- ナノ -

光が強ければ闇も濃い。

今回は珍しく真面目回なので、騒がしさは控えめ。
 光の男にも苦手なものはあるし、光が強ければ強いほど闇は濃くなるよね。っていうお話。
 ※鈴ちゃんとのエンカウント回ですが、終盤恵くんとヒロちゃんも出てきます。知くんごめんね。



 その日、鈴は大学の帰り道にある書店に立ち寄っていた。
 片手に目的の本を持ち、片手で操作していたスマートフォンを鞄に仕舞った瞬間誰かとぶつかってしまう。

「わっ」
「どわっ! すんません! 大丈夫っすか?!」

 ぶつかった衝撃で本が腕から零れ落ちる。だが地面に落ちるよりも早く誰かの手がそれをキャッチし、同時に鈴のよろけた体に慌てた様子で声を掛けてきた。

「す、すみません……! 前、見てなくて……!」
「いやいや、オレの方こそデカイのに、マジですんません。どっか痛めてないっすか?」

 慌てて頭を下げた鈴に返って来た返事は、若者らしい、崩れた言葉遣いをしている。頭上に落ちる影からしても体格がよく、鈴など簡単に吹き飛ばしてしまいそうだ。
 だからこそ難癖をつけられなくてよかった。と顔を上げれば、鈴はこちらを気遣わし気に見遣る顔に「あ」と声を上げた。

「――恵くんのお友達!」
「――恵の大事な人!」 

「へ?」
「お?」

 同時に重なった声に、お互い「ん?」という顔になる。が、すぐさま“猿”と呼ばれていた制服姿の男子生徒が丸い目を瞬いた。

「あ! 本! コレ! さーせんっした!」
「え? あ! いや、こちらこそすみません! 拾ってもらって……!」
「や、落ちる前にキャッチしたんで。床に落ちてはないっすよ」
「え?! キャッチしたんですか?! あの一瞬で?!」

 鈴が驚くのも無理はない。鈴と猿の身長差は恵以上にある。そのうえぶつかった瞬間鈴は手にしていた本を落としたのだ。ほんの数秒で地面に落ちるはずだった本を、ぶつかってすぐの相手が本当にキャッチ出来たのかと驚くのも無理はない。
 だが猿はケロリとした顔で「それぐらい普通に出来ますよ?」と言いながら鈴に本を差し出した。

「いやー、マジですんません。姉ちゃんに頼まれた本探すのに夢中で、注意力飛び散ってましたわ」
「わ、私こそごめんね。大丈夫だった? どこかぶつけてない?」

 幾ら男子学生とはいえ、人とぶつかったら痛いだろう。そう思って鈴が声を掛ければ、一瞬目を丸くした猿がすぐさま吹き出す。

「ぶっは! お姉さんみたいなちっちゃい人にぶつかられても痛くもかゆくもねーっすよ! いつも姉貴に扱かれてるんで! ってか、お姉さんの方こそ大丈夫っすか? 細いからどっか骨とか折れてない?」
「お、折れてないよ! 流石にそこまで脆くないから!」

 恵も背が高いが、猿ほどガッシリとした体型ではない。特に猿は運動部だから体幹もしっかりしている。
 だからこそ心配しているのだろう。その気持ちが分からないわけでもないが、鈴とてそこまで弱くはない。咄嗟に否定すれば、猿は本当に心からそう思っていたのだろう。心底安心した顔で「よかったー」と言って胸をなでおろす。

「恵の大事な人にケガさせたらどうしようかと思った」
「あ……。そ、その……恵くんの、だ、大事な人っていうのは……」

 じわじわと頬に熱が集まる中、必死に言葉を探す鈴に猿は不思議そうに首を傾ける。

「勿論お姉さんのことっすけど」
「うう……! 一切の迷いのない言葉……!」
「いや、迷う理由がないでしょ」

 実際猿は恵が鈴と楽しそうに会話していた姿も、その背に庇っていた姿も見ている。だからこそ「当然のこと」として言ったまでなのだが、鈴はサッと顔を赤らめて俯いた。

「そ、そういう言い方は誤解を招くというか、なんというか……」
「いやー、それはないでしょ。恵は大切にしてる人への態度は分かりやすいから。普段一緒にいるがオレが見間違うとか、明日地球が滅亡するぐらいありえねえっすね」
「すごい自信!」

 驚く鈴に、猿は一瞬迷った後ニカリと笑った。

「ま、それがオレの自慢できるところでもあるんで! ところで、恵は一緒じゃないんっすか?」

 キョロキョロと周囲を見回す猿の視界の中に友人の姿はない。
 今日はあの日と同様、部活が休みであったからこうして姉のお使いをしていたのだ。だからてっきり『今日も恵がいる』と思い込み友人の姿を探す猿に、鈴は慌てて「いないよ」と答えた。

「わたしたち、いつも一緒にいるわけじゃないから」
「あ。そうなんっすか? てっきりよく会ってんのかと」
「ま、まあ……会ってないわけではないけど……」

 むしろ『U』の中ではほぼ毎日会っている間柄である。だが以前恵から『アイツには、まだ詳しいこと話してないんです』と教えられている鈴である。
 だからどう濁せばいいのか分からず俯けば、猿は再度首を傾けた。

「ふぅん? そっすか。ま、いないならいないで、別にいいんですけど」
「あれ? そう、なの?」
「はい。明日も学校だし、恵が体調崩さない限りは会えますからね。オレら」

 学生服に身を包んでいる猿とは違い、鈴は私服姿だ。幾ら鈴が童顔で小柄に見えても年下とは思えない。それに、恵の態度は年下の女性に向けるにしては紳士すぎる。だから大体二つか三つは年上の女性だろう、と猿はあたりをつけていた。
 そんな猿の言葉に、鈴もふとあの日の事を思い出し再び頭を下げる。

「そうだ。あの日は、恵くんを助けてくれてありがとう」

 恵は既に礼を伝えていたが、鈴は猿と対面するのは今日が初めてだ。
 だからこそ頭を下げたのだが、猿は「なんのこっちゃ」と言わんばかりに目を丸くする。そしてすぐに「えーっと……」と記憶を探り出し、鈴が何故自分に礼を言っているのか何となく思い出した。

「あー。あれか。や、別にいいっすよ。だってあいつら、ほっといたら恵がブチ切れてぶん殴ってただろうし」
「さ、流石にそこまでしないんじゃ……」
「いやいやいや。恵はね、大事な人を守るためなら割と躊躇しない人間っすから。お姉さんを守るためなら同級生ぐらい普通にぶん殴りますよ」

 普段どんな学校生活を送っているのか。
 自分の前では大人しく、また優しく素直な年下の男の子の顔を浮かべる鈴の顔から若干血の気が引いていく。
 猿はそんな鈴の微妙な顔に何かを察したのか、恵の残虐性について意識を反らさせるように人差し指を立てて軽く左右に振る。

「しかもアレ、実際に手ェ出したらどんな理由だろうと恵が非難されるだけでしょ? だったらダチとしてそういうの、見逃しちゃダメでしょ」

 猿の言い分は最もだ。鈴とて頭では理解している。だが鈴はあの時、絶対零度の不機嫌オーラを纏う恵を恐れて数歩後退っていた。心では「止めなきゃ」と思っても、猿のようにあの場を穏便にまとめ上げることは出来なかっただろう。
 対する猿もあの時はかなりヒヤヒヤしていたのだ。信号が青になると一心不乱に走り出し、恵が握った拳を振りかぶる前に二人の同級生を不自然にならない形で拘束した。
 あの瞬間、猿は一切顔には出さなかったが間に合ったことに胸を撫でおろしたし、責任感の強い友人があの拳を振るわずに済んでよかったと思っている。

 どんな理由があろうと殴った方が非難されるのだ。
 そして噂と言うのは恐ろしい。いつの間にかあることないことが尾ひれのようにくっつき、ただでさえ人の視線を煩わしく思っている恵を更に苦しめたことだろう。

 そんな猿の言葉に、鈴はふと『竜』のアザのことを思い出す。あのアザは決して『自らの強さ』を誇示するタトゥーではなかった。
 猿の真意に気付いた鈴が慌てて恵よりも少し高い位置にある顔を見上げれば、猿は「どうかしました?」と言って呑気に首を傾けている。

「……恵くんのこと、守ってくれたんだ」
「そりゃそうでしょ。アイツ、誤解されやすい質だし。ほっといたらぜーんぶ黙って一人で背負い込んじゃうし、オレみたいなのが止めないとアイツらも調子乗って何言うか分からなかったし――」

 と、そこまで口にしてから猿はふと気付く。何故恵があそこまで腹を立てていたのか。その理由に思い至り、今度は猿が鈴を見下ろした。

「お姉さん、あの時あいつらになんか言われた?」
「え?」
「あの時の恵、めちゃくちゃ怒ってたから。あいつらがお姉さんになんか酷いこと言ったんじゃないかと思ってさ」

 猿のその一言に、鈴は改めて「この子は恵くんのことをよく見ているんだなぁ」と実感する。当時も「すごい子だなぁ」と思ったのだが、その鋭い観察眼に鈴は思わず親友の弘香の顔を思い浮かべてしまった。

「大丈夫だよ。大したことじゃなかったし」

 事実鈴は慣れていた。他人の悪意に、無意識に向けられる言葉の刃に。だが猿は鈴の返答を聞いた瞬間眉間に皺を寄せ、「それは違うでしょ」と苦々しい表情で言い返す。

「お姉さん。お姉さんとっては“大丈夫”なことかもしれなかったけど、恵にとってはそうじゃなかったんだよ」
「え?」
「お姉さん。恵はね、お姉さんのことがすごく大事だから、怒ったんだよ」

 そんなことを言われると思っていなかった鈴が言葉に窮して口を噤めば、猿はそんな鈴を困ったような――それでいてあたたかみのある優しい目で見下ろした。
 まるで、仕方のない小さな子供を見るかのように。

「あのね、お姉さん。あいつは確かに心配性だし、割と沸点低めですぐキレるとこあるけど、ちゃんと言い返せる相手が嫌味言われた時は、あそこまで怒ったりしないよ」

 弟の知といい、目の前の鈴といい、どこか庇護欲を掻き立てられる相手だからこそ恵は敏感になり、いつもの冷静さが無くなるのだろう。
 元より恵は懐に入れた相手にはかなり心を傾けるところがある。今まで蚊帳の外にいた猿でさえそれが分かっているというのに、掌中の珠である鈴に自覚はないのだろう。
 そんな鈴に猿は「恵も苦労するなぁ」と苦笑いを浮かべる。実際あの時嫌味を言われたのが弘香であれば、恵はあそこまで怒らなかった。
 何せ弘香は相手が誰であろうと堂々と言い返せる度胸があるからだ。だが鈴はああいう場面では言い返せず、現に俯くことしか出来なかった。だからこそ恵は鈴を守ろうと前に出たのだ。

 指摘されずとも理解していたつもりではあったが、改めて第三者に言われるとハッとするものがある。
 言葉なく驚く鈴に、猿はゆっくりとしゃがみこみ、その顔を下から見上げた。

「あのさ。オレはお姉さんと恵がどんな関係なのかは知らない。でも、お姉さんが自分の事もっとちゃんと大事にしないと、お姉さんの事大切にしてる恵がちょっと可哀想つーか、報われないっつーか……」

 そこで一旦言葉を区切ると、猿はガリガリと後頭部を掻く。そして言葉を探すように視線をうろつかせた後、どこか困惑する鈴に向かってヘラリと笑った。

「ごめんな。何も知らないオレがこんな説教じみたこと言ってさ。でも、オレはあいつの友達だからさ。アイツが大事にしてる人は大事にしたいし、アイツのことも大事にしたいんだ。だから、お姉さんも、もっと自分を大事にして欲しいな。って、オレは思う」
「………………ごめん」

 呆気に取られた気持ちで鈴が謝罪すれば、猿は「謝る必要なんてないっすよ」と人好きするような笑みを顔いっぱいに浮かべる。

「まあ、でも、今ちょっと話しただけでも何となくお姉さんが自分に自信が持てないタイプだってことは分かったから、すぐに、ってのは難しいと思う」
「うっ! そ、それは……」
「はは。やっぱり? でも、そういうの、案外誰でも見てれば分かると思うよ」
「そ、そう……だよね」

 両手で本を抱きしめ、項垂れる鈴に猿はカラリとした笑い声を返す。とはいえ無遠慮に聞こえる猿の発言も、その目を見ればただズケズケと言っているだけではないことが分かる。
 だからこそ鈴もおずおずと、自分と視線を合わせるためにしゃがんだ猿へと目を向けた。

「お姉さんはさ、恵に大事にされてることが恥ずかしいのかもしれない。でも、お姉さんにとっても恵は大事なやつだろ?」
「うん」
「それをさ、恥ずかしいと、お姉さんは思う?」

 猿の聞き方は優しい。鈴の方が年上なのに、まるで自分が小さな子供に戻ったみたいだと感じる。それでも反感する気持ちは不思議と浮かばず、鈴は静かに首を横に振った。

「思わない。わたしは、恵くんも、知くんも、すごく大事だから……」
「うん。恵も一緒だよ。だからさ、お姉さんがもし『自分を大事にする』のが難しいなら、恵のためにちょっとだけ頑張ってみる、ってのはどうかな」
「恵くんのために?」

 キョトンとする鈴に、猿は「うん」と頷いてからニッと笑う。

「そ! お姉さんがお姉さん自身を大事にすることで、恵の心を守ることが出来るからさ。だからまずは恵を大事に思う気持ちのほんのちょこーっとでも自分に向けてみる。自分でも「これはうまくできたな!」って思った時には自分を褒める。自分にご褒美を与える。みたいなさ。まずはそこから始めてみたらどうかな?」
「でも、本当にそんなことで恵くんを守れるのかな……」

 鈴が考える『守る』という行為は、間違いなく背に庇って相手の身を護ることである。彼らの父親から身を挺して守ったあの瞬間のことが印象強いせいだろう。
 だが猿は鈴の不安を吹き飛ばすかのように「大丈夫大丈夫」と即答する。 

「恵は男だから、お姉さんが体張って守らなくても自分の身はどうとでも出来るよ。でもさ、あいつは……ほら。体よりも先に心が傷ついちゃうタイプだから」
「それは――、」

 猿の言葉に、鈴は咄嗟に『竜』の姿を幻視する。ようやく竜と近付けたと思った時、竜の背にアザが突然増えた時があった。苦しそうに蠢く竜の背景に何が起こっていたのか。詳しく恵が語らなくとも、『恵が傷ついた』ことだけは分かる。
 体の傷だけでなく、心の傷も『U』は反映する。
 恵が『竜』だと知らないはずなのに、猿は独自の目線で恵の弱い部分を見抜いていた。

 そのことに改めて驚き、また少しの関心を込めて猿の目をまっすぐ見返せば、猿はヘラリと再び笑みを浮かべる。 

「お姉さんも心当たりあるでしょ? 恵は、ツンケンしてるけどすげー優しい奴だから」
「……うん。分かる」
「うん。なんつーか、警戒心が強くて、なかなか心を開いてくれねえから結構勘違いされやすいっていうか、勝手なイメージ押し付けられやすいけど……。優しいからこそ不器用っていうか、損してるんだよな。あいつ」

 優しい声と眼差しで語る猿の言葉に鈴は何度も頷く。
 実際鈴も会いに行くまで自分が“Bell”だとは信じて貰えなかった。だけど信じて貰えてからは、恵は驚くほど素直に心の内側を明かす――警戒心が強いだけの、孤独で優しい少年だった。

「恵は心がやわらかすぎるからさ。だからああならざるをえなかったんだとオレは勝手に思ってる。ぶん殴られても体の傷はそのうち治るけど、心の傷ってそうはいかないから……。恵は、きっとその“目に見えない傷”がいっぱいあるんだろうなぁ、って、思うんだよ」
「…………そう、だね」
「うん。アイツ、不器用なくせして優しすぎるからさ。他人の痛みも、自分の痛みにしちゃうんだよね」

 特に相手に心を許せば許すほど恵は相手の痛みを、悲しみを――無意識に感じ取り、そのまま背負い込んでしまう。自分の“傷”の一つにしてしまう。
 そんな危うい傾向にある友人を、猿は苦笑いを浮かべながら思い出す。

「だからさ、お姉さんが自分のこと大事にしてくれねえと、恵も傷つくんだ。悪口言われて“平気”って言われても、恵はきっと“言わせてしまった自分”に腹が立ってしょうがないだろうし、お姉さんにそういうのを“聞かせてしまった”ってことでも苦しむと思う。本当はそこまで弱くはないかもしれねえけど、オレはさ、アイツのダチだから。アイツが苦しむ姿なんて見たくないんだ。だからお姉さんも同じ気持ちでいてくれたら、オレも嬉しい」
「うん……。そうだね。わたしも、そう思う」

 鈴だって同じだ。恵が苦しむ姿をもう見たくない。背中のアザが増える痛みに苦しみ、汗を浮かべ、全身を震わせながらも耐える姿を、もう見たくない。
 頷く鈴の顔つきが変わったことに気付いたのだろう。猿は「よいしょ」と言いながらしゃがんでいた体を起こし、グッと背伸びをした。

「やー、でもお姉さんが話の分かる人でよかったわ〜。オレさー、色んな奴と色んな話するけど、時々“なーんでこんな思考になるんだろうなぁ”っていう奴ともぶち当たるからさぁ」
「猿くんでもそう感じる人がいるの?」

 恵からいつも『あの猿』と聞いているせいか、つい『猿くん』と呼んでしまったことに鈴がハッとする。そこで慌てて謝罪しようとしたが、猿はすぐさま「ブハッ!」と吹き出して鈴に向かって真夏のひまわりのような笑みを向けた。

「うははは! お姉さんオレのこと“猿”って呼んでんの?!」
「ご、ごめんね! あの、その、えっと、」
「やー、いいって、いいって。別に。恵がそう呼んでるんでしょ? だったらそれでいーよ。お姉さんも好きなように呼んで」

 本当にそう思っているのだろう。嫌味のないカラッとした笑みと声音に、鈴は知らず張っていた肩の力をゆっくりと抜く。
 それでももう一度「ごめんね」と謝れば、猿は「いいよ。別に」と鈴を安心させるかのように上体を曲げてその顔を覗き込んできた。

「つか、オレ今結構うれしーからさ」
「どうして?」
「だって、お姉さんが無意識で呼んでくれるぐらい、アイツがオレの話してくれてる、ってことでしょ?」

 あれだけ『恵の友人』を語っていた割に、恵から友人だと思われている自信がなかったのか。思わぬ一言に鈴が目を丸くすれば、猿は「でへへへ」と締まりのない顔で笑う。

「あのね、猿くん。恵くんはね、猿くんが思ってる以上に、猿くんのこと話してくれるよ」
「え? マジ?」
「うん。猿くんとどんなことを話したのか、どんなことをしたのか、楽しいことも、怒ったことも、きちんと話してくれるよ」

 それこそ猿が寝坊して遅れて来た日のことも、体育祭前のひと悶着も、授業中に生み出された猿の謎語録や珍回答なども、恵は時に笑いながら、時に「あのクソ猿……!」と拳を握りながら話していた。
 猿はまさか恵が『大事な人』にそんなことを話しているとは本気で、微塵も思っていなかったため、鈴の話に大いに驚き――じわじわと、喜びを噛み締めるかのように嬉しそうに口元を緩めていく。

「そっかー。……へへ。そっかぁ。なんか、結構嬉しいもんだなぁ」

 体育祭の時に見せた明るい笑みではなく、心底嬉しそうに笑う猿に鈴も柔らかな笑みを返す。
 基本お祭り男ではあるが、猿とて人だ。友人に“友人”として見られていなければ寂しいし、逆にそう思われているなら嬉しい。根が素直だから言葉にせずとも顔に出る。
 そんな猿に対し、鈴は改めて宣言するように告げる。

「猿くん。恵くんはね、猿くんのことをとても大事にしてるよ」

 確かにその大半は「あいつ本当バカでどうしようもないけど……」という愚痴交じりのものではあるのだが、恵は、竜は、彼のことを話す時、いつも鋭い目を和らげ、声が少しだけ弾むのだ。まるで遠足で起きた出来事を話す子供のように、その姿は微笑ましい。
 だが本人の前ではつっけんどんな態度を通しているのだろう。恵の素直ではない悪態ぶりからも何となく想像出来てしまう。
 だからこそ微笑ましく感じる鈴に、猿は「でへへ」と蕩けたチーズのような笑みを返した。

「やー、お姉さんにそう言ってもらえるとなんか嬉しいわ。アイツにとってオレはただのやかましいお節介焼き野郎だと思ってたからさ」
「そんなことないよ。恵くん、猿くんのこと話す時いつも楽しそうだよ」
「だといいんだけどさ。まあ、前よりはずっと笑うようになったし、話もしてくれるようになったから、嫌われてはないだろうなー、とは思ってたけど、心の中まで見えるわけじゃないしなー」

 猿の言い分は最もである。実際、猿が鈴と恵の助太刀に来なければ、鈴が恵に「いい友達なんだね」と言って自覚させなければ、恵は今でも猿のことを『煩いクラスメート』としか見なかっただろう。
 猿自身それを理解している。あの日、素直に自分に礼を言ってから恵の態度は変わったと。

 だが正直言えば、「だからなんだ」と思ってもいた。
 例え恵にとって自分が『友達』でなくとも、猿にとっては出会った時から既に恵は『友達』なのだ。恵が自覚しようが自覚してなかろうが、猿は変わらぬ態度で接し続けただろう。

「オレさ。割と誰とでも付き合えるし、誰とでもうまく話せる自信あるけどさ」
「うん」
「どーしても『こいつなんなんだ』って思っちゃうタイプもいるんだよね」

 底抜けに明るいお祭り男の口からもたらされた言葉に鈴が驚いて顔を上げれば、猿は困ったような顔で「オレだっているんスよ、そういう奴」と続ける。

「例えば、どんな人?」
「ん? そりゃーもー、色々。なんていうの? いかに相手の情報を多く握っているかが『友人の証』みたいに考えてる奴。その手のタイプが一番苦手ッスね」

 ――相手の情報。
 その言葉に鈴が首を傾ければ、猿は長い指を折りながら一つ一つ数えていく。

「例えば家族が何人いるとか、兄弟が何人いるとか、どこに住んでるとか、どこの小学校出身だとか、どの辺に住んでるかだとか、とにかく、そういう知ってなくても困らないことをさ、知ってる方がすげー、とか、エライとか、思い込んでマウント取ってくる奴は苦手っすね」
「あー……。確かに。いるね。そういう人」

 相手の誕生日を知っていなければ「酷い」と罵られ、相手の好きなものや色を知らなければ「本当に友達?」と疑ってくる。そういうタイプは必ず一人はいる。
 頷く鈴に、猿も「でしょ?」と返す。

「アレなんなんすかね? 別に知らなくても友達にはなれるじゃないっすか。親がどんな仕事してようと、上とか下の子がどんな性格してようと、そいつはそいつで、家族は家族じゃないっすか。なーんで一々周りのこと引っ張り出さないとソイツのこと語れねえのかなぁ? って、昔から不思議に思っちまうんスよ。オレ」

 猿からしてみれば『ダチはダチ』『ダチの家族はダチの家族』で別枠なのだ。例え血縁者だろうと顔立ちも性格も違うし、考え方も違う。それが当たり前だと思っていたからこそ、そんなことで情報合戦をし、マウントを取ろうとする相手に当たった時は驚いてしまった。

「関係ないじゃないッスか。オレは“そいつとダチになりてー”と思ったから友達になるだけで、家族がどうとか、住んでる場所がどうとか、あんま興味ないっていうか……。別にそんな情報なくてもオレ友達になれるぜ? って感じで、いまいち理解出来ないんすよね。あの心理」

 鈴も経験がある。忍と幼馴染というだけで陰口を言われ、忍についての情報で「知らない」ことがあると「なぁーんだ。幼馴染っていってもその程度なんだ」と嘲笑われたことなど数え切れないほどある。
 その度に鈴は「“幼馴染”だからなんでも知ってるなんて、そう考える方がおかしいよ」と不快な気持ちにさせられたものだ。
 だからこそ「分かる。すごくよく分かるよ」と頷いた鈴に、猿は「よかったー」と言って笑う。

「お姉さんがその手のタイプじゃない、ってことは何となく分かってたけど、やっぱり違うと安心するっていうか」
「あはは。猿くんは本当に恵くんが大事なんだね」
「そりゃあダチっすから。でも、オレにとってはお姉さんも大事な人だから、そこんとこ間違えないでくださいね?」

 パチン、と悪戯っ子のようにウインクを飛ばされた鈴が吹き出せば、猿もすかさず「うははは!」と恵がいつも聞く明るい笑い声を上げる。

「これ恵にバレたら関節技じゃ済まねえな! 腕折られたら写真送るんで、そん時はよろしく!」
「ええ?! 恵くんそんなことしないと思うよ?!」
「いやいやいや。あいつ根っからのデストロイヤーだから。前世破壊神だから」
「なにそれ。初耳なんだけど」

 猿の気性故だろう。いつの間にか打ち解けたように心置きなく会話を続ける鈴と共に、猿は姉に頼まれていた本を持ってレジへと進む。
 そこでも様々な話をし、共に書店を出たところで「あ!」と驚く声と、「げっ」と嫌がる声が二人の耳に同時に飛び込んできた。

「鈴! こんなところにいたー!!」
「ヒロちゃん?! それに、恵くんも!」
「……こんにちは。鈴さん」

 どうやら恵は弘香とエンカウントしていたらしい。その背には弘香が愛用している電子機器が積み込まれたリュックがあり、鈴はつい苦笑いを浮かべてしまう。

「もう、ヒロちゃんったら。恵くんを荷物持ちにして」
「だってちょうどいいところに来てくれたからさぁ。こんだけ背丈があって力もあるんだから、利用しない手はないでしょ?」
「利用って……。相変わらず本人がいる前でよくそんなこと言えますよね」
「隠したってしょうがないじゃん。ていうか今更でしょ」

 あけすけな弘香に恵は諦めたようにため息を一つ零すと、鈴の隣に立っていた猿へとジロリとした目を向けた。

「で? お前は何やってたわけ?」
「あっるぇ? なに、その万引き犯を見るような目は。盗んでないわよ?! 幾らあたしがルパンみたいな見た目だからって人道に反することはしないわ!」
「誰がそんな心配するか! 普通に何やってたんだ、って聞いただけだっつの! 変に勘繰るんじゃねえ!」

 ガオッ! とライオンが吠える絵が背景に見える程の勢いで言い返した恵の姿に弘香と鈴が呆気に取られた顔をしていると、すぐさま恵が「あ」と口元に手を当てる。
 その顔はすぐさま青くなり、それからそろりと、バツが悪そうに二人から視線が逸らされた。

「ぶっは!! お前、だはははは! なにその反応! 飼い主に怒られたチワワかよ!」
「誰がチワワだ! 噛み殺すぞクソ猿!!」
「やめて! 笑っちゃう!」

 ゲラゲラと、腹を抱えて笑う猿の肩を遠慮なく恵が叩く。その頬と耳はほんのりと色付いており、鈴と弘香は揃って顔を見合わせてから互いに吹き出した。

「あははは! 恵くん、その子の前だといつもそんな感じなの?!」
「ふふふ、恵くん、本当に猿くんと仲がいいんだね」
「だ、や、ち、ちがっ……!」
「おいおい〜、照れんなって恵ちゃ〜ん。オレら大親友じゃ、っておぎゃあ!! 無言の裏拳!! 勢いが完全に殺しにかかってきてるんですが?!」
「うるせえ死ね!!」
「身も蓋もねえ!!!」

 弘香だけならまだしも、鈴に見られたのが本当に恥ずかしいらしい。だが猿の前では普段の紳士面もどこへ行ったのか。すぐさま『高校生の恵』が顔を出し、本人も青くなればいいのか赤くなればいいのか分からず大忙しだ。
 そんな友人の姿に猿が遠慮なく大笑いし、それにキレた恵が問答無用でどつく。ある意味普段通りと言えば普段通りではあるのだが、弘香と鈴からしてみれば新鮮な光景だった。
 だがここに来て、気が緩んでいたが故の事故が起きてしまった。

「いやぁ、まさか『U』以外で戦う恵くんの姿が見られるとは思ってみなかったわ」
「あ! ひ、ヒロちゃ――!」

 猿には『U』でのことをまだ話していないのだと、鈴は知っていても弘香は知らない。うっかり零した弘香の一言に、ピタリと恵の動きが止まる。

「………………」
「……え? なにこの空気」
「ヒロちゃん……」

 グッと口を噤み、眉間にしわを寄せて黙り込む恵の空気は先程と違って硬く、暗い。そのことに気付いた弘香が咄嗟に鈴を見れば、鈴は「一足遅かった……」と言わんばかりに顔を青くしていた。
 が、そんな中でもお祭り男は相変わらずである。固まる恵に向かって軽く肩をぶつけ、その顔を訝しげに見遣る。

「おいおい。どしたよ。そんな顔して」
「……だって……」

 未だに自分の事を話せていない事実が苦しいのだろう。猿からも視線を逸らす友人の姿に、すかさず猿はその顔を下から覗き込むようにして上体を屈める。

「だぁーかぁーらぁー。別にいいって言ったじゃん。お前が話さなくてもオレはお前のダチ! はい! それで解決! 無問題!! どぅーゆーあんだすたん?!」
「…………意味も分かってねえくせに英語使うなっつーの」
「流石に『どぅーゆーあんだすたん?』ぐらいは分かりますけどぉ?!」

 苦し紛れの悪態にも猿はいつも通り反応する。
 そんな二人のやり取りと、恵の状態を見て弘香も大体のことを察する。というか、察せざるを得なかった。

「ごめん。私が軽率だった……」
「いや、話してなかったわたしも悪いし……」
「それを言うなら何も言ってない俺が一番悪いですから、二人は気にしないでください」

 この場にいる猿を除いては、互いに『U』での姿も恵の事情も知っている。だからこそ「自分が悪い」と反省する三人に向かって、猿は盛大に顔を顰めた。

「あのさぁ、当事者であるオレを抜きにしてダ〇ョウ倶楽部ごっこするのやめてくんない?」
「誰もそんなことしてねえよ」
「いやいや、してるも同然じゃん。自分が悪い、いやいや自分が悪い。とかさぁ。そういうのやめねえ? 別にお前がどこでどんな活動してようと、今ここにいるオレが、今隣に立ってるお前とダチなのは変わらねえんだからさ。それとも、そんなこと一々気にするようなオレちゃんに見えるわけ? お前は」

 猿は心底不快なのだろう。事実先程まで鈴には話していた。『情報合戦でマウントを取る行動が苦手だ』と。例えマウントを取っていなくとも、教えているとか教えていないとかで互いに傷つけあう姿を見たくないのだろう。
 猿は目を丸くした恵に向かって珍しく不貞腐れたような顔を向ける。

「オレは、お前のダチ。お前の過去とか普段やってることとか知らなくても、ダチはダチなの」
「でも、自分だけ何も知らされてないってイヤじゃない?」
「ヒロちゃん……!」

 自分の発言が元とはいえ、弘香は気になることがあれば追及する質である。猿の言い分を聞いていなかったこともあり、その態度に疑問を持って尋ねれば、すかさず隣にいた鈴がその手を取る。
 が、猿はキョトンとした顔で「なんで?」と鈴と身長の変わらない弘香を見下ろした。

「なんで、って……。普通、友達なら『話して欲しい』とか思うでしょ」
「あー、まあ、思わねえわけじゃねえッスけど、別に無理してまで話すことでもないし。オレとしては、恵が楽しくやってんならそれが一番だし。それをオレが知らないから楽しめない、ってわけじゃないなら、一々教える必要なくねえですか?」

 猿は『相手に興味がない』のではなく、相手が『隠したいことを暴こう』と思っていないだけなのだ。
 誰にだって秘密はあるし、隠したいことの一つや二つはある。それが分かっているからこそ、猿は恵のことを自分から聞こうとはしていなかった。

「別に恵の過去とか、『U』でどんな活動してるのか知らなくてもダチはやれるでしょ」
「そりゃそうかもしれないけど……」

 でも、と弘香は顔を顰める。
 弘香とてこのお祭り男が“恵の友人”であることは知っている。恵が他人について語る姿など滅多に見ないからこそ余計に『大事な友達なんだな』というのが伝わってくるのだ。
 だがそんな『友人』に隠し事をされて平気でいられるものなのか、と弘香がほぼ初対面の猿を見つめれば、猿は「んー……」と頬を掻きながら考えを纏めていく。

「なんつーか……これ、オレの自論っていうか、勝手なイメージというか、考え方なんスけど」
「うん」
「イヤなんスよね。相手のこと知らないと『友達じゃない』とか、『一人で可哀想』だとか『自分しか話せるやついねーのかな』とか、『放っておけない』とか、そんな理由で相手のそばにいるの」

 思わぬ言葉に皆が目を丸くして猿へと視線を向ける。そんな、ある意味衆目が集まっているなか、猿は物怖じすることなく『自分の考え』を語り出す。

「『ほっとけねー』ってのはさ、つまるところ『今の自分が相手より優位な立ち位置にいる』ってことの無意識の表れじゃないっすか。炊き出しとかもそうですけど、家も金もないホームレスに炊き出し出来る人は、家も金も料理も作れる余裕があるから出来るってことでしょ? でもホームレスがホームレスに炊き出しなんてしないじゃないッスか。なんか、アレと似た感じなんですよね」
「ホームレスって、お前……」

 あんまりな例え話に恵が顔を顰めれば、それに気付いた猿が「分かりづらいか」と言って再び悩みだす。

「じゃあ、アレだ。子猫。例えば親猫に棄てられた子猫がいたとするじゃないっすか。まだちっちゃくて、目もまともに開いてない子猫がミーミー鳴いてたら『可哀想〜』ってなるじゃないっすか」
「まあ、そうね」
「うん。で、拾ってやったり、動物病院に連れて行ったりするでしょ? あれとさ、似てるなー。って、オレは思うんスよね」

 人は決して犬猫のように語れるわけではない。だが猿は『似ている』と思っている。相手を『放っておけない』『可哀想』と思った時点で、人は相手を“下”に見ているのではないのか、と。

「別にやらしー意味じゃねえっすよ? 百パーセント善意で、普通に心配してる人がいることも分かってます。でも、ああいうのを『可哀想』って思えるのは、自分が雨風凌げる家に住んでて、食べるものにも困ってなくて、誰かの面倒を見れるだけの余裕があるから言えるんじゃねえかな。って考えがあって。だから、オレはそういう目でダチを見たくないだけって話なんすよね」

 恵にとって『学校』とは知識を学ぶ場である。知識があればあるだけ選択肢が増える。選択肢が増えるということは、いざという時に切れる手札のカードが増えることを意味している。
 それはお金であったり人脈であったり様々だが、手元のカードが少なければ勝負に出ることすら出来ない。

 ようはそれと同じなのだと、猿は必死に学のない頭を振り絞って言葉を選んでいく。

「金があるやつは心にも余裕があるんスよ。だから簡単に『おごれる』し、金を貸せる。人間関係でもそうでしょ。両親がいる奴は片親しかいねえ奴を勝手に哀れむじゃないッスか。別に“哀れんでくれ”なんて一言も言ってないのに」

 猿の言葉に三人の空気が一瞬硬くなる。そのことに勿論猿は気付いたが、構わず続けた。続けるべきだと、判断したのだ。

「オレはさ、なんかそういうの、好きじゃないんスよ。そりゃ親が揃ってた方がいいかもしれねえけど、じゃあ揃ってても仲が悪くても平気なのか。って言われたら絶対違うじゃないですか」

 実際問題、両親の仲が悪いのに離婚できない状況は多々ある。その際たる原因は“低賃金”の問題だ。お金がないから夫婦の縁すら切れず、子は親の姿を見てストレスを抱えて生きていく。
 だが逆に『両親の仲がよければ幸せ』なのかと聞かれたら、これもまた個々人の家庭によって変わってくるだろう。親同士仲がよくても兄弟・姉妹は違うかもしれない。親戚との軋轢があるかもしれない。祖父母との確執があるかもしれない。
 様々な問題がそれぞれの前に転がっている。
 猿が『情報のマウント合戦』を嫌うのもこれが理由の一つだった。

「オレはダチの親とダチになりたいわけじゃないし、ダチの兄弟や姉妹と争いたいわけじゃないんで。オレはただフツーに、コイツの隣でコイツのダチやってたいだけなんすよ」

 コイツ。と言って猿が親指を横に倒して示したのは、隣に立っていた恵だ。
 猿は、恵がどんな姿だろうと過去を背負っていようと、構わず『恵の友達でいたい』と三人に告げる。
 だが真面目な顔をしていたのはそこまでで、すぐにいつものように緊張感のない笑みを恵に向けた。

「だからお前がオレにアレコレ話さなくてもいーんだよ。オレが勝手にお前のことダチだと思って、勝手に隣にいるだけなんだからさ」
「…………俺、は…………」

 確かに恵にとっても猿は“友人”だ。だがどうしても、過去の事を話すのに躊躇する。以前よりマシだとはいえ、今でも『竜』に対する偏見はある。
 もしその中に、自分を敵対視するAzの中に“友人”がいたとすれば――。

 恵は、己の心臓が深く抉れたような、息が詰まるほどの痛みを感じて小さく呻く。

「恵。無理しなくていいよ」
「………………」
「とりあえず、オレはもう帰るからさ。また明日。な?」

 ポンポン。と猿が軽くその背を叩けば、長い前髪に瞳を隠していた恵が震える唇を開く。

「……ああ。また、明日……」
「ん! じゃ、お姉さんと、そっちのメガネのお姉さんもバイバーイ!」
「え? あ、ちょっと!」
「猿くん!」

 俊足の猿は笑顔で手を振ると、そのまま人ごみに飲み込まれるようにして姿を消す。雑踏の中ではその足音を拾うことは出来ず、またあの背の高い猿であっても、人ごみに紛れてしまえば分からなくなる。
 更には日も暮れ、夜が近付いてきた。街灯やネオン、ビルから零れる照明の灯りもあってあまり暗さは感じないが、それでも一人の人間を追うにしてはあまりにも心許ない光源であった。

「……恵くん……」
「……ごめん、鈴さん。心配してくれて、ありがとう」

 気遣う鈴に、恵は泣きそうな顔でへにゃりと笑う。だがその顔は猿の緩んだ顔とは違い、酷く痛ましいものだった。

「……恵くん、あの子に話す気ないの?」
「ヒロちゃん!」
「……………………」

 ジロリと、遠慮のない瞳と言葉を向けるのは弘香だ。だが恵はその言葉に何も返すことなく、視線を逸らすようにして夜空を見上げる。
 その横顔からは何も読み取ることは出来ず、鈴と弘香は揃って肩を落とした。

 猿になら話しても大丈夫なのではないかと、思う心は恵にもある。

 だが今まで築いてきた他人との壁が、他人への不信感が、最後の最後で邪魔をする。
 幾ら体が成長しようとも、環境が改善しようとも、心の傷は今も尚恵の心臓に深く爪痕を残している。時折ジクジクと痛むそこを恵は無意識に服の上から握りしめ、心配する鈴に向かって改めて「大丈夫だよ」と消えそうな声で告げたのだった。



 終わり



 光の男であっても苦手なことはあるし、嫌いな奴もいる。
 でも友人にとって大事な人であればそんな人であっても大事にするのが猿くんのいいところですげえところ。
 いつか話せる日が来るといいですね、恵くん。っていう感じの話でした。(あれ?)

 ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました!


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