- ナノ -

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 ファミレスで昼食を摂った後、弘香は知と共に狭苦しいマンションへの道を辿っていた。

「あんた、エコバッグ一体何個持ってるのよ」

 隣を歩く知の手には二つのエコバッグがぶら下がっており、その背にあるリュックにも少しだけ食料品が詰め込まれている。流石に何も持たないのは気が引けたので、弘香もトイレットペーパーなどの日用品を手にしてはいるが、生憎知と違ってエコバッグを持参してはいなかった。
 だが幸い知が複数所持していたため、別途ビニールを購入する手間が省けたのだ。しかしそのエコバッグは見たことのない柄とデザインをしており、ついつい弘香は眺めてしまう。

「っていうかそれ、どこの商品? 見たことないんだけど」
「コレ? コレはね、アレックスの奥さんが『かわいいデザイン作ったからあげる』って言って、いっぱいくれたんだ」
「は?! ってことはブランド品?!」

 咄嗟に弘香が突っ込んでしまうが、アレックスの妻である日本人女性はとあるブランド品メーカーのデザイナー兼重役の一人だ。アレックスとは違い衣装ではなく日用品や生活雑貨などをメインに担当しているが、彼女が手掛けたものならばその価値は相当なものだ。事実日本では直接手に入れることが難しい『海外ブランド』の正規品である。
 そのハイブランド品にみりんやら醤油やら、葉物の野菜などを突っ込んでいるのかと思うと血の気が引くのも無理はない。

 だが弘香からしてみればグッチの鞄と同等の価値があろうと、知からしてみればエコバッグはただのエコバッグでしかない。だから呑気に笑っていられるのだが。

「おっきいからたくさん入って便利でしょ?」
「そういう問題じゃないでしょ?!」

 例えエコバッグだろうと、彼女が手掛けるブランド品ならば最低でも数千円、場合によっては一万円から始まるハイブランドである。勿論海外サイトで直接購入するならばもっと額は抑えられるが、日本の業者を通してのやり取りであればそのぐらいは普通にする。
 それをタダ同然で、しかも好意で貰える人間などここにいる知ぐらいだろう。
 あまりの認識の差に愕然とし、開いた口がふさがらない状態の弘香に知はキョトンと首を傾ける。だがすぐに何かに気付いたらしく、「あ」と声を上げた。

「恵くんだ! 恵くーん!」
「へ?」

 両手が塞がっているせいだろう。ピョンピョンとその場で跳ねながら名を呼ぶ知に、弘香のマンションの前に立っていた恵が気付いて片手を上げる。

「知くーん! 弘香さーん!」
「恵くん、どうしたの?」

 慌てて弘香が知を引きつれて恵の元へと向かえば、恵は足元に置いていたクーラーボックスを肩に掛けて笑みを浮かべた。

「今月の差し入れです。鈴さんの代わりに持ってきました」

 弘香は恵のことを「鈴以外の前じゃ塩対応よね」と評しているが、その実弘香の前でも柔らかい表情をする。何だかんだ言って昔から交流があるのだ。
 それに今では己の妻である鈴の親友でもある。『U』の世界でも『竜』のマネジメントを負ってくれているため、恵は弘香に対しても優しかった。

 だが今日はタイミングが悪かった。折角知が自らの腕前を披露しようと意気込んでいたというのに、半ば弘香の胃袋を掴んでいる恵が差し入れを持ってきたのだ。知はぷう。と再び白い頬を膨らませる。

「ボクがヒロちゃんにご飯作ってあげようと思ってたのに」
「え。そうだったの? ごめんね、知くん。でも、鈴さんにお願いされたからさ」

 現在身籠っている鈴ではあるが、激務に晒されている弘香を心配してよく料理を作り、恵に頼んで弘香の元へと配達していた。結婚するまでは鈴が直接こちらに来て料理をすることも珍しくなく、弘香はふいに流れた月日の長さを感じてしまう。

「まあいいじゃない。知くんが作ってくれた分もありがたく頂くわよ」
「……恵くんと比べたりしない?」
「んー……。約束は出来かねるわね」
「ヒロちゃんのイジワル!」

 嘆く知の気持ちは最もだ。恵は「そんなことはない」と言って謙遜するが、その料理の腕前は相当なものである。事実一度メンバーの家で卓飲みに誘われた時、あまりのつまみの不味さに辟易した恵が自分で肴を作ったところ、それが美味すぎて周りにいたメンバーは「今までゴミを食ってたのか?」と疑問を呈したほどだった。
 そんなのが相手じゃ自分の料理など食べられたものではない。恵の料理の腕前を知っているからこそ落ち込む知に、恵はすかさずフォローを入れる。

「大丈夫だよ。知くんだって料理上手でしょ? この前も鈴さんが言ってたよ。『知くんの作るご飯は優しい味がするね』って」
「そうだけど……」

 こうして落ち込んではいるが、知も料理が出来る方である。むしろ弘香に比べればずっとマシだ。恵の腕前をプロの味とするならば、知は家庭料理の味とでもいうのだろうか。どこか親しみやすく、食べていると胸があたたかくなるような優しい味付けは恵も鈴も気に入っている。
 その機会に恵まれなかった弘香だけは知の作る料理がどんなものなのか知らないだけで、知は弘香よりもずっと料理上手だった。

 ちなみに弘香の料理レベルは四人の中で最も下である。とりあえず焦がさなければ成功レベルなので、比べてはいけない。

「それに、知くんが作ったご飯なら弘香さんも喜んで食べてくれるよ。ね? 弘香さん」

 ニッコリと笑っているはずなのに、何故迫力があるのだろうか。弘香は引きつりそうになる頬をどうにか笑みの形で固定する。
 弟が絡むと途端に『魔王』の片鱗を見せる恵に逆らう気力も体力もなかった。

「恵くんの言う通りよ。作ってもらえるなら私はなんだって食べるわ」
「それはそれでなんだか複雑だなぁ」

 出来れば心から『おいしい』と言ってもらいたい知である。だがこの感じだと比べられはしなくとも、あまり噛み締めて貰えることは出来なさそうだ。
 無意識にシュンとする知に、恵は困ったように眉尻を下げる。

「知くん……」
「ほら、着いたわよ。相変わらず狭い部屋だけど――っていうか、あんたたちが二人で入るとマジで狭いわね。まあいいわ。とにかく上がりなさい」

 1DKの狭いキッチンに、リビング兼寝室の狭い部屋は背丈のある二人が入ると更に窮屈に感じる。実際玄関に二人の靴が並べば殆ど隙間がない。男女差故仕方ない話ではあるのだが、弘香は思わず苦い笑みを浮かべた。

「そういえば、ヒロちゃんの部屋に来たの、ボク初めてだ」
「え? そうだっけ?」
「うん」

 キョロキョロと、興味深そうに部屋の中を見回す知の瞳は先程までの落ち込み具合が嘘のように輝いている。大して好奇心がくすぐられるようなものは置いていないはずなのだが、プログラミングも出来る知である。ある程度は興味が惹かれるのだろう。そう考え、弘香は恵と共にクーラーボックスの中身を検めていく。

「これが煮物で、こっちが佃煮。で、こっちには一つずつ味付けの違う卵焼きをアルミホイルで包んでるから、食べる時はレンジで温めてください」
「やった! この煮つけ鈴の手作りじゃない 私コレ好きなのよねー!」

 鈴と弘香は同郷ということもあり、好みの味付けが似ている。そのため鈴が作った煮物や佃煮、煮つけなどは特に弘香の口にもよく合い、昔から何度も作ってもらっていたものだった。
 恵もそれを知っているからだろう。喜ぶ弘香に頬を緩める。

「鈴さんも言ってましたよ。『ヒロちゃん、コレ好きだから、持って行ったら喜ぶだろうなぁ』って」
「さっすが大親友! 私の代わりに『愛してる』って伝えてきて」
「もしかして、揶揄ってます?」

 先程までの優しい表情はどこへ行ったのか。途端にじっとりとした視線を向けられ、弘香も営業スマイルでさりげなく追及を躱す。

「まっさかー。それぐらい言えるでしょ? ダ・ン・ナ・サ・マ」
「弘香さんじゃなかったら色々と言い返すのになぁ〜」

 呆れたのか、諦めたのか。どちらにせよ天を仰ぐ恵に弘香が笑っていると、二人の間にニュッと知が首を突っ込んでくる。

「二人の世界、いくない」
「大丈夫だよ。僕と弘香さんがそういう関係になることは未来永劫ありえないから」
「全面的に同意なんだけど、一切の迷いもなく言い切られると複雑な気持ちになるわね」

 微笑を浮かべながらもすっぱりと答えた恵に弘香は頬を引きつらせる。だが事実二人は互いに対してその手の感情は一ミリも持っていない。とはいえ女性人気の高い恵にここまでハッキリと断れると胸にくるものがある。
 弘香は一瞬「私ってそんなに魅力ないか?」と虚しい気持ちにもなったが、すぐに気持ちを切り替え、どこかムスッとしている知を宥める方向に舵を切った。

「で? あんたは何をそんなに拗ねてるわけ? もしかして“お兄ちゃんをとられた”とでも思ったの?」

 恵と知は育った環境のせいか、それとも本人たちの気質なのか、成人した今でも仲がいい。男兄弟特有の遠慮のなさはなく、相手を尊重し合う稀なパターンで絆を築いている。それでも時折こうして知は年下らしい行動や顔を見せることがあり、その度に恵は困りながらもどこか嬉しそうに対応するのが常だった。
 が、今日は珍しく恵は苦笑いを零すだけである。

「僕はこれを置いたら帰るから、心配しないで」
「え? もう帰るの?」
「はい。鈴さんを一人には出来ないから」
「そっか。悪阻が落ち着いたって言ってたけど、そりゃ心配よね」

 初めての妊娠に加え、先日までは悪阻にも悩まされていた鈴だ。今では落ち着き、料理も出来るようになったみたいだが、一時期はまともに家事が出来ないほどグロッキーになっていた。

「はい。今日は調子がいいみたいで、朝から『ヒロちゃんに持って行って!』って言いながら沢山作ったんですよ」
「そっか。本当にありがとう」

 日頃二人を揶揄うことの多い弘香ではあるが、心底感謝もしている。だから今度は真摯に礼を告げれば、恵は色素の薄い瞳を優しく和らげた。

「体に気を付けてくださいね。また倒れたら、今度は生まれた子供と一緒にお説教に行きますから」
「うわぁ……。それだけはマジ勘弁」

 弘香だって折角なら元気な状態で生まれた赤子に会いたいし、抱っこしたい。であれば、やはり倒れるわけにはいかない。
 恵も弘香の現状が思わしくないことを察しているのだろう。勿論、その体が以前見た時よりも痩せていることにだって気付いていた。鈴が見れば「ヒロちゃんがまた倒れちゃう!」と悲鳴を上げそうなぐらい、その体は細く、簡単に折れてしまいそうだった。

「そういえば、知くんはどうして弘香さんと一緒にいたの?」
「駅で会ったんだ。あ。そういえばヒロちゃんはなんであそこにいたの?」

 そう言えば出合い頭に尋ねた問いに答えを貰えていなかった。そのことに気付いた知が問いかければ、弘香はバツが悪そうに「あー……」と言葉を濁す。

「ちょっと……元彼のところに……」
「元彼?」

 弘香の恋人について、うっすらとはいえ知っている恵である。顔や名前は知らないが、存在自体は鈴を通して聞いていた。確か付き合いだして二年か三年目になるはずだが……。と脳内の記憶を漁っていると、開き直った弘香が肩をすくめながら「まあね」と答えた。

「必要なデータを保存してたUSBを元彼の家に置いてたからさ。取りに行ってたのよ」

 浮気現場を目撃するまでは『今彼』だったわけなのだが、今となってはどうでもいい話なので訂正はしない。
 だが二人は――というより、知は弘香の彼氏に興味があるのか、どんな人だったのか、どうして別れたのかを聞いてくる。

「別に、普通の人だったわよ。顔だけならあんたたち兄弟の方がよっぽどいいわね」
「ヒロちゃん、ボクの顔好きなの?」
「語弊がある聞き方するんじゃないわよ。世間一般の基準であんたらはいい面してる、って言ってんの」
「いひゃい」

 むにゅう。と知の柔らかい頬を弘香が両手で伸ばせば、今度は恵が「どうして別れることに?」と聞いてくる。とはいえ流石の弘香もこれにはどう答えるか迷ったが――相手は自分の親友と結婚し、あまつさえ致して身籠らせた男である。ならば話しても問題ないかと、弘香はオブラートに包んで説明する事を諦めてしまった。

「別に大した理由じゃないわよ。会いに行ったら今カノとお楽しみ中だったから、その場で別れを決めただけ」
「は?! それって『浮気してた』ってことですか?!」
 目を丸くして驚く恵に頷けば、途端に端正な顔が怒りに歪められる。

「浮気とか、何やってんだソイツ」
「まー、放置してた私も私なんだけどね」

 実際弘香が元彼と最後に会ったのは一月以上前だ。それを考えれば会えない元カノより会える今カノだろう。セから始まるお友達の可能性も無きにしも非ずではあるが、どちらにせよ関係は破綻していた。だから今更修正する気力も好意もなかった。

「ヒロちゃん、浮気されたの?」

 だがここに来て、怒る恵とは対照的にどこか呆然とした顔で知が弘香を見つめていることに気付き、弘香はギョッとする。

「ちょ、なんであんたがそんな顔するのよ」
「だって……」

 ――ヒロちゃん、酷いことされたのに……。

 泣きそうな顔で告げられた言葉に、唖然としたのは弘香だけではなかった。弘香がケロリとした態度を取っていたことから「未練はないのだろう」と判断した恵ではあったが、普通は浮気現場を目撃したら怒るか泣くか。どちらかだろう。
 だが咄嗟に弘香を見遣った恵の視線が捕らえたのは、ぽかんとした顔で知の顔を見上げている、少し間の抜けた顔だった。

「ヒロちゃんと付き合ってたのに、なんでその人は浮気なんてできたの? どうして他の人を好きになれたの?」
「と、知くん……?」

 いつもと様子の違う様子に弘香が恐る恐る手を伸ばしながら声を掛ければ、知はグッと唇を噛みながら弘香を見下ろした。

「なんでヒロちゃんは怒らないの? どうして平気な顔ができるの? ヒロちゃんは、その人のこと、」

 ――好きじゃなかったの?

 知の苦し気な声が、言葉が、弘香の頭にグワンと響く。まるで銅羅のようにその声は余韻を残しながら弘香の頭に、体に、響いては消えて行った。

「…………――そう、ね」

 三年間付き合った彼氏だった。弘香にとっては二人目の男で、それなりに仲もよかった。友達の延長線上にいたようなものではあったが、嫌いではなかったのだ。
 だが、浮気現場を見ても最初の彼氏と別れた時と違って何も思わなかった。正直頭のどこかではこうなることが分かっていたのかもしれない。

 最初の彼とだって、浮気をされて別れたのだから。

 自分はそういう巡りの元にいるのだと、弘香は無意識に考えていたことに気が付いた。

「……そうね。せめて一発ぐらい、ほっぺたぶん殴ってやればよかったわ」

 自分の細い指では痛みなど大して与えられないだろうが、それでも『お前がやったことは最低だ』と教えてやることは出来たかもしれない。それで相手が反省しようがしなかろうが関係ない。関係の修復を望まれたところで弘香は確実に跳ね退けただろう。
 だからこそ弘香はそっと、諦めたような、達観したような笑みを浮かべた。


「――でも、いいの。慣れてるから」


 最初の彼も同じように三年付き合い――浮気をされた。いや。初めから弘香は本命ではなかった。遊び相手だったのだ。
 弘香だって鈴と恵のように本気で相手を愛し、燃えるような恋をしたわけではない。それでも――浮気をされていたと知った時は、怒りと悔しさで涙が止まらなかったものだ。

 だが今は弘香も二十六。社会に揉まれ、大学生の頃よりもずっと沢山のものに耐えられるようになった。最初は悔し泣きしていたことも、ミスを犯して青くなったこともあった。それも今では無表情で対処出来る。後輩のミスも、同僚のミスもカバー出来る技量を持っている。
 だからこそ泣かずに済んだ。無駄に怒ることも、心を乱されることもなかった。ただ、『ああ、そうか。これで終わりか』と、酷く乾いた感想が過っただけだった。

(そういえば、最初の彼氏と別れた時は鈴がものすごく怒って、一緒に泣いてくれたっけ。懐かしいな)

 弘香が数年前のことを思い出していると、突如息が苦しくなるくらい強く、真正面から知に抱きしめられる。

「と、知くん?」
「――悔しい。なんでそんな人がヒロちゃんと付き合えてたの? ボクなら絶対、そんなことしないのに」

 ギュウ。と痛い程に抱きしめて来る腕に、怒りを耐えているような声に、弘香は心の底から困惑する。そしてこの状況を唯一どうにか出来そうな人物に視線を流せば――何故かこちらはこちらで殺気を纏っていた。

「弘香さんだけでなく知くんまで泣かせるとか、そいつは何様なんだろう。腹立つな」
「いや、ちょっと。まずはこっちを助けてくれない?」

 こっちこっち。と手招きする弘香ではあるが、恵は何を思ったのか。考え込んでいた顔を上げると、弘香の肩にそっと手を置いて強く頷き返す。

「安心してください、弘香さん。この件については鈴さんと瑠果さんにもキチンと伝えておきますから」
「何も安心出来ないけど?! それより他に言うこととかやることがあるでしょ!」

 まずはアンタの大事な弟をどうにかしなさいよ、と言外に伝えた弘香だったが、何故かこちらに関しては笑顔でスルーされてしまった。

「じゃあ、知くんのこと頼みますね?」
「頼むな! ちゃんと連れて帰れ!」

 しっかり突っ込んだにも関わらず、恵はそのまま「また会いに来ます」と言って出て行ってしまう。自分の部屋だというのにどこか取り残された気持ちで呆然としていると、何故か涙目になっていた知がようやく体を離す。

「ヒロちゃんは、ホントに平気なの?」
「平気も何も、そこまでショック受けてないから」

 もし本気で、心底元彼のことを好きだったのであれば弘香は激務の中であろうと頻繁に連絡を取っただろうし、合鍵を使って会いに行ったことだろう。だが実際にはそうしなかった。むしろ忘れていたと言ってもいい。
 そんな自分がどうこう言える立場ではないと、頭の片隅で思っていただけだ。だが当然口にしなければ伝わるものも伝わらない。知は捨てられた子犬のような顔で「ホントに?」と尋ね、弘香は苦笑い気味に頷いた。

「あんたもしつこいわね。大丈夫だって言ってるでしょ」
「でも……。仲良く遊んでるところに出くわしちゃったんでしょ? 気まずくなかった?」

 仲良く遊んでいる。意味を分かって口にしているなら相当な皮肉になるのだが、果たして純粋培養された知に先の意味が通じているのかどうか。弘香は確認したいような気持も、知りたくないような気持にもなったが――結局、ゆるく首を振ることでそれを抑え込んだ。

「平気よ。むしろUSBにしか興味なかったから。ほぼ無視してやったわ」
「……そっか。ヒロちゃんは、かっこいいね」

 へにゃりと笑う知の雰囲気はいつもと変わらぬ穏やかなものに戻りつつある。だからこそ弘香も「当然でしょ」と言って笑い返したのだが――。

 続けられた言葉に、思わず動きを止める。

「ヒロちゃん」
「ん?」
「ボクはね、ヒロちゃんが好きだよ」

 一瞬『告白』をされているのかと思ったが、相手は知だ。そんなことはないと思い、いつものように「はいはい」と軽く受け流すことにする。

「ありがとね。そう言ってもらえると私も――」
「ヒロちゃん。ボク、ヒロちゃんの『恋人になりたい』って、言ってるんだよ」

「…………………………は?」

 ゴウッ、と耳の奥で強く風が吹く。川が、濁流が、頭の中で、目の奥で、勢いよく流れていく――。

「…………なによ、それ」

 弘香の足元を、意識を飲み込もうとするかのように、あのゴウゴウと音を立てて流れていく川の音が、映像が、頭の中で鮮明に蘇る。

「ボクは、ヒロちゃんが好きだよ。子供の時から、ずっと」
「――うそ」

 バタバタと、雨が屋根を叩く音がする。
 だが一瞬視線を映したベランダへと続く窓には水滴がついておらず、空も晴れ渡っている。
 それでも、それでも弘香の耳の奥には激しい雨音が響いていた。

「うそよ。だって、アンタの好きな人は――」

 一際強く風が吹く。強風に煽られ雨粒が横殴りに降ってくる。木々は荒れ狂う暴風に撫でられ軋み声を上げ、増水した川は濁流となって目の前を流れていく。

 ――あの日の、あの光景が、幼い頃弘香が見た光景が、当時の映像そのままにフラッシュバックする。

「だって、あんたの好きな人は――」

 Bell。世界の歌姫。弘香の親友。そして――恵と知にとって、初めて恋をした女性だった。


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 ザアザアと雨が降る。弘香は痛む頭を抑えながらエナジードリンクを煽り、音を立てながらキーボードを指先で叩く。
 ようやく面倒なプロジェクトが終わると喜んだのも束の間、すぐさまエラーが発生し復旧作業に追われていた。しかもあと数時間で戻せなければ損害賠償をしなければならないだの何だのと上司に喚きたてられ、弘香たちは死に物狂いで原因を探ったのだった。

(ま、私が見つけたおかげで余裕で復旧間に合いそうだけどね。つーかこうなったのも原因は向こうのバカみたいな要求飲んだせいじゃない! 誰のせいだっつーの、あのクソハゲ上司!)

 心の中でここぞとばかりに悪態を吐きながらも弘香の指は止まらない。次から次へと寄こされるメールに書類に鳴り響く電話にと、もう一人自分が欲しいぐらい忙しい。それでも弘香は一人でそれをこなす。一つ一つ素早く、けれどチェックは怠らずミスや漏れがないことを確認してから書類を回す。
 クライアントの迷惑千万な要求を「ざっけんなクソ! 死ね!」という呪いの言葉を何百倍にもオブラートに包んだ言葉で穏便に返信し、かかって来た外線にいつもより甲高い声で出る。

 いつもと変わらない日々。いつもと変わらない忙しさ。いつもと変わらない――。

「………………荷物、取りに行かなきゃな」

 あの後、弘香は知の体を部屋から押し出した。「一人にして」と言って、結局日が暮れるまでぼうっと窓の外を眺めていた。
 明確な別れ話はしていなくとも、別れたつもりでいた元彼からも何度か着信が入っていた。昨日も今日も、留守電には元彼から「話がしたい」というメッセージが届いている。
 だがそのどれにも、弘香は返事をしていなかった。

「……はー……」

 グッと目頭を揉み、凝った肩をぐるりと回す。ちらりと見遣った窓の向こうは大粒の雨が窓を叩いており、世界は灰色に塗り潰されている。
 弘香は再び鳴り始めた電話を脊髄反射で取って耳に当て、流れるように社名を告げれば『弘香?』と留守電に残っているのと同じ声が弘香の名前を呼んだ。

「チッ、内線かよ」
『そんなに嫌そうな声出すなよ。さすがに傷つくぞ』
「外線かと思ったのよ。で? なに。必要なデータがあるなら早く言って」

 わざわざ内線を掛けてきたのだ。それなりの理由があるのだろうと手にしていたペンをクルリと回せば、向こうはどこか言い淀む様にして言葉に詰まった後、クライアントの情報が欲しいと告げた。

『今度俺たちのチームがあの会社と共同で動くことになって――』
「御託はいいから必要なものだけ教えなさい。暇じゃないのよ、こっちは」

 正直データベースにアクセスする権限は弘香以外の人間も持っている。それこそ弘香が嫌う上司だって持っているのだ。同性の同僚だっているのに、わざわざ自分に掛けてきた理由は何なのか。分からないほど弘香は鈍くはない。

『弘香、この後、少しだけでいい。十分だけでもいいから――』
「公私混同する人間は嫌いなの。じゃ、データ送っておくから。確認して」
『弘香ッ』

 ガチャン。といつもより大きな音を立てて受話器を置く。途端に上司から「もっと静かに置け!」と野次が飛んで来たが、弘香は無視して目の前のディスプレイへと視線を映す。

(どいつもこいつも、勝手なこと言ってんじゃないわよ)

 会社のデータが全て保存されているサーバーへとログインし、必要な情報を抜き出し保存する。それを元彼――社内では営業課にいる男の個人アドレスに向かって送りつけた。

「……社内恋愛なんてするもんじゃないわね」

 最初の彼氏は、大学を卒業してすぐの時に浮気が発覚して別れた。それからしばらくは一人でいたが、元彼――二人目の彼とこの会社で出会い、仕事を通じて親しくなるうちにそういう関係になった。

(私ももう子供じゃない。恋に恋する年齢でもないし、そもそもそんな幻想は最初の彼氏のおかげで木端微塵に粉砕された。運命だとか巡り合わせだとか、そんなものがあるのなら、私には縁がないだけ)

 そう。強烈なほどに互いを惹きつけてやまない存在――。互いを“運命”だと呼べるのは、恵と鈴のような、竜とベルのような、そんな“特別”な存在だけだろう。

(私はベルにはなれないし、竜にもなれない。私は主役になれるような人間じゃない。ベルの傍でマネジメント出来るのが私の喜びで、楽しみで、人生)

 友人が一躍有名人となった時の爽快感――。あの広い世界を見下ろしたかのような全能感。
 あの時代、あの時間。弘香は確かに“無敵”だった。怖い者も、恐るべき相手もいなかった。ただすべてのことが真新しくて、面白くて、生きているだけで祝福されているような気分だった。

(――でも、)

 高校を卒業し、上京してから生活も考えも一変した。
 数多の存在がひしめく『U』とはまた違った世界。『やり直し』がきかない、本当の、本物の世界。他人が生きている、血が流れている世界。
 そこで、弘香は生きなければならなかった。

「……――川の音が聞こえる」

 ゴウゴウと、あの日の川の音が耳の奥で鳴り響いている。
 鈴のように母親を亡くしたわけではない。それでも、弘香にとっても『川』にはトラウマとも呼べるような強烈な思い出がある。
 ぼんやりと窓の外へと向けた瞳の奥には、あの日見た濁流が音を立てて流れていた。






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