- ナノ -



 恵に傘を借りてから数日――。鈴は「今日こそ恵に傘を返そう」と時間を作り、大学を出て駅構内を歩いていた。
 既に恵には連絡をつけてある。そのため待ち合わせ場所である駅前に出たのだが――ここで思わぬ場面に遭遇した。

「お兄さん、モデルとか興味ない?」
「ないです」
「芸能界は? タレントとか、テレビとか、舞台もあるよ?」
「結構です」

(まさかのキャッチ?!)

 人目を惹く容姿をしているからだろう。校章が入ったシャツに学生鞄を持っていると言うのに、恵より幾らか背の低い男性キャッチはしつこく声を掛けている。
 対する恵は慣れているのか、それとも心底興味がないのか。あらぬ方向を見ては適当に返事をしていた。

「え、ええ……どうしよう……」

 ここで自分が間に入ってもいいものなのか。すかさず周囲を見回せば、恵とキャッチのやり取りをチラチラと見ている女性達も数名いる。それを抜きにしても駅前だから人通りは多い。
 ますます「どうしよう」と青褪める姿の鈴を、ふいに視線をずらした恵が見つけた。

「それじゃ、これで」
「え? あ、ちょっと!」

 恵は長い脚で大股に、そして足早に近付いてあっという間に鈴との距離を詰めて前に立った。俯いていた鈴は突然影が落ちてきたことにビクリ。と肩を震わせ、不思議そうな顔で自分を見下ろす恵の顔を見上げた。

「鈴さん? どうかした?」
「あ、や、その……い、忙しいかな、と思って……」
「ああ、アレを断るのに忙しい、と言えば忙しかったかな。でも、鈴さんとの用事が優先だし、芸能界には微塵も興味ないから」

 実際、本当に興味があればとうの昔に事務所に入っている。これで自分の容姿が優れていることを自覚している恵だ。売り方さえ誤らなければそれなりの知名度は得られただろう。
 だが芸能界には欠片も興味がない。例えあったとしても活動の場は『U』に限定したかった。
 竜は初めこそ残虐ファイトで悪名を轟かせたものだが、今はルールを守ったうえで玉座を守っている。未だ連勝記録を更新し続けている竜に挑戦する者は後を絶たない。そんな竜が長らく玉座を空けるような真似をするはずがなかった。

「そもそも、僕は人前に出るのも人の視線に晒されるのも嫌いだから。鈴さんや知くんの命が懸かってるなら別だけど、そうじゃないなら絶対に入りたくない」
「そこまで?!」
「当前。それに、どうせプロデュースされるなら弘香さんの手に掛かった方がまだマシだよ。あの人、アレでちゃんと僕たちのこと見てくれてるから」

 毒舌で容赦のない弘香ではあるが、商機を嗅ぎ分ける感覚はプロ並みだ。それに様々な情報を処理する能力と、取捨選択する時の勘は鈴より遥かに秀でている。
 実際誰よりも早くベルをプロデュースしたのも彼女なら、恵たちの元へ導いたのも彼女である。
 アンベイルされた後も“Bell”が変わらず愛されているのは鈴の歌の力もあるだろうが、離れそうになった人々を食い止めたのは弘香の力だ。様々な企業と提携してはベルの魅力を更に広げ、その歌を世界に届けた。
 その実力と人となり、どちらも知っているからこそ恵もそれだけ信頼を寄せられる。如何に鈴との会話が多かろうと、弘香と築いた時間も決して短くも浅くもないのだ。

「あ。そういえば、ヒロちゃんも“一度竜を正式な場に出してみたい”とは言ってたかな」
「基本断ってるからね、そういうの全部。でも弘香さんに丸投げしていいなら出てもいいよ」
「もう、恵くんったら」

 企業やら運営やらとやり取りする時間は勿論だが、衣装を用意したり当日の流れを予習したりと、学生である恵には少々荷が重い。
 そう考えれば当時からアレコレ活動していた弘香は本当に多才なのだが、真似をしたいわけではなかった。むしろ『公の場に出したいならそっちが全部やってくれ』という気持ちでいっぱいである。無論、最低限自身の意思は尊重してもらう気ではいるが。

「あ、そうだ。傘、ありがとう。すごく助かった」
「ああ、忘れてた。どういたしまして」

 スッと鈴が両手で傘を持って差し出せば、恵は片手でそれを受け取る。その時改めて恵の手を見つめ、鈴は「指も爪も全部大きい」と自分の手と見比べてしまった。

「どうかした?」
「あ、うん。その、恵くんの手って、こんなに大きかったんだなぁ、って……」

 鈴の手では太くがっしりとした傘の持ち手ですら、恵が握るとそこまでではないように見える。つい自分の手の平を開閉する鈴に、恵は呆れたように眉尻を下げた。

「僕の方が鈴さんより大きいんだし、そもそも男と女性じゃ体格も何もかも違うよ」
「それはそうなんだけど……」
「ほら。靴だって、僕の方が大きいでしょ?」

 前に立っていた恵が鈴の隣に並び、鈴のパンプスを履いた足と比べるようにして手入れされたローファーを近付ける。艶めく革靴は鈴が想像していた以上に大きく、思わず目を丸くした。

「え?! でかっ! 何センチあるの?!」
「二十七」
「嘘?!」
「嘘ついてどうするの」

 鈴のあんまりな反応に思わず恵が噴き出して笑えば、鈴はすぐさま頬を赤く染めて俯く。

(け、恵くん、笑うとあんな顔するんだ……。そういえば、いつも優しく微笑んではくれるけど、こうして子供みたいな顔して笑った顔は初めて見たかも……)

 思えば恵はあまり身の回りのことを話さない。知は『学校で何があった』『クラスの誰々が何それをした』と、子供のように無邪気に話しては鈴を笑わせた。
 だが恵はいつも『何もなかったよ』『普通かな』と言って詳しい話をしたことはない。言い換えればクラスに馴染めていないということなのだろう。あるいは、自分から関わることを忌避しているのか。
 鈴は咄嗟に恵を見上げ、優しく自分を見つめていた恵と目を合わせる。

「恵くん」
「なに?」
「学校は、どう?」

 楽しい? とは聞かなかったのは、ついこの間までストーキングされていたことを知っているからだ。知の機転のおかげで被害は抑えられたとはいえ、クラス内ではまた違うだろう。
 現に恵は一瞬目を丸くしたが、すぐに視線を逸らして「普通だよ」といつもと同じ答えを口にする。

「……楽しくない?」
「……鈴さんは、高校生活、楽しかった?」

 質問に質問で返され、咄嗟に鈴は口を噤む。高校生活。楽しかったかと聞かれたら、そうでもない時間も確かにあった。
 忍との仲を誤解されて大変な目にあったことは一度や二度ではないし、アンベイルされた後はひっきりなしに人が来ては質問攻めにあい、毎日くたくただった。
 それでも、自分の周りには弘香や忍、瑠果や千頭がいた。心を許せる人がいて、悩みを相談できる人がいて、一緒にご飯を食べ、笑い合える人がいた。

 ――だけど、恵は? 恵にそんな人はいるのだろうか。

 一度浮かんだ疑問は願ってもいないのにスクスクと育ち、遂には言葉となって喉から出てしまう。

「わたしは……わたしも、楽しいと、思えない日はあったよ」
「……そっか」
「でも、ヒロちゃんや忍くんがいた。いてくれたから、寂しくも、辛くもなかった」

 つまらない。と思ったことも、憂鬱だ。と思ったことも沢山ある。それでも家に居れば気分が晴れるわけでも、落ち着くわけでもなかった。
 今の恵はあの頃の鈴と同じか、それ以上に憂鬱な毎日を過ごしているのだろう。
 そう思うと鈴は居ても立っても居られなくなった。

「恵くん」
「うん?」
「わたし、恵くんに何をしてあげられるかな?」
「え?」

 驚いたように瞬きながら鈴を見下ろす恵を、鈴はまっすぐ見上げる。その瞳は色や形は違えど“Bell”と同じあり、恵は知らず口元を緩めた。

「――なにも」
「……え?」
「なにも、してくれなくていい。鈴さんが、ベルが、傍にいてくれるだけで十分すぎるほど幸せだから……」

 ――それ以上は、望めない。

 静かに告げられた言葉に、鈴は暫し呆然とする。
 恵は『望まない』ではなく『望めない』と口にした。本当は欲しいものがあるのに、それを自分なんかが求めてはいけないと、言外に伝えてきたのだ。
 それに気付いた鈴が咄嗟に恵の手を掴むが、その手は優しくも簡単に外されてしまった。

「恵くん!」
「ごめん、鈴さん。今日は僕が食事当番だから、早く帰らないといけないんだ。鈴さんも暗くならないうちに帰って」
「恵くん! 待って! わたし、まだ――! 恵くん!!」

 身長差に加え、コンパスの差がある。あっという間に駅の中に姿を消した恵の後を必死に鈴が追いかけるも、ほんの数回瞬いただけでその姿を見失ってしまった。

「……恵くん……」

 立ち竦む鈴の耳に、いつも優しく自分を呼ぶ声は聞こえてはこなかった。



***



「……恵くん。なにかあった?」

 夕食後、課題もせず『U』にログインすることもなく、ただぼーっとベッドに寝転んで天井を見上げる恵に知は弘香から与えられた『激ムズ問題集』を解きながら声を掛ける。
 だがその声に反応はなく、完全に『心ここにあらず』な恵の元に知は近づき、ベッドに腰かける。

「恵くん。起きてる?」
「……起きてるよ」
「じゃあ返事してよ。死んでるのかと思った」
「生死の確認だったの?」

 眠っているかの確認ではなかったのか。と苦笑いする恵に、知は「それで?」と兄と同じような動作で首を傾けながら問いかける。

「何があったの? 今日はベルと待ち合わせしてる、って朝からゴキゲンだったのに」
「ご機嫌って……。そんなにあからさまじゃなかったと思うんだけど」
「見てれば分かるよ。いつも死んだ魚みたいな目をしてる恵くんが生き生きしてたから」
「……知くん。その毒舌誰から受け継いだの」

 思わずじっとりとした目を向けてしまえば、途端に可愛らしい弟は花丸満点の笑顔を浮かべながら「ヒロちゃん!」と分かり切った答えを口にした。

「あの人、僕に対して口が悪すぎない?」
「ヒロちゃんのアレはねぇ、信頼の証だよ。本当に恵くんのこと嫌ってたらね、『死んだ魚みたいな目をして』のあとに『あんたがしっかりお兄ちゃん支えてやんなさいよ』とは言わないよ」
「…………わかりづらい」

 はあああ。とため息を零しながら両腕を交差させて目元を覆う恵に、知は柔らかな笑みを浮かべる。兄に守られるばかりだった知も、こうして兄を気遣えるようになった。それもこれも事あるごとに自分を特別扱いせず、厳しく正論をぶつけて諭し、教えてくれた『先輩』がいたからだ。
 そんな先輩の愛の鞭に日々応えているせいか知の知能指数と毒舌が鍛え上げられているのだが、恵に止める術はなかった。

「一度は抗議しないと、とは思ってたけど、もう手遅れな気もしてきた……」
「でも、おかげで恵くんを守れたよ」
「うぅん……。一長一短……」

 ぐったりとした声音で答える恵の姿は娘に悪い虫がついたのを心配する父親のようでもあり、天使の背中に悪魔の翼が生えてしまったことを嘆く創造主のようでもある。
 そんな恵に知は再度笑ったが、すぐに笑みを引っ込め恵の顔を上から覗き込んだ。

「なにがあったの? ボクにも言えないこと?」
「…………言えないっていうか……」
「言いたくない?」

 黙って頷く恵に、知は「ふう」と息を吐きだしてから立ち上がる。そうして徐につけていたノートパソコンを弄ると、とある画像を画面いっぱいに映し出した。

「さあ、恵くん! あらいざらい白状しないと、この『居眠りするベルのほっぺたにこっそりキスしちゃった竜の画像』をヒロちゃんに流すよ!!」
「いつ撮ったのソレ?!?!」

 ガバッ! とバネのような動きで起き上がった恵に、知は勝ち誇ったような笑みを浮かべる。

「ボクは、日々進化し続ける男だからね!」
「嘘だ! だって城に監視カメラをつけた覚えなんてない!」
「ボクとヒロちゃんがつけた!」
「天使と悪魔が手を組んでしまった!!」

 絶望した! と言わんばかりに項垂れる恵を笑いながらも、知はもう一度「それで?」と問いかける。

「ヒロちゃんに流すのは冗談だけど、言ってくれないと寂しいよ。そんなにボクって頼りない?」
「……そういうわけじゃ……」
「恵くん。ボクもね、あれから大きくなったよ。自分でいろんなこと、たくさんの人のこと、考えられるようになった。分かるようになった。出来ることも出来ないことも分かるし、しちゃダメなことも言っちゃダメなことも分かる。もう恵くんが耳を塞いでくれなくても、聞きたくない言葉は聞かないように自分で耳を塞ぐことも出来るんだよ」

 もう誰かに“守ってもらうだけの自分”ではないと、恵の目を見てまっすぐ伝えて来る知の姿に恵は思わず目を細める。そうして眩しい太陽から目を背けるかのように、視線を手元へと落とした。

「……今日、鈴さんに会った」
「うん」

 観念したのだろう。訥々と話し出した恵の声をしっかりと聴くべく、知は再度ベッドに腰かける。互いの肩が触れるような距離でありながらも、二人は距離を開けることをしなかった。

「前から分かってたけど、鈴さんは……なんというか……僕が成長していることを敢えて見ない振りしてるみたいなところがあって……」
「うん」
「酷いことを言いそうになったから、慌てて帰ってきた。それだけなんだ」

 恵にとって鈴は、いつだって目の前で輝く星のような人だった。真っ暗な夜空の中で見つけた、小さくも光り輝く一番星――。だが星からしてみれば人間など米粒サイズもない。
 恵の成長などまるで見えていないかのように、鈴は恵を『守ろう』とする。

「身長も、力も、僕の方がずっとあるのに、鈴さんはいつまで経っても僕のことを『中学生の恵』として見ているような気がするんだ」

 父親に屈し、背中を丸めて暴力に耐えてきた日々。偶然配信を通して見られた時は怒りも沸いたが、今ではアレがあったからこそ自分と鈴は出会えたと思っている。
 だが心のどこかでは『まだあの時の自分のままなのか』と嘆く恵もいる。

「恵くん。ボク、この前夢を見たんだ」
「夢? どんな?」
「お父さんに殴られそうになる夢」

 知の言葉にハッと恵が顔を上げるが、知は意外にも穏やかな顔で恵を見ていた。

「昔は恵くんがすぐに飛んで来てくれて、ボクを守ってくれたよね。でも、夢のなかのボクは、ちゃんと自分の手で、お父さんに勝ったよ」

 時折面会するとはいえ、未だに二人は施設にいる。いずれは戻らなければいけないとは思うが、どうしても……恵はあの父親の元に戻る気持ちにはなれなかった。
 そんな知が見たという夢の話に恵が驚きを隠せず硬直すれば、知は笑顔で握り拳を作り「逆にパンチしちゃった」と悪びれることなく口にした。

「恵くん。ボク、大きくなったよ。恵くんほどじゃないけど、下の子を抱っこしても疲れなくなったよ。ご飯の用意も、洗濯物を畳むのも、上手に出来るようになったよ」

 知は一つ一つ恵に教え込む様に指折り出来ることを数えていく。そうして最後に、自分の両手を広げて見せた。

「ボク、六歳も年上のヒロちゃんより手が大きいんだ。腕相撲も、勝った。その時にね、ヒロちゃんが言ったんだ。『アンタもそんな見た目の割にちゃんと“男の子”してるじゃない』って。当たり前のこと言われてるはずなのに、すごく、うれしかった」

 弘香はしょっちゅう知と勉強を通じてくだらないやり取りをしている。『U』の世界でも互いにデータを弄るのが得意なせいか、ロクでもないものを生み出しては時に自慢し合い、時に力を合わせては「これはこうしよう」だの「ここはこうした方がいい」だのと話し合っていた。
 そんな当たり前でありながらも密な時間を過ごしているおかげか、弘香は鈴よりもよっぽど知の成長を理解している。

「恵くんがベルを、すずちゃんを大切にしたい気持ちはわかるよ。でもね、なにも話さなかったら、なにも伝わらないよ」
「……知くん……」
「ベルを好きなことも、ベルを守りたいことも、ちゃんと言わないと、恵くんの気持ちはわからないんだよ。弟のボクだって、こうして恵くんと話さなかったら恵くんが何に悩んでるのかわからなかった。相手の気持ちがわからないなんて、そんなの当たり前のことなんだよ。恵くん」

 言葉にしないと伝わらない。
 当たり前すぎて誰もが忘れそうになることを、弟に諭され恵は口を噤む。

「すずちゃんと話しあって。今の恵くんを、ちゃんと見てもらって。恵くんの背がすずちゃんやボクより高いことも、手がおっきいことも、小さい子をながーく抱っこ出来ることも、きっとすずちゃんは知らないから」
「……うん。そう、だね」
「でもベルにちゅーしたことは黙ってたほうがいいよ!」
「それは一生秘密でお願いしたいかなあ!」

 カッと日に焼けた肌を羞恥に染める恵の姿に、知はケラケラと明るく笑う。実家にいた頃はこんな風に笑うこともなかった。それを喜べばいいのか、誰かさんに似て性格が悪くなったことを嘆けばいいのか。恵にはイマイチよく分からなかった。

「ボクは、ずっと恵くんの味方だよ」
「……うん。ありがとう。知くん」
「どういたしまして」

 朗らかな笑みを浮かべると、まるで「話は終わった」とばかりに知は椅子に座り、難問を解きだす。恵から見ても難しそうな数式の羅列を、知はじっと眺めてからノートに色々と書き綴っていく。
 その背中は自分が何度も覆いかぶさって守って来た頃よりもずっと大きく広くなっており、恵は『実は自分も鈴さんと同じだったんだな』と気が付いた。

「……情けないなぁ」

 弟に諭されたことも、実は自分も周りと変わらないことも。
 そんな自分に自己嫌悪しつつも恵は改めて思う。

 自分の周りには鈴が高校時代の時と違い親しい人も心許せる人も少ないかもしれない。それでも、自分には弟がいる。この世で一番信頼でき、頼もしく育った弟がいる。
 それだけでも恵にとっては心強かった。

 だが上手くいかないのが人生というもの。恵はこの時すぐにでも鈴に連絡を取らなかったことを、後程後悔することになる。



***



 恵に傘を返した翌日、鈴は同じく上京していた忍と駅構内で顔を合わせていた。

「鈴」
「忍くん。久しぶりだね」
「元気してた?」
「うん。わたしは元気だよ。忍くんは?」
「俺も相変わらず、って感じだな」

 駅から大通りに向けて歩く中、二人はぎこちなかった高校時代が嘘だったかのように絶えず言葉を交わす。あの頃に比べて二人に注目する人もいないからだろう。
 時折通り過ぎる際に忍をちらりと見遣る人は何人かいたが、ここは田舎ではなく都会だ。忍のような容姿が整った男性などさして珍しくもないのだろう。すぐに視線を逸らして歩き去って行く。

「都会って便利だよな。色んなものが揃うし、ジロジロ見られないで済む」
「ははっ。忍くん、やっぱり大変な思いしてたんだ」
「そりゃあな。気付かない振りしてたけど、鈴も色々大変だっただろ?」
「もう慣れたよ」

 全国展開しているコーヒー店へと入り、それぞれ飲み物を注文してからカウンター席へと座る。ガラス張りの店内から見つめる外の景色は、地元と違い人とビルで溢れかえっていた。

「こういう景色見ると、地元が恋しくなるよね」
「だな。あの頃はあの頃で大変だったけど、今は今で面倒なこともある。どこに行っても苦労はつきものなんだな。って分かったよ」
「なにそれ。忍くんおじいちゃんみたい」

 クスクスと笑う鈴に、忍も「誰が年寄りだ」と優しくツッコミながらも頬を緩める。

「でも、鈴はこっち来てよかったかもな」
「え? どうして?」
「あっちにいた頃より楽しそうだから」

 そこで素直に「うん」と言えたらよかったが、鈴は咄嗟に頷くことが出来ず、手にしたマグカップの水面をじっと見つめた。

「……鈴。なんかあった?」
「……うん。あった」

 今までの鈴は、忍が幾ら聞いても「何もないよ」「大丈夫だから」としか返さなかった。だけど今日は――今は、素直に自分の悩みを吐露出来る。

「言ってみ?」
「うん。あのね、この間のことなんだけど――」

 恵との関係がどうにもギクシャクしてしまった気がすること。『U』にログインしても竜に会えないこと。LINKでメッセージを飛ばしても返事がなかったこと。
 様々なことを話しながらも、結局は一つの話題であることが分かる。

「ふぅん……。まあ、アイツも高校生だし、多感な年頃。と言えばそうだからなぁ……」
「それはわたしも分かってるんだけど……。恵くん、今まであんな風にいきなり帰ったことなんてなかったから……。ちょっと、動揺しちゃって」

 ズズッ、とカフェオレを啜る鈴の寂しげな横顔を見下ろしながら、忍は暫し考える。
 忍とて恵がどういう性格をしているかは分かっている。鈴と共に恵の元に行ったこともあるし、何度か直接会話したこともある。決して『仲がいい』と言える関係ではないが、他者を寄せ付けない恵の中では比較的『友好的』に接している方ではあった。

「まあ、相手が鈴じゃちょっと分が悪いか」
「へ? どういう意味?」
「男の事情……的な」
「なにそれ」

 訝る鈴に、忍は軽く肩をすくめるだけで明確な答えは与えない。というより、与えられるわけがなかった。

(アイツの気持ちに気付いてないのはカミシンと鈴ぐらいだからなぁ……。俺から言うのはマナー違反だろ)

 幾ら知人以上友人未満とはいえ、忍にとって恵は突き放すことが出来ない後輩でもある。彼の恋路を声を上げて応援することはないが、見守ってはいる。
 だが相手が『鈴』というのが問題なのだ。
 何せ鈴は“鈍い”。そりゃあもう鈍い。途中離れ離れになったとはいえ、幼い頃の鈴と、高校時代の鈴を知る忍だ。人の視線や悪意には敏感なのに、何故か好意だけは「わざとか」とツッコミたくなるほど華麗にスルーする。もはや芸の領域だ。
 そんな鈴相手にどう説明しろと。と忍が考えながら視線を遠くに投げた時だった。

 横断歩道の向こう側に制服姿の恵を見つけたのは。

「あ」
「なに? どうしたの? 忍くん」

 幸か不幸か、向こうはスマートフォンを見ており忍には気付いていない。しかしこのカウンター席は外に面しているため、向こうも気付く可能性は十分ある。
 このまま気付かずスルーしてくれるのが一番だが、どうにも悪い予感がする。

 そして嫌なことに、その『嫌な予感』とはどんなに避けたくても的中してしまうものなのだ。

「あ」

 信号が赤から青に変わり、恵がスマートフォンをポケットに入れて顔を上げた時だった。横断歩道の先のコーヒーショップのガラス越しにこちらを見ている忍と目が合ったのは。

「……久武先輩?」

 忍が『U』をやっていないこともあり、恵が直接話をした回数は数えられる程度しかない。それでも恵にとっては好ましくも、好ましくもない――複雑な感情を抱かずにはいられない相手だった。

「先輩、こんなところで何して――」

 LINKでメッセージでも飛ばそうかと思った時だった。忍の隣で彼の肩を揺すり、何事か話している鈴を見つけたのは。

「……………………」

 チカチカと横断歩道の青信号が点滅する。だが恵はじっとその場から動けず、ただ鈴に何事かを告げる忍の姿を見つめる。
 生憎と目の前に人が立ったせいで鈴の姿は見えなくなったが、白く小さな手が忍の体に触れていることだけは分かった。途端に恵の中に形容しがたい感情があふれ出し、咄嗟に踵を返す。

「やべっ」
「だからなにが?! 忍くんってば!」

 じっと何処かを見つめていたかと思えば、忍は口に手を当て眉根を寄せる。そしてようやく問いかける鈴の方へと顔を向けたかと思うと、意味も分からず謝罪した。

「悪い、鈴。多分拗れた」
「は?! なにそれ、どういう意味?」
「今から追いかけて間に合うかな……」
「え、ちょ、忍くん?!」
「ごめん、鈴! また今度!」

 飲みかけのアイスコーヒーを掴むと、忍は駆け足で店を出て行く。その背を呆然と見送りながら、鈴は「なんだったの……」と呟くしかなかった。




prev back to top next