- ナノ -

プロローグ - 02



 ――ゴウゴウと、全身が震えるほどの唸り声が耳の奥にこびりつく。
 呆然と立ち竦む弘香の前では、昨日までの穏やかさが嘘だったかのように茶色く濁った水が勢いよく流れている。
 その姿はさながら暴食の化身だ。事実草木も石も、岩も流木も、何もかも飲み込んでいく。その姿に一切の慈悲はない。
 美しさも、穏やかさも、すべてが嘘だったかのようにただただすべてを飲み込み、押し流していく。

「……うそだ」

 真昼に聞いたカサカサという虫が草を踏み分ける音も、夕暮れの中聞いたパチパチという薪が爆ぜる音も、太陽の光を反射してキラキラと、目に痛いほど輝いていた水面も、何もかも夢か幻だったかのように濁った水が洗い流していく。飲み込んでしまう。

「弘香!」

 幼かった弘香は容易く抱き上げられ、慌ただしく川岸から離れていく父の背からじっと、荒れ狂う川の姿と唸り声を脳裏に刻み込む様に眺め続けていた。



       1


 ジャー、と音を立てながら水が流れていく。グルグルと渦を巻きながら小さくなっていくそれを見るともなしに眺めながら、弘香は小さく「クソッたれ」と普段なら決して口にしない悪態を吐く。
 そのままの勢いで便器の蓋を乱暴に閉めれば、少しはこのイライラも解消されるかもしれない。そんなことを一瞬考えもしたのだが、やはり徒労に終わるだけだった。むしろ余計にイライラしたかもしれない。
 弘香は下腹部を抑えつつ盛大に溜息を零すと、改めて自身の腹部を見下ろした。

「突然来るとか……。マジ最悪」

 学生の頃は決まった周期で来ていた。だが大学を卒業し、就職をし、多大なるストレスとクソッたれな上司にハゲそうになるぐらい苛立たちを抱えながら日々を過ごしていたら不定期になり、遂には一時期止まってしまった。
 薬で戻す方法もあったが、結局は忙しくて病院にも行けず、そのまま過労で倒れて一時強制養生した。その後は再び来るようになったが、これもまた不定期で安定しない。

 今回だって偶然だ。デスクでいつものように業務をこなしていたら「お腹痛い」と思い、手洗いに来たら発覚したのだ。常に化粧ポーチの中に一つ入れておいたからよかったものの、なければ面倒なことになっていただろう。
 弘香は黒のパンツスーツで出社していた自分に心の底から「よくやった」と称賛しながら、洗い終えた手をハンカチで拭った。

「それもこれも全部あのクソ上司のせいよ。毛根絶滅しろ、無能野郎!」

 ガンッ! と誰もいないのをいいことに足元に置いてあったゴミ箱を蹴りつける。清掃終了直後だったため床に倒れても中身が零れることはなく、弘香はグシャグシャと黒い髪を掻き乱しながら鏡を覗き込んだ。

「……ひっどい顔」

 寝不足・過労・疲労・おまけに過度のストレス。
 化粧で隠そうにも元の肌はボロボロで、目の下には隠しきれないクマがうっすらと顔を覗かせている。整えに行く暇のない髪は腰の上まで伸びており、一本に結ばないと無駄に広がって鬱陶しかった。

(あーあ。なんでこうなっちゃったんだろう。あの頃は“もっとまともな人生”を歩んでると信じて疑ってなかったのに)

 学生時代、弘香には怖いものなんてなかった。勿論親に諸々のことがバレてしまえばそうはいかなかっただろうが、親の前では『いい子』を演じていたし、事実『いい子』だった。成績もキープしていたし、交友関係も、狭くともいい関係を築けていた。
 だが今の姿は、紛れもなく過去の自分が“一番嫌っていた姿”そのものだった。

「もうホント、サイテー……」

 高校を卒業し、東京の大学に進学してから早数年。高知の片田舎に住んでいた少女は今や大人になり、舐めたくもない辛酸を舐めている。

(高校生の時は楽しかったな。今思えば無茶もしたけど、あの時は本当にただ楽しかった。何もなくても“無敵”でいられた。それだけの体力も余裕もあった)

 それが今ではどうだ。毎日心の中で呪詛を吐きながら満員電車に乗り、肩がぶつかるほど多くの人がひしめき合う駅を駆け足で抜け、同じ時刻に出社する。
 タイムカードを押して、既にデスクについている同僚や先輩たちに挨拶をして、更衣室に行って、割り当てられたロッカーに荷物を置いて、首から下げた社員証の位置を整える。

 化粧は適当だ。下地をパッと塗ったらファンデーションを塗って、地味なベージュのアイシャドウを塗って眉毛の隙間を埋めて、黒いマスカラで睫毛を少しだけ伸ばして、薄桃色の口紅を塗ったらそれで終わり。
 それでも三十分は掛かる。これで髪の毛に寝癖がつこうものなら更に十分近くは身支度に時間が取られるのだから、女は損だと常々思う。

「はあああ」

 本日何度目になるか分からない溜息を零しながら手洗いから出ると、その前を数名の女子社員が通り過ぎて行った。

「それでさー……」「あー、知ってる。あの人さぁ」「しかもこの間営業課の――」

 キャラキャラと、甲高いくせにコソコソクスクス笑う声が耳につく。総務課の女子社員の仲でも殊更有名な一名を中心に、華やかで若々しい彼女たちが通れば男性社員の視線が動く。
 明るい茶色の髪は毛先まで艶々で、緩くウェーブされた髪は懇切丁寧にケアをしているのだろう。爪先も華やかでありながらも控えめなネイルが施されており、顔立ちは幼く化粧ノリもいい。今の弘香とはまさに対極の位置にいる女性だった。

「所詮は顔か」

 勿論それは男にも言える話ではあるのだが、それでも、と弘香は顔を顰めてしまう。
 自分ももう少し、彼女たちのような“可愛げ”があればあのクソ上司と年がら年中衝突せずに済んでいたのではないか、と。

「……やめた。考えるだけでもアホらしい」

 そもそも何故自分がここまで他人に振り回されなくてはいけないのか。自由を謳歌していた高校時代が輝かしかっただけに尚更感じてしまう。

(社会の歯車、社会の一員。そんなのクソくらえ! ……って、あの頃は思ってたんだけどなぁ)

 デスクに戻ればまた仕事が増えている。離席している間に黙って置くんじゃねえよ。と悪態の一つもつきたくなったが、時間と労力の無駄なので黙って椅子を引く。
 弘香と性格の合わない上司は今もまた、別の男性社員に難癖をつけて厭味ったらしいことをネチネチと口にしていた。

(あれが上役の親戚じゃなかったら壁際に追いやられてたくせに。えっらそうにしやがって。マジで毛根どころか下の毛まで全部抜け落ちろ。ついでに歯も抜けろ)

 下までツルツルになればまともにトイレに行くことすら出来ないだろう。そのまま性転換手術でもしてしまえ。内心でボロクソに言いながらスリープモードにしていた画面を立ち上げる。

 弘香がIT企業に入社して早数年。高校時代の時に培ったノウハウで少しはこの業界でもやっていけるかと思っていたが、甘かった。

 日々押し寄せてくる雑多な事務処理に加え、取引先から次々ともたらされる無茶な要求、無能な上司の尻ぬぐい。加えて次から次へと辞めていく新入社員の育成に加え、時折発生するデータの破損や原因不明のエラーに追われる日々。
 弘香も何度「辞めてやろうか」と思ったか分からない。それでもしがみついているのは、ここで学んだことが実際“Bell”のマネジメントに役立っているからだ。

 現在はベルのオリジンでもあり、弘香の親友でもある『鈴』が妊娠中のため活動休止となっているが、復帰した際は派手にライブを開催しようと決めている。これには鈴とその旦那――恵の承認も得ているため、弘香はその日のためにも倒れるわけにはいかなかった。

(そうは言っても、今はベルを追い落とそうとするかのように次から次へと新人が出て来てる。楽曲や作詞のセンスはこれと言って秀でているわけでもないけど、いつ化けるか分からない。鈴が妊娠してる今、私が何とかしないと――)

 キーボードを高速でタイプしながら、またもや訳の分からない要求を寄こしてきた取引先の営業マンに「無理だっつってんだろ」と言う返事を何重にもオブラートに包みこんで返信する。
 そして新たに増えていた書類にザっと目を通し、優先順位が高そうなら右へ、そうでもなければ左へと仕分けしながら順繰りに片付けていく。
 そうこうしている間にあっという間に就業時間は過ぎ、いつものように残業をした後退社した。

「つっっっかれた……」

 朝よりマシになったとはいえ、それでもまだ人の多い電車に乗り込み、暫くの間揺られてから下車する。日付は既に変わっていた。
 弘香は重い体を引きずるようにして歩き、緩慢な動作でマンションの鍵を取り出しては雪崩れるように部屋へと転がり込んだ。

「ご飯は……もういいや。シャワーも……明日の朝入ろう。もう寝たい……」

 生理が来る前兆だったのだろう。ここ数日まともに眠れていなかった肉体の疲労はピークに達している。ゴリゴリと引きずりながら歩いていたパンプスを捨てるようにして脱ぐと、そのままベッドまで直行して崩れ落ちた。

「おやすみ……」

 スーツの上着も脱がず、コンタクトも外さず、化粧も落とさぬまま弘香は泥のように眠りにつく。その姿はまさに『社畜』『社会の歯車』と呼べるだろう。きっと学生時代の弘香が見れば悲鳴を上げて『もっと別の就職先があったでしょ?!』突っ込んだに違いない。それほどまでに悲惨な状況に、弘香自身も思うところはある。

(だけどもう、なにも考えたくない……)

 ここ数ヶ月まともにログイン出来ていない電子の世界のことも、日々送られてくる友人からの安否を確認するメッセージにも返事を返せぬまま、弘香はゆっくりと目を閉じる。
 そのまま一度も目覚めることなく朝日を迎え、弘香はぼんやりと霞む目を瞬かせたのだった。


            2


「あー……」

 ボサボサの頭を掻きながら起き上がった弘香は、鞄の中に入れたままだったスマートフォンを取り出し時刻を確認する。

「げっ。十時とか……。もう昼じゃん」

 ケトルに水を入れてスイッチを押し、お湯が沸く間に皺が寄ったスーツを脱ぐ。化粧は既に汗と皮脂で浮いており、苦笑いすら浮かべられない悲惨な状態だった。

(だったらもうシャワーでも浴びるか)

 開き直って脱衣所に向かえば、血で汚れた下着が目に入り頭を抱える。

「あー……。忘れてたぁ」

 乾いてこびりついた血ほど落とすのが面倒なものはないというのに。空腹も腹の痛みも忘れて寝入っていた弘香は再び「最悪……」と零しながら浴室の扉を開ける。 駅とそれなりに近いせいか、大した部屋でもないくせに家賃だけはバカ高い。申し訳程度の浴槽が押し込められた浴室を見ればよく分かる。
 弘香は熱めに設定したお湯で頭から足先まで洗い流しながら、久方ぶりの休日をどう過ごすか考え始めた。

(溜まった洗濯物は、もう面倒くさいからコインランドリーに持って行こう。朝と呼ぶにはもう昼に近いから、ご飯はお昼にまとめて済ませるか。あ、そうだ。あのデータどのUSBにいれたっけ)

 取り留めもないことを考えながら全身を洗い上げ、浴室から出たら濡れた髪をタオルで包んでコーヒーを淹れる。
 一人暮らし専用の部屋であるためベランダは狭く、窮屈だ。だがそこから漏れ出る光は明るく、今日がよく晴れた日だということがカーテンを開けずとも分かる。
 弘香は『U』で使う予定だったデータの行方をコーヒーを飲みながら考え――ようやく答えに辿り着いた。

「そうだ。アイツに渡してたんだ」

 アイツ、とは弘香の彼氏のことである。付き合い始めて既に三年目に突入した、同じ会社に勤める営業マンだ。弘香と同じぐらい秀でたプログラミング技術を持ち、話もそこそこ合うため自然とそういう関係に発展した。
 弘香とて既に二十六だ。彼氏の一人ぐらいいる。
 とはいえ世にいう『甘い関係』ではない。どちらかといえば『友達の延長線』に近かった。事実相手のことが『嫌い』ではないのだが、そもそも弘香は周囲の友人たちのように『恋愛脳』をしているわけではない。だから『特別に好き』で付き合っているわけではなかった。

「とりあえず、連絡してみるか」

 最後に連絡を取ったのはいつだったか。それすらも曖昧な彼氏へとメッセージを飛ばすが、既読の文字すらつかない。
 既に時刻は十一時を回ろうとしている。それなのにまだ眠っているのだろうか。
 訝る弘香ではあったが、実際恋人は眠ることが好きだ。学生時代からよく眠っていたという話をうっすらと思い出し、弘香は適当に準備をすると鞄を持って部屋を出る。

「合鍵があるから本人がいなくても入れるけど……。返事寄こすどころか既読さえつかないのはマジでどういう状況なわけ?」

 いつもより圧倒的に人が少ない電車に乗り、辿り着いたのは一軒のマンションだ。部屋番号も知っていれば合鍵だって持っている。だからいつものようにそれを使ってドアを開ければ――

「あっ、あんっ! そこ、すきぃ……! もっとぉ……!」
「ここ? ここだな?」
「……………………はあ」

 まさかの浮気中である。しかも真昼間から盛っている。弘香は盛大に溜息を零しながらも靴を脱ぎ、そのままズカズカとリビング兼寝室へと乗り込んだ。

「ちょっと失礼するわね」
「?!」
「え? ひ、弘香?!」

 驚く“元彼”の声を背に浴びながら、弘香はUSBなどを保管している引き出しを開ける。その中から自身が使っていた――そして男に貸していたUSBを一つ二つと取り出すと、完全に動きを止めてしまった二人をちらりと振り返った。

「コレ。取りに来ただけだから。邪魔してごめん」
「ちょ、ちょっと待ってよ弘香!」

 バタバタと、裸の元彼が追いかけて来るが弘香は振り返らない。むしろ「あんた素っ裸のまま外出る気?」と背中越しに伝えれば、狼狽する気配が伝わってきた。

「他の荷物はそのうち取りに来るから。じゃ、新しい彼女と仲良くね」
「弘香――」

 バタン。と未練一つなく扉を閉めた弘香は、取り戻したUSBを鞄に仕舞いながら歩く。その胸中に満ちる想いはと言うと――。

(お腹減ったなぁ……。お昼、何食べよう)

 ぐう。と空腹を訴える胃に何を詰め込むかだけだった。

(だって浮気現場に遭遇するの、これが初めてじゃないし)

 思い返せばこの三年間、浮気をしなかったのは最初の一年間だけだった。
 二年目に突入してすぐに一度目の浮気が発覚し、別れようとした弘香に彼氏が必死に泣きつき面倒になった弘香がこれを許した。かと思えばその半年後に二度目の浮気が発覚。もう言い争う事すら面倒で無視――というか見て見ぬふりをしていれば、いつの間にか浮気相手との関係が終わっていた。
 そして今回の、三度目の浮気である。もう言い訳を聞くことすら面倒くさい。そしてもう付き合いたくない。

 弘香は心底疲れたように息を吐き、駅に向かって歩き続ける。

 休日と言うこともあって多くの人が行き来する中、コツコツとヒールの音を立てながらビルの前を通り過ぎる。所詮弘香も『その他大勢』の一人だ。特別でも何でもない、平凡な人生を歩む一人の女。決して物語の主人公にはなれないモブ。
 弘香はふとショーウィンドウに映った自分の姿を見て足を止めた。

「…………ひっどい顔」

 おざなりに済ませた化粧に、伸びきった黒い髪。食べる時間がまともにとれないこともあって高校時代よりも痩せた体は色気の欠片もない。ミイラみたいだ。と自身を鼻で笑いかけた瞬間、背後から「ヒロちゃん?」と声を掛けられ振り返る。

「やっぱりヒロちゃんだ! こんなところで何してるの?」

 パタパタと、子犬のようにまっすぐ駆け寄ってきた男を弘香はぼんやりと見上げる。

 初めて会った時は自分よりも目線が低かったのに、今では彼の兄と同じくらい大きくなってしまった。声も透明感のあったボーイソプラノを卒業し、柔らかくも優しい、耳に心地好い声音に変わった。体型も細身でありながら意外としっかりしたものへと成長しており、唯一変わっていないのはお洒落とは縁遠いラフな格好を好んでいるところだけだろう。現に無地のパーカーにジーンズという、今時の中学生でももっとマシな服を着ている。と断言できるほど適当な格好をしている。

 だが顔立ちが整っているせいか、それとも兄と同じでスタイルがいいせいか、不思議と芋臭さやダサさを感じさせないのが妙に腹立たしかった。

 弘香は咄嗟に駆け寄ってきたその人懐っこい男――知に思わずデコピンをかます。

「いたっ! なんで?!」

 出会い頭にデコピンをされるとは思っていなかったのだろう。知は丸い瞳を潤ませながら額を抑え、困惑した目で弘香を見下ろす。それすらも腹立たしく、弘香は小さく舌打ちした。

「可愛い顔してるのが悪いのよ。あざとすぎ。マイナス百点」
「ひどい! あとボクはかわいくない!」

 男として“可愛い”は禁句なのだろう。必死に言い返す知ではあるが、その態度といい言動といい、何もかもが弘香とは違いすぎて無性に腹が立ってしまう。

「あんた何で男の癖に女の私より可愛いのよ。ほんっと腹立つわ」
「だからかわいくないってば! あとヒロちゃんがかわいくないのは見た目じゃなくて性格だから」
「一言余計なのよ、あんたは!」

 バシッ! と今度は薄くとも広い背中を叩けば、途端に「なんでそんなにたたくのぉ」と泣き言が降ってくる。基本的に甘やかされて育ったせいか、この男はとにかく言動が幼く、また甘ったるいのだ。
 それもこれも長年過保護に徹し、大切に大切に純粋培養してきた彼の兄とその嫁のせいだと弘香はため息を零す。

「で? あんたはこんなところで何してたわけ?」
「ボク? ボクはね、会社に寄った帰りだよ。この間までフランスにいたから、そのお土産をみんなに渡してきたんだ」
「フランス? あんたまた行ってたの?」

 知はプログラミング技術だけでなく、衣服などのデザイン力にも秀でている。高校生時代にそれを知った弘香が試しにベルの衣装を幾つか作らせた結果、世界で最も有名なデザイナーから声を掛けられたのだ。
 それを機に知は中学を卒業すると同時にフランスへと飛び(その際恵と知の間でひと悶着があったが)結果として知は『U』でも現実世界でもその技術を生かしたデザイナー兼プログラマーとして知られることとなった。

 とはいえ海外に行ったにも関わらずこの男、相も変わらずふわふわと、掴みどころもなければ何を考えているのかもよく分からない男に成長してしまった。それでも子犬のような雰囲気だけは損なわれていないので、周囲からは『体が大きな小型犬』という矛盾した印象を抱かれている。一部の界隈では『癒し系キャラ』としても名を馳せていた。

 そんなゆるふわパンケーキ男(弘香命名)が再度渡仏していたことを知らなかった弘香が目を丸くすれば、知は昔と変わらないふんわりとした笑顔のまま「うん」と頷く。

「元々一年ぐらい前から一緒に仕事してたんだけど、二カ月前にアレックスから『知、キミに参加して欲しいフェスティバルがあるからコチラに来てくれ!』ってメールが来てね。会社に報告したら『行っておいで』ってみんなが応援してくれたから、少しの間あっちに行ってたんだ」

 アレックス――。本名『アレクサンドル・フゥベー』とは、御年六十歳であるにも関わらず、今尚世界で注目されている一流デザイナーである。
 彼のデザインしたドレスを身に纏えるのは極一部の人間のみで、そこには他国の貴賓も含まれている。つまり彼とパイプを持っているだけでも大変な栄誉である。それこそそんじょそこらの、ただ名前が知られているだけのデザイナーとは格が違うのだ。幾ら大金を積もうと手に入れられない希少な人脈。それこそが『世界のアレクサンドル』という存在だ。

 だというのにこの知という青年は、声を掛けられた当時から彼のことを「おもしろいおじさん」というふざけた視点で見ており、数多の人間が頭を下げる彼に向かって笑顔で「アレックスー」と手を振る猛者でもあった。
 更に驚きなのはこの男、日本人女性を妻に持つアレックスに大層気に入られており、彼の妻は勿論のこと、各業界で権威を持つ息子や娘とも仲がいい。そして彼ら、彼女らの子供たちとも仲が良く、顔を合わせる度に遊びに行っているのだからとんでもない話である。

 実際渡仏する度に彼の家に泊っている知を一部の人間たちは『アレクサンドルの後継者』と呼んでいる。が、その実態は師弟というよりも年の離れた友人のような、奇跡と偶然と幸運が全て綯い交ぜになったような奇妙で貴重な関係であった。
 事実アレクサンドルはユーモアのセンスもある人間だが、仕事に関しては妥協しない。そんな彼がわざわざ呼び寄せるほどなのだから、言葉にせずとも『知の実力を認めている』と公言しているのと同じだ。それは彼らの息子、娘も同じであり、知が自覚していない独自のセンスに一目置いているという証左でもある。
 それを理解しているのかいないのか。呑気に笑う横顔からは察することが出来ず、弘香は心底「もったいない」と息を吐く。

「それでフランスに飛んだわけ?」
「うん。アレックスはね、すごいんだよ。いくつになっても新しいものを取り入れようとしてる。とっても柔軟な人だなー。って、会うたびに思うんだ」

 ファッション業界では知らぬ者がいないほどの大物であるアレックスを、こんな風に語る若者は後にも先にも知だけだろう。そしていつも公の場では気難しい表情をしているアレックスが笑顔でハグをし、歓迎するのもまた知だけだ。

 一体何がそんなに気に入られているのか。弘香はアレクサンドルの考えが理解出来ない。

 だがこの年の離れた友人が金の卵であることだけは分かっている。というよりも、既にアレックスと共に仕事をしているのだから名前が売れないわけがないのだ。
 それなのに何故フランスではなく日本で活動しているのか。弘香はいつもこの手の話を聞く度に首を傾けたくなる。

「それアレでしょ? この間の、フランスで開かれた世界最大規模のファッションショーってやつでしょ? 最新の映像技術と舞台装置を使った派手な式典だった、ってニュースで見たわよ」
「うん。それ。アレックスが『一緒に新しいドレス作ろ〜』って言うから、『分かった〜』って返したのが一年前。殆どの時間はリモートでのやりとりだったけど、時々は画面越しに一緒にご飯食べながらどんな衣装にするか、演出はどうするか決めたりしてね。楽しかったよ」

 あの巨大な式典を、莫大な金と権力が動くあの場所を、本当にただの『お祭り』だと思っているのだろうかこの男は。
 心底呆れた目で弘香が見上げるが、知は相変わらず「人がたくさんいてすごかったよ」とズレた感想を口にしている。
 あの祭典では知の名前も『アレックスとの共同制作者』として出ていたし、数々の著名人たちから挨拶も受けていた。だが弘香はニュースでざっくりと見ただけだったので詳しいことは知らず、その中にとんでもない有名人が複数名いたことも知らない。まあ知っていれば呑気に会話など続けられなかっただろうが。

「世界であんたぐらいでしょうね。あの栄誉ある式典を“ただの賑やかなお祭り”だと思って参加したのは」
「ええ? ボクだってすごい祭典に呼ばれたなぁ、とは思ったよ?」
「それ以外は?」
「ん〜……。ヒロちゃんが一緒だったら、目を輝かせただろうなぁ。って、思ったぐらいかなぁ」

 知の言うことは最もだ。実際弘香が現場にいたら様々なデザインの衣装やデザイナーに目が奪われただけでなく、Bellとの提携やら何やらで目を光らせ奔走したに違いない。だが現実の弘香はその日も舞い込む業務に忙殺されていただけだった。

「はあ……。あんたのお兄さんは日本で最も有名なプロゲーマー団体のサブリーダーで、弟のあんたは世界でも名の知れたデザイナーの実質弟子みたいなものなんだから、人生どうなるか分かんないものね」

 父親に虐げられ、二人でひっそりと生きていた頃の話が嘘だったかのように今の二人は大きく羽ばたいている。

 恵は元々『U』の世界でも名の知れたファイターだ。(勿論未だに彼が『竜』のオリジンであることは隠されている)
 その能力は格ゲーだけに留まらず、FPSなどでも遺憾なく発揮される。
 人並み外れた反射神経だけでなく、どんな状況であろうと冷静に対処できる判断力、いざという時に相手の懐に突っ込んでいける胆力など、二十代前半とは思えない才能を幾つも有している。
 そのうえスカウトされるまでは無名のプレイヤーとして世界大会にも出場していたため、ついた渾名が『賞金稼ぎ』だ。

 実際プロゲーマーが職業として認定されてから早数年。毎年開催される世界規模の大会での賞金は結構な額へと昇っている。勿論全てが懐に入るわけではないが、普通にサラリーマンの年収を軽く凌駕する金額が手に入るのだ。だからこそ無名時代には『賞金稼ぎ』と名付けられた。

 今でそ『副リーダー』や『サブリーダー』と名誉ある肩書で呼ばれているが、未だに一部の層からは『賞金稼ぎ』と呼ばれ続けている。だが荒っぽい渾名に似合わぬ冷静沈着なファイトスタイルは理詰めでありながらも鮮やかで、本人のセンスと相まって『魅せプレイ』と呼ばれることも多々ある。
 本人の見た目の良さもあり、女性ファンも多い。そこらのタレントやアイドルよりもよほど人気者であった。

「そうだねぇ。でも、恵くんはベル一筋だから。ベルが幸せになれないなら、プロゲーマーもあっさり辞めちゃうと思うなぁ」

 実際恵は結婚するまで鈴と交際していることは秘匿しており、私生活が謎のファイターとしても界隈を賑わせていた。それが突然結婚発表をして世間に衝撃を与えた。特に彼のファンは日本国内に留まらず国外にもいたため、涙で枕を濡らしたファンは相当数いたのだが――

「まあ、あのクーデレどころかツンドラ対応の“氷の貴公子”が嫁の話する時だけはデレ全開になるんだから、嫁の意向で辞める。となったら迷うことなく辞表出すでしょうね」

 恵が結婚発表をした当時、様々なメディアが恵へと詳細を求めた。
 基本的にどの大会に出ても、どのメディアに出ても無表情を貫いていた恵が、妻となる人のことを思い出すだけでトロリと甘やかに笑うのだ。女性ファンから“氷の貴公子”などと小っ恥ずかしい渾名をつけられていただけに、あの笑みは相当な衝撃だった。
 思い出した弘香がつい吹き出して肩を震わせれば、知も思い出したのだろう。弘香と共に笑いだす。

「あの時の恵くん、お花飛んでたよね」
「あははは! ちょ、思い出させないでよ! 鈴なんかテレビ見ながら顔真っ赤にしてたんだからさぁ!」

 そのうえ『あんな顔するなんてぇ〜!』と恥ずかしさで悶えていた親友の姿は見ものだった。幾ら仲がいいとはいえ、揶揄う時は全力で揶揄う。それが弘香である。そして知もそれなりに恵のことを揶揄うのが好きであった。
 だからこそ恵と鈴は二人が揃うと『天使と悪魔が手を組んだ』だの『最悪の組み合わせ』だの好き放題言うのだが、こちらはこちらで『氷の貴公子とそれを溶かした女』だの『アウトローが恋した一輪のバラ』などと言い合っているのだからどっちもどっちだ。
 良くも悪くもこの四人は仲がいいのである。でなければ何年もこうして関係が続くわけがなかった。

「はー、笑った。久々に笑ったわ、ホント」

 ここ最近では、鈴は勿論のこと、千頭と結婚し、双子を産んだ瑠果と話をすることも出来ていなかった。他の知人や同級生たちも皆結婚やら育児やら仕事やらで忙しく、会うことも電話することも出来なかった。
 だからこそこうして心から笑えたのはいつぶりだろうか。と弘香は目尻に浮かんだ涙をそっと指先で拭う。

「そうだ。あんた、お昼はもう食べた?」

 本当ならあの後(元、ではあるが)彼氏を誘って食事にでも行こうかと思っていたのだ。それがあんなことになってしまって忘れていたが、弘香は昨夜から何も口にしていない。そろそろ胃に何か詰めたかった。
 とはいえ弘香とは違い、多くの人間に好かれる知だ。てっきり誰かと昼を摂った後だろうと思ってダメ元で尋ねてみたのだが、その予想に反して「まだ何も食べてないよ」と真逆の答えが返ってきて驚く。

「そうなの? じゃあ一緒に何か食べる?」
「ほんと?! やったー! ヒロちゃんとご飯だ!」

 ニコニコと、心底嬉しいのだろう。顔いっぱいに笑みを浮かべる知の姿はやはり成人男性とは思えないほど幼い。というか、可愛らしい。弘香はもう一発殴りたい気持ちをどうにか抑え、知を連れて歩き出す。

「何が食べたい? たまにはお姉さんが驕ってあげるわよ?」
「ん〜……。そうだなぁ……」

 悩んだ知が弘香を連れて行った先はどこかと言うと――

「なんっでファミレスなのよ!」
「だって、ここならなんでも揃ってるよ? ほら、和食も洋食も、中華もパスタもうどんもラーメンもあるよ。選り取り見取り!」
「はあ……。まったく、あんたって子は本当に……」

 激務に耐えているだけあって弘香の貯蓄は相当な額に上っている。それこそ高級レストランだろうが何だろうがサラッと支払えるレベルで蓄えはあるのだ。にも拘わらず、知が向かった先はこんな、家族連れやら学生たちやらが集まる普通のファミリーレストランなのだから脱力してしまう。

「確かに何でも揃ってるけどさぁ」
「ほらほら、早く決めようよ。ボクはハンバーグ定食がいいなぁ」
「はあ。分かったわよ。お子様ランチね?」
「ハンバーグ定食だよ!」
「なによ。こっちにはオムライスに新幹線の旗つき、更にはミカンゼリーまでデザートでついてくるのよ? お得じゃない」
「ヒロちゃんボクのこと何歳だと思ってるの?」

 知が一所懸命食いついてくるせいか、どうしても弘香はこの年下の友人を揶揄うことがやめられない。事実堪えきれずに吹き出せば、目の前に座っていた知はぷっくりと白い頬を膨らませて拗ね始める。

「ヒロちゃんヒドイ」
「くっ……ふふっ、ごめ……!」
「もー! ヒロちゃん何食べるのぉ?! 早く決めてよー!」

 お腹が空いているのか、単なる照れ隠しか。ベシベシと、肩を震わせ笑う弘香の手をメニュー表で軽く叩いてくる姿に更に笑ってしまう。
 悔しいが、この一所懸命な姿が昔からどうにも憎めないのだ。例え成人して大きくなった今でも、まだ。

「はー……。私はパスタにしよ。サラダとデザートも頼もうかな」
「ボクもケーキ食べたい」
「ケーキでいいの? パフェもあるわよ?」
「ハンバーグのあとにパフェはキツイかなぁ」
「ハンバーグのあとにケーキもキツイでしょ。普通」

 細い割に知はそれなりに食べる。恵もそうなのだが、この兄弟は意外と食事量が多いのだ。だが全く食べずとも長時間活動出来るため、燃費がいいのか悪いのか、未だに掴めずにいる。

「あんたって昔はそんなに食べなかったのに、今じゃ健啖家一歩手前よねぇ」
「んー。別に食べなくても動けるけど、おいしいもの食べたら元気になれるから。前に二日ぐらいゼリーだけで済ませたけど、元気だったよ?」
「……私が言うのもアレだけど、もっとちゃんとしたご飯食べなさいよ」

 弘香もビールとつまみで夕飯を済ませるなど多々ある。他にもゼリーや栄養補助食品のナッツバー、クッキーなどを朝食や昼食代わりにすることも数えきれないぐらいある。おかげで一度ぶっ倒れて病院送りになったのだが、幸い知はまだ倒れるまでには至っていないようだった。
 そんな弘香の苦々しい表情と発言に知もずっと気になっていたことを口にした。

「それはそうと、ヒロちゃんまた痩せたよね」
「また、って言われると心にくるものがあるわね。……まあ……ちょっと、ね」

 女性であれば「痩せた?」と言われたら嬉しいものだろう。だが弘香は逆だ。むしろ「傍目から見ても痩せたことが分かるのか」と半ば切ない気持ちになる。

「うん。それ以上痩せたら骨と皮だけになっちゃうよ」
「失礼ね。って言いたいところだけど、反論できないわ」
「ねえ、ヒロちゃん。ホントにちゃんとご飯食べてる? ヒロちゃん料理出来ないから、恵くんがよく持って行く、って言ってたけど」

 そうなのだ。壊滅的、とまではいかないが、料理が苦手な弘香のために恵と鈴は都度色んなものを作っては渡している。郷土料理であったり創作料理であったりと種類は様々だが、それがあるからこそ弘香はギリギリのバランスで生きていられた。

「最近、恵くんが作ってくれるご飯が身に染みるというか、美味しいのよねぇ」
「確かに恵くんの作るご飯はおいしいけど……」

 ふっと遠い目をする弘香に、知は困ったように眉尻を下げる。弘香の生活環境を心配しているのだろう。事実会社で倒れて緊急搬送された時、見舞いに来てくれた恵と鈴、両親にはものすごく心配され、同時に大層怒られた。だがその中に知はいなかった。当時はまだフランスにいたためだ。その分帰って来た時に思い出し泣きされながら怒られたことがあるのだが。

 そのせいか恵と鈴は時間を見つけては弘香に安否の確認と、健康チェックを兼て自宅に呼んでは食事会を催すようになった。

 元より恵と鈴は幼い頃より家事を担っていただけあり料理が上手い。特に今は鈴が身籠っていることもあり、恵が率先してあらゆる家事をこなしている。そのせいかあらゆる作業効率が上がり、料理だけでなく家事全般のスキルがメキメキ上達しているのだ。
 鈴は本当にいい男をゲットしたわ。と呑気に微笑んでいた弘香に対し、知は未だに不服そうな顔をしたままだった。

「ヒロちゃん。ボクのことより自分のこと心配しようよ」
「そうは言ってもねぇ。あんただって私のこと言えないぐらいテキトーな食生活送ってるんでしょ? 恵くんが嘆いてたわよ」

 実際知は食べる時には食べるのだが、食べない時は食べない。そんな極端な生活を送っている。それを知っている人間がいればとにかく「飯食いに行くぞ!」と誘ってくれるのだが、そうでなければ弘香と大して変わらない。「ご飯とふりかけでいっか」みたいなノリで過ごすのだ。
 おかげで恵と鈴は「知くんが(栄養失調で)死んじゃう!」と暴走したことがあり、ただ一人冷静だった弘香だけが「あんたもサプリ生活する?」とズレたツッコミをした。(なおこの時の弘香は徹夜明けで頭が働いていなかった)

「ヒロちゃんほどヒドくないよ。だってボク自分でご飯作れるもん」
「私だって出来るわよ。ご飯炊くぐらい」
「おかずは?」
「……お味噌汁って便利よね」

 インスタントの、とはつけなかったが、知には通じたらしい。じっとりとした目が向けられる。

「ボクは恵くんほど上手じゃないけど、ちゃんと作れるもん」
「本当に〜?」
「ホントだよ! 今度ヒロちゃんに作ってあげる」

 フフン。と胸を張る姿はどう見ても体が大きいだけの五歳児だ。だからつい「知くんも大きくなりまちたねぇ」と弘香が揶揄えば、途端に知は「バカにしてぇ」と顔を顰める。

「じゃあヒロちゃん、ボクが作ったご飯がおいしかったら、ボクが“大人の男性”だって認めてくれる?」
「はいはい。弘香様の舌にあんたのご飯が合えばね」
「じゃあ約束! どうせヒロちゃんのことだから冷蔵庫の中空っぽなんでしょ。このあと一緒に買い物行こうよ」

 どうせ、と言われたことが若干腹立たしくはあるのだが、実際のところその推理は当たっている。必要最低限の調味料とビールしか入っていない冷蔵庫に、弘香はそっと視線を逸らした。

「恵くんもだけど、あんたも最近遠慮がないわよね」
「うん。この前恵くんも『弘香さんにはハッキリ言わないとダメだってことがようやく分かった』って言ってたよ?」
「だからかぁ〜。最近遠慮がなくなったなぁ、とは思ってたのよ。鈴の差し金かと思ってたけど、自己判断だったのね。やってくれるじゃない」

 鈴も普段はああだが、言う時はハッキリ言うのだ。だからてっきり鈴に助言でも貰ったのかと思っていたのだが、どうやら自己判断で『弘香にはしっかりと物申すべきだ』と決めたらしい。
 おかげで先月会った時も『ちゃんとご飯食べて、早く寝てくださいね。それ以上痩せたら僕たちが直接ご飯食べさせに来ますから。鈴さんも心配してるんで、絶対ですよ?』とガッツリ釘を刺されてしまった。あの時は「分かったわよ」と軽く流したが、今思うと「確実に有言実行してくるな」と分かる迫力があった。

「サラダお持ちしました〜」
「あ。貰います」

 会話が一段落した所で、タイミングよく制服姿の若い女性従業員がサラダとカトラリーを持ってくる。その目がチラリと知に移った瞬間、白い頬がポッと色付いた。

「ご、ごゆっくりどうぞ!」
「……あんたら、兄弟揃って罪な男ね」
「へ? なにが?」

 呑気にお茶を飲んでいた知は彼女からの熱視線に気付かなかったらしい。話せば一瞬でゆるキャラと化す知も、黙っていれば甘い顔立ちのイケメンに見えるのだ。話せば本当、ただのゆるふわパンケーキ男なのだが。

「世の中詐欺で溢れてるわぁ〜」
「ねー、だからなにがぁ?」

 ゆさゆさと弘香の手を揺さぶる手は大きい。弘香の手を完全に、すっぽりと包み込んでいる。それなのにどこか幼さを感じる男の言動に、弘香は呆れたように吐息を零してからサラダを口に運ぶのだった。




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