- ナノ -

07 - 08


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 それから数日。とある週の金曜日。弘香は久方ぶりに有休を取っていた。

「顔合わせるの気まずいしね」

 恵が迎えに来てくれて以来、元彼が弘香に言い寄ってくることはなくなった。職場恋愛だった関係上どうしても内線でのやり取りは生じるが、それはそれ。公私混同しないのが弘香の長所であり強みである。かなり事務的なやり取りにはなっているが、それでも仕事に支障を来すほど幼くはない。

「さて、と。やりますか」

 ゴロゴロと音を立てて引きずって来たキャリーケースの中に次々と元彼の部屋に置いていた私物を詰め込んでいく。
 着替えから始まり、プログラミングのテキストや情報誌、マグカップや歯ブラシといった日用品(勿論これは持ち帰って処分するつもりである)無くしたと思っていたアクセサリーなども見つけたのでそれらも次から次へと突っ込んでいき――半分ほどキャリーが埋まったところで作業を止めた。

「こんなところかしらね」

 弘香は香水やらネイルとやらはあまり縁がない。一つも持っていないわけではないが、周囲の――それこそ総務課の女子社員たちのように好んではいなかった。化粧道具も基本持ち歩いている物がすべてだ。元彼の家に置いている物は一つとしてない。
 何となく来た時よりもスッキリして見える部屋の中にぼんやりと座り込み、ほんの少しだけ、弘香は胸の痛みと寂しさを味わった。

「今度こそサヨナラね」

 貰った合鍵をポストの中に投函する。ガコン。と高いような鈍いような、何とも形容しがたい音を立てて落ちた合鍵も、思えば数度使用するだけだった。
 弘香は再度キャリーを引きながら街中を歩く。平日の昼間と言うこともあり休日に比べれば人通りも少ないが、全くの無人と言うわけでもない。弘香は振り返ることなく歩き続けていたが、ふと空が影ってきたことに気付いて顔を上げた。

「うわっ、雨降りそう」

 事実ビルの向こうから分厚い雲が流れてきている。このままでは一雨来るかもしれない。

 キョロキョロと周囲を見回す弘香であったが、その時ふと道行く一組の男女が目に入った。
 幸せそうに微笑む女性は、恋人なのだろう。優しく笑う男性の腕に腕を絡め、何事かを楽し気に話している。対する男性側も笑いながら彼女に合わせてゆっくり歩き、人が来ると彼女を引き寄せ、ぶつからないよう気を配っていた。

「…………いいなぁ」

 ぼそり。と呟いた言葉は完全に無意識だった。咄嗟に弘香は口元に手を当て、忙しなく周囲を見回す。誰かに聞かれていたら恥ずかしいと思ったのだ。
 あの恋人たちを目にしたのが高校生の時の弘香であれば何も感じなかっただろう。精々が「仲がいいわね」くらいだ。だが今は違う。悲惨な別れ方をしたばかりだ。あんな時代が自分達にもあったのだと思うと、何だか余計に羨ましくも、惨めにもなる。

 弘香は「センチメンタルになってんじゃねーよ」と小さな声で自分に突っ込みながらキャリーを傍に置き、歩道を彩るようにして植えられている植樹帯のレンガブロックの上に腰を下ろした。

「はあ……。なんか、疲れたな……」

 忙しすぎてまともに食事は摂れていないし、睡眠時間も少ない。寝つきが悪い日もあれば朝起きるのが億劫な時もある。生理が終わったから精神的には落ち着いたものの、それでもどこかぽっかりと、胸に穴が空いたような心地であった。

 目の前では様々な格好をした人たちが通り過ぎていく。『U』の世界と違い、その姿は人型だが、雑多なのは一緒だ。

 ゴスロリ服を着た二人組の少女や、バンギャ風の女性。通話をしながら鞄を抱えて歩くサラリーマンに、スマートフォンを弄りながら歩く大学生。パンプスの音を響かせるようにして颯爽と歩くスーツ姿の女性もいる。
 イヤホンをしながら走るランナーが目の前を通り過ぎれば、犬の散歩をしている人が曲がり角から現れる。反対車線側ではベビーカーを覗き込む母親がいて、その手前の店から子供と手を繋いだ家族が出てきた。

 そんな何気ない風景を、弘香は見るともなしに眺め続けた。

「……帰るか」

 ほんの少し休憩しただけだ。そう自身に言い聞かせてスマートフォンを取り出し、時刻だけ確認しようとした時だった。真っ暗な画面にポツリ。と一粒の雫が落ちてきたのは。

「え?」

 まだ今日は泣いていないはずなのに――。弘香がらしくないことを考えていると再びポツ、ポツ、と、今度は短い周期で雫が落ちてくる。
 咄嗟に顔を上げれば、朝は出ていたはずの太陽が灰色の雲に覆い隠され、そこから次々と雨粒が落ちて来た。

「うわっ! 雨だ!」

 偶然前を通りがかった就活生と思わしき男性が鞄を頭に掲げて走り出す。その姿をぼんやりと横目で見遣りながら、弘香は立ち上がることも忘れてブロック塀の上に座り込んでいた。

「……また……川の音がする……」

 ゴウゴウと、耳の奥であの音がする。何度思い出したくないと思っても蘇ってくる、恐ろしい悪魔の笑い声のような音。咄嗟に耳を塞いで俯くが、却って水の音が大きくなったような気がした。

 どうすればいいのか分からず雨に打たれ続ける弘香の体は次第に濡れて行き、腰のあたりまで伸びていた髪も重さを増していく。そうして毛先から雫が落ちる程濡れた頃――バシャバシャと誰かが水を跳ねながら走り寄ってくる音が聞こえてきた。

「ヒロちゃん!」
「………………知くん」

 息を切らしながら走り寄ってきたのは、晴れ渡った青空のような色をした傘を持った知だった。その姿は相変わらず大学生のようなパーカー姿で、斜めに掛けられたショルダーバッグが動きに合わせて跳ねている。
 それをどこかぼんやりとした目で追いかけていると、傍に来た知が肩で息をしながら弘香に向けて傘を傾けた。

「なに、してるの。こんな、ところで」
「……知くんこそ。平日の昼間に、何してたの?」

 いつもの切れのある、自信と活力に満ちた声とは真逆の平坦な声が弘香の口から零れ出る。そんな弘香に知は苦しそうにギュッと唇を噛んだ後、そっと視線を逸らしながら「今日は、午後休だから」と手短に答えた。

「ああ……。そっか。もう昼過ぎか」

 今日も十時過ぎまで眠っていた弘香である。だが全体的に眠りは浅かった。実際七時ごろには一度覚醒しており、起き上がれぬまま微睡んでいたら遅くなったのだ。
 それから電車に乗って元彼の部屋へ行き、荷物を詰めて出てきた。時刻は既に十三時を回っており、弘香は朝も昼も食べていないのに不思議と空腹を感じていないことに気が付いた。

「ヒロちゃん、濡れるよ」
「バカね。もう濡れてるのよ」

 現にポタポタと、濡れた黒髪の毛先からは雫が落ちている。それは地面に落ちても新たにシミを作ることはないが、知の胸には重く、苦しいものが押し寄せてきた。

「……これ以上濡れたら、風邪ひくよ」
「……そうね」

 風邪をひくのは面倒だ。一日ぐらいであれば仕事も休めるが、その後重怠い体を引きずりながら仕事をしたくはない。弘香は立ち上がろうとしたが、その体が鉛のように重く、また手足に力が入らないことに気付いて苦く笑う。

「ははっ」
「ヒロちゃん?」
「はあ……。イヤになるわ、本当に」

 ズキリ。と痛む米神を抑え込み、弘香は項垂れる。途端に重く湿った髪が重力に負け、前へと垂れてくる。やせ細った体に濡れた服や髪が貼りついているのに厭らしさはどこにもなく、ただただ哀れだった。

「ヒロちゃん……」
「気にしないで。知くんは早く帰りな。濡れるよ」

 現に弘香に傘を傾けている知の背中は濡れ始めている。それでも知は更に弘香に向けて傘を傾けた。

「行かない。ヒロちゃんと一緒にいる」
「いいってば。一緒にいなくて」
「イヤだ」

 頑是ない子供のように言うことを聞かない知に、遂に弘香は顔を上げて自らを見下ろす端正な顔を睨みつけた。

「いいからほっといて! あんたに慰められるほど惨めなことはないのよ!」
「そんなこと言わないでよ! ただ、ただボクは……」

 ――ヒロちゃんの、そばにいたいだけ。

 バタバタと傘の内側に響く雨音に負けそうなほどに小さな声は、道に迷った子供のように震えている。
 現に知の表情はメンタルがぐちゃぐちゃになっている弘香よりもよっぽど泣きそうで、弘香は思わず嗤ってしまった。

「なにそれ。哀れんでんの?」
「ちがう」
「じゃあなに? 私を慰めようとしてくれてるの?」
「そんなの、ヒロちゃんは求めてないでしょ」

 ギュッと傘の持ち手を強く握りながらも――挑む様に弘香を見下ろしているはずなのに、何故だか知の方がよっぽど苦しそうに表情を歪めて喘ぐように言葉を紡いでいる。
 その姿に、弘香は遂に頭の中で何かが音を立てて切れたかのように勢いよく立ち上がった。

「分かったような口利かないで! いいからもうほっといてよ!」
「ヒロちゃん!」

 先日の再現のように、キャリーを引いて立ち去ろうとした弘香の腕を知が咄嗟に取る。だがあの時と違うのは、濡れた肌越しでも分かる知のあたたかすぎる体温だった。
 元彼の体温を感じる余裕なんてあの時はなかったのに、どうして今更こんなにも、誰かのぬくもりを感じてしまうのか。

 悔しさに唇を噛み、ブンブンと腕を振る弘香を知は黙って見つめる。だが弘香にとっての精一杯の抵抗は、知にとっては子供の悪足掻きでしかなかった。

 知の指が余ってしまうほど細い腕に、成人した知の手を振りほどく力など端からなかったのだ。

 そうして次第に抵抗を無くし、ゆるゆると腕を下ろした弘香に向かって知は黙って傘を傾けた。

「……ヒロちゃん」
「……………………」
「ねえ。ヒロちゃん。こっち向いて」

 俯く弘香はその言葉にゆっくりと首を左右に振る。言葉はない。痛ましい程にずぶ濡れにになった細い肩を見下ろしながら、知はギュッと眉間にしわを寄せて同じように顔を俯かせる。

「ヒロちゃん。このままだと本当に風邪ひいちゃうよ。どこかで、雨宿りしようよ」
「……………………」
「大丈夫だよ。ここにはもう、ボクたちしかいないよ」

 知が言う通り、今この通りには二人以外の人影はない。皆店の中や喫茶店などに雨宿りするために避難したからだ。一本向こうの通りでは傘をさして歩く人影も見えたが、幸いにもここは二人だけだった。

 暫く無言を貫いていた弘香が、次第にゆっくりと顔を上げ始める。血の気の失せた青白い顔には――瞳には、何も映っていなかった。それこそ希望も絶望も、感情も何もかもが抜け落ちた茫洋とした真っ黒い真珠のような瞳。そこに悲しそうな顔をした知の顔だけが映り込んでいる。
 濁った鏡のようにも見える生気の失せた瞳は、表情は、蝋人形のように作り物めいて見えた。

「どこに行こうか」
「…………あっち」
「うん。わかった」

 弘香の代わりにキャリーの取っ手を握り、弘香の方に傘の殆どを傾けた知がゆっくりと歩きだす。
 ゴロゴロとキャリーの車輪が回る音を響かせながら、知は弘香が誘うままに道を歩き、見知らぬ通りを進み――とあるホテルの前へと辿り着いた。

「ここは?」
「雨宿りできる場所」

 歩いているうちに多少気持ちが落ち着いたのか、先程よりもしっかりとした声が返ってくる。
 そのことに安堵しつつ弘香に続いてホテルの入り口を潜れば、無人のフロントと、大きなパネルだけが光り輝く空間に目を瞬かせる。

「……? ここ、ビジネスホテル……じゃ、ない……よね?」

 一体ここはどこなのだろうか。好奇心に煽られ周囲を見回していると、手慣れた動作で弘香が部屋を取り始める。すると部屋の内装を映していたパネルの一つが灯りを落とした。
 どうやら幾つか穴抜けのように電気が落ちている部屋が『使用中』ということらしい。何となく理解した知がその『使用中』のパネルの横に掲げられていた料金表を見上げ、ピクリと反応する。

「休憩……? サービスタイム、宿泊……?」

 ビジネスホテルにそんなサービスあったっけ? とこれでも社会人として何度かホテルを利用したことがある知は首を傾ける。
 そんな知に、弘香は濡れて青白くなった顔を向けた。

「行くわよ」
「あ、うん」

 誰もいない磨き抜かれた廊下に、ゴロゴロと音を立てて転がるキャリーの車輪が跡を引いていく。そして下りてきたエレベーターの中に二人で乗り込めば、弘香が無言でボタンを押した。

「ねえ、ヒロちゃん。ここってどんなホテル?」

 他に乗客がいないということもあり、憚ることなく尋ねた知に弘香は前を向いたまま迷うことなく答えを口にした。

「ラブホ」
「ふぅーん。そっか。……………………え?!」

 弘香の言葉を暫く理解出来ず、どうにか理解した後もタイミング悪くエレベーターが目的の階へと辿り着いてしまう。唖然とする知を背に、弘香はさっさとエレベーターから抜け出し、迷うことなく廊下を進んでいく。その姿を追って慌てて知が飛びだせば、その背後でエレベーターがゆっくりと口を閉じた。

「ら、らぶほ、って……!」
「雨宿りしたいんでしょ?」
「そ、それはそうだけど……!」

 カーペットが敷かれているため、キャリーを引く音は抑えられている。それでもゴロゴロと鈍い音を立てながらキャリーを引いていると、あっという間に弘香が取った部屋の前へと辿り着いてしまう。

「早く入りな」
「で、でも……!」
「いいから」
「うわっ、ひ、ヒロちゃん……!」

 どもる知の背中を押し込み、弘香はドアを閉める。途端にガチャン。とロックの掛かる音が広い部屋の中に響き渡り、知は無意識に唾をのみ込んだ。

「キャリー、そこに置いて」
「あ、う、うん」

 弘香はスタスタと歩き出すと、部屋の内装を確認していく。そして浴室を発見するとすぐさま中へと入り、広い浴槽へとお湯を溜めるべくスイッチを押した。

「あ、あの、ヒロちゃん……」
「なに?」
「その……なんで、ラブホ……?」

 ラブホ、だけは蚊の鳴くような小さな声ではあったが、お湯を張る音だけが響く室内であっても聞き取ることは出来た。弘香はその問いに暫く何も答えず、白い肌を赤く染め上げ、視線をうろつかせる知をじっと眺める。その瞳には未だ感情はなく、ただ静かに知の一挙手一投足を観察している。

「ビジホより使い勝手がよかったから」
「そう、なの?」
「数時間だけ休んで出られるから。お風呂も広いし、ベッドも広いでしょ? だから便利なのよ」

 そう説明する声に知を揶揄う色はなく、淡々としている。だからこそ『本当にそのために来ているのだ』ということが分かり、無意識に知はほっとした。
 だがそんな知を弘香はしっかりと見ており、徐々に溜まりだす湯船を背にしたまま問いかける。

「あんたも入るでしょ?」
「え? あ、うん。でもヒロちゃんが先に――」

「一緒に、入るでしょ?」

「…………え?」

 ザアアア、と、窓の外では相も変わらず雨が降っている。
 弘香の耳の奥では雨音だけでなく川の音も聞こえていたが、知には聞こえていない。当然だ。この音は、弘香だけがずっと聞き続けている一種の“呪い”なのだから。

「あんたもそのままだと風邪ひくでしょ」
「で、でも、」
「じゃああんた、私が上がってくるまでの間、そのびしょ濡れの体で待ってるつもり?」

 弘香に傘の殆どを傾けていたせいで知の体もすっかり濡れている。パーカーも水分を含んでずっしりと重く、靴も靴下も気持ちが悪いほどに濡れている。
 咄嗟に言葉が返せず視線を落とした知に、弘香は一歩、また一歩と近付いていく。

「人の心配するのは結構だけど、あんただって同じでしょ」
「で、も……」

 ギュッ、と、知は濡れたパーカーを皺が寄る程強い力で握り締める。その顔は真っ赤に染まっており、触れてもいないのにドクドクと逸る心臓の音が聞こえてきそうだった。

(……腹立たしいほど、綺麗な顔)

 緊張し、懊悩する知を弘香は静かな目で眺めていた。
 泣きそうなほどに潤んだ瞳も、ぷっくりとした色艶のいい震える唇も、寄せられた細い眉毛も、瞬く度に音がしそうなほど密集した睫毛も、すべて、弘香が欲しても手に入らないものばかりだ。

「――羨ましい」
「え?」
「なんでもない。それより、どうするの? 決めるのはあんたよ」

 もうすぐで浴槽に湯は溜まってしまうだろう。悩んでいる時間はない。

 知はちらりと浴室へと目を向ける。普通のホテルとは違い、面積はかなり広い。問題なのはやたらと鏡や窓やらが多いことだが、目を瞑っていればうっかり弘香の裸体を見ずには済むだろう。
 それに、知だって男なのだ。恵も鈴も想像すらしていないかもしれないが、知にだって――欲ぐらい、ある。

「――はい、る」
「そう」

 ゴクリ。と生唾を飲み込み、小声で返事をした知に弘香は素っ気なく返す。だがそこには驚きも侮蔑も嘲笑もなく、ただ知の判断をそのまま受け入れただけの平坦な声だった。

「濡れた服はランドリーサービスを利用して綺麗にしてもらうから、あそこにある袋に入れなさい」
「うん」
「乾くまでの間はバスローブがあるから、それを着て」
「はい」

 慣れたように指示を出しながら弘香はクローゼットを開け、真っ白なバスローブを取り出し知へと渡す。そしてランドリーサービスを利用するためにフロントに連絡を入れると、互いに背を向けながら濡れた服を脱ぎ、専用の袋に詰める。

 そして受け取りに来たスタッフに明細を記載した書類と共に渡し、ようやく二人はお湯が張られた浴室の前へと立った。

「何怖気づいてんのよ」
「だ、だって……」

 真っ白なバスローブの間から見える肌はどこもかしこも赤く染まっている。額や鼻の頭には汗まで浮いており、如何に知が緊張しているのかが見て取れる。
 だが弘香は呆れたような息を一つ零すと、腰で結んでいた細い紐をあっさりと解いて肩からローブを落としてしまった。

「うわっ! ひ、ヒロちゃん……!」

 咄嗟に目を強く瞑り、背を向けた知に弘香は構わず浴室へと入っていく。そうしてコックを捻りシャワーからお湯を出すと、ゆっくりと体にかけ始めた。

「入るのも入らないのも、自分で決めなさい」

 厳しく聞こえるかもしれないが、弘香の声はどこまでも平坦だ。何を思っているのか感じさせないその声音に、知は途端に置いてきぼりにされたような寂しさが胸に湧く。

「……入るよ」

 それでも心臓はドクドクと、雨に濡れる弘香を見つけて走り出した時のように忙しなく脈打っている。
 人生で心臓が鼓動を打つ回数が決まっているのであれば、現在進行形で知の寿命は縮まっていることだろう。それでもいいと心のどこかで思いながら、知は意を決してローブの紐を解いた。



             8



 ポトリ。と濡れた髪の先から雫が落ちる。広い湯船の隅っこで膝を抱えているのは、弘香に背中を向けて無言を貫く知だった。

(顔だけじゃなくて背中も綺麗とか……。本当に羨ましいというか、腹立たしいというか)

 意を決して浴室に入ってきたはいいが、知はギュッと目を閉じており何だか残念なような、見ていられないような気持になった弘香である。
 結局放っておけなかった弘香が知の腕を引き、椅子に座らせシャワーを頭から掛けてやり、そのまま「え?! え?!」と驚く知の頭を洗ってやった。流石に体を洗おうとした時は「自分でやるからいいよぉ!」と全力で否定されたため、弘香は大人しく自分の体を清めることに専念し、知は終始目を閉じて縮こまっていた。

 そして今は二人揃って湯船に浸かっているのだが――。

「あんた、意気地があるんだかないんだか分からないわね」
「これでも人生で一番勇気だしたもん……」

 本当に恥ずかしいのだろう。湯船に浸かっているとはいえ、シミは勿論黒子一つない肌は赤く染まっている。それこそよく熟れた桃のようで、弘香は頬杖をつきながらじっとその背を見つめた。

「――ッ?! ひ、ヒロちゃん?!」

 ツ、と突然背中に何かが触れ、知は素っ頓狂な声を上げる。そんなことを出来る相手もする相手もここには一人しかいない。
 現に弘香は伸ばした足先で知の滑らかな、それでいて染まった肌を撫でるようにゆっくりと下ろしていく。

「ひ、ひろちゃん……!」

 ぷるぷると震えているのは体なのか声なのか。それともその両方か。反響する浴室の中、弘香は黙って広い背中を足の裏全体で踏みつけるようにして肌に当て、その中心に埋められた背骨を幻視する。

(綺麗な体。どこもかしこも。きっと骨もそうなんだろうな)

 ――コルセットピアス、というものがこの世には存在する。穴をあける位置は個々人によって違うが、弘香は日焼け知らずの真っ白な背中に穴をあけ、そこに黒い紐を通せば随分と映えるだろうな。と詮無いことを考える。勿論黒だけではない。真っ白いサテン生地の紐でも、深紅のものでもいい。緑や青、蛍光色だってこの白い背には映えるだろう。
 あるいは、真逆の毒々しいタトゥーでもいいかもしれない。背骨を丸々描いたボーンタトゥーも意外性があって面白いだろうし、見たまま天使の羽だって似合うだろう。

 無垢で素直で純粋で、欲や悪意などとは無縁そうなこの男にどうやったら“傷”がつけられるのか。弘香はぼんやりと考える。

 その間も足先は一つ、一つと背骨の形や大きさ、密度を図るかのようにゆっくりと時間を掛けて肌を辿っていく。
 そこに疚しさはない。ただ目の前にある彫像のように美しく滑らかな肌を確認するように触れていく。強いて言うなら単なる“確認”だろう。それも、人としてではなく“商品”としての価値だ。この男ならば顔を出さずとも、この背中の写真だけでもさぞ高値がつくだろうと、そんなことばかり考えて触れていた。

 だが触られている方は堪ったものではない。ただでさえ意中の女性と『ラブホテル』という如何わしい場所に来ているのだ。それに加え共に入浴までしている。もっと言えば今までまともに触れたことのない足先が自身の背中を弄ぶように辿っているのだ。これで『意識するな』と言う方が酷である。

(なん、で、こんなことに……!)

 知はプルプルと小鹿のように震えながらも、必死に熱が溜まろうとする下半身から意識を反らそうと息を深く吸い、吐き出す。だがその瞬間にもツツ、と弘香の足先がまた一段下り、遂には臀部の上――仙骨あたりに辿り着き、その際どい位置とくすぐったさに驚いて「うひゃうっ!」と何とも情けない声を上げてしまう。

「ヒロちゃん! もう……!」
「ああ、ごめん。あんたの背中が綺麗だったから、つい」

 まったく嬉しくない賛辞と共にあっさりと小さな足先が離れていく。それにほっとすればいいのか名残惜しく思えばいいのか。知は火照る体を両腕でギュッと抱きしめ懊悩する。
 その姿も背後から見ていた弘香にとってはどこか扇情的で、神秘的ですらある。だからこそ腹立たしいと舌打ちしたい気分だった。

「私、そろそろ上がるけど」
「ボクもそうする……」

 ふうふうと苦しそうに呼吸をする知は、もしかしたら逆上せているのかもしれない。弘香は先程感じた苛立たしさも忘れて湯船から立ち上がり、結んでいた髪を解いた。

「だったら早くしなさい。そのままだと逆上せるわよ?」
「で、でも……その……」

 チラリ、と知の視線が鏡張りになっている壁へと移る。途端にギュッと目を強く瞑る姿を見て、弘香も「ああ」と納得したような声を上げた。

「ラブホだから、こういうもんよ」
「そ……かも、しれない、けど……」

 弘香は改めて鏡に映る自身の裸体を見遣る。マンションの狭苦しい浴室に設置された小さな鏡ではなく、大きな――それこそダンススタジオのような大型の鏡だからこそよく見える。
 高校生の時に比べ随分と痩せ細った体は、色気の「い」の字もない。昔は鈴や瑠果だけでなく他のクラスメートからも「ヒロちゃんは意外と“ある”」と言われた胸部も、今では魅力の欠片も感じられない。

「フッ、こんな貧相な体で欲情する男がいるなら見てみたいわ」

 それは紛れもなく皮肉で自虐だった。良く言えばモデル体型と呼べるだろう。事実弘香の細さを羨む声も時折聞こえてくる。
 だがこうして鏡に映した時、浮いた骨や肉付きの悪い体に思うことは『気持ち悪い』という悪感情のみだった。もっと肉もハリもあった頃を知っているからこそ自身を嘲笑する弘香に対し、知は思わず強く閉じていた目を見開いて振り返った。

「そんなこと――!」

 だが振り返れば目に入ってしまう。一糸纏わぬ姿で自身を見下ろす弘香の姿に、知は耳どころか首まで赤く染め上げ再び背中を向けて湯船の中で蹲る。

「そんなこと、いわないで……」

 ギュッと自身を抱きしめる指先まで赤く染めている知の姿を見下ろし、弘香は静かに目を閉じる。

「……先に上がるわ」

 ポタポタと水滴を垂らしながら浴室を出る。床で丸まっていると思っていた弘香のローブは、知が拾ったのだろう。綺麗に畳まれて脱衣所と併設されている洗面台の棚に置かれていた。その隣には知の分のローブも同様に置かれており、弘香は何だか不思議な気持ちになる。

「早く上がりなさいよ。逆上せても知らないから」
「うん……」

 タオルで水気を吸い取りながら、未だに湯船の中で膝を抱える知に背を向けてドライヤーを手に取る。そのまま無心で髪を乾かしていると、ようやく落ち着いたのだろう。知もペタペタと足音を立てながら浴室から出てくる。そうして弘香の後ろで立ち止まると、そっと腕を伸ばし、真っ白なローブを濡れた手で掴み取った。
 何の変哲もない、普通の行動だ。だがその一連の動作に弘香は思わず目を見開き、固まる。

(ビックリした……。この子の腕、私よりずっと太い)

 何を当たり前のことを。恵が聞いていれば呆れた表情と共に突っ込んだことだろう。事実恵ほど鍛えてはいないが、知だって成人男性である。弘香に比べれば逞しい。だが弘香はどこか呆然とした気持ちで濡れた腕を目で追い、振り返った先で見た知の太いうなじや、よく見ればゴツゴツとした骨ばった指に衝撃を受けていた。

「ん? どうしたの? ヒロちゃん」

 ドライヤーのスイッチを入れたまま固まる弘香に気付いた知が、丸い目を更に丸くして弘香を見下ろす。

 いつの頃からだろうか。弘香よりずっと小さかった知が弘香の身長を追い越したのは。そしていつからだろうか。この少年が――否。青年が、弘香を目で追いかけるようになったのは。

「…………あんた、ベルが好きじゃなかったの」

 弘香の口から零れ出たのは、知が投げかけた質問に対する答えではなかった。
 その台詞はあの日、弘香に気持ちを伝えたが否定された時の続きなのだと、知は気付く。

 訝るように、あるいは憮然としているようにも見える弘香の手には、未だゴーッと音を立てて温風を吐き出すドライヤーが握られている。
 知は一度、二度と瞬くと、弘香よりも一回り程大きな手を伸ばして小さな手からドライヤーを優しく取り上げた。

「――好きだよ」

 カチリ。と知がドライヤーのスイッチをオフにした途端、二人の間から音が消える。

 勿論窓の外ではまだ雨は降っているし、周囲の部屋では様々な人が休んだり遊んでいるのだろう。幸いその声が届くことはなかったが、ローブを纏ったことで多少羞恥心が緩和された知はここがどこで、何を目的に作られた場所であるかをハッキリと認知している。
 それでも今この場に立つ二人の間に広がっているのは甘やかな雰囲気でも、本能に突き動かされるような情欲でもない。静かで、それでいてどこかピリピリとした緊張感だった。

 だがそれを感じているのは弘香だけのようで、知は先程の狼狽えていた姿が嘘だったかのように穏やかに目を伏せる。そうして手にしたドライヤーの側面を見るかのように手の平の中でそれを横倒しにすると、刻まれた文字をさっと読み取った。

「というか、今でも好きだよ。ベルのことは」
「じゃあ――」
「でも、その気持ちはヒロちゃんへの“好き”とは違うよ」
「――――」

 口を噤む弘香に対し、知はただ、優しく笑う。

「ベルへの“好き”は、お花が好き。っていう気持ちに似てる。可愛くて、綺麗で、守りたくて、ずっと見ていたいもの。美しいもの。慈しみたいもの。そういうものに向ける“好き”と似てる」

 知はドライヤーの機能を調べるかのようにボタンの上に小さく刻まれた文字を一つ一つ目で追いながら、じっと己を見つめる弘香に向けて吹き出し口を向ける。

「でも、ヒロちゃんに向ける“好き”は、そんなに綺麗なものじゃない」

 カチッ。と今度はスイッチをオンにして、知は弘香の髪にドライヤーの風を当てていく。スルスルと、細いようで実は弘香よりもずっと太くて長い、骨ばった指が濡れた黒髪を優しく手繰り寄せる。そうして固まる弘香を他所に、知は温風を当てて水気を吹き飛ばしていく。

「………………あんた、物好きね」

 小さく呟いた声はドライヤーの音にかき消されると思っていた。だが弘香が思う以上に近くに立っていた知には、煩いモーター音にかき消されることなくその声が届いていた。

「――いいよ。それで。ヒロちゃんが振り向いてくれるなら、一生『物好き』って呼ばれていい」

 宝物に触れるかのように、知の指は絡まることなく弘香の髪を梳く。絡まったところがあれば丁寧に解き、梳かし、ゆっくりと乾かしていく。

 弘香はふいに自分の髪をこんなにも丁寧に触った異性がいただろうかと、考える。

「ヒロちゃんは、かわいいよ」

「――ッ」

「かわいいよ。ずっと」

 今まで付き合ってきた男性とは違う、慈しむような瞳に弘香の目が零れんばかりに見開かれる。そこには自身の欲をぶつけようという傲慢な色は一切なく、ただ目の前にいる弘香を、愛しい人を正しく愛おしむだけのあたたかな色が広がっていた。

「はっ――」

 はくはくと、震える唇が戦慄く。何か言おうと思うのに、何も言葉に出来ない。
 喉が、喉を、誰かにギュッと押さえつけられているかのように、呼吸すらまともに出来ず、鼻の奥がツンと痛んで熱くなり始める。

(ダメっ――。泣く――)

 じわりと、目の前が歪むと同時に、咄嗟に俯いた目元から雫が落ちていく。それは瞬く度にポタポタと足元を濡らし、弘香は必死に両手で口元を抑えて漏れそうになる嗚咽を噛み殺した。

 弘香自身、どうしてこんなにも胸が苦しいのか分かっていなかった。何故こんなにも胸が震え、涙が出て来るのか分からなかった。

 だが本人が自覚出来ていないだけで、心はとうに限界を迎えていたのだ。

 日々舞い込んでくる膨大な仕事。繰り返される日々は忙しく、満足に食事を摂ることすら叶わない。気付けばあたたかみのある食事を口にするより、レンジで温める必要もない栄養補助食品ばかり口にするようになっていた。
 サプリで足りない栄養素を補い、ゼリーで胃を膨らませる日々は弘香から徐々に体力だけでなく気力まで奪っていった。

 そして発覚した恋人の浮気。

 しかもその現場まで見てしまった。だがそれだけならまだ耐えることが出来た。自慢できることではないが、浮気をされたのは今回が初めてではない。そもそも初めて付き合った男は二股をしていた。だからこそイヤな話、慣れてはいたのだ。元彼だって、アレが三度目の浮気だったのだから。
 そんな弘香に一番ショックを与えたのは、ショックを受けたことは――恥も外聞もなく、元恋人が公然とプロポーズをしてきたことだった。

(結婚するつもりだったなら、指輪まで用意してたなら、どうしてもっと早く言ってくれなかったのよ。何で何度も浮気出来たのよ。どんな気持ちで『一回だけの約束だから』って臆面もなくプロポーズする相手に言えたわけ? 私は都合のいい女になったつもりなんてこれっぽっちもないのに、恋ではなかったけど、浮気なんてしてなかったら、結婚だって――)

 そこまで考えたところで弘香はようやく気付く。
 浮気現場を見た時、弘香は傷つかなかったのではない。傷ついたことに、ただ気付けなかっただけなのだ。心が疲弊しすぎて、何もかも分からなくなっていただけだった。

 ――でなければ、元恋人からの連絡に応えることも出来た。キスをされても嫌悪感を抱くこともなかった。

 不器用ながらも『愛していた』弘香を裏切ったからこそ――『愛していた』からこそ、傷つき、憎らしく思い、幸せだった時間が確かにあったから、せめて最後は綺麗に終わりたかったのだ。あの笑い合っていた時間を、汚したくなかったのだ。

「ふっ、う……」

 分厚いローブで覆われていても弘香の細い体は震えている。その姿はまるで雨に濡れた、棄てられた子犬のようだった。

「……ヒロちゃん」

 瞬いても瞬いても生暖かいソレは溢れてくる。拭いたくても細い両手は口元を抑えていて離すことが出来ない。傷ついた心が、堪えきれなくなった何かが、軋み、悲鳴を上げようとしている。

 弘香はずっと強かった。ずっと知の前では、鈴の前では『頼れる強い女』でいた。そんな自分を崩すわけにはいかないのに――。

「ヒロちゃん。もう、“大丈夫”じゃなくても、いいんだよ」

 弘香は他人に弱さを見せることは勿論、泣き顔を見られることすら苦手だ。苦痛ですらある。
 震える吐息も、戦慄く唇も、どんなに止めたくても勝手に溢れ出る涙も、他人に見られることが恥ずかしい。

 だからこそ強く口元を抑え、どんどん俯いていく弘香を見下ろしながら、知は労わるように乾き始めた髪を指で優しく梳いていく。

「ヒロちゃん」
「………………」

「ねえ、ヒロちゃん。こっち向いて」
「ッ、」

 ブンブンと、数十分前と同じように首を横に振る。だがその胸中は、先程とは別の意味で荒れ狂っていた。
 そして結局耐え切れずに膝を折って丸くなる弘香に、ドライヤーを棚に戻した知が弘香を怖がらせないよう、ゆっくりとしゃがみながら声をかける。

「ねえ、ヒロちゃん」

 真っ白なローブに全身を包み込み、丸くなって涙する姿は子供というよりも――疲れ切った“大人”の成れの果てだった。

 恋に傷つき、会社に酷使され、日々沢山のものをすり減らしながら生きる姿は、今の姿は、あの眩しく見えた『高校生の弘香』を随分と小さく見せた。

(……違う。ヒロちゃんは、ボクよりずっと小さかった。何年も前から、ずっと)

 渡仏している間に成長した知の身長は、帰国した時には恵よりも少し低い程度だった。その成長に驚いたのは恵だけではない。共に迎えに来ていた鈴も、弘香でさえも驚いた。あの時には既に弘香の背を追い越していた。

「――好きだよ。ヒロちゃん」

 ずっと、知にとって弘香は『大きな人』だった。『U』の世界でも現実世界でも、明るくて、ハキハキとして、誰が相手でも自分の意見をハッキリと言える強い人だった。その姿はベルとは違った意味で眩しくて、強くて格好いい“年上の女性”だった。

 だが今はもう、あの頃の輝きは失せている。本当なら今でも輝けていたであろう愛しい人を、沢山の人が様々な方法で傷つけた。それを『悔しい』と思うと同時に、何も出来なかった自分を情けないとも思う。

 だからこそ今は――この時間だけは、もう強がることすら出来ない弘香のことを抱きしめてあげたかった。

「うッ……、ひっ、ふぅ……」

 ボロボロと涙を流しながら、それでも必死に嗚咽を噛み殺す弘香の背に、知はあの日とは違いゆっくりと、優しく腕を回す。
 いつの頃からかすっぽりとこの腕に収められるようになってしまった愛しい人の形を、ぬくもりを、やわらかさを、確かめるように俯く頭に頬を寄せ、自分の肩に優しく押し付けた。

「ヒロちゃんは、今まで一人でたくさん、いろんなことに頑張ってきたんだね。えらいね。すごいね。がんばったね。ホントに、カッコイイよ」
「う、うぅ……!」

 ギュウッ。と弘香の指が知のローブごと肩を掴む。縋りつくような指先は、視界に入れずとも分かるほどに震えていた。

「でも、もう“大丈夫”って、言わなくてもいいよ。泣きたいときは、泣いてもいいよ」

 我慢しないで。と知は優しく、囁くように告げる。
 そうしてゆっくりと、柔らかな黒髪を、小さな頭をそっと撫でた。

「ボクが、ヒロちゃんのそばにいるよ。ずっとずっと、そばにいるから――」

 何度も、何度も、何度でも。キミに届くまで何度だって、ボクの声が届くまで、ずっと言い続けるよ。

「ねえ、ヒロちゃん」


 ――こっち向いて。


 そう小さく続けた知の声が、初めて弘香の、濁流の音が響き続けていた耳の奥に届く。その声音は昔聞いた母の子守歌のように柔らかく、優しい音をしていて、弘香は遂に何かが決壊したように声を上げて泣き出した。
 忙しい日々に忙殺され、すっかり細くなってしまった両腕が縋るように知の首の後ろへと回される。その小さな体を、消えてしまいそうなほど柔らかく、強くて弱い人を、知はただギュッと、無言で抱きしめた。




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