の瞼の裏に、目が開けられないぐらいに眩しく光を反射する水面が浮かんでくる。キラキラ、チカチカ。痛いぐらいに網膜を焼き、刺してくる日の光は美しく、波打つ水面に比例してゆらゆらと揺れる。

 水の色は何色だろうか。考えた弘香の目には、夏空のような明るい青色ではなく、あの日、特別な宝物のように思えた青緑色をした石と同じ色をした海が見えた。

 シュワシュワ、シュワシュワと、音を立てて体が沈んでいく。ゆらゆらと輝く水面を見上げながら、沢山の小さな気泡が肌を撫でながら水面へと昇っていく。

 その様は――ああ、そう。まるで人間に恋をした人魚のようだと、弘香は笑みを深める。

「落ちたんだ?」
「おち、た」

「ドボン、って、音がした?」
「した」

 ――目の前がチカチカして、星が瞬くみたいに輝いて、だけど痛いだけじゃなくてキラキラもして、すごく眩しくて――

 必死に言い募る知の言葉を、弘香は優しい面持ちで聞く。
 きっと互いに細かく想像している映像は違うのだろう。それでも、弘香にも分かる気がした。

 互いの唇を重ねたあの瞬間、弘香にも分かった。

 ――恋とは、しようと思ってするのではなく、こうして“落ちていく”ものなのだろうな、と。

「もう一回する?」
「す、る」

 カチコチに固まっていた体を起こし、ずりずりと近寄ってくる知の姿を静かに見つめる。そうして今度はギュッと自分の背中に腕を回してきた知の顔を見上げ、弘香は無意識にその頬に向かって手を伸ばした。

「――キスして」
「うん」

 先程よりはマシとはいえ、それでも知から重ねられた唇は震えている。

 それは緊張から来るものなのか、それとも長年追い続けてきた愛しい人に触れられる喜びからか。

 どちらにせよ、弘香は自分からも求めるように知の頬を両手で掴み、唇を押し付ける。そうして一度音を立てて話した後、ふっ、と息をつく知の下唇を悪戯に噛んでみた。

「ッ?! ひ、ヒロちゃん?!」
「ふふっ。変な声」

 クスクスと笑いながら、弘香は真っ赤になって顔をのけ反らせる知の頬から伝わる熱すぎる熱に目を細める。
 上擦った声も、大きく見開かれた潤んだ色素の薄い瞳も、ドクドクと触れたところから感じられる早すぎる鼓動も、どうしてだか以前よりずっと――愛おしい。

「このままベッドに行ってもいいけど……。どうする?」

 弘香にしては珍しいほど露骨なお誘い≠セった。実際知はボン! と音がしそうなほど顔を真っ赤に染め上げたが、すぐさま何かに気付いたらしく泣きそうな顔をした。

「あ、う……でも、ボク……アレ、もってない……」
「アレ?」
「…………エチケット、的な……」

 コンドームのことを言っているのだと気付いた弘香は、途端にムードもへったくれもなく吹き出した。

「あははは! あんたゴムの存在知ってたんだ!」
「知ってるよ! ボクのこと何歳だと思ってるの?!」
「ご、ごめ、ぶふっ……!」
「ひ、ひどい……! 確かに恵くんみたいにいつも持ち歩いてるわけじゃないけど……!」
「やめてえ! 笑う! 笑い死ぬ!」

 ゲラゲラと床を叩きながら笑い転げる弘香に、知は「恵くんごめん」と頭の中で手を合わせる。咄嗟のこととはいえ、兄のなにか大事なものを穢したような、踏みにじったような気持になったのだ。
 だが一度出た言葉は戻ってこない。目尻に涙を浮かべながら笑い続けた弘香はヒーヒー言いながらも体を起こし、それから「はあ」と息をついた。

「あー、おっかしい。あんたのお兄ちゃん、いつもゴム持ち歩いてたんだ?」
「毎日かは知らないけど……」
「ぶふっ、毎日ゴム持ち歩いてる恵くんとかおもしろすぎるでしょ!」

 全員ではないが、大体の男性は財布の中に一つは入れていたりする。弘香とて分かってはいるが、その中に恵もいるのだと思うと笑えて仕方なかった。

「そりゃ、鈴が妊娠したんだから、そういうことしてるとは分かってるけど、あははははは! だめだ! おもしろすぎる! このネタで向こう三年は笑える!」
「どうしよう。恵くんに怒られる」
「あはははは!」

 しょんぼりと肩を落とす知と、再度笑いだした弘香の間に先程のような空気はない。それでも今までよりはずっと近しい間柄になれたような、気の置けない関係になれたような、そんな変化を互いに肌で感じていた。

「あー、おもしろかった」
「ひどいよ、ヒロちゃん」
「ごめん、ごめん。でも、一応あんたにもそういう欲があるんだってことが分かって、安心したというかなんというか」

 どこか浮世離れしているというか、あまり女性に興味がなさそうだったため密かに心配していたのだ。勿論同性愛者という線もあったが、表に出さなかっただけでちゃんとそういう欲はあるらしい。
 事実赤い顔で唇を尖らせる知は再度「ヒロちゃんのいじわる」と甘い声で詰ってくる。

「それに、その……そういうのはもっとこう……いろいろ、デートとか、してからするんじゃないの?」

 経験がないから分からないのだろう。あるいは、頭で分かってはいても今は抜け落ちているのか。ぼそぼそと呟く知に、弘香も「確かに肉体関係から始まる関係は知くんには似合わないか」と考えを改める。

「じゃあ、デートするか」

 よいしょ。と立ち上がった弘香に、知はパッと俯かせていた顔を上げる。

「いいの?!」
「だってアレでしょ? あんたは、手を繋いで、デートして、一緒にご飯を食べて、って、そういう段階を踏んでからがいいんでしょ?」
「うんっ」

 頷く知の瞳は再び輝きを取り戻している。やっぱり子犬なのよねぇ、コイツ。と愛おしみたくなるような、揶揄いたくなるような気持を抱きながら、弘香はクシャクシャと柔らかな髪を撫でまわす。

「ご飯は一緒に食べたから、あとは手を繋いでデートか」
「……いいの?」
「なにが?」
「手、ボクと繋いでくれるの?」

 キスまでしておいて一体何を言っているのだ、この男は。弘香は一瞬訝しんだが、昨日今日までまったく相手にしなかった自分が言えることではない。だから頷いてそれに答えることにした。

「当たり前でしょ。それとも、知くんはイヤなわけ?」
「そんなことないよ! ただ……ヒロちゃんが、本当にボクと手を繋いでデートをしてくれるなんて……」

 ――夢みたいだ。

 熱に浮かされたみたいなふわふわとした声で、心底幸せそうに笑う顔は初めて好きな女の子から花を貰った少年のようである。
 弘香はそんな知を見つめ、それから小さく息を吐きだした。

「ったく、ホントしょうがない男ね。あんたは」
「へ?」
「この弘香様の恋人になれたんだから、もっと自信を持ちなさい!」

 あんたが諦めずに追いかけ続けたから、私が手に入ったんでしょう?

 そんな傲慢にも聞こえる気持ちを言葉の裏に隠しながら告げた弘香に、知は驚いたように数度瞬いてから破顔する。

「うん! ヒロちゃん、大好きっ!」

 兄弟揃って告白が『大好き』なんだから、可愛いというかなんというか。弘香はふっと息を吐きながら皿を持ち上げる。

「そうとなればさっさと片付けて、準備して出るわよ」
「うん。って、あ!!」
「なによ。突然大きな声出して」

 シンクにお皿を運んでいた弘香が突然の、知らしくない大声に驚いて振り返れば、知はとんでもないことに気が付いたかのように口をあんぐりと開けて弘香を見ている。
 かと思えば、わなわなと震えながら、一瞬で青褪めた顔に手を当てた。

「も、もしかして……ヒロちゃんだけでなく、ボクも、昨日、お風呂入ってない……?」
「…………今更すぎる質問ね」

 ラブホでは入ったが、その後は入っていない。そもそもお酒に弱すぎて即寝した身だろうに。今更何を言っているのやら。心の中で付け足す弘香に、知は「うわーん!」と泣き声を上げる。

「服も昨日のままだし! 折角ヒロちゃんのお部屋にお泊りしたのに! よく見たら靴下もないし、ボク昨日何したの?!」
「本当今更ね。でも靴下に関しては私のせいだわ。昨日脱げ、って言って脱がせたから、ちゃんとあるわよ。ほら、あそこ」
「あ。本当だ。うぅ……。せっかくヒロちゃんのお部屋にお泊りしたのに、こんなのないよ……」

 よっぽどショックだったらしい。大学生みたいな格好ばかりしている割に一丁前に身だしなみを気にする知に対し、弘香は心底呆れた目を向けた。

「服は昨日ホテルでクリーニングしたから綺麗でしょ」
「でも、同じ服でデートとか……! ボク初めてなのに!」

 初めて好きな女の子とデートに行くのに、通勤着というか普段着というのが悲しいのだろう。弘香の想像を絶するショックの受け具合に、流石に可哀想な気持ちにもなってくる。

「はあ。分かったわよ。私もお風呂入りたいし、あんたも一回帰って、それから集合でいいでしょ?」
「え……。いいの?」

 ずぶ濡れになってしょぼくれていた子犬のような顔をして弘香を見つめて来る知に、弘香は「いいから言ってんの」と腰に手を当てる。
 実際、弘香もシャワーを浴びたい気持ちはあった。さっきは気持ち的にこのままベッドに行ってもいい気持ちでいたが、やはり自分を心底好いてくれている男の前では“綺麗”でいたかった。

「分かったら早く出る! あんたの家ここから離れてるんだから、早くしな」
「あ、で、でもっ、片付け……」
「そんなの私だって出来るっつの! ほら、靴下履いて!」
「あ、うん」

 床に置いていた鞄を肩に掛け、必死に靴下を履く知の背中を後ろから見遣る。小さな玄関が余計に窮屈に見える広い背中は、もう弘香が知っている『子供』の背中ではなかった。

「じゃ、じゃあ、またあとで迎えに来るから!」
「別に駅で集合でもいいわよ?」
「ヤダ!」

 何故そんなに全力否定するのか。分からなかったが、もうここまでくると好きにさせた方がいいだろう。と判断して頷く。
 そんな弘香に知はウロウロと視線を彷徨わせた後、ギュッと肩に下げた鞄の紐を握ると再びあの『チョン』と唇の先が触れ合うだけのキスをした。

「ま、またあとで……! 絶対、絶対に迎えにくるから! 待っててね!」

 赤い顔で早口で捲し立てながら、バタバタと音を立てて走り去っていく。弘香はそんな知の姿を呆然と見送った後、小さく吹き出した。

「だから……あーもう、ほんっと、下手くそなんだから」

 惚気るなんて自分らしくない。誰か一人の男に、こんな風に“恋しい”“愛らしい”と思うなんて自分らしくない。

 そう思う気持ちはある。だがそんな考えとは裏腹に、弘香はそっとベランダに出ると、そこから見える、弾むような足取りで駆けて行く後ろ姿を眺める。その目元には――いや、目元だけでなく頬も、弘香にしては珍しく優しく綻んでいた。

「傘、忘れて行ってんじゃないわよ。バーカ」

 随所に出来た水溜まりに、よく晴れた青い空が映し出されている。
 グッと背伸びをしながら見上げた空には白い雲が気持ちよさそうに寝転がっており、弘香はそよそよと吹いてきた風に髪を遊ばせた。


 ――川の音は、もう聞こえなくなっていた。



          エピローグ



 弘香はバタバタと通りを走り去っていく子供たちの姿を見ながら、カフェのテラス席で一人頬杖をついていた。

「ヒロちゃん! ごめん、待った?」
「いんや。そうでもないよ」

 実際は一時間も前からここにいたのだが、それは単に弘香が一人でいたかっただけの話で、待ち合わせ時間丁度に来た鈴が遅れたわけではない。
 それでも鈴はどこか申し訳なさそうに向かいの席に座ると、改めて弘香を見つめた。

「ヒロちゃん、髪切ったんだ」
「うん。かなりバッサリね。おかげで美容師から二回も確認されたわ。『本当に?! 本当に切るんですか?!』ってね。昔の私たちとは逆だね」
「あはは。本当だ。昔はヒロちゃんの方が長かったのにね」

 笑う鈴が言う通り、弘香は長かった髪をバッサリと、肩の上まで切っていた。
 逆に美容室に行く暇がない鈴の髪は伸びてきており、今日も後ろで一本にまとめている。そんな互いに軽く笑い合った後、鈴は少し真面目な声で弘香に気になっていたことを尋ねる。

「ヒロちゃん、仕事辞めたって聞いたけど……。本当?」
「うん。バシッと辞表叩きつけてやってきたわ。あんのクソ上司の鳩が豆鉄砲を食ったような顔! 思い出しても笑っちゃうわ! オーッホッホッホッ!」

 高々と笑い声を上げる弘香に、鈴は苦笑いしながらも安堵していた。以前まで見ていた弘香は心も体も無理を重ねてボロボロだった。気心の知れた鈴相手にも青白い顔で無理に笑って「大丈夫だって」と言っていた頃と比べれば、こうして生き生きと高笑いしている方が「弘香らしい」と安心出来る。

「それで、今は何してるの?」
「まだ何も。今はただのんびりと、やりたいことを探してる最中よ」

 実際弘香はあの後、知と初めてのデートをした数日後には辞表を叩きつけていた。何の前触れもなく、有能な弘香が辞めるとなり部署は騒然としたが、弘香はキッパリと「辞めるんで」と宣言し、説得してくる同僚も後輩も、何もかも全てを素気無く一蹴した。その中には元彼の姿もあったが、弘香は笑顔で「さよなら」と二度目の別れを告げてやったのだった。

「ふぅーん……。そっか。でも、ヒロちゃんが元気になってよかった」
「うん。色々迷惑とか、心配とかかけてごめん。ところで、あんたの方は大丈夫なの? どっかキツイとことか、ない?」

 鈴はもうすぐで出産予定日を迎える。勿論予定通り子供が生まれて来るわけではないのだが、それでも心配せずにはいられない。元々長時間拘束つもりは弘香にもなかったのだが、鈴は相も変わらず弘香の心配を余所にのほほんと笑う。

「平気。むしろ皆が心配し過ぎて、却って落ち着いた」
「あはは。そりゃよかった。何と言っても世界の歌姫、竜にとっての掌中の珠だからね、あんたは」
「もー。ヒロちゃんってば」
「ニシシシ」

 学生時代に戻ったかのように、無邪気に笑う親友の姿に鈴も穏やかな笑みを浮かべる。

 一時期は本当に「今にも死んでしまいそう」なぐらい顔色が悪く、やせ細っていた。細いのは今も変わらないが、その顔色は以前よりずっといい。やはり弘香はこうでないと。と鈴は目を細める。
 そんな鈴を弘香も似たような気持で見ていた。一時期悪阻が酷く、青い顔をしていた親友も今では落ち着いている。出産すれば今のように会えなくなるのかと思うと寂しい気持ちもあったが、表に出すべきではないと分かっていた。

「ねえ、鈴」
「うん?」
「あんた、今、幸せ?」

 まだほんのりと湯気を立てるマグカップを握りながら、ゆっくりとした声音で問いかけて来る弘香の顔を鈴はマジマジと見遣る。
 それこそ昔は合唱隊の皆に「幸せってなに? どうしたら幸せになれるの?」と聞いた鈴ではあるが、その話を弘香は知らない。それに鈴ももう子供ではない。
 自分を心配してくれる親友に向かって「どうしたの?」とも「何かあった?」と聞き返すこともせず、ただ花がほころぶような笑みを返した。

「――うん。すごく、幸せ」
「……そ。よかった」

 目の前で優しく目尻を和らげる弘香の顔を、鈴は「やっぱり少し変わったな」と思いながら見つめる。

 以前の、それこそ高校生の時の弘香はもっと過激で、苛烈で、熱烈で、とにかくエネルギッシュだった。様々な分野に強くて、興味があって、鈴では使用方法どころか名前すら分からないデバイスを使ってネット社会を泳ぐ姿は頼もしかった。凄かったし、開いた口が塞がらないというか、感心を通り越した何か別の、言葉に出来ない戸惑いや困惑もあった。
 だが今は、何だか憑き物が落ちたかのように穏やかに笑う顔を見て鈴も問い返す。

「ヒロちゃんは、今、幸せ?」

 弘香はその問いかけに暫く黙った後、小さな丸形テーブルに肘を置いて頬杖をつく。その目は、鈴ではなく通りを歩く様々な人へと向けられていた。

「…………どうだろう。よく、分かんないな」

 茫洋と通りを見つめる瞳がどこを向いているのかは分からない。それでも鈴は同じ方向へと目線をやり、そっと弘香へと戻した。

「ヒロちゃん。なんかあった?」
「……なにも。てか、その聞き方忍くんみたい」
「ははっ。実は意識して言ってみた」
「やっぱり? 似てねえっつーの」

 カラリとした顔で笑う弘香に翳りはない。それでもどこか存在感が薄まったような、今にも雑踏の中に消えて消息を絶ってしまいそうな親友の姿を鈴はじっと見つめる。
 それでもあえて根掘り葉掘り聞くようなことはせず、ただお互い、黙って沈黙を味わった。

「……私さ」
「うん」
「知くんと付き合うことになったんだよね」

 弘香の口からもたらされた情報は、実のところ既に恵を通して知らされている。当初は「え?!」と驚いた鈴ではあったが、それは「あの二人が?! 何で?!」という驚愕から来たものではなく、ようやく知が弘香に気持ちを伝え、結ばれたのかと言う驚きのような安堵のような、その類のものだった。
 だがやはりこうして本人の口から聞かされると不思議な気持ちになる。一緒にあの兄弟を見てきた二人が、もしかしたら義理の姉妹に、家族になるのかもしれないのだ。それを思うと何とも感慨深いというか、縁はどこまでも続くというか。鈴はおかしな気持ちになった。

「ふぅーん……。知くん、可愛いから大変でしょ」
「あんたの旦那よりマシよ。歩く度にあちこちから視線が飛んで来て、珍獣かっつーの」

 半笑いで揶揄う弘香に対し、鈴も「本人も辟易してるから、あんまり言わないであげて」と苦笑いを返す。
 恵はそのルックスのおかげで結婚しても尚ファンがいるだけでなく、街中でただ立っているだけでも人目を惹いてしまうのだ。そこに毎度突っ込んでいかなければならない鈴を思うと弘香は同情したくなるような気持も湧くのだが、実際には二人が揃うと無自覚にいちゃつきだすので基本的に首を突っ込まないよう決めていた。

「あの子はあんたの旦那と違って他人の視線に鈍感だから」
「すごいよねぇ。この前ニュースで見たよ。レッドカーペット歩いてたんだもん。びっくりしちゃった」

 恵もプロゲーマーとして名前が知られてはいるが、流石にレッドカーペットを歩けるような立場ではない。『U』の中であればまた話も変わってくるのだが、現実世界でその名誉ある絨毯を歩いたのは、まだ二十代になったばかりの知だった。

「私もギリギリまで聞かされてなかったのよね。突然『フランスに行ってくるね!』って言われたかと思ったら、数日後には『ボクレッドカーペット歩くことになっちゃった』って。何よ、なっちゃった、って。詳しく説明しろ、っつーの!」

 バン! と音を立ててテーブルを叩く弘香は腹を立てているように見えるが、その実怒ってはいない。ただ本当に、心の底から『お前は何をやっているんだ』という気持ちしかなかった。

「あの子本当、掴めないわ」
「あはは。恵くんもビックリしてた。『知くんの羽ばたき方が尋常じゃない』って」
「そうよねー。あんたの旦那もまあ有名になったもんだと思ってたけど、その弟が伏兵だったとは誰も思わないでしょ」

 サバゲーならとっくにキルされてるわよ、あんたの旦那。と弘香が続ければ、鈴も「わたしもそう思う」と笑い返す。

「でも、本当にすごいよね。知くん、あんなに堂々とインタビュー受けてるんだもん。しかもフランス語だけじゃなくて英語もペラペラだったし」
「それな。私もフランス語喋れることは知ってたけど、まさか英語まで出来ると思ってなくてさ。思わず「何で黙ってたのよ?!」って電話したら、『だって国際語だから、喋れないと仕事できないでしょ?』だって。あののほほんとした調子で言われたわ」
「あはは。知くんらしい」

 事実知はフランスで活動している間も様々な人間とコンタクトを取り、共に仕事をしてきた。そこにはフランス人だけでなく英国人や米人もいる。だからこそ国際公用語である英語を駆使しなければならず、自然と身に着いたのだった。

「ホンット、伏兵だったわ」
「恵くんは知くんのこと“天使の顔したジャイアントキリング”って言ってたよ」
「あー……。言い得て妙というか、流石兄弟というか……」

 互いの性格を熟知しているだけある。思わず笑ってしまった弘香に、鈴も同じく笑みを返す。

「知くん、いつ帰ってくるの?」
「さあ〜……。今連絡つかないのよね、あの子」

 どこで何やってんだか。そう呟く声に呆れた色はあっても、愛想をつかしたような空気はない。何だかんだ言って弘香も知を大事に思っているのだろう。

 それが分かるからこそ鈴も穏やかに微笑んでいられたのだが――事件とはいつも突然起こるものである。

 二人はバタバタと道を走ってくる一人の男性と、その背中を追いかける色黒男性を見つけて顔を合わせる。

「ヒロちゃーん! ただーいまーーー!!」
「知くん! 知くんお願いだから待って! 一回話し合おう?!」

 ブンブンと大きく手を振りながら、笑顔で駆けて来るのは「いつ帰ってくるのか分からない」と話したばかりの知である。その後ろからは、おそらく知から連絡があって迎えに行っていたのだろう。恵が心底焦った顔で知の背中を追いかけていた。

「なに? 修羅場?」
「いや……。兄弟で修羅場って言うのも変じゃない?」

 アレで意外と体力お化けというか、持久力のある知が恵を振り切り笑顔でテラス席にいた二人の元へと駆けて来る。その背中を追いかけ、昼中の、それも街中を全力疾走したのは他の誰でもない、鈴の夫でもあり知の兄である恵だ。
 そんな成人男性二人を鈴と弘香が呆然とした顔で見遣ると、先に到着した知が弘香にキラキラとした目を向けてきた。

「ヒロちゃん! 一緒にフランスに行こう!」
「ええ?!」
「はあ、はあ、知くん、ほんと、ちょっと、一回待って……!」

 知の前置きをすっ飛ばした突然のお誘いに、弘香ではなく鈴が驚きの声を上げる。そして数秒の差で追いつくことが出来なかった恵はと言うと、ガックリと両膝に手をつき、台風のような弟の所業に顔を青くしていた。

「……あんたまた、随分と突然ね」
「あのね! アレックスにね! ヒロちゃんと付き合えるようになったよ! って言ったらね!」
「ちょっと待て! あんた誰に何の報告をしてんのよ?!」

 思わず席を立った弘香ではあるが、知はお構いなしに興奮状態で話し続ける。
「アレックスが『おめでとう知! 僕たちの家に招待するから彼女を連れてきなさい!』って言ってくれたんだ!」
「いやいやいやいや! 嘘でしょ?! ご自宅にご招待?! 『世界のアレクサンドル』が?! ハードル高すぎるでしょ!!」
「本当だよ! ほら!」

 そう言って知が取り出したスマートフォンを弄ると、そこには白髪と白髭を蓄えた切れ長の目をしたダンディな男性が映っていた。

『Bonjour(こんにちは)』

「わああああ?!」

 メディアを通してでしか見たことのない、世界の『アレクサンドル・フゥベー』が片手を上げて気軽に挨拶をしてくる。
 流石に彼の事を知らない面々ではなく、思わず三人揃って後退ってしまう。

「ほほほほ本物?! 本物なの?!」
「本物だよー。ねー、アレックス」
「何なのこの子!! 緊張感なさすぎなんだけど?!」

 のほほんと花でも飛んでいそうなほどに呑気な知の姿に思わず弘香が全力で突っ込めば、世界のアレクサンドルがクックッと低い声で喉を震わせながら笑う。

『Oh〜、KAWAIIヒト。ネ、Tomo』
「でしょー? アレックスでもあげないからねー」
『HAHAHA! Mais oui.T’inquiète pas.(勿論さ。心配しないでくれ)』

 字幕として日本語訳が出るとはいえ、本場のフランス語と画面越しでも伝わる存在感に鈴と恵は完全に呑まれている。が、知は慣れたものでいつもの調子で会話を繰り広げていた。
 弘香も仕事を辞めてからずっとフランス語を勉強しているが、本場の発音を聞くと何も聞き取れず、更には大物の登場に冷や汗が大量に流れていた。

「知くん……。本当に大物になっちゃったね……」
「本人がアレなだけに実感なかったけど……やっぱりすごいわ、あの子」

 呆然とする鈴とひっそりと言葉を交わす弘香であったが、ここでふと画面越しにアレクサンドルと目が合う。

『Salut.(やあ)』

「ぼ、ボンジュール、ムッシュ」

 気軽に挨拶され、たどたどしくはあるがどうにか返事をする弘香にアレクサンドルは好々爺のような笑みを浮かべる。そして誰かに向かって指を向けると、そのまま『おいで』と手招きした。
 そして彼の隣に立ったのは、彼の妻である日本人女性だった。

『は〜い、知くーん。日本についたのね〜?』
「はーい。さっき着きました〜。ただいま〜」
『ウフフ。おかえりなさい。そちらが、知くんのお話していた弘香ちゃん?』
「そうだよ。ね、ヒロちゃん!」

(コイツ……!)

 心の中で盛大にツッコミながらもどうにか頷くと、フゥベー夫婦から揃って『フランスにおいでよ!』『パーティーを開こう!』と誘われ弘香は血の気が引いていく。

「あ、あの、でも、わたし、まだフランス語を勉強中で、まともに話せなくて……」
『あら、大丈夫よ。知くんがいるし、私もいるから』
「そうだよ、ヒロちゃん。ボクの隣にずっといればボクが通訳してあげるから、心配しないで」
「気軽に言ってんじゃないわよ! あんた、相手は世界のアレクサンドルよ?! 粗相をしたらどうなると思ってんのよ!」

 自分の軽率な行動や言動で知の名に傷がつくのではないかと、目の奥をグルグルと回しながらも必死に言い募る弘香に、知はいつものように笑みを返すばかりである。

「大丈夫! アレックスは冷たい人じゃないし、みんないい人ばかりだから、心配しなくていいよ」
「そうじゃなくて……!」

 知の今後のキャリアのことを心配しているのだと、いつもの頭の回転の速さがどこへ行ったのか。気が動転しすぎて空回りしている弘香に、知は優しく微笑んでその手をギュッと優しく、それでもしっかりと握り締めた。

「大丈夫。ボクを信じて」

 はくはくと、何も言い返せずに口を開閉するだけの弘香に向かい、知は安心させるようにヘニャリと相好を崩す。
 そのいつもと変わらぬ気の抜けるような笑みに、弘香は徐々に肩の力を抜いていく。それは諦めというよりも、このチャンスをこの男を通して掴んでやろう。という気持ちの切り替えでもあった。

「はー……。分かったわよ。行けばいいんでしょ、行けば」
「うん! アレックス! ヒロちゃんフランスに行くって!」
『OK! J'ai hâte de vous voir.À la prochaine.(OK! 会える日を楽しみにしているよ。ではまた今度)』
『じゃあね〜、知くん、弘香ちゃん』
「はーい。また連絡するね〜」
「あ、ありがとうございます」

 気軽に手を振る知と、頭を下げる弘香の後ろでは鈴と恵が揃って顔を合わせる。

「なんだか、すごいことになったね」
「知くんは大丈夫だとは思うけど、弘香さんは……」

 と二人が心配した矢先、弘香は知の肩を掴んで揺さぶっていた。

「もーーーー!! あんたってやつはーーーーー!!」
「えー? 前から“行こうよー”って言ってたじゃん」
「そうだけど! そうだけどさ! なんでフゥベー夫婦を巻き込んでるわけ?!」
「あ。息子さん夫婦と、娘さん夫婦も時間が合えば会いに来てくれるって」
「世界の著名人が集まる場所に私を突っ込む気?!」

 今回ばかりは弘香の台詞に全面同意しかない。鈴と恵もそっと弘香の肩を持つように知を呼ぶ。

「知くん。流石にヒロちゃんでもハードルが高いと思うんだけど……」
「そうだよ。弘香さんもようやくゆっくり出来る時間が出来たんだし、少しぐらい時間をおいても……」

 そんな二人に対し、知はコテン。と心底不思議そうに首を傾ける。

「どうして? だってヒロちゃん、ボクと一緒にいてくれるんでしょ?」

 キョトンとした顔で弘香を見下ろす知に、弘香も「は?」と間の抜けた声を返す。

「というか、向こうもそのつもりで招待してると思うよ?」
「……待って。待って待って待って! それってつまり――!」

 顔面蒼白になる弘香に向かい、知は今までで一番“いい笑顔”を返した。

「うん。ボクにとってヒロちゃんが“運命の人”だって、向こうは思ってるよ」
「うわあああああ!! あんたこの、バカ! 大馬鹿! なんでそうなってるわけ?!」
「うーん……。多分ボクがヒロちゃんのこと説明する時に“ボクの一番星”って説明したから、歪曲してそういう関係なんだと認識したのかも」
「何やってんのよアンタはーーーー!!」

 心の底から叫ぶ弘香の悲痛な声に、鈴と恵はそっと同情の意味を込めて背を撫でる。もう二人に出来ることは何もなかった。

「ヒロちゃん……。頑張って!」
「応援してるよ、弘香さん!」
「この野郎! 夫婦そろって秒で見捨てやがって!!」

 親友夫婦に咄嗟に弘香が涙目で突っ込むが、すぐさま弘香の手を握り締めていた知が安心させるように弘香の名前を呼ぶ。

「大丈夫だよ、ヒロちゃん。ボクがずっとヒロちゃんと一緒にいるからね」
「恐怖のヤンデレ遺伝子引き継いでんじゃねーよ! 兄弟揃ってホラーすぎるわ!!」
「僕のどこがヤンデレなんですか」

 泣き叫ぶ弘香に「聞き捨てならない」とばかりに恵が口を挟めば、完全に据わった目をした弘香がギロリと恵を睨みつける。

「常識ぶってんじゃねえよ、この独占欲丸出し男。鈴のためなら法外なやり方にも手を染めるアウトローがっ」
「ああ、それ僕の中では正当化されるので、ちっとも法外じゃないですね」
「いい笑顔で怖いこと言ってんじゃねえよ! 私の親友返せ!」
「嫌です!」

 兄弟揃って返事だけはいいんだから、と弘香が毒づいていると、何故か知にギュッと抱きしめられた。

「え? なにこの状況」
「だって恵くんとばかりおしゃべりしてるから……」
「なんでよ。今の会話をどう聞いたらそうなるのよ。拡大解釈しすぎて怖ぇーわ」

 小型犬のような顔をした大型犬、もとい恐怖のヤンデレ遺伝子持ちを恐る恐る見上げると、途端に知は嬉しそうに笑みを深める。

「だってやっとヒロちゃんを手に入れられたんだと思うと、うれしくて」
「はい。ヤンデレ決定」
「だからつい、フランスに着いた途端みんなに報告しちゃった」
「ねえ聞いた? コイツ着実に外堀埋めに来てるんだけど」

 しかも世界で活躍する著名人を巻き込んだとんでもない布陣を敷いてきたのだ。一体どう対処すればいいのかと青くなる弘香に対し、恵だけはグッと知の手を強く掴み取った。

「弘香さんを確実に手にするためならその選択、間違いじゃないよ、知くん」
「わぁい」
「待てぇ! 何ちゃっかり狂気の英才教育施してんだ! あんたも素直に聞いてんじゃないわよ!」
「だってボク、ヒロちゃんのこと欲しいんだもん」
「ヤダもう怖い! 何だか別の意味にも聞こえてきたんだけど?!」

 青くなる弘香ではあるが、知は気にせず笑って弘香をギュウと抱きしめる。

「ヒロちゃん確保! もう離さないからね!」
「いやー! 助けて鈴ー!!」
「ごめん、ヒロちゃん……。わたしにも守らなきゃいけない家族が……」
「薄情者ォオーーーー!!」

 涙目で叫ぶ弘香に対し、鈴は両手を合わせながらも「頑張って!」と苦笑いを浮かべ、恵は「知くん頑張れー」と弘香を助けることを諦め、弟を応援する方向へと舵を切っている。
 そうして知の意外とがっしりとした腕に抱きしめられながら、弘香は心底悔しそうな顔で知を睨むしかなかった。

「あんた本当、覚えてなさいよ?!」
「うん! ヒロちゃんとの約束なら、ボク全部覚えるって約束するよ!」
「そうじゃないっつの、このバカーーッ!」

 ベシベシと知の肩を叩き、どうにか逃げ出した弘香はそのまま脱兎のように駆けだす。そんな弘香の鞄を鈴が慌てて持ち上げようとするが、それよりも早く知がそれを掴み、鈴と恵に向かって手を振った。

「二人とも、またね!」
「う、うん! またね、知くん!」
「あー……。あれはしっかり火がついてるなぁ……」

 バタバタと再び、今度は知を鬼にして始まった追いかけごっこに恵と鈴は改めて顔を見合わせる。

「いつかあの二人とベルがコラボしたら、すごいことになりそうだね」
「だね。僕も竜としての活躍する場所、増やしておこうかな」

 そんなことを鈴と恵が話し合っているなど露知らず、必死に逃げる弘香を知の腕が掴み取る。

「ヒロちゃん!」

 それでも弘香は「素直に振り向いてやるか!」と顔を逸らす。そんな弘香の態度すら楽しむかのように、知は弾けんばかりの笑みを顔いっぱいに浮かべて呼びかけた。


「ねえ、ヒロちゃん!」


 ――こっち向いて!



終わり 




prev back to top next