- ナノ -



 幾ら恋愛偏差値が低く、周囲から『鈍感』と呼ばれる鈴であっても察する時はある。
 例えば深く絡められた指から伝わるいつもより高い体温だとか、自分の気持ちを見定めるようにじっと見つめてくる瞳だとか、いつもより掠れて聞こえる声だとか――。

 現に今も、恵は鈴の手をギュッと覆い隠すように握りながらその首筋に唇を押し当てた。

「け、恵くん……」

 白い肌はすっかり色付き、震える唇からは泣いているかのように弱々しい声が吐息交じりに零れ出る。
 そんな鈴の言葉をしっかりと聞き拾いながら、恵は色素の薄い瞳で鈴の顔を見つめた。

「……まだ、ダメ?」
「……ぅん。……ごめん」

 震える鈴の顔は真っ赤で、青褪めているわけではない。自分との触れ合いを嫌がっているわけではないと知り、恵はほっと胸をなでおろした。

「いいよ。僕こそごめん。いやなことして」
「ち、違うよ! い、いや、っだとか、そういう、わけじゃなくて……」

 ――ただ、気持ちが体に追いつかないだけで……。

 ギュッと恵が離した手を胸の前で組む鈴の指先は震えている。そんな恋人の姿をじっと見下ろしながら、恵はそっと鈴の傍から体を離した。

「大丈夫だよ。ホットミルク作ってくるから、少し休んでて」
「……うん。ありがとう」

 出会った頃は自分と背丈の変わらない子供だった恵も、今では立派な大人の体つきになっている。それだけ自分も歳を重ねたはずなのだが、鈴は未だに人を惹き付ける恵と並んでもいいような存在に思えなかった。

「……はあ……」

 グッと膝を抱え、そこに額を押し当てる鈴は高校時代に逆戻りしたかのように憂鬱な気持ちに襲われている。

 恵が鈴に想いを伝え、それに鈴が応えたのが半年以上前の話だ。
 以前から恵は鈴の隣に立てるような男になろうと心身共に磨いていたのだが、鈴からしてみれば完全に目から鱗であり、青天の霹靂であった。

(だって、本当のわたしは“Bell”みたいに綺麗じゃない。恵くんの隣に立っても、周りから認められるような人間じゃない)

 恵が中学生の頃はまだよかった。
 元より容姿が整っていたとはいえ、細身で不愛想だった恵は忍と比べ女性人気は少なかった。だが高校生に上がると少しずつ背が伸び始め――不愛想な態度は“クール”“ミステリアス”という言葉に置き換えられるようになった。

「忍くんもすごかったけど、恵くんもすごい人気者だし……」

 恵が高校生になり、次第に幼さが抜けて精悍な顔立ちになれば周囲はますます恵に興味を示した。
 スラリとした無駄のない体躯に長い手足。スッと通った鼻筋に、目が合った瞬間鳥肌が立ちそうなほどに冷ややかな瞳。薄い唇から零される言葉は少なく、笑うことも滅多にない。
 何年経とうと一人だけ違う世界にいるかのような独特の空気を纏った恵は、早熟した考えを持つ女子たちの中でも人気が高かった。

 そんな恵が唯一心を許していた存在は弟だけだと、学校内にいる人間は勝手に思い込んでいる。だが実際は違う。
 現在は共に東京にいるが、以前は遠く離れた場所に住んでいた鈴と、その周囲の人たちにも心を開いていた。だが、それも恵は黙っていたのだろう。

 鈴はふと東京に来る前――自分たちがまだ高校生だった頃のことを思い出した。


***


『恵くーん、知くーん、見えてる〜?』

 ヒラヒラとカメラの前で手を振るのは、鈴が所属している合唱隊の一人、中井さんだ。頭頂部で纏めたお団子頭と赤い口紅がトレードマークの彼女が笑顔を向ければ、画面の向こうにいた恵と知も手を振った。

『はい。見えてますよ』
『ナカイさーん、こんばんはー』

 鈴を通して知り合って一年近く経った。普段は鈴とばかり連絡を取り合う二人だが、時折こうして大人も交えて会話をする。今までの二人では考えられない変化ではあったが、恵はそれを厭うてはいなかった。

『あら。知くん髪切ったの? 短くしたわねえ』
『うん! 髪の毛がね、目に入ってイタかったから、恵くんと一緒に切ってきたよ!』
『あら、そうなの! 二人ともいいじゃなぁ〜い。将来が楽しみだわ』
『それはそうと、恵くんちょっと背が伸びた?』

 次から次へと合唱隊のお母さま方に話しかけられる。他人と話すことが苦手な恵であっても、彼女たちが裏表のない、あたたかな人柄であることは知っている。
 だからこそ警戒心を持たずに接することが出来た。

『はい。少し伸びました』
『恵くん、この前足がイタイ、って言ってたよね』
『うん。足っていうか、膝? 成長痛だって保健室の先生に言われたんですけど……』

 大概の男の子に訪れる、急激な成長に骨と筋肉が悲鳴を上げる現象だ。今まで多大なストレスを与えられていた環境から脱し、体が徐々に正常な成長を始めたのだろう。
 それが分かるからこそ合唱隊の面々も優しい顔で二人の話に耳を傾ける。だがその話に食いついたのは、大人たちではなく共にいた子供たちだった。

『ってことはこの二人も忍くんやカミシンみたいにスクスク育って、いつの日にかバスや電車の吊り皮で頭を打つようになるんだろうね』
『もー。ヒロちゃんってばどうしてそう皮肉を言うかなぁ』
『あははっ。ヒロちゃんなりに心配してるんだ。やっさしー』
『な、べ、別に心配してないわよ! ただニョキニョキニョキニョキ、ほっとけばカイワレ大根みたいにデカくなっていく男子が鬱陶しいだけよ!』
『カイワレ大根って!!』

 あはははは! と素直じゃない弘香の台詞に鈴を始めとした女性たち全員が大笑いする。そしてそれを聞いていた男性陣こと忍と千頭、鈴の父親は苦い表情を浮かべるばかりだった。

『別役さんの毒舌って、年齢に関係なく向けられるんだなぁ』
『うっさいわね! 特にあんたが一番デカくて目障りなのよ! 縮め!!』
『横暴だー!!』
『ま、まあまあ、ヒロちゃん落ちついて……』

 千頭に食って掛かる弘香を宥める鈴。そんな子供たちのやり取りに合唱隊の面々が再び笑えば、恵と知もつられたように笑い出す。

『カイワレ大根って言われたのは初めてかな』
『ひろちゃんは、今日も元気』
『コラ! そこ! 微笑ましいものを見るような目で見るな! 私の方が年上なんだからね?!』

 恵と知の発言に、すぐさま千頭と言い合っていた弘香が反応する。そんな弘香に隣に座っていた鈴は苦笑いするばかりだったが、すぐに気を取り直して二人と向き直った。

『最近どう? 何か困ったこととか、ない?』
『大丈夫だよ』
『うん! 恵くんもボクも、毎日楽しい』

 あの後正式に父親の元から保護された二人は施設に入った。そこでは年齢問わず様々な子供がおり、二人と同じような境遇な子も沢山いる。
 鈴たちと知り合う前であれば、幾ら保護されたとしても恵は上手く馴染めなかっただろう。だが今はこうして鈴や合唱隊の人たちと交流することで精神的落ち着きを取り戻し始めている。
 疑り深いところは未だ健在ではあるが、その点に関しては弘香が共感してくれる。むしろ自分よりよっぽど穿った見方をして意見を述べる姿にギョッとすることも少なくない。
 そんな恵たちの変化に、鈴たちも『いい方向に落ち着いてきている』と安堵していた。

『そう。学校はどうだい? 辛くはないかい?』

 黙って聞いていた鈴の父親が二人に声を掛ければ、二人は揃って頷く。

『大丈夫です。家庭のことは、先生たち以外には黙っているので』
『うん。施設のみんなのことも、二人だけの秘密にしてるんだ』

 虐待を受けたことがない子供たちは施設にいる子供たちのことを本当の意味では理解出来ない。親に“愛されていない”という状況が想像出来ないからだ。
 むしろ『親に怒られるのなんて当たり前だろ』なんて見当違いのことを口にする子供までいる。
 大人に虐げられることと、叱りつけられることでは雲泥の差がある。それを恵だけでなく知も本能的に察しているため、互いにこのことは『秘密にしよう』と口を噤んでいた。

『そうか。困ったことがあればいつでも連絡しなさい。な、鈴』
『うん。わたしもお父さんも、ヒロちゃんも皆も、二人の味方だからね』
『言いたくなくてもちゃんと言いなさいよ。あんたたちはまだ子供なんだから』
『別役さんだって子供じゃん』
『あんたは一々うるっさいわね! 黙ってなさいよ!』
『でも、ヒロちゃんの言う通りだよ。東京と高知だから、車や電車ですぐに向かえる距離じゃないけど、大丈夫じゃない時は『大丈夫じゃない』って言っていいんだよ』

 再び口論を始めた弘香と千頭を背に、瑠果が優しく二人に話しかける。
 今までの恵ならば『どうせ口先だけだろう』と冷めた心で聞いていただろうが、実際に鈴は駆けつけてくれた。それだけでなく、季節が変わった冬。クリスマスが来る前にこのメンバーは二人に会いに行ったのだ。
 これには二人も驚いた。知は驚きながらも喜び、恵は初めて『信じてもいい大人がいるのかもしれない』と考えられるようになった。

『でも、今年のクリスマスはコンサートが入っているから会いに行けなくて残念だわ』
『そうよねぇ。去年は二人にクリスマスソングを届けてあげられたけど、今年はサンタさんにはなれないわね』
『今年は鈴も歌うのにねぇ』
『ちょ、ちょっと! それはまだ二人には内緒にして、って言ったのに――!』

 慌てふためく鈴に二人はキョトンとする。鈴が“Bell”であることはこの場にいる全員が知っている。鈴の父親も例外ではない。
 あの一件後、鈴は改めて父親と話をした。そこで二人のこともキチンと話し、自分が『U』でどんな活動をしているのかも全て説明した。

 鈴の父は初めは驚いたものの、今までは人前で歌うことはおろか、一人きりの時でも歌えなかった娘の変化に驚くよりも喜びが勝った。
 例え仮想世界とはいえ、歌えるようになったのだ。母との辛い別れを経験し、何年も塞ぎこんでいた娘が一回りも二回りも成長していた。それを喜ばないはずがない。
 そして今では合唱隊と共に舞台に立つと決めているのだ。それが田舎の小さなホールであろうと介護施設の多目的ホールだろうと関係ない。彼は娘を見守ることは勿論、鈴を変えることになった二人の事も出来るだけ支えてやろうと亡き妻に誓っていた。

 それを知らぬは子供たちばかりだが、様々な問題を抱えた子供たちが少しずつとはいえ、前に進み始めている。
 大人たちはその姿は眩しそうに眺め、ひっそりと笑い合っていた。

『あーあ。バレちゃった。これはもう内緒でカメラを繋いで“ドッキリ大成功”って言う計画が台無しだね』
『元々私は反対だったんだけど。この二人に用事が入ってたら鈴の歌声を聞かせるどころじゃないのよ? だから初めからキチンと話をしておこうって――』
『へえ。別役さん、鈴ちゃんの歌二人に聞かせたかったんだ』
『うるさい!』
『鈴さん、舞台に立つんだ。僕たちもそっちに行って聴きたかったな』
『うん! ベルの歌は、キレイ。でも、去年のクリスマスソングも、素敵だった』

 合唱隊のことを言っているのだろう。笑顔で告げる知に合唱隊の面々も「ありがとう」と言って微笑む。

『いつかこっちにも遊びに来れるといいわねぇ。東京みたいにお洒落なお店はないけど、人口が少ないから人目を気にせず遊べるわよ』
『そうそう! 川遊びとか基本だから! 水着持って来なさい水着! こう見えて鈴も結構泳ぐの上手いんだからね』
『わ、わたしはいいでしょ! それに、わたしだけじゃなくてヒロちゃんやルカちゃんだって泳ぐの上手だし……』
『あったりまえでしょ。こんなクソド田舎で、川遊び以外で遊ぶ方法なんてあってないようなもんじゃない』
『そうそう。あとは釣りとかだけど、釣れない時は釣れないからなー』
『カミシンは魚に嫌われてるからな』
『忍だって釣り得意じゃないだろ?!』
『眠たくなるんだよ。暇すぎて』

 途端に騒がしくなる面々に、川遊びも釣りもしたことがない二人は頭の中でそれらをする自分たちを想像する。
 恵も知もキチンとした知識がないためかなりぼやけた想像しか出来なかったが、燦々と照り付ける太陽に、鈴と弘香が見せてくれた美しく澄んだ川の様子、そこで悠々と泳ぐ魚たちの光景を思い浮かべたら自然と頬が緩んだ。

『いいなぁ。お魚、ボクもつってみたい』
『お? 知くん釣りに興味あるかぁ。あ、そだ。カヌーどうだ? カヌー?』
『子供相手に何誘ってんのよ。節操がないのか、あんたは』
『冗談だって! じゃあ、今度一緒に釣りに行こうな。ルアーも色々あって、見るだけでも面白いぜ』
『バス釣りはまだ早いから、もっと小さいとこ行くか』
『そだなー。あそことかいいんじゃね? ほら、俺とお前が昔さー……』

 始まった男子たちの釣り談義に、途端に弘香は『帰ってから話し合えっつーの』と不機嫌そうに腕を組み、鈴は『でも、楽しそう』と穏やかに笑う。瑠果も『千頭くん、二人に教えてあげたいんだね』と微笑んでから二人に向き直った。

『恵くんも知くんも、お魚、たくさん釣れるといいね』
『うん!』
『ああ、そうだ。二人がこっちに来たら、カツオのたたきを作ってあげよう』
『お! それいいねぇ! 塩をつけて食べると美味しいんだなぁ、これが』
『そういえば、地域によってはお酢をかけて食べるんですってね』
『お酢〜?!』

 次から次へと、コロコロと話が変わっていく。特に『カツオのたたき』に関してはそれぞれの意見があるのだろう。熱いカツオ談義に入ってしまい、恵と知は自然と笑っていた。

 こうして施設の職員やカウンセラーだけでなく、当たり前の感性を持ったあたたかな人たちと交流を重ねたことで恵と知も穏やかに、けれどしっかりとした人柄に成長した。
 知は相変わらずどこかゆるふわな空気はあるが、時折弘香と漫才のような凸凹ぶりを発揮しては鈴や恵を笑わせた。

 恵はずっと感謝している。二人を救い出し、あたたかな人たちと知り合わせてくれたのは鈴がいてくれたおかげだ。
 彼女が『U』を始めていなかったら、彼女が“Bell”以外の誰かだったら。彼女が、恵を、“竜”を恐れて近寄らなければ――。
 今の二人はなかった。

 だからこそ恵にとって鈴は唯一無二の存在であり、誰よりも輝いて見えた。

 事実『U』の中では彼女を知らぬ者がいないほどの有名人であり、世界各国からも賞賛を浴びる歌姫である。
 実生活でも仮想世界でも、心優しくも芯の強いところがある鈴に惹かれぬ理由がなかった。

 とはいえ現実世界では華やかさの欠片もない、内気で素朴な鈴である。
 人を惹き付ける容姿を持って生まれた恵が成長するごとに、鈴は「どうしてこの子はひたむきに自分を好いてくれるのだろう?」という疑問を抱くようになっていた。
 無論恵のことを嫌っているわけではない。重荷だと思ったことも、鬱陶しく感じたこともない。

 だが人口が少ない高知と違い、人が多く芸能人も多い東京に住む恵が『歌う』以外に見どころのない自分を何故想ってくれるのか。その理由が見つけられなかった。

「刷り込み、ってやつなのかなぁ……」

 クルクルと手にしていたペンを回していた鈴がぼやけば、目の前に座っていた弘香と瑠果が顔を上げた。

「なんの話?」
「刷り込みって?」
「あ。い、いや、その、えっと……」

 どう言い訳しようか考えているのだろう。だが何だかんだ言って付き合いの長い弘香に通じるわけがない。すぐさま「どーせあの兄弟のことでしょ」とズバリと言い当ててきた。

「うっ、」
「ええ?! 刷り込みって、なんでそんなこと思ったの? 鈴ちゃん」

 高校卒業後、学科は違えど共に東京に進学した三人はこうして暇を見つけては顔を合わせていた。今日は鈴がよく来るカフェで作詞に励んでいたら瑠果から連絡があり、その後弘香が合流した形だ。
 瑠果と鈴は共に音大に進んだが、学校も学科もまったく違う。アルトサックス奏者としてプロを目指す瑠果と、作曲に本腰を入れたいと思い進学した鈴。弘香はマネジメント科へと進んだ。
 そのため互いの話題が被ることは殆どなく、高校時代よりも話す内容は多岐に及んだ。

 だが今日の話題は鈴を通じて知り合った『兄弟』のことで決定してしまった。

「だって、恵くんも知くんもあんなに成長したのに、ずっとわたしのこと慕ってくれているから……」
「あ〜。だから“刷り込みなのかなぁ”って思ったわけね」
「うん」

 理解の早い弘香に鈴が頷けば、隣で聞いていた瑠果は驚いたように目を丸くした後、鈴の方へと顔を近付ける。

「ねえ、鈴ちゃん。私さ、この前偶然恵くんと会ったの」
「え?! 恵くんに?!」
「うん。スーパーで買い物した帰りにね、本屋さんから出て来る恵くんを見つけたの。それで私が『恵くーん』って呼んだら、なんだか恵くんのファンみたいな子がギョッとした顔でこっち見て来てさ。ビックリしちゃった」
「うっわ。あのルックスだからモテるだろうなぁ、とは思ってたけど、ストーキングまでされてたの?」

 両腕を擦る弘香に、瑠果は「そこまでは分からないけど……」と言葉を濁す。

「でもね、恵くんは気付いていても無視してるみたいだった。私とは、ほら。『U』でも会ってるし、声でも分かったんだと思う。普通に『こんにちは』って言ってくれたんだけど、その子たち、私たちのことずっとチラチラ見てきてね。なんだか居心地悪いなぁ。と思っちゃった」
「他人の視線に慣れてる瑠果ちゃんがそれなら、わたしだったらどうなるか……」

 ゾッとした鈴が咄嗟に両腕で自身を抱けば、情報収集に余念がない弘香も「そういえば」と視線を宙に投げる。

「知くんも『最近、恵くんのこと好きな女の子がボクのところにもくるんだ。ボクに“恵くんの連絡先教えて”って言ってくるんだよ』って言って、だいぶ困ってるみたいだったわね」
「え?! それ大丈夫なの?!」

 思わず弘香の元に身を乗り出す二人に、弘香は「当たり前でしょ」と頷く。

「絶対に教えちゃダメよ。ってキチンと教育してきたわよ。勿論あの子も『わかってるよ』とは言ってたから、教えたことはないと思うけど」
「はあ……よかったぁ」
「でも、知くんまで巻き込むなんて……。ちょっとどうかと思う」

 幾ら好きだからと言ってもやっていいことと悪いことはある。芸能人でもないのに数多の視線や興味関心を向けられるなど、二人にとっては針の筵に座らされているも同然だろう。

「だからさぁ、そう考えると月の裏側みたいな鈴の傍にいると落ち着くんじゃない?」
「ヒロちゃん……。それ、褒めてる?」
「褒めてるって。実際、これだけ人が敷き詰められてる場所に来るとね、実感するわけよ。あんたみたいなタイプと一緒にいると肩の力が抜けるというか、ほっとするというか……」
「あはは。実は私も。なんていうか、高校生の時とは違うよね。好意でも悪意でも、人って怖いなぁ。って思うことが多くて……。ちょっと疲れちゃうっていうか……」
「ヒロちゃん、ルカちゃん……」

 あれだけ衆目を浴びていた瑠果でさえ苦労しているのだ。人に対し人一倍警戒心の強い恵からしてみればまさしく『地獄』であろう。ならば鈴の存在は、二人の言葉を借りれば正しく『地獄に仏』である。

「あ。それで、ルカちゃんは大丈夫だったの? そのあと」
「うん。むしろ恵くんが気遣ってくれてね。本当にいい子だなぁ、って思ったけど、だからこそ辛いだろうなぁ、って……」

 事実三人の知らない所で日々恵は人の視線に晒され、辟易している。それが知にまで及んでいるのだからその心労は計り知れない。
 これには流石の弘香も同情を禁じえなかった。

「あの子、私が言うのもアレだけどさ、疑り深いし、人間不信気味なところあるじゃない? 私たちでさえ『U』の外で交流がなかったら、あの子は心を開かなかったと思うのよ」

 あの時すぐさま廃校を飛びだして二人に会いに行った鈴はともかく、他の面子に対しては特に印象もなかったのだろう。クリスマス前に弘香たちが揃って二人に会いに行けば心底驚いた顔をされたものだ。
 だがそれが功を奏したのか、高知に帰る頃には二人も随分と弘香や瑠果に対しても心を開いているように見えた。

「そうだよね。それに、ヒロちゃんは知くんに勉強教えてあげてるもんね。恵くんの感謝の気持ちは鈴ちゃんの次に大きいんじゃない?」
「た、たまたまよ! たまたまあの子が『わかんない』って言ったから、手が空いてる時に教えてあげただけで……」
「でもヒロちゃん、知くんにどうやったらちゃんと理解してもらえるか試行錯誤してるでしょ。ノートにいっぱい、色々書いてるの知ってるんだから」

 鈴がいつもの意趣返しをするかのように半笑いで揶揄えば、途端に弘香は顔を赤くして鈴を睨みつける。

「ちょっと! 人のノート勝手に見ないでよね!」
「あはは! ヒロちゃんって本当に素直じゃない!」
「うるさいわね! ほっときなさいよ!」

 日頃様々なデバイスやシステムを駆使して生活している弘香ではあるが、まだ学生である知のために昔の教科書を実家から取り寄せ、『如何に分かりやすく伝えるか』をノートに書き殴っては「ああでもない、こうでもない」と頭を悩ませているのだ。
 それを知られていただけではなく、試行錯誤している形跡が残るノートまで見られていたとなれば弘香の顔も赤くなる。
 何せ折を見つけて処分していたルーズリーフとは違い、ノートは使い終わるまで手元に残るのだ。しかし『ノートを使わない』という選択肢は弘香の中になかった。

「あ。そっか。そのノート、知くんからプレゼントされたものなんだっけ?」
「そうそう。この前のヒロちゃんの誕生日に、知くんが『いつもありがとう』って言ってプレゼントしたやつ」
「ああもう! なんでそんな細かいところまで見てるわけ?!」

 真っ赤な顔でツッコム弘香だが、その実知が渡したノートは何の変哲もない、文房具店に行けば普通に置いているものだ。五冊セットで売られているものに比べれば上質だ。実際学生が買うにしては少々値が張る。
 だからこそ弘香も無碍にすることが出来ず、折角だから知の授業に使おうと思って日々様々なことを書き殴っていた。

「っていうか! 話がズレてるから!」
「あ。うっかり」
「ごめんごめん」

 両手を合わせて謝る二人に、弘香は「フン」と顔を背ける。

「でも、解決策なんてないわよ。幾ら私たちが心配したところであの子の学校に乗り込めるわけじゃないし、ファンの子たちは何言っても聞く耳なんて持たないでしょ」
「だよねぇ……。恵くんもだけど、知くんも心配だなぁ。あの子に何かあったら、恵くんもどうなるか分からないし……」
「うーん……」

 忍と同等、あるいは人口密度故にそれ以上かもしれない恵の人気ぶりを考えれば知への心配も募る。ただでさえ二人はタイプが違えど容姿が整っているのだ。特に恵は人の視線や感情に敏感で、心休まる時があるのかどうかも怪しい。東京に来ているとはいえ、それぞれ別の場所で暮らす三人には分かるはずがない。

「仕方ない。今度知くんに連絡して聞いてみるか」
「お。流石ヒロちゃん。頼りになるぅ」
「本当にそう思ってる?」
「思ってる思ってる」

 手を叩く瑠果に弘香がジト目を向けるなか、鈴はふと雨の音を聞きつけ窓の向こうへと視線を投げる。

「あ。雨」
「げっ。マジ?」
「私折り畳み傘持ってるけど、二人は?」

 顔を顰める弘香に対し、瑠果は鞄の中に入れていた折り畳み傘の存在を示唆する。だが鈴も弘香も傘など持っていなかった。

「今日降水確率三十パーセントだったから、大丈夫かなぁ。って思って……」
「あー……。私は、その……。ベルの衣装データ整理してたら寝落ちしてて……久しぶりに寝坊をね……」
「鈴ちゃんはともかくとして、ヒロちゃんまだそんな生活してたの? ダメだよ。体壊しちゃうよ?」
「分かってるんだけど、つい……」

 バツが悪いのだろう。何度もこうしたことを繰り返し、時には大学のレポートやら何やらで体調を崩したことがある弘香だ。瑠果と鈴がお見舞いに行ったのを皮切りに、時折こうして弘香の生活状況を確認するようにしていた。
 鈴の代わりに瑠果が弘香を叱りつけているのを聞き流していると、鈴のスマートフォンがメッセージを受信する。

「あ。知くんからだ」
「え?」

 あまりにもタイムリーな人物からの連絡に弘香と瑠果も視線を向ければ、鈴は開いたLINKの画面に表示されていた文字に数度瞬く。

「『窓の外を見て』?」

 メッセージを読み上げた鈴の言葉に、三人で同時に窓へと視線を向ければ――そこには傘を持った知と恵が手を振りながら立っていた。

「恵くん! 知くん!」
「あ。そっか。もう下校の時間か」
「ラッキー! 二人とも傘持ってるじゃん! 入れて貰うわよ!」
「もー、ヒロちゃんってば!」

 勢いよく立ち上がり、鞄を持つ弘香に鈴と瑠果も続く。そうして店を出れば、すぐさま二人が近付いてきた。

「ベル! ヒロちゃんとルカちゃんも、こんにちは!」
「ナイスタイミング、知くん! ちょっとお姉さんを傘に入れてくれるかな!?」
「え〜? ヒロちゃん傘持ってこなかったの? ドジだなぁ」
「はっ倒すわよ!」

 怖いもの知らずな知が弘香を揶揄っては笑う。そんな二人に苦笑いしつつ、鈴は頭一つ分背が高くなった恵を見上げた。

「恵くんたちも、今帰り?」
「うん。今日は知くんの部活も休みだったから、一緒に帰ってたんだ」
「そしたらベルの顔が見えたんだ〜」

 鈴たちが座っていたのは窓際のテーブル席だった。だから分かったのだろう。偶然とはいえ、先程まで二人の話を口にしていたのだ。鈴は何となく居たたまれない気持ちになる。
 それを察したのだろう。瑠果がキョロキョロと周囲に視線を走らせてから恵に話しかけた。

「恵くん、今日は大丈夫なの?」
「あ……。はい。この間はすみませんでした」
「ううん。私は大丈夫。だけど、いつもああなのかな、って……」

 ストーキングされていることを言っているのだと、鈴だけでなく弘香も悟る。だがそれに対し返事をしたのは、恵本人ではなく弘香と話していた知だった。

「あの人たちね、ボクが『恵くんから嫌われることして、楽しい?』って聞いたら、やめたよ?」
「え」
「うわぁ……」
「あんた……強く育ったわね……」

 目を見開いた瑠果に続き、鈴と弘香が顔を青くする。純粋無垢に見えて意外と胸を刺す一言を言ってくれるのだ、この少年は。軽く青褪める年上三人に、恵も苦笑いを浮かべる。

「最近、僕のこと知くんが守ってくれるんですよね」
「恵くんは、ボクが守るよ!」

 ふんすっ、と胸を張る知に三人は「大きくなったなぁ」と微笑ましい気持ちにもなるが、同時に「やっぱり周囲の人には頼れないか」という気持ちも抱かざるを得なかった。

「ま、これでストーキング被害は抑えられそうでよかったじゃない」
「うん。私だけじゃどうすればいいか分からなかったもんね」
「普通に『もしもし、ポリスメン?』って電話掛けたところで実質的な被害がなければ警察は動かないからねぇ」
「え。ヒロちゃんのことだからもっとえげつない方法でやり返すかと思ってたのに……」
「鈴。あんたは私を何だと思ってるわけ?」

 仲のいい三人のやり取りは姦しくはあるのだが、二人にとっては妙に居心地のいい煩さでもある。実際知は三人の会話に混ざっては楽しそうに笑っている。そんな穏やかな光景に、恵も張りつめていたものが緩んでいく気持ちになった。
 そんな時にバチリと鈴と視線がかち合い、恵は一瞬息を呑む。

「恵くん」
「なに?」
「困ったことがあったら、いつでも話して。女のわたしに相談できないことなら、カミシンとか忍くんとかもいるから……」

 出会った頃からずっと自分を心配してくれる鈴に、恵は感謝の気持ちを抱くと同時に悔しくも、悲しくもなる。
 今でも自分は“彼女に守られる側”の人間なのかと――。
 だがそんな心情はおくびにも出さず、恵は微笑む。

「うん。ありがとう、鈴さん」

 恵は鈴に対しもっと“対等な人間”でいたかった。確かに自分たちを救い、抱擁してくれた鈴のことは心から尊敬している。だがいつまでも“守ってもらうばかり”ではダメなのだ。
 あれから恵も成長した。見た目だけでなく、心も。
 暴れるだけだった竜が落ち着きを取り戻したように、恵もまた日々成長している。それを鈴にはキチンと見て欲しいと思うのに――。

「…………鈴さんの中では……僕は、今でもまだ、小さな子供のままなのかな」
「へ?」

 降り続く雨の合間、ゴロゴロと存在を主張していた雷が一際大きな音を立てて会話を引き裂く。現に鈴は恵が何を言ったのか聞き取れずに聞き返すが、恵はただ首を横に振るだけだった。

「それより、そろそろ帰ろう。鈴さんは傘持ってる?」
「あ。いや……その……」
「持ってないんだ。じゃあ、僕の傘を貸すから、弘香さんと一緒に使って。僕は知くんの傘に入るから」
「え、でもっ」

 鈴に自分が持っていた黒い傘の持ち手を握らせると、恵は知の傘に潜り込む。そんな二人に鈴が声を上げたが、恵は揶揄うように告げるだけだった。

「僕と鈴さんとじゃ、身長差があって濡れちゃうよ」
「ボクもヒロちゃんよりは、恵くんとの方が近いもんね」
「嘘つけぇ! あんた私よりほんのちょこーっと背が高いだけじゃない!」
「ちょっとじゃないもん! 五センチ高いもん!」
「五センチなんてミリよ、ミリ!!」
「ヒロちゃん、だいぶ可笑しなこと言ってるよ」

 苦笑いする鈴と瑠果に対し、二人は手を振りながら去って行く。知の傘は青空のような明るい色をしているため目を引くが、二人はあっという間に人ごみに紛れて見えなくなってしまった。

「それじゃあ私たちも帰ろうか」
「そうだね。恵くんの傘は、今度私が返しに行くよ」
「あのクソガキ……。覚えてなさいよ。今度激ムズ問題集投げつけてやるから!」

 何だかんだ言って知のことを気に入っている弘香である。そしてほんわかしているように見えて案外知の成績はいい。元々独学でシステムを構築する才能があるのだ。数学の才女として名を馳せていた弘香ともいい勝負であり、時折ああして悪態を吐きながらも勉強を見ては互いに親交を深めていた。

「それじゃあね、鈴ちゃん。ヒロちゃん」
「うん。またね、ルカちゃん」
「じゃあね。今度はあんたの話も聞かせなさいよ」
「わかった〜!」

 鈴と弘香は同じ路線だが、瑠果は違う。駅前で別れた二人は互いに改札を通り抜け、既に列をなしている人々の後ろに立った。

「ストーカー被害は抑えられても、学校での視線はどうにもならないわね」
「うん。知くんがいてくれるからまだ大丈夫そうだけど、恵くん何も言わないから……」
「……ま、こればっかりはね。向こうの矜持の問題でしょ。幾ら高校生って言っても男だし、頼るばっかりじゃいられないんでしょ」

 少なくとも鈴より弘香の方が恵の気持ちを理解している。というより、恵の視線に気付いていないのは鈴だけだ。あの知でさえ恵の気持ちを知っていると言うのに、この鈍感娘は……。と弘香は額を抑えたい気持ちだった。

「あと、一つ伝えておくわ」
「へ?」
「“刷り込み”なんて言い方、あの子たちに失礼よ。あの子たちはもう私たちが手取り足取り教えてあげなくても自分たちで考えて、歩いて行ける。一番理解していなきゃいけないあんたがそんなこと言ってたら、あの子たちの頑張りは何だったの。って話になるわよ」
「ヒロちゃん……」
「だから、もう少し堂々としてなさい。『U』の中にいる時みたいにね」

 ポン。と軽く背を叩いた弘香が笑みを浮かべると同時に、電車が到着したことを知らせるアナウンスが流れ始める。
 鈴は弘香の言葉に、ふと自分は「いつからあの子たちの成長を“止めて”見ていたんだろう」とハッとした。

「………………」
「お。来た来た。今日も人に押しつぶされそうだわ。気分下がるわねぇ」

 恵の背が伸び、声が低くなり、顔立ちから幼さが抜けていくのを、合唱隊の面々はその都度指摘しては喜んでいた。二人が歳を重ねる毎に「大人の顔つきになったな」と口にしていた父親の隣に鈴もいたのに、自分は一体何を見ていたのか。
 鈴はぼんやりとしながらも流れに沿って歩き出し、すし詰め状態の車内に弘香と共に乗り込む。

「ぐえぇ……。キッツ……」
「ひ、ヒロちゃぁん……」

 小柄で細身の二人だ。内臓が口から出そうなほどの圧迫感に、咄嗟に二人は手を繋いで互いを引き寄せ合う。

「コレ、私たち、いつか押し潰されて死ぬんじゃない?」
「縁起でもないこと言わないでよ……。あーもう、本当最悪……」

 雨の匂いに交じり、汗や香水の匂い、形容しがたい謎の匂いにファーストフードの匂い。様々な匂いが混ざって完全な悪臭と化している。二人は顔色を悪くしながらもどうにか耐え抜き、辿り着いた駅の降り口から新鮮な空気を吸い込んだ。

「じゃあ鈴、その傘よろしく」
「うん。またね、ヒロちゃん。今日はちゃんと寝るんだよ?」
「分かってるわよ!」

 弘香の借りているマンションの方が駅に近いため、彼女を送ってから鈴は自分が借りているマンションへと向かう。恵が貸してくれた黒い傘は大きく、弘香と二人で入っても肩が濡れることはなかった。

「……恵くん、こんなに大きくなってたんだ」

 恵は『自分と鈴だと身長差があって濡れる』と口にした。実際、恵は忍と同じぐらい背が高い。どんなに傘を傾けようと、入り込む雨に肩だけでなく半身が濡れただろう。
 そう考えると恵と知の後ろ姿はつり合いが取れており、二人がびしょ濡れになるとは思えなかった。

「傘も大きい」

 鈴が使う傘は女性用だから、恵の傘より一回りほど小さい。柄も細く、持ち手もゴツゴツとしていない。こんな持ち物にでさえ男女で差があるのだ。鈴は改めて自分が彼らを、恵を、知を、小さな子ども扱いしていたと認めずにはいられなかった。

「……ヒロちゃんが怒るのも無理ないなぁ」

 アレで根は優しいのだ。弘香は。そして人を正しく見る目も持っている。恵と知の成長を大人たちと同じように感じ取り、評価していたのだ。鈴とは違って。

「はあ……。わたし、本当にダメだな」

 鍵を開け、薄暗い部屋の中に入る。雫が付いた傘がタイルに水溜まりを作るのを横目に靴を脱ぎ、鈴はシャワーを浴びることにした。

「…………恵くん、あの時、なんて言ってたんだろう……」

 雷の音に負けて聞きそびれてしまった。何か、大切なことを言っていた気がするのに――。
 弱音を吐くことを極端に嫌っている恵が初めて素直に零した気持ちかもしれないのに。自分は何をしているのだろうかと、鈴は何度目になるか分からない溜息を零したのだった。




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