- ナノ -

05 - 06



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 誰でも一度ぐらいはキャンプをした経験があるだろう。
 当時、弘香はまだ小学一年生だった。両親と共に川沿いのキャンプ場へと出かけ、大小様々な石を拾い、泳ぐ魚や、蝶々やバッタなどの虫を追いかけては遊んだ。

「おかーさーん! みてみて! キレイな石!」

 幼い弘香が川岸で見つけたのは、青緑色の、表面がつるりとした丸い石だった。
 ガラスでもなければ宝石でもない。たまたまそういう色に変化しただけのありきたりな石だ。それでも幼い弘香にとっては美しく、服の裾で綺麗に拭ってから母親へと自慢するように掲げた。

「本当。とってもキレイね」
「うん! ヒロカの宝物にする!」

 今でこそ何の変哲もない石だと思うが、当時は特別な石だと思ったのだ。それこそ、幼い弘香にとっては宝石も同然だった。
 隣接していた公園の芝生にレジャーシートを敷き、両親と一緒に横になれば青い空がよく見えた。視界の端から端までいっぱいに雲が泳いで、太陽が眩しくて――耳元でカサカサと音が揺れ動いて驚けば、途端にピョンとバッタが飛んで、弘香は意味もなく笑った。

 楽しかった。ただただ、楽しかった。

 普段忙しくてなかなか一緒に遊んでもらえない父親が一緒にいることも、日頃困らせてばかりの母親が穏やかな顔で笑いかけてくれることも、どこまでも続いているように見える草原を好きなだけ走ることも――すべてが眩しくて、輝かしかった。
 だけど晴れ渡っていた空は夜になると急変した。夕焼け空はあんなにも綺麗だったのに、コテージを叩く雨音は激しく、弘香は不安でたまらなかった。

「おかあさん、おそと、だいじょうぶかなぁ?」
「大丈夫よ、弘香。今お父さんがお外の人と連絡を取ってるから」

 雲行きが怪しくなった時はここまで酷い雨が降るとは思っていなかった。川の近くということもあり、弘香の父親はキャンプ場の管理会社へと連絡を取っている。
 覗き込んだ窓に映る父親の顔はどこか険しく、声も硬い。それが尚の事恐ろしい。弘香が咄嗟にブルリと震えた肌を両手で抱きしめれば、途端に暴風がゴウッ、と音を立てて木々を刈り取るように通り過ぎていく。窓がガタガタと揺れ、横殴りに降ってくる雨と暴風に悲鳴を上げるように草木が軋み声を上げていく。

 咄嗟に弘香が窓から離れて母親に抱き着けば、電話を終えた父親が二人の元へと戻って来た。

「二人とも、不安だろうけど大丈夫だ。この雨で河川の氾濫は起こらないだろうってさ。雨もあと数時間後には上がるらしい」
「そう。よかったわ」

 ほっと胸を撫でおろす母親の腕の中で、弘香もよく分からないけれど大丈夫なんだな。ということだけは分かった。だがバタバタとコテージの壁を、窓を叩く雨の音はとても強く、幼い弘香は不安を覚えてギュッと母親にしがみついた。

「おかあさん。こわい」
「大丈夫よ、弘香。お母さんとお父さんがそばにいるからね」

 普段は一緒に入れない父親と共にお風呂に入り、母親と同じベッドに入ってからも弘香の気持ちは外に向いていた。

「おかあさん。あめ、やまないね」
「そうね。でも、起きたらきっとお日さまと会えるわ。今は寝ましょうね」

 ポンポンと優しく叩かれ、弘香は頷きながら目を閉じる。だが世界が暗闇に包まれると同時に、バタバタ、ゴウゴウ、ガタガタと、雨風が唸り、窓が軋む声が余計に大きく聞こえて恐ろしくなる。
 だからギュッと母親の胸にしがみつけば、母は黙って弘香を抱きしめ返した。

 そして被害にあうことなく無事に目覚めた翌日――。雨が止んだ空は快晴、とまではいかなかったが、分厚い雲は去っていた。
 だが長々と降り続いた雨によって増水し、あれだけ美しかった草原には沢山の枝葉が散らばっていた。

「…………なにこれ…………」

 帰宅の準備をする両親の目を盗んで近付いた川は、昨日遊んだ時の様子が嘘だったかのように姿を変えていた。
 あれだけ美しく澄んでいた川の色は茶色く濁り、穏やかに、そして優しく流れていた水の流れも荒く、力強い。小さな弘香などあっという間に飲み込んで流してしまいそうなほど勢いのある水は、折れた枝葉も石も岩も、全て飲み込んでいく。

「弘香!」
「弘香! 何してるんだ! 危ないだろう!」

 弘香がコテージから抜け出したことに気付いた両親が慌てて駆け寄り、父親が小さな体を両腕で抱き上げる。まだ小さかった弘香はあっという間に川から離されたが、いつまでもいつまでも、その光景が目に焼き付いて離れなかった。

 そして大人になった今でも、雨が降った時や、ふとした拍子にあの日の事を思い出す。

 ゴウゴウと音を立ててすべてを飲み込んでいく濁流と、ガタガタと窓を揺らし、木々を刈り取る勢いで吹き荒れた暴風。そして世界のすべてを否定するかのように降り注いだ大粒の雨。
 弘香はズキズキと痛む頭を抑えながらゆっくりと閉じていた瞼を開ける。それでも頭の奥では延々と、鍋の端にこびりついた油汚れのようにしつこく川の音が鳴り響いていた。


           6



 いつもよりは早めに終わったとはいえ、それでも就業時間はとうに過ぎている。タイムカードを押して退社する弘香が自動ドアを抜ければ、そこには“元彼”が立っていた。

「お疲れ」
「……お疲れ様」

 ポケットに両手を突っ込み、如何にも『待ってました』という風体で弘香を見下ろす姿がどうにも鼻につく。一々カッコつけてんじゃないわよ。と内心で毒づきながらも弘香が無言で促せば、元彼は気まずそうに視線を逸らしながら頬を掻いた。

「この間は、ごめん。その……」
「別に。気にしてない」

 そう。気にしてはいない。事実あの日の光景は既にうすぼんやりとしたものになっているし、怒りも悲しみも未だに浮かんではこない。 あの時は「一発殴っておけばよかった」と口にした弘香ではあったが、今ではもう「ビンタする価値もないわ」とすら考えていた。

「……そっか」
「うん。ていうか、連絡とらなかった私も私だし。お互い様でしょ」

 職場では時折顔を合わせていた。今日みたいに内線を通して話したことも一度や二度ではない。だがプライベートな時間で会おうとはしなかった。食事はおろか、デートもキスもセックスも、したいとは思わなかった。

「あの子、総務課の子でしょ?」
「……ああ」
「三つ年下だっけ? よかったじゃない。美人だし」

 私と違って。という皮肉は流石に飲み込んだが、相手には伝わっただろう。苦々しい表情を浮かべている。

「あのさ、弘香」
「よりなら戻さないわよ。あんたと私はもう終わってる。あんたがあの子と浮気したから、って理由じゃない」

 ――もう、とっくの昔に終わってたのよ。私たち。

 洋画でよく聞く台詞回しみたいだな。なんてくだらないことを考えながらも直球で伝えれば、元彼はモゴモゴと言葉を探すように、あるいは飲み込む様に口を動かした後、小さく頷いた。

「……ほんとにごめん」
「謝らないで」

 謝られたところで過ぎた時間は戻ってこないし、浮気現場を目撃した事実はなくならない。
 実際弘香はショックらしいショックを受けていなかった。むしろ頭の中が真っ白になるぐらいショックを与えてきたのは――

(……あの子、あれからどうしたのかな。思わず外に放り出したけど……。ま、恵くんのところにでも行ったでしょ。もう子供じゃないんだし)

 そう。子供じゃない。如何に子供扱いしようと、知はもう成人した青年で、何食わぬ顔でフランス語を喋り、のほほんとした顔で著名人と握手を交わす大物新人だ。こんな取るに足らない企業で駒のように働いている弘香とは、見ているものも身を置く環境も違うのだ。

(あ。やばい。泣きそう)

 何で。

 そう思った時には遅かった。ポタポタと、大学時代に眼鏡からコンタクトに変えたせいで丸い雫が簡単に足元へと落ちていく。俯いていたから頬を流れずに済んだものの、その光景はこの場所、この場面では不味かった。

「――弘香!」
「やめて! 今更何よ!」

 咄嗟に伸ばされた腕を弾く。この涙は別れた悲しみだとか、元彼に対する未練で浮かんできたものではない。

 ただ、そう。ただ悔しいのだ。自分よりも小さくて、自分よりも弱くて、何も知らなかったはずのあの子が、いつの間にか自分の背丈を追い越して、親友と同じように世界を股にかけ活躍する姿が――眩しくて、悔しくて、寂しくてしょうがないだけなのだ。
 あの、何も知らないような無垢な顔で、パタパタと後ろを着いて来ていたあの小さな子供は、無邪気な声で「ヒロちゃん」と無邪気に呼びかけてきた姿は、もうこの世のどこにもないのだ。

 今のあの子は浮気をされた弘香を痛いぐらいに抱きしめられる体を持った、大人の男なのだ。もう弘香の助けなどいらない。そんな存在になってしまったのだ。

「あんたに慰められる道理はないわ! 女を抱きたかったらさっさと彼女のところに行きなさい!」
「弘香! 待てよ! 俺の話を――!」

 再度伸ばされた手が弘香の腕を掴む。それを弘香が無理やり解こうと手をバタつかせるが、ひ弱な弘香の力では対抗することはおろか、怯ませることも出来なかった。

「なんで――」

 何故、自分の腕はこんなに細いのか。どうして自分はこんなにも力がないのか。こんな男の腕一つ振り払えない程に弱くなってしまったのか。
 悔しさのあまり色を失った唇が戦慄く。ギュッと噛み締めてもその震えは止まらず、せめて泣き顔を見られたくない一心で顔を逸らす。

「弘香、違うんだ。彼女とは――」
「うるさいうるさいうるさい! もう何も聞きたくないって言ってんのが分かんないの?! あんた何年私と付き合ってきたのよ?!」

 三年間も付き合っていて――。そう、三年間だ。学生時代の三年間はあんなにも長く感じたのに、社会人になってからの三年間はあっという間だった。

 気付けば新年を迎えていて、いつの間にか桜が開花して、知らない間に全て散って、鬱陶しい梅雨が来て、死にそうなほどに暑い夏がくる。甲子園の結果をニュースで知り、そのまま一瞬だけ秋が来て冬になる。街中がハロウィン一色だったのが嘘のように今度はクリスマスのオーナメントが我が物顔でアチコチを陣取って、そして再び門松が飾られる。

 それを三度繰り返した。その間、自分と彼は何を築いてきたのだろう。
 弘香は獣のように荒くなりそうな呼吸を必死に整え、細い指を強く握り込む。

「弘香。聞いてくれ。彼女とは付き合ってない。あの日は……あの時は、一回限りでっていう約束で、」
「ハッ! だからなに? そんな言い訳して私が素直に『そう。浮気じゃなかったのね』とでも言ってあんたの腕の中に飛び込むとでも思った? バカにするんじゃないわよ」

 恋ではなかった。鈴と恵のように、じれったくもくすぐったくなるような、可愛らしい恋ではなかった。
 それでも、情はあったのだ。共に食事を摂り、プログラムを作り、些細なことで軽口の応酬をして笑い合えるような――そんな、親しい関係ではあったのだ。愛は、愛だけは、確かにそこにあったのだ。

「どっちが先かなんて、くだらない話をする気はないわ。卵が先かニワトリが先かなんてどうでもいい。私とあんたはもう終わってる。それ以外の何が知りたいっていうの?」

 ヒビ割れたガラスコップが元に戻らないように、どれほど強力な接着剤を使ってくっつけても痕が残るように、弘香と目の前の男との関係は破綻している。もう、あの頃のような形には戻れないのだ。

 恋ではなかった。それでも愛してはいた。燃えるような情熱的な愛ではなかったけれど、ひっそりと咲く水仙のような、ささやかでもまっすぐな思いはあった。
 だが水仙は見た目は美しくとも、そのすべての部分に毒が含まれている特殊な花でもある。死傷者を出したこともある美しき花は、弘香の愛も思い出も全て殺してしまった。

「弘香――」
「これから先はただの同僚よ。合鍵も、今度荷物を取りに行った時に返すわ」

 初めて合鍵を渡された時、弘香は柄にもなく感慨深い気持ちでいっぱいになった。自分が異性の――誰かの“特別”になれたのだという事実が気恥ずかしく、けれど喜ばしくもあった。自分も鈴と恵のような――いや。あそこまで熱烈とまではいかなくても、いい恋人関係を築けるのではないかと考えていた。

 だが所詮は砂上の楼閣。お菓子で出来た家は偽物だったし、砂で出来た城は海へと還る。崩れた関係は、もう修復出来ないほどに壊れ果てていた。

「もう追いかけてこないで。迷惑だから」

(どうせ崩れていくだけなら――どうせ壊れていくだけならば。せめて最後は、美しくありたい)

「――さよなら」

 立つ鳥跡を濁さず。
 弘香もまた何も残さず、未練も思い出も何もかも置いていくつもりで踵を返した。だが突然取られたままだった腕を引かれ、踏鞴を踏む。

「な――!」

 何故最後まで邪魔をするのかと振り返った弘香の顎を、大きな手が無理やり掴んで唇を重ねてくる。途端に弘香の全身に怖気が走り、脊髄反射でその頬に平手打ちをかましていた。

「なにすんのよ! あんた本当に訴えるわよ?!」
「いやだ……。いやだ、弘香! 俺と結婚してくれ!」
「はあ?!」

 この状況で一体何を言い出すのだ、この男は。

 呆気に取られるというよりも、怒りで頭の中の火山が噴火する。
 わなわなと震える拳を握り締め、平手打ちをかました元彼をギロリと睨みつける。

「あんた本当にバカじゃないの?! 私今“別れる”って言ったよね?! 日本語通じないわけ?!」
「本当にごめん! でも、俺には弘香じゃないと――!」
「私はあんたなんかごめんよ! 別れようとする女に縋りついて恥ずかしいと思わないの?!」

 そのうえ無理やりキスをするなんて、強姦罪で訴えてもいいぐらいだ。
 口紅などとうの昔に落ちている。ゴシゴシと手の甲で口元を擦る弘香に、元彼は必死に言い募る。

「魔が差しただけなんだ! 俺が好きなのは弘香だけだ! 本当だよ!」
「んなことどうでもいいっつの! 私はあんたと別れたいって言ってんの! 分かる?!」
「指輪だって本当は用意してたんだ! ほら!」

 そう言って上着のポケットから出してきたのは、夜空の下でも眩い程に輝く指輪だった。

「は――――」

 付き合っていた男女が結婚する。あるいはプロポーズする場面というのは、もう少し感動的だと思っていた。だが実際は――


 ――眩暈が、する。


 咄嗟にふらついた弘香の背が誰かにぶつかったのは、その時だった。

「あ、すみませ――」
「別れようとしてる人に縋りついてまでプロポーズして、あんた、楽しい?」

 謝罪しようとした弘香の耳に届いた声は酷く冷たく、また怒りに満ちている。咄嗟に振り返った先にいたのは、冷めた目で弘香の元彼を見下ろす恵の姿だった。

「情けないと思わないの? さっきからずっとさぁ。嫌がってるのが分からないのかな? 脳みそ詰まってる?」
「な、なんだお前はっ! 弘香の新しい恋人か?! そうなのか?!」

 恵の迫力に押されているのだろう。ふらつく元彼に向かい、恵は背筋がぞっとするほど冷たい視線を向けた。

「そんなことしか言えないの? 先に浮気したのはそっちなんでしょ? この人にどうこう言える資格があんたにあるって、本気で思ってる?」
「う、うるさい! 何も知らない他人の癖に――!」

 一歩、また一歩と近付く恵の迫力は凄まじい。全身を黒い衣服で包んでいることもあり、その姿はまさに現代に降臨した『魔王』そのものだ。
 弘香は思わず(最近『U』にログインする暇もなかったから、なんだか懐かしいわね、この感じ)と場違いなことを考えてしまった。

「他人が口挟まなきゃ何するか分からないぐらい酷い姿を晒してたのはそっちでしょ。それとも、事情を知ってる人であれば、あんた、納得して別れるわけ?」
「そ、それは……」

 言い淀む元彼の顔は真っ青だ。それはそうだろう。弘香からは背中しか見えないが、恵の瞳は一切の温度を感じさせないどころか殺気を纏っているようにも見えるのだ。

 事実恵は相当頭に来ていた。幾ら言い寄られている相手が己の妻である鈴ではないとはいえ、弘香とも長い付き合いだ。彼女が笑っている時も怒っている時も、倒れて病院に搬送された姿も見ているが――彼女が泣いている姿を見たのは、今日が初めてだった。

 何だかんだ言って恵は彼女を頼りにしていた。鈴と付き合っていた頃も――いや。それよりもずっと前から。そして結婚し、妊娠が発覚してからも。恵も鈴も無意識に弘香に甘え、頼っているところがあった。そんな彼女が無理やり迫られている姿を黙って見ていられるほど、恵は薄情でも臆病でもなかった。

「もしもまた、性懲りもなく彼女に言い寄ったら――」
「ヒッ、」

 恵は音を立てて後退り、壁に背をくっつけていた男の股座目掛けて長い脚を勢いよく振り下ろした。

「その粗末なもの、潰すから。覚えといて」
「ひぃっ……!」

 ブルブルと震える情けない元彼の姿に、弘香はほっとしたような残念なものを見たような、何とも形容しがたい気持ちを抱いた。

「じゃ、行きましょうか」
「ああ……。うん。ありがとうね。助けてくれて」

 腰が抜けたように座り込む男に、恵はあっさりと背を向けて弘香の元まで戻ってくる。その瞳には、先程の冷たさなど嘘だったかのように弘香を気遣う優しさに満ちていた。

「ごめん。もっと早く止めに入ろうとは思ってたんだけど……」
「いいよ。タイミングがつかめなかったんでしょ?」
「うん……。ああいうの、実際に止める側に入ったのは初めてだから……」

 チームメンバーの中にやたらと女性関係が派手な奴がいるおかげで修羅場に遭遇するのはこれが初めてではない。だが恵はいつも「お疲れ」の一言と共に横を通り過ぎていた。だが今回の相手は弘香だ。素通りするわけにもいかず、しかしいつ間に入ればいいのか分からず一人でソワソワとしていたのだ。

「ところで、何でここに?」
「鈴さんに頼まれて。『本当はわたしが行きたいけど、恵くん心配するでしょ? だから様子見てきて欲しいの』って言われて。それで、今ならまだ会社にいる頃かな。と思って来てみたんだ」
「ああ……。恵くん来世では探偵になれるよ」
「ははっ。実は結構、そういう探し物を当てるゲームも得意なんだ」

 弘香を気遣ってだろう。敢えて先の話題に触れない恵の優しさに、弘香も徐々に力を抜いていく。

「……ごめんね。情けない姿見せて」
「どうして弘香さんが謝るの? 悪いのはどう考えてもあっちでしょ」

 あっち。と恵が一瞬背後に視線を向ける。そこには未だに呆然と二人の姿を見送る元彼が座り込んでおり、弘香はそっと息を吐きだした。

「まさかあんな未練がましい男とは思わなかったわ。三年も付き合ってたのに、まだまだ知らないところがあったのね」
「むしろ三年付き合って、結婚するつもりもあったのに浮気する方が理解に苦しむよ。一度頭の病院に行った方がいいんじゃないかな。それか精神科」

 次々ともたらされる弘香以上の毒舌に、思わず弘香は吹き出して笑う。

「恵くん、歳を重ねる毎に毒舌が極まってない?」
「鈴さんがのんびりした人だから。僕が強くならないと」
「それ以上強くなってどうすんのよ。ま、おかげで助かったけど」

 今でこそ恵は鈴のためにあくせくと働き、主夫紛いのこともしているが、プロのゲーマーになってからは反射神経と体力を維持するために空いた時間はボクシングジムに通って体を鍛えていた。とはいえ試合に出るわけではない。あくまで体を鍛えるのが目的だ。
 だからこそ長時間のプレイに耐えられる強靭な肉体と精神力、ゲームの中でなら弾丸でさえ避けられるとんでもない男になってしまったのだが、全ては鈴との生活に直結しているのだからその情熱と愛は『壮絶』の一言に尽きる。

 事実鈴が「ゲームとわたし、どっちが大事?」などと聞こうものなら秒でコントローラーを投げ捨て鈴を抱きしめることだろう。むしろ勢い余ってコントローラーもVRゴーグルも破壊するかもしれない。それぐらい恵の鈴に対する愛情は大きかった。

「でも、鈴さんが言った通りだったな」
「え? あの子何か言ってたの?」
「うん。『なんだかすごいイヤな予感がするの……。ヒロちゃんに何もないといいんだけど』って、朝から言ってました」
「朝から?!」
「はい。なんか、すごくイヤな夢を見たらしくて……。顔も真っ青だったから、弘香さんの仕事が終わる頃を見計らって僕が様子を見に行くよ。って約束することで落ち着いてもらったんです」

 鈴は身籠ってからやたらと色んな夢を見るらしく、亡くなった母親や祖父母とも会った。と以前話していた。時折神話の世界や昔話でもその手の話はあるが、もしかしたら鈴のお腹の中にいる子は将来とんでもない大物になるのかもしれない。
 そんなことを考えつつ、弘香は一つ気になっていたことを尋ねることにした。

「……ところで、さ」
「ん?」
「知くんは、元気?」

 あの日部屋を追い出してから連絡を取っていない。『U』にもログインしていないため、知が今どこで何をしているのか分からなかった。
 おずおずと尋ねる弘香の様子に思うところはあったが、恵は敢えて気付かぬ振りをして弟の様子を話すことにする。

「至って元気ですよ。むしろ最近ではしょっちゅううちに来て『恵くん料理教えて!』って、ボクの代わりに色んなもの作ってくれてます」
「あの子そんなことしてるの?」
「はい。鈴さんと一緒に台所に立っている日も多いですよ。少し妬けるぐらいに」

 最愛の弟だから『少し妬ける』ぐらいで済んでいるが、これがもしチームメイトであれば容赦なく恵は台所からではなく家から蹴り出したことだろう。そう考えると本当に知は特別というか甘やかされているというか。苦笑いする弘香に、恵もそっと口元を綻ばせる。

「知くん、弘香さんのこと心配してましたよ」
「そう……」
「でも、今日は知くんがいなくて本当によかった。もしここにいたら何やらかすか分からなかったんで」

 知は恵と違って意図的に相手を傷つけることが出来ない。暴力も苦手だし、言い争うことも苦手だ。恵のようにジムに行って体を鍛えているわけでもないし、他人を殴ったこともおそらくないだろう。
 だが恵は知が弘香のことを大事にしていることを知っている。これでも兄弟なのだ。一時期遠く離れた国で過ごしていたとはいえ、互いのことはよく理解している。

 事実あの日、泣きそうな顔で「ヒロちゃんのこと、傷つけちゃった……」と相談しに来た弟の姿を思い出すと今でも胸が痛くなる。誰かのためにあれだけ傷ついてしまう心優しい弟を、そしてその弟が大切に想っている弘香を、恵も心から大切に想っている。
 だが他人と争うことを厭う知がもしあの会話を聞いていたら――。無理やりキスされる弘香を目にしていたら。知は、一体どうなっていたのだろう。

 想像したくもないし、そもそも想像出来ることでもなかった。

「……暫く僕が迎えに来ましょうか?」
「いいよ。そこまでしなくて。気持ちだけ貰っておく」
「遠慮しなくてもいいですよ。巡り巡って鈴さんの安寧に繋がるなら、僕はいつでも弘香さんを迎えに来ますから」
「うーわぁ……。この子遠回しに惚気てきたうえに私を出汁に使おうとしてるわ」
「ははは。そんなの今更と言うか、お互い様でしょ。僕たちは、昔からこういう関係じゃないですか」

 そう。恵と弘香は昔から『こういう関係』だった。互いに鈴を中心に回る小惑星のような――持ちつ持たれつの関係を保ち、時には背中合わせのようにして生きてきた。それは今でもきっと、変わっていない。

「……頼もしいわね。恵くんが傍にいるって。ちょっとだけ鈴が羨ましいわ」
「意外ですね。弘香さんがそんなこと言うなんて」
「でも本当にちょっとだけよ? ミジンコの足先ぐらい」
「もうそれ肉眼じゃ見えないレベルですよね?」

 苦笑いする恵に、弘香も笑う。恵と弘香は例え地球が滅亡しようとも恋愛関係には発展しない。互いにそう言い切れる自信がある。なにせ二人が心底大事にしているのは、その心の中心にいるのは、いつだってあの心優しい一人の歌姫なのだから。

「あーあ。最近恵くんとばっかり会ってるから、鈴不足だわ〜」
「すみません。ちょっと、鈴さんの貸し出しだけはお断りしてて……」
「こーの独占欲丸出し男め。あの子は私の親友でもあるのよ?」
「それとこれとは別というか。そもそも竜という生き物は、生涯の伴侶に一途だっていうセオリーがあってですね……」
「どこから引っ張り出して来たのよ、その設定」

 鈴とも知とも、瑠果や千頭とも違う。独特な間柄でありながらも、互いに軽口の応酬が出来るほどには親しくもある。おかげで弘香も落ち着くことが出来た。もしあのまま一人で帰っていたら、案外冷静ではいられなかったかもしれない。
 だからこそ感謝の念を抱きつつも「もう大丈夫だから」と言って恵とは駅で別れることにした。

「何かあれば連絡ください」
「うん。ありがとう。恵くんも気を付けて帰るのよ? あんたに何かあったら、鈴が悲しむんだから」
「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ」
「ははっ、本当だ。じゃあね! おやすみ」
「おやすみなさい」

 改札を抜け、手を振る弘香に恵も手を振り返す。頼もしい友人兼相棒の姿に弘香は笑みを浮かべ、いつもよりどこか軽い気持ちで電車のホームへと立った。

 ――それからはもう、元彼から未練がましい連絡が来ることはなかった。





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