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広いベッドの中で弘香はゆっくりと瞬きを繰り返す。
自身を包むのは柔らかな毛布――ではなく、ローブからガウンに着替えた知の腕だった。
「起きた?」
「うん……」
知の腕の中で散々泣いた弘香は、あの後スコンと意識を落とした。そんな弘香を抱き上げ、ベッドに連れて行ったのは知だ。そうして弘香が目覚める今の今まで、ずっと彼女を抱きしめていた。
「今何時……?」
「六時過ぎ」
「三時間近く寝てたのか……」
元々フリータイムで部屋を取っていたので時間を気にする必要はないのだが、三時間もこんなところで知を放置したのかと思うと居たたまれない気持ちにもなる。
泣きすぎたせいか、それとも日頃の寝不足が祟ったのか。未だにぼんやりとする頭でそんなことを考えていると、するりと知の指先が弘香の目にかかる髪を優しく横に退けた。
「キツイ?」
「平気……。少し、ぼんやりはするけど」
ぼんやりというよりはうとうと、という感じではあるが。そんな弘香の目元を、知がそっと指の腹で優しく触れる。
「赤くなっちゃったね」
「あれだけ泣けばね……」
声も掠れ気味だが、決してナニをソレしたからこうなったわけではない。単に弘香の限界が来て泣きすぎただけだ。二人の関係は未だに清らかなままだし、告白はされたが答えは出していない。
そんな弘香の微睡むような、それでいてどこか困惑したような目を見つめながら、知はいつものように柔らかな笑みを浮かべる。
「大丈夫だよ。何もしてないから」
「誰がそんな心配したのよ」
口ではそう言いながらも、どこかほっとした気持ちでいるのは確かだ。散々アレな姿を見せてはいるが、弘香とてまだ秘密にしていることはある。
バツが悪くて視線を逸らす姿に、知はおかしそうにクスクスと笑うだけだった。
「じゃあ、起きる?」
「そうね……」
不思議なほどに抗いがたいぬくもりから、敢えて自らの腕で体を起こすことで脱出する。弘香はふと視界に入った乱れた髪に指を通し、そのままのそのそと緩慢な動作で梳いていく。
「ふぁ……」
「……あんた、寝なかったの?」
「さすがにねぇ」
隣で欠伸を零しながら起き上がった知に弘香が首を傾ければ、子供のように目を擦りながら知がのんびりと答える。一瞬『何故だろう』と思った弘香であったが、その答えはすぐに隣から聞こえてきた。
『ああ……!』
「声でかっ」
「わぁ。また始まったぁ」
一体どんな激しいプレイをしているのか。突然聞こえてきた男性の悲鳴のような、雄叫びのような声に弘香の肩がビクリと跳ねる。対する知はと言うと、この三時間で散々聞いてきたのだろう。げっそりとした顔で肩を落としていた。
「もー……。幾らホテルだからって……もう少し隣のこと考えてよぉ」
「ははっ。あんたも寝ちゃえばよかったのに」
「出来たら苦労しないよ……」
聞きたくもない男の喘ぎ声を、途切れ途切れだとはいえ聞かされたのであれば精神的疲労は相当なものだろう。事実頬杖をつく顔には珍しく不満が滲み出ている。そんな知に弘香は自然と笑みを向けていた。
「テレビでも見てればよかったじゃない」
「……ヒロちゃん、わざと言ってるでしょ」
「あら。なんのことかしら」
オホホホ。と口に手を当てて笑う弘香は知っている。この手のホテルではうっかりテレビの電源を入れれば最後。ビックリ映像が流れることを。勿論Rが18な意味で。
事実知は体験した後なのだろう。白い肌をほんのりと染めながら弘香を不服そうな顔で見遣る。そんな年下の、初心で可愛らしい反応に弘香は揶揄うような笑みを引っ込め、寝癖がついてピンと跳ねた髪を優しく撫でてやる。
「もう少し身だしなみには気を遣いなさい。いい顔してんだから」
「……ヒロちゃんはボクの顔、好き?」
「……好きか嫌いかの二択で言うなら、好きな方ではあるわね」
かなり歪曲した答えではあるが、知にとっては充分なのだろう。先程までの不服そうな顔から一変して幸せそうな笑みを浮かべる。
「よかった」
「………………」
弘香は改めて目の前の子供――改め、成人を迎えて青年になった知の姿を見つめる。
幼く、丸みがあった頬は今ではすっきりとしたシャープな線を描いている。それでも相変わらずどこか幼く見えるのは、その無邪気な言動と優しい顔立ちのおかげだろう。男であっても頬は柔らかく、引っ張ればそこそこ伸びる。そのせいかハムスターのような愛玩動物のイメージも抱きやすい。
栗毛の髪はふわふわとしており、ひよこみたいだ。実際一本一本が細く、柔らかい。だから簡単に寝癖がつく。
「ヒロちゃん?」
何気なく膝の上に置かれていた手を取れば、想像以上に自分の手よりも大きいことに気が付いた。
(恵くんの手とも違う。色白で、手の平は柔らかい。皮も厚いわけじゃない。でも――こんなにも、大きい)
弘香は自分の手を小さいと思ったことはあまりない。平均的、というか、一般女性は大体このぐらいだろう。という気持ちだったから、意識したことがなかった。
それでも今は、不思議と自分の手が子供のように見えてくる。
「ヒロちゃんの手、ちっちゃいね」
知も似たような気持になったのだろう。そっと、確かめるように自身の手に触れて来る弘香の指を柔らかく包み込み、指の腹で優しく撫で始める。
爪も、指の長さも、手の甲も、そこに浮かぶ血管の太さでさえ、まったく違う。
肌の白さだって、知よりも弘香の方がずっと白い。互いに日に焼けない仕事をしていると思っていたのだが、案外知は頻繁に外に出ているのかもしれなかった。
「……あんた、肌綺麗よね」
「そうかな?」
「うん。むかつく」
「えぇ……。理不尽……」
特にケアをしているわけでもないのに綺麗なのがムカつく。そう告げる弘香に、知はどうすればいいのか分からず困惑する。だが不満を口にする割に、弘香の表情は穏やかだった。
「目だって茶色みがかって珍しいし、唇だってぷっくりして艶々してるし、髪だって柔らかくて触り心地がいいし、声も男性にしては少し高いけど、柔らかくて、優しくて――」
魅力的な、男なのだ。
自分の目の前にいる、弘香を「好きだ」と何度も口にする男は。
「………………」
「ヒロちゃん?」
だからこそ弘香は考える。
二十歳と二十六歳。この六年の差は、あまりにも“大きい”。
「……あんたが小学校一年生の時、私は六年生だった」
「ボクはもう、小学生じゃないよ」
分かっている。それでも、六年は六年だ。大人の六年は子供の六年よりずっと短く感じるけれど、それでも流れる歳月は同じはずなのだ。
一年は三百六十五日。一日は二十四時間。一時間は六十分だと決まっているし、一分は六十秒で間違いない。それなのに、弘香は自分だけが歳を取っているように感じて仕方ない。
「…………六年は、長いわよ」
初めて二人が知り合った時、弘香は高校生で知は小学生だった。ランドセルを背負って小学校に通っている年齢だったのだ。
肉付きが悪く、その体は薄くて軽かった。実際抱きしめた鈴がそう口にしていた。あの時の弘香が当時の知を抱きしめたことは一度としてない。それでも、画面越しに見る体は小さく、言動は幼かった。
「……ヒロちゃんが大学生の時、ボクはフランスにいた。恵くんと離れて、知り合いも友達も誰もいない場所で、大人の人と混じって色んなことをした。それでもまだ、ヒロちゃんはボクを子供扱いしたよね」
事実子供だった。知はあの時まだ高校生で、幾らフランスの学校に通っていると言っても弘香からしてみれば十分子供だったのだ。だが弘香が知らないだけで、当時から既に知は様々な活動に参加していた。
「あの時からずっと、ボクにとってヒロちゃんは憧れだったし、好きな人だった。でも、ヒロちゃんには他に好きな人がいて――恋人が、出来て。ボクは、初めて、日本にいなかったことを後悔したよ」
弘香が初めて男性と付き合った時も、その後浮気現場に遭遇し、別れて怒りながら泣いた時も、就職し、皆でお祝いした時も、激務に倒れて緊急搬送された時も――。知はずっと、フランスにいた。
「帰ろうと思えば、いつだって帰れた。実際、アレックスたちからも『帰らなくていいのかい?』って聞かれたよ。でも、あの時のボクが帰ったところで、ボクに出来ることなんて何もなかった」
当時弘香が付き合っていた男性は知ではないし、泣きながら怒りを向けた相手も知じゃない。就職先は知らない企業だったし、そこには当然知り合いなんているはずもなかった。
そうして知が着実にフランスで経験を積んでいくなかで、弘香は倒れた。
「ヒロちゃんが倒れた、って聞いた時、ボクはアレックスと一緒にデザイン画を描いてた。彼のアトリエで、クライアントとリモートで会議をしながら、タブレットにデザインを起こしてたんだ」
そんな時に鈴から連絡が来て、知は一瞬目の前が真っ白に染まった。
「ボクさ、今までずっと自分の事『ひ弱』だと思ってたんだけど、意外と力があったんだ。だってその時、アレックスに『知。頼むからペンを折らないでくれ』って言われてさ。最初は『何を言ってるんだろう』って思ったんだけど、よく見たら握ってたペンを折ってたんだ。ビックリしちゃった。人って、驚いたり、どうにも出来ない場面に遭遇すると、すごい力が出るんだね」
知は覚えていないのだが、当時アレックスと通信先の相手は知の手元から聞こえてきた『バキッ』という激しい音を聞いていた。どこを見ているのか分からない瞳に、血の気の引いた顔。その手は震えており、折れたペンの破片が手の平に突き刺さって血が流れていた。
その日から数日、知は制作に関わることを禁じられた。
「その間、ボクはずっと街を歩いてた。朝から日が暮れるまで、ずっと。知ってる道も知らない道も、歩きながら考えてたよ。どうすればヒロちゃんに胸を張って逢える“大人”になれるんだろう、って」
どれほど有名なアーティストと顔を合わせても、どれほど大きな式典に出ようとも、それは『アレックスとの共同制作者』であって、知一人の実力でも何でもない。だからこそ知はそれらを誇る気にはなれなかった。
「みんな口を揃えて言うんだ。『すごいね』って。でも、本当にすごいのはアレックスや、周りの人たちで、ボクはただのオマケでしかない。分かってるから『違うよ』って言うのに、誰も信じてくれないんだ」
知の言い分も間違いではない。だがあの世界的デザイナーであるアレックスと『共同制作』出来るだけでも各人からしてみればすごいことなのだ。それを、知は理解していない。
弘香は気付いていたが指摘しなかった。知がそれを望んでいないことを分かっていたからだ。
「会社の人たちもそう。アレックスに誘われる度に相談するんだけど、みんなボクの抱えている仕事は『自分たちがどうにかするから早く行け』って追い出すみたいに背中を押すんだ。そんなことしなくても、アレックスは機嫌を損ねたりしないのに」
知が務める会社は東京に本社を置くデザイン会社だ。WEB制作をメインに扱っており、その仕事は年々増え続けている。その中の一画、看板部署でもある『WEBデザイン』に知は籍を置いている。が、その中でも知は特別な仕事を請け負うことが多かった。
「あんたは、海外の著名人や業界人との知り合いが多いからね」
「全部アレックスのおかげなんだけどね。あとは、それこそヒロちゃんがベルの衣装をボクに任せてくれたから知り合えた人たちばかりで、結局ボクが一人で売り込みにいったわけじゃない。全部偶然で、人から与えられた機会ばかりなんだ」
だがその“チャンス”をものに出来るかどうかも実力が関係してくる。当時まだ中学生だった知が掴んだチャンスがあったからこそ、今に繋がっているというのに、妙なところで後ろ向きと言うか、謙遜している知に弘香はため息を零したい気持ちだった。
実際「あんたねぇ」と言いかけた弘香ではあったが、意外なことに知はカラッとした表情で弘香を見つめた。
「だから、がんばりたいんだ。ボクはもっと、自分の力で上に行きたい。恵くんが世界中の人たちから注目されてるみたいに、ベルが、今でも沢山の人に愛されてるみたいに、ボクも、自分の力で、ボクだけの名前で仕事がしたい」
パチリ。と弘香は丸く見開いた目を瞬く。その先にいるのは、今の自分に満足することなく邁進しようとする、一人の若々しい青年だった。
「ヒロちゃん。確かにボクは色んな人と知り合いだし、そういう人たちに出会えて、話せる機会に恵まれた人間なんだと分かってる。大きな式典にも出させてもらえた。詳しい来歴は分からないけど、すごくエライ人と会うことも出来た。でもね、」
弘香の目の前にいる青年は――世界を股にかけて走る知の瞳は、夜空の下にいるわけでもないのにキラキラと瞬いて、星が流れているようだった。
「一番大事な時に、ヒロちゃんの傍にいられないなら、ボクは――」
何か、とんでもないことを言おうとしていないか。この男は。
咄嗟に弘香が両手でその口を塞ぐも、知は気にせず弘香の手を取り、ベリッと引きはがした。
「ボクはね、ヒロちゃんを連れてフランスに行くよ」
「………………は?」
思わず『そっちが仕事辞めるんじゃないのかよ』と思った弘香は悪くないと思う。むしろ普通の感性の持ち主だ。
だがその斜め上を飛び越えていくのが知という青年だった。
「だっておかしいよ! なんでヒロちゃんが倒れるまで働かなきゃいけないの? そんな会社、ヒロちゃんがこの先どんなに頑張っても頑張らなくてもいつか倒産するよ!」
「ハッキリ言ってくれるじゃない。でも私も前からそう思ってた」
事実「何度辞表を叩きつけてやろうか」と考えた弘香である。だが結局ズルズルと、倒れても働き続けたのも弘香自身だ。
いつでも辞められる。そんな傲慢な考えがあったからこそ辞められなかった。
そんな弘香に、知はハッキリと告げる。
「ヒロちゃん。そんな会社今すぐ辞めてボクと一緒に活動しよう」
「あんたね……」
「だってヒロちゃん、そういうの得意でしょ? 誰かをサポートしたり、売り込んだり、提携したり。ヒロちゃんのマネジメント能力は、ボクだけじゃなくて恵くんもベルも知ってるし、よく分かってる。ヒロちゃんを悪戯に傷つけて壊すぐらいなら――そんな会社に、そんな人たちに、これ以上ヒロちゃんを好きにさせたくない」
ギュッ。と弘香の手首を握ったまま真正面から思いをぶつけられ、弘香はどこか呆然とその言葉を聞き――脱力した。
「……私、フランス語喋れないんだけど」
「いいよ。ボクがいるから」
「そうじゃなくて……」
「ずっと一緒にいればいいんだよ。仕事での通訳も、フランス語の勉強も、あっちでの生活も、全部ボクが教えてあげる」
なにも心配しないで。と笑顔で言われ、弘香は大きくため息を零しながら項垂れた。
「あんたねえ……。そんなにフランスで活動したいわけ?」
「え? ううん。別にフランスじゃなくてもいいよ。ヒロちゃんと一緒なら、日本でもフランスでも、地球の裏側だって行けるもん」
サラリととんでもないことを言ってくれる。
そこにどんな問題が転がっているかも分かっていないような顔で――事実考えてもいないのだろう。それでも不思議と怒るよりも笑いが込み上げて来るのは、ひとえに知が放つ謎の自信に当てられたせいだろう。
「あーもう、分かったわよ。ていうか、本当にあんた私がいいの?」
「うん! ヒロちゃんじゃなきゃヤダ!」
「あっそ。……しょうがないわね。本当に」
格好つけたかと思えば、こんなにも子供みたいな強引さと自信に溢れた笑みを見せてくる。そのくせ弘香の手を握る手はずっとあたたかくて、優しいままなのだから対応に困る。
弘香は強引なのかそうじゃないのか分からない知を、呆れたような、それでいて愛おしむような、そんな柔らかな瞳で見上げた。
「……私の負けだわ」
「やったー。ヒロちゃんに勝った〜」
ニコニコと、花でも飛んでいそうなほどに素直に喜ぶ姿はまさしく“子供”だ。だけどそう思いたいのは弘香だけで、本人はもう成人し、社会に出ている。実際、その名前は日本の一企業で働く弘香よりもずっと有名なのだ。
「……あんた、本当に大きくなったわね」
心も体も。兄に守られていただけの小さな体は今や並ぶほどになり、独学で得たプログラミング技術と生まれ持ったデザインセンスで著名人に目を掛けられている。そんな男がひたむきに追いかけてきたのがこんなどうしようもない女なのだと思うと居たたまれない気持ちにもなるが、不思議とすっきりとした気持ちでいられた。
「あー……。なんか話してたらお腹空いてきたわね」
思えば今朝どころか昨夜から何も口にしていない弘香である。色々吹っ切れたせいか何なのか。珍しく『空腹』を感じてぼやけば、目の前の体からも『ぐうぅ』という呑気な音が聞こえてきた。
「…………そういえば、ボクも今日お昼食べてない」
「ぷっ、あははは! あーもう、おっかしい!」
さっきまでの勢いはどこへ行ったのか。弘香の手を離し、お腹を押さえる知は憮然としている。その姿に弘香は思わず吹き出し、遠慮なく笑った。
「じゃあ、ホテル出て、食べに行くか」
「え。ホント?!」
「うん。私も久々に、まともなご飯が食べたい気分だわ」
気を失うほどに涙を流したおかげなのか。それとも、目の前で嬉しそうな笑みを顔いっぱいに浮かべる男のおかげなのか。
弘香は穏やかな気持ちのまま羽織っていたローブを脱ごうとし――すかさず知に止められた。
「何よ。この手は」
「いや……。あの……。流石に目の前で潔く脱がれるのは、ちょっと……」
数時間前までは共に入浴した仲だというのに、今更何を戸惑っているのか。ぽかんとする弘香が見上げた先には、知の真っ赤に染まった肌がある。
「え? あんた、うそでしょ? 照れてんの? マジで?」
「………………」
こんな貧相な体を――と思いはしたのだが、ふと身長差と視線の位置から考えてみれば知の視線がどこに向けられたのかが予想出来る。
確かに全体的に貧相になってしまった体ではあるが、ないわけではないのだ。むしろ『意外にも“ある”』と言わしめたところを隠すように、知の手がしっかりと前を閉じている。
「ふぅん……」
「なに? その反応」
「いや、あんた見たくないのかな、って」
「み?! みゃ……! ゆ、誘導尋問だっ!」
「ぶふっ! 誘導尋問って、あんた……! あははは! バッカねぇ〜!」
顔だけでなく耳や首まで真っ赤にして、必死に叫ぶようにして突っ込んでくる知に弘香は再び吹き出して大笑いする。
事実このホテルは『そういうこと』をすることが目的として建てられている。今は聞こえないが、隣の部屋もそれが目的であることは明確だ。
だというのにこの初心な男は、弘香が目の前でローブを脱ぐ姿すら直視できず、こうして全身を赤く染め上げ目を逸らしていた。
「あーもう……。……バカね。ほんとうに」
今まで付き合ってきた男たちは、こうではなかった。
良くも悪くも彼らは『男』で、弘香は『女』だった。ただ、それだけだった。
「バカでいいもん……」
「はいはい。じゃあ一つ聞くけど、あんた、したくないの?」
問い掛けた途端、知の手がピクリと跳ねる。その色付いた指先を見下ろしながら「どうなのよ」と弘香が尋ねれば、知は目を逸らしたままモゴモゴと、心底恥ずかしそうな体で答えを口にした。
「きょ、興味がないわけじゃ、ない、けど、」
「うん」
「こんな場所で、こんなふうには、したく、ない。……です」
こんな風、とは。と弘香が首を傾けていると、知が一瞬だけテレビをつけて、一瞬で消した。
「ああ……」
「ホントにビックリしたんだからね?!」
その言葉は事実なのだろう。一瞬とはいえ見えた映像はなかなかにショッキングだった。そりゃあ多対一は素人にはキツイ。
「そりゃあ一対一じゃなかったら私もキツイわね」
「そうじゃなくて!」
「分かってるって。あんた、経験なさそうだもんね」
そうはいっても晩婚化が進んでいる現代社会だ。二十歳になったばかりの知が未経験でも何ら可笑しい話ではない。――と思ったのだが。ふと弘香は頭に過った疑問を吟味することなく相手にぶつけてしまう。
「あんた、フランスで恋人作らなかったの?」
「……それを、好きな人に聞かれるボクの気持ちをヒロちゃんはもう少し考えて」
「あ。……ごめん」
プルプルと弘香のローブを握り締める知の指が震えている。パンケーキのような男であっても人並みに羞恥心はあるのだ。いや、人並みかどうかは分からないが、多少は生物として触れられたくない事情はある。
「というか、ボクはあっちでは基本的に恋愛対象外だったよ」
「ああ、外見的に幼すぎて? 五歳児って言われたの?」
「そこまで酷くないよ! じゃなくて、単なる価値観の違い。それにボクはずっとヒロちゃんが好きだったし、アレックスたちと仕事をするのが楽しくて、女の子と仲良くなろうだなんて考えたこともなかった」
「…………そう」
恵も恵だが、知もなかなかに愛が重い男である。思いがけない一面に面食らったものの、今まで浮気ばかりしてきた彼氏その一、その二を思い出せば誠実に見えるのだから不思議だ。
弘香は未だにローブの前を閉じたまま動かない知の手に、自分の手をそっと重ねた。
「でも、この格好じゃ外にも出られないわよ」
「あ……。うん。そう、だね」
事実ローブの下には何も纏っていない。それに気付いたのか思い出したのか、はたまた分かっていても敢えて見ない振りをしていたのか。
どちらにせよ知はゆっくりと頷き、そっとローブから手を離す。だがその視線は相変わらず気まずそうにウロウロと彷徨っていた。
そんな時に備え付けの電話が鳴り、頼んでいたクリーニングが終わったことを告げられる。
「丁度良かったわね」
「そうだね。あ。そういえば、このキャリーケース、何が入ってるの?」
雨に濡れたはずのキャリーは綺麗に拭かれていた。おそらく知が拭いたのだろう。礼を言いつつも弘香は素直に「元彼の部屋に置いてた荷物取りに行ってたのよ」と答える。
「元彼の……」
「そ。服とか日用品とか、色々ね」
「……着替えを置くぐらい、よく会いに行ってたの?」
しょんぼりと沈んだ声で問いかけて来る知に、弘香は自嘲するような笑みを浮かべ、「逆よ」と答える。
「あんまり行かなかったから、いざって時のために困らないよう元彼が『置いていけ』って言ってきたのよ。よくよく考えてみれば従う必要もなかったんだけど、当時は『それもそうか』なんて考えちゃってね。正直『処分して』って言いたかったけど、何に使われるかも分かんないし。気持ち悪いから自分で捨てようと思って取って来たのよ」
事実弘香は精密機器や情報誌以外は全て捨てるもりだった。下着も洋服も、どこで誰が触れたか分からない。洗濯すればいいのだろうが、気持ち的に着たくなかった。それに大して気に入っていたわけでも高かったわけでもない。安物だからこそ気兼ねなく捨てられるというものだ。
だが詳しいことを知らない知は、じっとキャリーケースを見つめる。
「……ヒロちゃんは、その人のこと、好きだった?」
幾ら別れたとはいえ、散々泣いた後だ。少なからず何か思うところがあったのではないかと尋ねる知に、弘香はゆっくりと首を振る。
「多少なりとも愛情はあったけど、恋ではなかったわ。鈴と恵くんみたいな関係性にはなれなかったし、それに――」
コンコン。と扉がノックされる音で弘香は言葉を止める。代わりに知に出るように促せば、スタッフがクリーニングを終えた衣服を手渡し、書類にサインをもらった後静かに退出した。
「ホテルのクリーニングってこんなに早いんだ」
「至急で頼んだからね。その分料金は割増だし、下手なクリーニングより高くつくからおすすめしないわ」
実際ホテルによって料金は変わるが、今回は五十パーセント増だ。だが濡れた衣服を持って帰る方が面倒だったため、後悔はない。
「そうなんだ。それで、さっきの続きだけど……」
ビニールに入れられた衣服を持ってベッドに腰かけた知に、弘香は一瞬話すかどうか悩んだが、結局話すことにした。
今まで誰にも話したことのない、自分の“秘密”を。
「――不感症なのよ。私」
「え」
「感じないの。セックスでもキスでも。むしろ……」
恋人との触れ合いは、どちらかと言えば『気持ち悪い』と思うことの方が多かった。
「手を握るのは、まだ平気なんだけどね。キスもセックスも出来るけど、好きではないわ。ずっと演技しなきゃいけないから……」
初めての時はただ痛くて、気持ち悪くて、こんなの何が楽しいんだ、と心底思った。最初の彼氏のことだってのめり込むほど好きだったわけではない。だが浮気されていた事実に腹が立つ程度には好きだった。
周りにいる『浮気されたら死ぬ』だの『相手を殺して自分も死ぬ』などと口にするヤンデレ女たちよりはずっとマシだという自覚はあったが、それでも、泣くことすら腹立たしくて仕方なかった。
「元彼その二だってそうよ。あいつは最初の彼氏よりかは優しかったけど、なんだか盛った動物みたいで、ちょっと気持ち悪かった」
あの浮気現場を見ても思ったが、恐らくセックスが好きなのだろう。弘香と違って。事実弘香は元彼その二とセックスした回数はその一に比べれば多い。だが毎回『付き合っている感』は拭えなかった。
「三年も付き合ってたけど、自分から誘ったことは一度もない。手を繋いだのも、数えられる程度ね」
思い返せば思い返すほど、弘香は恋人との時間を雑に過ごしていた。むしろ仕事中の方が密に接していただろう。そんな自分にも非はあると、弘香は俯く。
しかし言葉にしてみれば本当に惨めというか、虚しいというか。過ぎた時間の長さを思ってぼんやりとする弘香に、知はそっと声をかけた。
「……じゃあ、ボクは?」
「へ?」
「ボクに触られたのは、平気だった?」
先程まで抱きしめていたことを気にしているのだろう。泣きそうな、苦しそうな顔で弘香を心配する知に、弘香は吐息だけで笑う。
「バカね。本当にイヤならその綺麗な横っ面、問答無用で張り倒してたわよ」
「そっか……。じゃあ、よかった。って、言っておくね」
「ん。そうしなさい」
事実弘香は元彼その一、その二の頬を一度はぶん殴っている。思い返してみれば両人とも恵や知と比べるのも烏滸がましいぐらいアレな男だったのだ。知の顔を殴れば罪悪感も湧くだろうが、アイツらを幾ら殴ろうと弘香は何も思わないだろう。
「そう思うとあんたの顔って得よね」
「どうして?」
「綺麗な顔してるから。殴りづらいったらないわ」
パチパチと瞬く丸い目は幼く大きい。柔らかい頬はよく伸びるし、ハムスターを髣髴とさせる。サラサラとした柔らかい髪も、コロコロとよく変わる表情も、ふにゃりとした無自覚に他人を安心させるような穏やかな笑顔も、弘香からしてみればあまりにも綺麗で――傷つけることが出来ない。
「ヒロちゃんは、ボクの顔、好き?」
「……しつこいわね。なんでそんなに気にするのよ」
折角なら好きな人には顔も中身も好きになって欲しいものである。
弘香とて分かってはいるが、そう簡単に素直になれたら苦労しない。訝る弘香に、知は「じゃあどんな人が好き?」と聞かれて言葉に詰まる。
「そう、ね……」
恵も忍も整った顔立ちをしているが、別段好みではない。客観的な意見として『男前』『イケメン』という言葉は出て来るが、好みではないのだ。では真逆のタイプ、千頭はというと――。
「うん。ない。絶対にないわ」
「なにが?」
首を傾ける知に「なんでもない」と返しながらその他の男たちを思い出す。同僚、先輩、後輩。中学、高校、大学と周囲にいた男たちを思い出し――ふと高校生時代、スマートフォンの待ち受け画面にするほど心を傾けていた一人の教師を思い出す。
「――寺田先生」
「誰?」
思い浮かべたのは、白いチョークを握って黒板前に立つ老齢の男性教師だった。彼が言葉なく提示して来た問題を解くのが弘香に取っては楽しみだった。
「……秘密」
思えば、寺田先生の顔つきは優しかった。ふんわりと笑う姿はどことなくこの男に似ているようにも思え、弘香はひっそりと口元を緩めながら知の頭を軽く掻きまわす。
「えー。教えてくれないの?」
「誰にだって秘密はあるものよ。あんたも大人になったんだから、弁えな」
「あいたっ」
ペチン。と音を立てて額を弾く。そうして受け取ったクリーニング済みの衣服を取り出した。
「さ! 着替えて出るわよ! お腹空いちゃった」
「はぁい」
渋々、といった体で答える知も背中を向けて着替えだす。その背中はやっぱり昔見た時よりもずっと広く、大きくなっており、弘香はほんの少しだけ、今度は自分の指先で、その背に触れたくなった。
10
「あんたはつくづくお洒落なレストランとは縁がないのね」
「昨日から何も食べてないならお腹に優しいものがいいかなぁ。と思って」
時刻は七時過ぎ。とうに日が暮れた街中を、弘香の代わりにキャリーを引いた知が案内したのは何の変哲もない小さな定食屋だった。
とはいえ、口では文句を言いつつも弘香はどこか懐かしむような顔で店の中を見渡す。
「――地元にさ」
「ん?」
「私たちの地元に『ふれあいの里』って名前の集落活動センターがあって、そこで食事を出してくれる“筒井のおばあちゃん”がいたの」
もう数年前に亡くなってしまったが、彼女の作るご飯を弘香は大層気に入っていた。
「おばあちゃんの作るご飯には、特別なメニューなんて一つもなかった。よくある家庭料理だったけど、どれもすごく美味しくて……。だから何度も鈴と一緒に食べに行って、そこでいろんな話をしたものよ」
それこそ竜についてだって話した。沢山の思い出が詰まったあの場所と、このお店は内装もメニューも何もかも違う。それでも不思議とあの頃を思い出す。
「ここ、お味噌汁がすごくおいしいんだ。インスタントじゃなくって、出汁からとってるんだって」
「へえ。そうなんだ」
「うん。お店のオーナーさんが、おばあちゃんっ子で、おばあちゃんから教わった思い出の味なんだってさ」
「……だからか」
以前の自分が鈴にそうしたように、知は慣れた様子で定食を頼んだ。最初は「選ばせろよ」とその背をどついた弘香ではあったが、運ばれてきた料理を見て納得した。
「美味しそう」
「うん。おいしいよ」
ほかほかと湯気を立てる味噌汁に、しっかりと味が染みこんでいそうな魚の煮つけ。焦げ目のない綺麗な卵焼きが二切れと、小鉢に入ったひじきの煮物。キュウリの浅漬けと梅干は、ふっくらとした白ご飯とよく合うだろう。
「いただきます」
「いただきまーす」
他にもちらほらと客がいる中、二人は向き合って手を合わせる。弘香は知がおすすめする味噌汁の椀を両手で持ち、そっと口をつけた。
「……おいしい」
母親の味とも、筒井のおばあちゃんの味とも違う。それでもどこか懐かしく、胸の中があたたかくなるような優しい味付けに、自然と弘香の目が潤む。
(そういえば、誰かとご飯を食べるのも、こんな風に出来たてのご飯を食べるのも、久しぶりかもしれない)
いつもお昼はデスクで、パンやバータイプの栄養補助食品、ゼリーで流し込みながら仕事をし、僅かな休憩時間を仮眠に当てていたから外に出る余裕もなかった。あっても結局はコンビニで弁当を買うか、ファーストフードかの二択で、あれこれ選んでいる暇も余裕もなかった。
夜は深夜に帰宅することも多々あり、ビールとおつまみ、もしくは何も食べずに泥のように眠る日々だった。鈴と恵が気にしてアレコレ持ってきてくれなければ、弘香は何度倒れていたか分からない。
「……ヒロちゃん。泣かないで」
「ないてないわよ、ばか」
ポタポタとお盆と机の上に雫が落ちる。一度決壊したことで緩くなった涙腺が再び弘香を困らせる。昔はこんなに簡単に泣くことなんてなかったのに、弱くなったものだ。
冷静に今の自分を分析しながらも涙を零す弘香に、知はそっとハンカチを渡した。
「これからもずっと、おいしいものを一緒に食べようね」
「……泣くなって言う割に泣かせにくるなよ」
「あははっ。ごめん」
ゲシッ、と軽く足先で知の足を蹴る弘香ではあったが、知は痛がる素振りすら見せずに朗らかに笑う。なんだかそのほんわかとした笑みを見ているだけで弘香は泣いていることが馬鹿らしくなり、渡されたハンカチで目元を拭った。
「ああもう! 美味しいご飯の前でしょんぼりするのは無し! 食べるよ!」
「はぁい」
ニコニコと笑う知と共に、次々とお皿に乗せられた食材を平らげていく。本当は一つ一つ噛み締める毎に泣きそうになったが、グッと堪えて一緒に飲み込んでいく。
次第にそれも落ち着いて行き、折角だからと一杯だけお酒を飲むことにしたのだが――。
「あんた、弱いなら先に言いなさいよ!」
「よわくないよぉ」
「嘘つくな! ヘロッヘロじゃないの!」
「んえぇぇ……」
よろよろと右に左にと揺れながら歩く知の顔は真っ赤だ。たかだか日本酒一合分――正確に言えば徳利一本分の容量だから百五十ミリ程度だ。それでここまで赤くなってヘロヘロになるんだから、飲めないなら前もって申告して欲しかった弘香である。
とりあえず今は自分の足で歩いてはいるものの、途中で倒れられたら引きずることすら難しい。
どうにか弘香のマンションに辿り着いた頃には、知の思考は半分以上夢の中だった。
「ヒロちゃんのにおいがするぅ」
「そりゃ私が住んでる部屋だから当然でしょ。いいから靴脱ぎなさい。あと靴下も」
「はぁい」
母親のような気分になりながらも指示を出せば、素直な知は駄々をこねることなく一つ一つこなしていく。
そうして弘香が「とりあえずコッチ」とベッドに連れて行けば、途端に横になった。
「ヒロちゃんのにおいがする〜」
「はいはい。分かったから大人しくしてるのよ?」
「はぁい」
「返事だけはいいんだから。まったく」
呆れながらもドアの外に放置していたキャリーを引っ張り込み、冷蔵庫に入れていたミネラルウォーターを一本取り出す。
酔っ払いには何を置いてもまずは水だと思って持って行ったのだが、弘香が近付いた途端その腕を取られ、そのまま抱きしめられる。
「ちょっと! 危ないじゃない!」
「ヒロちゃんだぁ」
「人の話を聞け! このアホ!」
ポコン。と冷えたペットボトルの底を赤く染まった額に押し付ければ、途端に「つめたぁい」と間の抜けた声が零れ出てくる。呆れた弘香が蓋を開けようとするが、今度は先程よりも強く腰を引かれて再び知の腕の中に逆戻りする。
「あんたねえ……!」
「ヒロちゃぁん」
「なによ!」
折角介抱してやろうと思っているのに。と弘香が内心怒りつつも投げやりに答えれば、知は弘香の気持ちとは真逆の幸せそうな笑みを浮かべた。
「好きだよ。ヒロちゃん」
「――ッ」
今ここで、酔っ払いに告白されたところで何も思わない。
そう、いつものように言い返せたらよかったのだが。弘香は咄嗟に視線を逸らし、冷えたペットボトルを知の首元に差し込んだ。
「つめたあい!」
「喜びなさい。私からの餞別よ」
「ふえぇぇ……。やったぁ」
「喜ぶのかよ」
顔を顰めたり喜んだり。呆れるほど素直で幼稚な男に、弘香は呆れたようにため息を零してからのそのそと倒れ込んだ胸から顔を上げる。
「眠いの?」
「んう? んー……」
「眠いのね」
(はあ。しょうがない)
弘香は心の中で呟きながらスマートフォンを鞄の中から引っ張り出し、そのままアプリと連動させているリビングの電気を落とした。
「ほら、もっとそっち行って。壁に背中くっつけなさい」
「あい……」
「腕上げて」
「んぅ……」
のろのろとした動作ではあるが、キチンと言うことを聞き、言われた通りに動く知の腕の中に弘香もすっぽりと収まる。
不服ではあるが、妙に落ち着くのだ。この男の腕の中は。
(変な感じ。この間までは本気で親戚の子供見ているような気分だったのに)
力なく投げ出されたはずの腕が、まるで弘香を探すようにゆるゆると動き、そのまま抱き込んでくる。
更には「逃がすまい」と言わんばかりに足も絡め取られ、弘香の頭の中に思わず「蛇に絞め殺される人」という単語が浮かび上がった。
「……まぁ、蛇というよりは小熊か」
もしくは子パンダ。そう心の中で付け足しながら、弘香は熱を持った頬に触れ、首元に突っ込んでいたペットボトルを取り出しサイドテーブルの上に置く。
「おやすみ。知くん」
「おあいう……」
「なんて?」
「んにゃ……」
うにうにと頑張って頬を動かしてはいるが、全く言葉になっていない。弘香は肩を震わせながら軽く笑い、それから目を閉じた。
(不思議。今までは彼氏と同じベッドに寝るのも苦手だったのに……。この子の腕の中は――)
自分でも笑ってしまうぐらい、妙に落ち着くのだ。
弘香は久方ぶりに心も体も満たされたせいか、結局知のことを笑えないぐらいの早さで寝落ちたのだった。