- ナノ -

優仁は「やさしいひと」とも読める話

高校生って元気だよね。っていう感じのシーンと、それなりに真面目な会話も交えつつやっぱりどついたりどつかれたりしてます。
今回も恵くんと猿くんの独特のやりとりを楽しんで頂けたら嬉しいです。



 HR前の予鈴が鳴る中、恵は未だに空席である目の前の席を睨みつけるようにして眺めていた。

「……遅い」

 普段であればそこに座っているはずの男――山猿はどんなに遅くとも五分前には席についている。だが今日は予鈴が鳴ってもまだ姿を現さない。
 他のクラスメートたちも「猿今日遅くね?」「まさかお休み?」と囁く中、恵は手にしていたスマートフォンへと視線を落とした。

(本当に体調が悪くて寝込んでるなら、LINKを送れば通知音で目が覚めるかもしれない。ただの寝坊ならそれでいいけど……いや。よくない。だったら俺にぐらい連絡寄こせよ)

 心配しているのかイライラしているのか。ムスッとした顔をする恵に周囲にいたクラスメートたちも「恵も心配してんのかな」とコソコソと囁きあう。
 そんな周囲の声を普段の恵であれば聞こえていない振りをして無視するのだが、今は考えることに没頭して完全に聞こえていなかった。

(そもそも何て送ればいいんだよ。『大丈夫か?』『今日休みか?』『寝坊したなら早く来いよ』とか? ……なんか、どれも違う気がする)

 猿と仲のいい友人は沢山いる。実際その手のメッセージを送った者は既にいるだろう。
 だが恵は自分が送るにしてはどれも言葉が違う気がして、じっと沈黙を保つスマートフォンの画面を睨み続ける。

「……早く来いよ、クソ猿」

 何だかんだ言って恵はあの騒がしい友人のことが嫌いではない。むしろ唯一の“友人”だと思っている。
 隣や後ろの席に座っている男子よりも、斜め後ろ席にいる女子よりも、腹立たしいほどに恵を振り回し、時には呆れさせるあの男こそが恵の友人なのだ。
 そんなお祭り男がいないだけで妙にモヤモヤとした気持ちになってしまう。

 次第にそのモヤモヤは理不尽な思いに変わっていき、遂には『遅れてきたらあの背中蹴ってやろう』と暴君のようなことを考えていた。
 そしていつもと変わらぬ本鈴が鳴り始めた時。
 恵が「あのクソバカ……!」と悪態をついた瞬間、教室の扉が勢いよく開いた。


「セーーーーーーーフ!!!!!」


 ゼエ、ハア、と、肩で息をしながら勢いよく扉を開けたのは、件のお祭り男、山猿こと猿渡だった。

「おっせーよ猿!」
「今日来ねえかと思ったじゃん!」
「わーりぃわーりぃ。目覚ましが鳴らなくってさぁ」

 滴る汗を拭いながら、周囲の野次に苦笑いで答える姿はいつもと変わらない。恵はほっとしたような、それでもどこか腹立たしいような、何とも形容しがたい気持ちを抱く。

「早く座れよ、バカ。もうすぐ担任来るぞ」
「ういうい」

 通り過ぎようとした猿の背をとある男子生徒が気安く叩く。それに対し猿も適当に返事をしながら恵の前の席にリュックを置き、いつものようにドカッと音を立てて腰かけた。

「おっはっよー! 恵」
「……はよう」
「おうっ。どったの。今日はまーた一段と不機嫌じゃないの。なんかあった?」

 なんかあったもなにも、お前が今の今まで来なかったから心配してたんだよ。
 とは口が裂けても言えない恵である。相手が知や鈴であれば素直に「心配した」と口に出来る恵ではあるが、今回の相手は猿だ。対等な“友人”であり、唯一恵が雑に扱っても許される相手である。
だからこそ妙に気恥しく、素直になれない。心の中では「こんな態度を取りたいわけじゃない」と思っているのに、不慣れな唇はぶっきらぼうな物言いをしてしまう。

「別に。何でもない」
「うっそだー。見るからにそんな顔してねえじゃん」

 来た時は乱れていた猿の息は既に整い始めている。日頃部活で鍛えているからだろう。とはいえ未だ汗は流れるようで、こまめにそれを拭いつつ山猿は恵の心配を他所に今日も明るい笑み顔いっぱいに浮かべる。
 いっそ腹立たしくなるほどの清々しい笑みに、恵は思わず猿が座っていた椅子の足を蹴りあげた。

「どぅあ?! 今蹴った?! 蹴ったわね?!」
「足が長くてごめん」
「嘘つけぇ! 今絶対狙って蹴っただろ! こーの暴君め!」

 キーキーと言い返す猿から恵が視線を逸らせば、すぐさま猿は畳んだタオルで自身を扇ぎながら「んで?」と改めて声を掛けた。

「ホントになにがあったの? 知くんとケンカでもした?」
「違う。あと、本当に何でもないから気にすんな」
「うっそだー。オレちゃん知ってるもんね。恵ってば、素直になれない時ほど目を逸らすクセがあるってことをさっ。お前知ってた?」
「……知るかよ、バーカ」

 自分の顔を常に鏡で見ているわけではない。それに、こんな風に恵が心を許した相手もこの学校では目の前の友人だけなのだ。
 例え知や鈴が気付いていたとしても、二人は猿のように指摘するような人物でもない。
 だからこそバツが悪くて悪態をつく恵に、猿は「うはは」と声を上げて笑い出す。 

「まー、オレもオレ自身のクセなんか知らねえしな! 人のこと言えねえわ!」
「……あたり前だろ、バカ」
「ですよねー。あーあ。今日も恵くんったら辛辣なんだからぁ〜」

 茶化しているようで何気に恵の状況を伺っているのだろう。日頃の言動と態度で隠れがちだが、人の機微に敏いのはこの男の長所でもある。
 恵は入室して来た担任の「HR始めるぞー」と言う声に一瞬視線を戻した後、目の前で立ち上がった友人の背を軽く突いた。

「ん? どした?」
「……お前、マジで寝坊しただけ?」

 通学中に事故にあった訳でも、面倒なことに巻き込まれたわけでもないんだな? と暗に確かめる恵に、猿はキョトンとした後迷うことなく頷いた。

「おん。いやマジでビックリだよな。親父以外全員寝坊だぜ? ウケるだろ」
「どういう状況だよ、それ。お前の家目覚まし一個しかねえのかよ。それか家族で共有でもしてるのか?」
「だははは! 逆にそんな家があったら見てみてえよな! でも違うんだなー、コレが」

 クラス委員の「きりーつ、れーい、ちゃくせーき」と言う間延びした声に合わせて軽く会釈しつつ、二人は席に着いた後再び会話を始める。

「まず、今日は母ちゃんが仕事休みでさ。母ちゃん休みの日は目覚ましセットしねえのよ」
「うん」
「で、次は姉ちゃんなんだけど、姉ちゃんは普通に一回目の目覚まし切った後寝ちゃったんだよな」
「あー……。たまにやるやつな」
「そう。で、オレなんだけど、」
「うん」

 担任が名簿を開き、一人ずつ名前を呼びながら出席を取る中、山猿は大真面目に話を聞いていた恵に全てがバカらしく思える程明るい笑みを向けた。

「スマホの充電し忘れてたんだよなー! コレが! 目覚まし鳴るどころか電源すら入らねえの! 超ウケる!」
「ただのウッカリじゃねえか! このバカ!」

 思わず猿の肩を叩けば、途端に「うはははは!」といつもの笑い声が返ってくる。当然二人は担任から「お前らの出席もう取らなくていいな」と皮肉が飛ばされ、二人は一瞬口を噤んでから顔を見合わせた。

「オレら今セットで扱われた?」
「クッソ……最悪」
「なんでだよぉ!! ついにオレとお前の仲が公認に……!」
「気持ち悪い言い方するんじゃねえよ!」

 ゲシッ! と恵が再び猿の椅子を蹴り上げれば、途端に「ギャイン!」と猿は悲鳴を上げる。が、すぐさまケラケラと笑い出した。

「うははは! なんかおもしれーな! オレとお前がセット扱いなんてよ! ハッピーセットって名前つけていい?」
「ふざけんな! どう聞いても頭悪いコンビじゃねえか!」
「いや、頭いいお前と頭の悪いオレが合わさることでちょうどいい平均値にだなぁ……」
「そういう話じゃないだろ、このバカっ」

 イヤそうに顔を顰める恵だが、猿は気にせず「えー? ダメー?」と呑気に笑っている。そんな友人の姿に恵は怒りよりも呆れが勝り、最終的にはため息一つで流すことにした。

「はあ……。なんかお前といると世の中のこと全部どうでもよくなってくるな……」
「お? どしたどした。悟り開いちゃった感じ?」
「悟りっていうか怒り」
「おぎゃん! 嫌だ恵ちゃん怒らないで!」
「うぜえ!」

 ガバッ! と泣き真似をするかのように抱き着いてきた猿を勢いよく叩き、恵はそのままの勢いで鞄の中に入れていた制汗剤を取り出し、猿に向かって噴出した。

「ぶっへえ! ちょっ、なにこれ新しい嫌がらせ?!」
「いや。害虫とか幽霊とかこういうのに弱いって聞いたから」
「ついに害虫扱い?! せめて猿にして?!」
「猿は人の言葉喋らないんだよなぁ」
「虫はもっと喋りませんけど?!?!」

 もっともな猿のツッコミに、恵はずっと顰めていた表情をふと緩めた。

「まあ、アレだ。俺なりの優しさということで」
「え? なにそれ。今遠回しにくちゃいって言ったの? オレちゃん泣いていい?」
「猿くん昨日お風呂入った?」
「いやだ、ついにドストレートに聞いてきたわよこの子! 入ったわよ! 入ったに決まってるでしょ?! お猿さんは昔からお風呂好きっていうのが世界の常識なのよ?!」
「お前世界進出してないだろ」
「クッソ〜〜〜! オリンピックに出場さえしていれば〜〜〜!」

 相変わらずノリのいい男である。ついに堪えきれずに恵が吹き出して肩を震わせれば、それに気付いた猿も「うははは」と笑い出す。

「ひっでーの、お前。心配してたなら素直にそう言えよ〜」
「誰が言うかバーカ」
「あーもー。デレが分かりづれえんだよなぁ〜〜〜コイツぅ〜〜〜」

 窓際の席なこともあり、開け放った窓の向こう側へ後頭部を出しながら猿が空を仰ぐ。だがその顔はとても楽しげで、周囲の生徒も「本当に仲がいいなぁ」と二人のやりとりをほっこりとした気持ちで眺めていた。

「……これでも一応、LINK送るか悩んだからな」
「マジで? 普通に送ってくれたらよかったのに。……って無理だわ! オレ充電し忘れてたから普通に気付けなかったわ!」
「お前本当バカ」

 恵のいつもの「バカ」という言葉に、声のトーンに、猿も「マジでそれな」と言い返しながらも恵が普段通りの調子を取り戻したことに気付いてヘラリと笑う。
 猿は恵のことを詳しく知っているわけではない。それでも恵が色々と背負い込みがちな性格であることは察している。自分がその負担の一つになりたくないと思う猿は、こうした些細なことでも一々気に病んでしまう友人を改めて「不器用な奴だよなぁ」と認識する。

「あー。でも今日はスマホなしの生活かぁ。どーしよっかなぁ」
「お前言うほど弄ってないだろ」
「そうなんだけどさぁ。ないならないでなんか気にならねえ?」

 首を傾ける猿ではあるが、恵も猿もあまり学校内でスマートフォンを触る機会は多くない。元々頻繁にメッセージのやり取りをする相手がいない恵はともかくとして、猿は交友関係が広い。それでも頻繁にスマホを見ている様子がなかったことに気付き、恵は今更ながらに疑問を抱いた。

「そういえばお前、色んな人から連絡来てそうなのに、あまりスマホ見ないよな」
「ん? んー……まあ、そうだな」

 恵に指摘され、猿もふと思い至ったようにあごに手を当てる。そして「うーん……」と暫く唸った後、珍しく真面目な顔で恵の方を見た。

「なんつーかさ、やっぱりオレ、相手の顔を見ながら話すのが好きなんだよな」

 確かに、僅か数秒で相手に意思が伝えられる電子機器は便利だ。一昔前では掲示板に行先を書き、ポケベルや公衆電話を使ってやり取りをしていた。
 だが今は文明が進み、たった数秒で相手と意思の疎通が出来る。近くにいない相手と話す分には便利ではあるが、猿は「学校にいるなら会って話したいじゃん」と至極単純なことを口にする。

「便利ではあるし、嫌いなわけじゃないけど、折角話すなら会って話したいじゃん。今すぐ話さなきゃ手遅れになる! って場合じゃない限りは、昼休みとか放課後とかに会って話してもいいわけだろ?」
「まあ、そうだな」
「うん。オレはさー、人と話すのが好きだからさ。相手の顔見て話したいし、相手の声が聞きてーよ。近くにいるのに離れてるみたいに感じるなんてさ、なんか寂しいじゃん」

 元より家族仲がいいことも関係しているのだろう。何だかんだ言って姉とも毎日会話をしているし、日々の出来事を両親にも話している。だからこそ猿は「相手の顔を見て話したい」と口にする。
 恵はそんな友人の横顔をどこか眩しそうな目で見つめると、ゆるりと頭を振って視線を逸らした。

「お前、基本お祭り男だからな」
「まぁな。祭りはリモートじゃ出来ねえもん。っていうかそんな祭りはつまんなくね? やっぱり屋台は全制覇したいしよ!」
「バカじゃねーの? 破産しても知らねえからな」

 あまり祭りに行かないとはいえ、屋台の数が如何に多いかは恵でも知っている。実際に全制覇するわけではないと分かっているが、このお祭り男なら半分ぐらいは制覇しそうでつい顔を顰めてしまう。
 そんな恵に猿は「大丈夫だって」と相変わらず能天気気味に笑みを向けたが、すぐさま恵の視線が自分から逸らされていることに気付いて頬を掻いた。

「なあ、恵」
「ん?」
「オレはさ、相手の顔見て話すのが好きだけどさ」
「うん」
「それはただ自分が“寂しい”からそうしたいわけじゃねーんだぜ?」

 HRの終了を告げるチャイムが鳴り響く。再びクラス委員の声に合わせて席を立ちながら、恵は「どういう意味だよ」と猿へと疑問を投げる。
 その声音は先程までと違い少しだけ硬く、猿は未だに謎の多い友人の柔らかな心を言葉で傷つけないよう、出来る限り言葉を選びながら自身の考えを口にした。

「言葉ってさ、難しいじゃん?」
「あ? ああ」
「オレが単にバカだからって意味じゃなくて、ほら。顔が見えねえと、言葉一つとっても相手が本気で怒ってるのかそうじゃないのか分かんねえだろ?」

 冷たく硬い画面越しに伝えられる言葉だけでは、相手が何を考えているのか本当の所は分からない。それが猿の考えだ。
 目の前のお祭り男がそんなことを考えているとは思わなかった恵が目を丸くすれば、猿は真面目に話していた口元をゆるりと優しく綻ばせる。

「特に恵とかはさ、本心隠したがるじゃん」
「……別に……。そんなこと、ない……けど」
「ははっ。お前、ここぞって時に嘘つくの下手くそになるよなー。ま、だからこそ恵って感じなんだけどさ」

 バツが悪そうに視線を逸らす恵の姿に、猿は軽く吹き出した後窓の桟に肘を乗せ、改めて恵を真正面から見つめた。

「なあ、恵。オレはさ、大丈夫じゃねえのに、言葉だけで“大丈夫”って言われても、結構困るんだわ」
「――ッ」
「相手が本当に“大丈夫”なのかそうじゃないのか、オレは画面越しの言葉だけじゃ分かんねえの。オレの頭がもっとよかったら違ったのかもしれないけど、頭のいい自分とか、それ自体オレの頭じゃ想像できねえし」

 事実猿の成績はよろしくない。下から数えた方が早いぐらいだ。
 それでも猿はあまり自分が「損をしている」だとか「苦労している」だとか思ったことはない。猿は猿なりに、自分が『恵まれている環境』にいることを分かっていた。

「だから、恵が言う“大丈夫”が本当に“大丈夫”なのか、オレは恵の顔を見て判断したい。顔で分かんなかったら声の感じで決める。もちろん、それが絶対に正解だとは思ってないよ。恵の本心は恵じゃないと分かんないし、オレには恵の知らないところがいっぱいあると思うから、自分の判断が『絶対に正しい』とは思わない」
「……うん」
「だから、欲を言えば『正直に言って欲しいかな』とは思うけど、無理強いしたいわけじゃねえのよ」
「…………うん」
「うん。オレは、オレなりに恵がそういうの素直に言えないタイプだってことも分かってる。だから、恵の声のトーンだとか、目の動きだとか、そういうので判断するだけなんだよ」

 猿は『出来るなら本人の言葉で本心を語って欲しいけど、無理強いはしない』と素直になれない恵に告げる。それに対し恵が何も言えずに口を噤んでいると、猿はへにゃり。と締まりのない顔で笑った。

「でもさ、無理して恵が変わる必要もねーんだよな。だから恵は恵のままでいいよ。自分に嘘ついてまで“大丈夫”って言うのは恵がしんどいだけだろ? オレ、恵を追い詰めたいわけじゃないし。隠し事たくさんされるより、嘘つかれるほうがよっぽど寂しいよ」

 ヘラヘラしているようで、猿は人の顔をよく見ている。そして未だに何も話さない恵をそのまま受け入れてもいる。
 今まで周囲にいなかったタイプの男の顔を直視出来ず、恵は苦し気に眉間に皺を寄せ――結局何も言えずに唇を噛んだ。

「――……悪い。今は、まだ……」
「いいよ。言わなくて。でも、しんどい時とか、苦しい時とか、オレのこと心配してる時とかは、もっと素直に色々言ってくれていいよ。ってだけの話」

 恵は、以前よりずっと身も心も強くなった。それでも時々、幼い頃に傷つけられた心が血を流す時がある。ふいに痛みを思い出し、胸を掻きむしりたくなる夜が来る。
 そんな自分を見抜かれていたことに対する恐れや不安よりも、恵は今の自分が目の前の友人の信頼に応えられないことのほうが苦しかった。
 だがそんな恵すらも猿は受け入れるのだろう。現に「そんな顔すんなよ」と言って苦笑いしている。

「言ったろ? オレは恵を追い詰めたいわけじゃないって」
「そうだけど……」
「言いたくなきゃ言わなくていいし、話したかったら話せばいいんだよ。だってオレは解決できるほど頭よくないしなー。だからただ聞くだけ。それしか出来ねーって分かってるから、恵も期待すんなよ?」
「……適当言いやがって」

 出来る限り呆れた声を作ったつもりではあるが、恵の安心した気持ちが伝わったのだろう。猿はいつものように朗らかな笑みを浮かべる。

「だははは! 後先考えねえのがオレの長所で短所だから!」
「いや、ただの短所だろ」
「そうか〜? ま、オレからは何も聞かねえから。安心しろよ」
「……ったく。俺がいつまでも話さなかったらどうするつもりなんだよ」
「お? そん時ゃそん時よ。お前が何も話さなくてもオレとお前がダチなのは変わらねえからな」

 あっけらかんとした態度で、本当にそう思っているのだと分かる声でサラリととんでもない言葉を返してくる。一瞬呆けた恵に気付かないのか、それとも敢えてか。猿は固まる恵の目をまっすぐ見ながらニッと笑った。

「オレが待つことと、お前が正直に話すことはイコールじゃねえんだぜ? お前が決めていいことなんだから、オレがグチグチ言うのはお門違いってやつだろ?」
「…………お前……」

 この友人は、普段はとんでもなくおバカでお調子者ではあるのだが、本当に大事な部分は間違えない妙な器用さがある。
 だからこそ恵も心を許すことが出来たのだろう。改めてそれを実感した恵は、ひっそりと口元を緩めた。

「……お前、たまにはいいこと言うよな」
「たまにかーい!!! 上げて落とす! 上げて落とす作戦クソ!!!」
「ははっ、バーカ」

 今度こそ、心から笑った恵に、猿もいつものように「ひっでーの!」と返しながら笑う。そんな二人の耳に一限目の授業を知らせるチャイムの音が響き、入室して来た教師の顔を見て慌てて教科書を取り出したのだった。



***


 その後迎えた昼食前最後の授業――四限目が始まる前に、恵は財布を取り出す猿の行動に数度瞬く。

「そうか。お前今日購買か」
「おう。皆寝坊したからな。弁当作る余裕もコンビニに寄って飯買う時間もなかったんだわ」

 実際起きてすぐ用意をして家を出たのだろう。教室に着いた時に汗だくだった友人を思い浮かべた恵に、猿はニヤリと好戦的な笑みを向ける。

「オレちゃんマジマジのマジでスタートダッシュ決めて購買行ってくるから。応援してくれよな!」
「購買行くだけなのに何で応援が必要なんだよ」
「バッカやろう! 購買っていうのはだなぁ、生徒にとっては戦場なんだぞ?! 合戦上で丸腰のやつは死ぬだけなんだからな?!」
「意味わかんねえ」

 実際中学生の頃から一度もお昼の購買に行ったことがない恵である。何が売られているのか、購入時にはどんな賑わいを見せているのかも知らない。
 だからこそ「意味が分からない」と顔を顰める恵に、猿はブーと唇を尖らせる。

「これだからお坊ちゃまはよぉ」
「あ。目の前にデカイ虫がいるな。退治しよう」
「人を害虫扱いするのやめてくれません?!」

 朝のようにシュッとスプレーを掛けようとした恵に、慌てて猿が飛び退く。
 そんなくだらないやり取りをしているうちに四限目が始まり――時折猿が頓珍漢な回答をしては周囲を笑わせつつも恙なく終了する。

「きりーつ、れーい……」
「じゃな! 恵! 行ってきまーーーーす!!」
「おい、猿渡ィ! まだ先生退場してないだろうがあ!」
「先生ばいちゃー!! おつでしたー!!」

 あの野郎、と走り去る猿の背中に悪態をつくのは社会科の男性教師である。根が真面目なのか単なる性格なのか。底抜けに明るくおバカな猿にいつも振り回されている可哀想な男でもある。
 実際『購買ダッシュ』は教師が退室するまでしてはいけないという暗黙のルールがあるのだが、殆どの生徒がそれを無視して廊下を走っていた。

 そして「行ってきます」と言われた側の恵はというと、呆れた顔で「はいはい」と小声で返しただけである。
 それでも席に座って窓から見える渡り廊下へと視線を向ければ、そこには宣言通り一番乗りで購買に辿り着いた猿の姿が見えた。

「足だけは本当に速いんだよなぁ、アイツ」

 バタバタと、次から次へと生徒たちが渡り廊下で展開されている昼食の購買へと集っていく。そこには男子だけではなく女子の姿もあり、一体何をそんなにこぞって買い争っているのだと若干呆れた気持ちにもなる。いつも弁当を持ってくる恵にはやはり、全くと言っていいほど理解出来ない世界だった。

「ねえねえ、今日さー……」「母さんが昨日さぁ」「昨日のアレ見た?!」「コレ見て! マジやばくない?!」

 ガヤガヤと騒がしくなっていく教室の中で、恵はじっと頬杖をついたまま黙って渡り廊下を眺めている。まるで恵の周りだけ音が途絶えてしまったかのように、恵の耳には何の声も入ってはこない。
 机の上に出した弁当箱も、それを包んでいる袋も開けないまま恵が猿の姿を目で追っていると、目当てのものを買えたのだろう。猿が最前列から離脱し、他の生徒の邪魔にならない場所まで移動する。そしてふと己を見つめる恵に気が付いたのだろう。満面の笑みを浮かべながら大きく手を振った。

「なにやってんだ、バーカ」

 窓越しでも分かる「目当てのものが買えました!」と言わんばかりの輝かしい笑み。そんな友人に一瞬頬が緩んだものの、恵は敢えて顰め面を作って「分かったから早く戻って来い」という、親指を後ろに向けて帰還を促すハンドサインを出す。
 途端に猿は「OK!」と言わんばかりにウインクをし、更には親指を立てて再び廊下を走る。

「何だかんだ言って恵って猿と仲いいよな」「むしろ仲良くないと出来ないだろ、アレ」「ずっと見てるしなぁ……」「待ってる間暇だからだろ」

 恵は周囲の生徒のようにスマホに依存しているわけでも、『U』以外の電子の世界やゲームにのめり込んでいるわけでもない。
 勿論知や鈴にLINKを飛ばすこともあるし、弘香や瑠果とだって連絡を取る。千頭や忍とも話さないわけじゃない。
 授業の合間や、猿が戻って来るまでの間単語帳を捲って勉強することだって出来る。

 それでも猿を目で追ってしまったのは、ひとえに今日の会話があったからだ。

(……いつか、アイツに話せる時が来るのかな……)

 自分がどんな子供だったのか。そして『U』での自分がどんな姿をしているのか。
 そのどれをも秘密にしている恵は、バタバタと音を立てて戻って来た友人の姿を見ながら改めて考える。


 ――本当の自分を知ってもなお、この男は自分の“友人”でいてくれるのか、と。


「ケーーーイ! おっまたせーー!! 早くメシくおーぜ!!」
「お前待ちだったんだよ。いいから早く席につけ」
「あいよー!」

 両手いっぱいに戦利品を抱え込み、ルンルンとスキップでも踏みそうなほど上機嫌で戻って来た友人を恵は改めて見遣る。そしてすぐさま顔を顰めた。

「お前……全部炭水化物じゃねえか」
「んー。弁当もあるにはあったけどぉ、オレちゃん今日はパンの気分なりぃ」
「うっぜ。何キャラだよ」

 ゴロゴロと机の上を転がっていくのは、購買の定番メニューでもある『焼きそばパン』、ボリューミーな『メンチカツサンド』、ケーキのような甘さが特徴の『チョココロネ』、メロンの味など一切しないのに、名称だけで高売り上げを叩き出す『メロンパン』だ。
 栄養バランスの悪さに「うげっ」と顔を顰めた恵に、猿は悪びれる様子もなく袋を剥いでいく。

「たまにはこういうジャンキーな食事もいいもんだって。あとはほら、ここにプロテインバーもありますから!」
「それは栄養補助食品であっておかずとは言わない」
「まあまあ。こまけーことはいいんだって! な? いいから食おうぜ! いっただっきまーす!」
「はあ……。いただきます」

 がぶっ。と頬いっぱいに焼きそばパンを頬張る猿と、呆れながらも包みを開け、弁当箱の蓋を外した恵がいつも通りの昼食を始める。

 一年の頃はまだ、恵は猿と距離を置いていた。
 一緒に昼食を摂る時もあったが、その時は周囲にはもっと人がいた。それが苦手で誰かが集まり出す前に教室を抜け出し、誰もいない校舎裏に行って一人で食べる時もあった。

 それが今ではこうして互いの顔を見ながら、くだらないことを話しながら食事をしている。
 いつの頃からだろうか。恵は『誰かと共に食事を摂る』ことにストレスを感じなくなっていた。勿論、心を許した相手限定ではあるが。

「見て見て。こうやってさ、チョココロネ顔の横に置くと“お嬢様”の巻き髪みたいに見えねえ?」
「見えねえ。あと食い物で遊ぶな、バカ」
「えー! 姉ちゃんからは“くだらねえ一発芸ネタ選手権予選落ち”とまで言われたのにー!」
「普通に貶められてんじゃねえか!」

 今までの恵ならば、こんなくだらないやり取りに付き合うことはせず完全にスルーしたことだろう。現に今でも時折「無視していいかな……」と考える時がある。
 それでも結局付き合ってしまうのは、なんだかんだ言って恵もこの男との会話が楽しいのだ。素直に言えないだけで。

「つーか、お前お菓子とかでもそうだけど、甘いもの好きだよな」

 いつもポケットの中に何かしらの飴やチョコを入れていることを思い出した恵が問いかければ、先日も知にチョコを強請られて譲渡した猿が「おう」と頷く。

「甘いのも辛いのもすっぱいのも平気だぜ? てか好きだな」
「へえ。嫌いな食べ物とかないのか?」

 好き嫌いがないのはいいことだ。そう感心する半面、この男の弱みを知りたい恵である。何食わぬ顔を装って尋ねれば、根が単純な男は見事に引っかかった。

「あるある。オレちゃん苦い食べ物苦手なの」
「苦いもの?」
「おん。ゴーヤとか、特にキライ」

 チョココロネを食べているにも関わらず、おげっ。と顔中に皺を寄せる猿に恵は「フーン」と興味なさげに返答する。
 が、咀嚼していた卵焼きを飲み込むと、未だにゴーヤへのトラウマを語る友人に向けてあたたかく言い放った。

「じゃあ今度の誕生日に箱で送るわ」
「あっるえ?! 恵くんオレの話聞いてた?!」
「うん。聞いてた」
「聞いてたんかーい!! って、なんでやねん!! 悪魔みてえなこと言うなよ! 年甲斐もなく泣くぞコラア!!」

 本当に嫌なのだろう。必死に拒否する猿に、恵はニヤリと人の悪い笑みを口元に浮かべて揶揄いだす。

「知くんが植物育てるの好きなんだよ。まさか知くんの育てたものを捨てるとか拒否するとか言わねえよな?」
「おぎゃあ! コイツマジで悪魔みたいなこと言い出しやがった! 知くんを盾にするとか汚ねーぞ!!」
「だって知くんが『お猿さん、いつもお菓子くれるからなにかお返ししたいな』って言うから、俺もその期待に応えようと……」
「いやいやいや! お前今絶対『よし。猿に嫌がらせしたろ』って考えただろ!!」
「ははっ。そんなわけねえだろ」
「ちっくしょう! 隠す気のないいい笑顔ですこと!! 写真撮って売りさばいてやろうか!」

 いつもしてやられているからだろう。久方ぶりに有利に立てた恵が若干涙目になっている猿に向かって仏のような笑みを向ける。

「俺、カメラアレルギーだから写真撮られた瞬間お前の腕折ると思うけど、いい?」
「いいわけねえだろバッキャロー!! こーの根っからのデストロイヤーめ! 何?! 前世は破壊神か何かだったの?!」
「特技はオーバーキルです」
「いやーーーー! オレちゃんの携帯と腕がぽっきり逝く未来しかみえなーーーい!!」

 ギャアギャアといつもの如く騒がしく会話をしながらも、恵は言えない本心をひた隠して猿の言葉に笑う。
 周囲はそんな恵に「恵も最近よく笑うようになったなー」と平和な気持ちで見ていたが、猿だけは「やっぱり朝のこと気にしてんのかな」と考え、敢えていつも以上に騒がしく振舞うのだった。


 恵が猿にいつか過去の事を話せる時が来るのか。

 それはまだ、恵自身にも分からないことだった。



終わり



 猿くんはスマホの充電忘れたことに気付いても一応鞄の中には入れています。でも電源が入らないからただの板。それを忘れて「写真に収めてやろうか!」って騒ぐ猿と、分かっていながら「カメラアレルギーだからデストロイするね」って言い返す恵くんは結局仲良しなのです。つまりはそんなお話でした。(え?)

 最後までお付き合いくださり、ありがとうございました!



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