- ナノ -

恵くんは高校生!

竜ベルから始まり恵鈴で終わる話。無意識鈴に翻弄されていた恵くんが逆転した後に幸せになるお話。
※年齢操作をしております。『高校生の恵くんがこうなってたらいい』『こんな高校生恵くんが見たい』という欲望と妄想と性癖を詰め込んだだけのクソ煮込み小説です。捏造しかありません。
学校生活を捏造しております。ご注意ください。


 孤高の竜に触れられる人などそういない。
 元より神出鬼没で警戒心も強く、滅多なことでは声すら出さない。大柄な体躯の割に動きは素早く、背後から近づこうものなら一瞬で距離を取られるのがオチだ。そんな竜に憧れる少年少女は多い。

 孤高の王者。ならず者の王。世界一の嫌われ者。

 竜を表す言葉は多々あるが、そのどれもが一人のAzの前では全て虚像だったかのように崩れ去る。

「〜♪」

 鼻歌を奏でながら、竜の顎を膝に乗せて漆黒の鬣を撫でるのは世界の歌姫――“Bell”だ。
 彼女だけは竜の居城に自由に出入りすることができ、また天使を除けば竜の体に触れることが出来る唯一の存在である。

「ベルは、物好きだよね」
「え? なんで?」

 少しうねりがちの癖毛を指先で弄ぶかのように、竜の鬣に指を通していたベルに竜は呆れたような声音で話しかける。
 その体は柔らかな絨毯の上にダラリと力なく投げ出されており、顎だけがベルの膝の上に乗っている。本音を言えばこの『膝枕状態』も恥ずかしくて仕方ないのだが、これには理由がある。

 そう。簡潔でありながらもどうしようも出来ない問題。――体格差だ。

 竜が上体を下げればベルが「体勢キツクない?」と心配し、かと言って竜に合わせればベルが背伸びをしなければ届かない。当然ベルに無理強いすることなど出来るはずもなく、致し方なくこの体勢に落ち着いていた。
 正直彼女のファンが見れば血の涙を流しながら包丁を持って竜を刺しに来たことだろう。だが幸か不幸か、この場には竜とベルしかおらず、天使すら不在だった。

「だって竜に自分から触れようと思う人なんていないから」
「そんなことないと思うけど……」

 フン。と逸らされた黄金色の瞳はどこか拗ねているようにも、悲しんでいるようにも見える。もしくは諦めているのか。どちらにせよ放っておけない色を帯びている。
 ベルはそんな竜を見下ろしながら数度瞬き、慰めるようにその頭を抱きしめた。

「竜。わたしね、あなたにこうして触れることが出来て、とても嬉しい」
「……ベル」

 嫌われ者の竜に恐れることなく伸ばされる――抱きしめて来る彼女の腕はか細く柔い。下手をすると簡単に折れてしまいそうで、竜はいつも恐ろしくなる。
 その癖ベルは何も分かっていないかのように近づいてくるから堪ったものではない。

 もっと警戒心を持って欲しい。
 そんな悪態交じりの言葉だって頭の中には浮かぶのに、現実は真逆だ。柔らかな肌の感触に、まどろみたくなるほどの優しいぬくもりに安堵している。
 零される言葉はどれも甘く、竜の心を柔らかく撫で、包み込んでいく。

 自分にとって彼女が如何に大きな存在か。
 竜は『彼女が世界から消えてしまったら自分はどうなってしまうのだろう』と詮無いことを考えてしまうほどに彼女を深く愛し、傾倒していた。
 だがベルはそんなことちっとも知らないし、知ろうともしていない。ただ雨のようにもたらされる愛情に、竜はいつもグズグズに溶けてしまいそうになる。

「あなたに初めて触れた時の話なんだけど……実はね、変に聞こえるかもしれないけど、まるで失った半身に出会えたような、そんな気持ちになったの」
「半身?」
「そう。わたしの心の中に欠けていた何かがカチッとハマった感じ。ずっと探していたなにかに、誰かに、会えたような……。そんな気がしたの」

 ベルに、鈴に欠けていたもの――。昔はずっと“母親”だと思っていた。
 だが『U』を通して竜と出会い、竜のオリジンである恵の境遇を知り、恵ともう一度話がしたくてベルは正体を明かした。
 あの時、鈴の頭の中に浮かんだ光景は見知らぬ子供を助けに行く母の姿だった。

 ずっと『欠けている』と思っていた母を――『他人のためにすべてを投げ出す覚悟』を、その意思を、自分がしっかりと受け継いでいるのだと――鈴は身を以って知った。

 同時に鈴は悟った。あの時の母も、きっと今の自分と同じ気持ちだったのだと――。

「あなたを初めて見た時からずっと、あなたのことが知りたくて仕方なかった。目が離せなかった」

 鈴は自分でも不思議になるぐらい竜のことばかり考えていた。
 あなたはどこにいるの? あなたは誰なの? あなたは、今どこで、何をして、何を考えているの?

 様々な情報を取捨選択しながら見つけ出した城で出会った竜には、すぐに追い返されてしまったけれど。あの一連の出来事を決して後悔したことはない。

「あなたは、初めて会った時からわたしの心の中にいた。あなたを知れば知るほど離れがたくて、傍にいたくて――わたしに、何が出来るんだろう。って、ずっと考えてた」

 竜の正体を暴こうと世界が躍起になり始めた頃は『味方になってあげなきゃ』と思った。
 竜のオリジンである恵が虐待されている映像を見た時は全身が凍り付き、呼吸すら忘れるほどの衝撃を受けた。
 真冬の中、手袋もなしに外に出た時のように指先がかじかんで、冷たくなって、唇が震えた。

 ――彼を助けたいと、心から思った。

「……でも、僕は……キミを、拒絶した」

 竜は、恵は、鈴の言葉に拒否反応を起こした。

 助ける助ける助ける助ける助ける助ける助ける助ける――。

 うんざりするほど聞いてきた言葉を、見知らぬ女性が“ベルだ”と名乗ることも、全てが煩わしく、信じられず、たった一人の弟である知以外の存在全てを否定し、拒絶した。
 そんな恵の頑なだった心を溶かしたのは、Bellの歌声ではなく、鈴の抱擁だった。

「何も信じられなかった。誰も信じられなかった僕を――竜を、ベル。キミだけが、抱きしめてくれた」

 初めて竜に触れてからずっと、ベルの手は恐れることなく竜に伸ばされてきた。時に慰めるように、時に庇うように。そして、初めてベルと踊った時は――彼女の大きな愛に、心も体も溶かされてしまいそうだった。

「あの時、キミが僕を恐れて抱きしめてくれなかったら、僕はきっと、今でもキミを信じ切ることが出来なかったと思う」

 ゆっくりと上体を起こし、静かな瞳でベルを真っすぐ見つめる竜の言葉を、ベルも黙って聞き続ける。

「キミが大勢の人たちの前でアンベイルされた時も、震えながら歌っていた時も――心のどこかで、信じることを恐れてた」

 もし彼女が“Bell”じゃなかったら。もし、彼女の言葉が“嘘”だったら。
 一時の正義感で父親に虐待される子供を哀れんでいるだけだとしたら――。

 そう考えただけで、竜は、恵は、まっすぐ立っていられないほどの不安と恐怖を覚えた。

「キミにだけは、見放されたくなかった。本当のことを何一つ言えなかったのは僕の方なのに、キミを拒絶して、傷つけたのは僕なのに……。それでも、キミにだけは、離れていってほしくなかったんだ」

 今まで育ってきた環境がそんなことを言わせるのだろう。
 僕のせいだと、自分ばかり責める竜にベルは首を振る。

「偽っていたのはわたしも同じ。だってわたしは、美しい姿の“Bell”じゃないと歌うことも出来なかった。大勢の人の前に立つ勇気も持てなかった。ずっと……何も出来ない、何もない田舎でただ毎日を過ごすだけの、つまらない人だった」

 竜は、その時ふと“Bell”の向こう側で俯く黒髪の少女を見た気がした。
 白いシャツに赤いネクタイを巻いた、何の変哲もないか細い少女。
 俯きがちに歌いだした声は震えていて、唇は真っ青だった。見ていて可哀想だと思うほどに“普通の人”だった。

 それでも彼女は歌った。震えながら、泣きながら、最後まであの場所に立ち、大勢の前で歌い続けた。

 ――魂が震えるほどの――呼吸すら忘れるほどの、濃密な時間だった。

 スピーカーを乗せたクジラが、ただ口を噤んで漂うだけだったクジラが初めて声を上げた。ベルの歌を、彼女の想いを、ただの電子の世界だけではない。『U』の世界を超えた向こう側にいる人たちにまで届けるかのように空を飛んだ。
 多くのAzからあたたかな光があふれ出し、世界を覆いつくす様はただ美しかった。

 もう二度と見られないであろうあの光景を、恵は一生涯忘れることが出来ないだろう。

「ベル。キミは、本当の自分に対して自信がないみたいだけど、僕はそう思わない」

 雨の中、まともに住所を教えることすら出来なかった自分達の元に来てくれた。追いかけて来る父親の姿に怯え、後退った自分たちを細い腕で抱きしめ、背中で庇ってくれた。
 あの時の背中の頼もしさを――鈴の心の強さを、恵は心から尊敬している。

「例え顔立ちは似ていなくても、キミはベルだ。ベルは、キミの中にいるもう一人のキミでしかない。本当に美しいのは、誰かのために本当の意味で行動できる、キミの存在そのものだと思う」

 竜は、恵は、自分から正体を明かすことなど恐ろしくて出来ない。
 周囲の目よりも父親に見つかることの方がずっと恐ろしかったからだ。

 今でこそ『立ち向かおう』『自分も戦おう』と思えるようになったが、鈴に会うまでの恵は父親の虐待に屈しきった、ただの無力な少年だった。

「キミは僕を救ってくれた。“竜”という仮想の姿をした僕だけじゃなく、本当の僕も――“恵”も、救ってくれたんだ。……そんな人、キミが初めてだった」

 学校にいても、家にいても、いつも息を殺しているかのような毎日だった。
 親しい友人も作らず、挨拶もまともにしたことがない近所の人たちの視線に注意を払い、弟と二人、部屋の隅で時が過ぎるのをじっと待っているだけだった。

「ベル。キミがいてくれたから、僕は変われた。ずっと僕は自分のことが大嫌いだったけど……今は、少しだけ――自分の事を好きになれた気がする」

 そう言って穏やかに目を細めた竜に、ベルも――鈴も、同じように目を細めて微笑む。

「……わたしも。今は、少しだけ自分のことが好き。竜と一緒だね」
「うん。こんなこと言うのは照れくさいけど、僕たちは、出会うべくして出会ったのかもしれない」
「フフ、本当にね」

 改めて互いに顔を近付け、額をそっと重ね合わせる。電子の世界とはいえ、今だけは互いの息遣いも、心臓の音も、すべて混ざり合って溶け合って、一つになっていくような気がした。

「わたし、歌っている時の自分よりも、あなたの目に映っている時の自分が一番好き」
「僕は、まだそこまで自分の事を好きになれない。けど……いつか、ベルの目に映る自分を誇れるような……そんな人にはなりたいと思うよ」

 まだ自信がないのだろう。苦い笑みを浮かべる竜にベルもクスリと笑い、寄せていた額にそっと唇を押し当てた。

「――好きよ。竜。わたしは、あなたが大好き」
「…………あ、ありがとう、ベル……」

 まさか口付けされるとは思っていなかったのだろう。珍しく金色の瞳を丸くしたかと思うと、非情にギクシャクとした動きで顔を上げ、それからブルブルと頭を振る。

「でも、その、う、うれしい、けど、あんまり、こういうの、男の人にしないほうがいいよ」

 Azの向こう側では顔を赤くしている少年がいるのだろう。いつもと違いどもりまくる竜に、ベルは無邪気に笑う。

「しないよ。だってわたしの“特別”は竜だけだもの」

 ――ほらまた。こういうことを考えなしに言う。

 竜は咄嗟に大きな手の平で目元を抑えたが、年上の歌姫はこういうところはやけに無垢で純粋で――そこがどうしようもなく憎らしく、愛おしいのだ。
 だからこそ竜はその白い肌に噛みつきたくも、守りたくもなる。この城にずっと閉じ込めて、自分のためだけに歌って欲しいと思ってしまう。
 際限のない欲望だけが育っていくようで、竜はすぐさま思考を切り替えた。

「ベル。僕は今、すごく困ってる」
「どうして?」
「だって、キミの中で『大切な人』が増えたら、それだけキミと一緒にいられる時間が少なくなりそうだから」

 今まで『U』の世界に来ていたのは、結局のところ抑えきれない感情をどこかで発散させる必要があったからだ。
 父親に、うわべだけの言葉を並べ立てる大人たちに、綺麗ごとを言うだけ言って適当に涙を流して、実際には何もしてくれない人たちに。恵は、竜は、声にならない慟哭を上げるしかなかった。

 だが今は一人の少女に救われ、竜の心は別の感情で支配されている。
 今までとは違った“恐怖”と“不安”――。
 どれほど体躯に恵まれようと、中身はしがない十四歳の少年なのだ。それを改めて実感する。

「心配しないで、竜。こんな風に近づきたいと思ったのは、強く願ったのは、あなたにだけだもの」
「……じゃあ、ずっと僕だけにして。僕以外の誰かに、触れさせないで」
「フフ、竜もそんなこと言うんだ」
「言うよ。僕だって男なんだから」

 むっすりと、どこか不機嫌そうに目を細めながら竜はベルの体にグイグイと顔を押し付ける。
 その姿が甘えて来る愛犬のフーガにそっくりで、ベルは無邪気に笑いながらその立派な体躯を抱きしめた。

「大好きよ、竜。これからも一緒にいようね」
「……ベル。キミが、それを望むなら」

 本当は自分が言いたかったことを、ベルは簡単に言葉にしてしまう。
 竜は拗ねたくなるような、甘えたくなるような複雑な気持ちでいっぱいになりながらも、今はまだ無垢な歌姫の腕の中でゆっくりと燻る熱を抑え込むのだった。



***



 そうして竜とベルが『U』の世界で逢瀬を重ねること早数年――。
 現実世界では鈴も成人し、恵は高校生になっていた。

 鈴は相変わらず“Bell”として歌手活動を行っており、弘香と共に大手音楽会社と契約を結ぶまでに成長していた。
 それでも主な活動はあくまでも『U』の世界だけであり、現実世界で雑誌に載ったり、音楽番組に出ることはない。
 勿論『U』の公式から許可を得たうえで撮影された映像を流す事には同意している。そのおかげで“Bell”の名を知らぬ人は国内に殆どいない、と言われるまでにその名を広めていた。

 こうして一躍有名人になった“Bell”だが、そのオリジンである鈴は相も変わらず凡庸とした女性である。
 化粧やヘアアレンジで“Bellのオリジン”だということはバレずにいるが、学生時の画像は今でも出回っている。だからこそ外に出る時は『芋臭さ』が感じられないよう注意する必要があった。

「うん。こんな感じでいいかな」

 特に可愛いわけでも、スタイルがいいわけでもない。
 手先が器用なわけでも、センスがいいわけでもない。

 幾ら東京に出たとはいえ、周りの手助けなく『垢ぬける』ことは出来なかった。

 今でこそ様々な人からアドバイスをもらいながら服を選び、化粧をし、ヘアアレンジをするようになったが、そこまでの苦労を思えば今でも涙が出そうになる。
 それでも未だに耳に穴をあける勇気が持てず、ピアスは開けていない。だが鈴は「イヤリングでも十分お洒落は出来る」と考えているため、恐らく一生ピアスとは縁がないままだろう。

 そもそも鈴は「自分には似合わない」と常々思っているのだ。トレンドを意識した服装も、様々なアクセサリーも。だが弘香や瑠果から「お洒落はマナー」「お洒落は戦闘服」と散々教え込まれているため、渋々その教えに従っているだけである。
 現に鈴が持っているアクセサリーはどれも控めなデザインばかりだ。
 基本的に大ぶりなものは好まず、小さくて軽いものばかり選んでいる。それはひとえに自身を目立たせないためだ。
 元より大都会の東京で生まれ育ったわけでもない。川と緑に囲まれたド田舎出身なのだ。人目を惹くのではなく、人ごみに紛れて生活するほうが性に合っている。

 そんな後ろ暗いことを考えながらも支度を終えた鈴は、愛用のショルダーバッグを肩に掛けると待ち合わせ場所へと急いで向かった。

「――恵くん!」
「鈴さん」

 待ち合わせ場所である公園前には既に恵が立っており、鈴が声を掛けると柔らかく口元を綻ばせる。

「ごめんね。待った?」
「ううん。さっき着いたところ」

 恵は手にしていたスマートフォンをズボンのポケットに入れると、差し込む日差しから鈴を守るように立ち位置を少しだけずらす。

「今日は日差しが強いから、少し暑いね」
「うん。でも、晴れてよかった。最近は雨が続いてたから」

 鈴が言うように、この一週間は強弱に関係なく雨が降り続いていた。例え雨が降らずともどんよりとした雲はなかなか晴れず、憂鬱な日々が続いていたのだ。
 だが今日は久方ぶりに太陽が顔を出した。そのため緑が生い茂る公園の中には沢山の人で溢れかえっており、ランナーだけでなく犬を連れて散歩に来ている人や、ベビーカーを引くお母さん方もいる。
 まさしく長閑で穏やかな光景だ。
 大都会と呼ばれる東京であってもこういう場所はある。

 鈴は実際に東京に来るまで知らなかった場所を、こうして恵と共に回るのが楽しみだった。

「この前行った公園も広くて綺麗だったけど、ここも素敵だね」
「うん。ここには親子連れで来る人も多いから、いつ来ても賑やかだよ」

 そよそよとそよぐ風に乗り、名前も分からない鳥の鳴き声がそこここから聞こえてくる。
 高知の片田舎で過ごしていた時とはまた違う自然の空気を全身に取り入れながら、鈴は恵と共に他愛ない会話に花を咲かせた。

「学校はどう? もうすぐ体育祭って聞いてたけど」
「体育祭より文化祭の方がめんどうかな。遅くまで残って用意しないといけないから、なかなか帰れなくて」

 眉間に皺を寄せる恵のクラスは、文化祭でも人気のある『お化け屋敷』をすることになっていた。
 教室という狭い空間を生かしてどうセットするか――。
 様々な小道具をダンボールやペットボトルなどを駆使して作るのは存外骨が折れる。特に男子は力仕事を任されることが多く、恵はどこかうんざりした様子で肩を落とした。

「皆真面目にやれば早く終わるのに、すぐに飽きて遊びだすから全然進まなくて……」
「あ〜……特に小道具を自分たちで作らないといけない、っていうのがネックだよね」
「うん。教室前に設置する看板に、宣伝用のプラカード、血糊で汚したシャツも用意しないといけない。なのにクラス内で喧嘩ばかりしてて、先が思いやられる」
「あははは……。恵くんも苦労してるんだね」

 やらなければいけないことを指折り数えては、どれも中途半端な状態で止まっていることを思い出して恵の肩がますます下がる。
 そんな恵に「相変わらず苦労人だなぁ」と思いつつも、鈴は丁度木陰が覆っているベンチに座るよう促した。

「そんな恵くんに、今日はこれを持ってきたの」
「なに? それ」

 ジャン。と鈴がバッグの中から取り出したのは、鈴特性のフルーツティーだった。

「ルカちゃんやヒロちゃんと一緒に、どの組み合わせが一番美味しいか色々と試してるの。こっちにはハーブも入れてるから、甘いものが苦手な恵くんでも飲めるかな。と思って」

 鈴は高知にいた時から紅茶を飲むことが好きだった。父親が職場からフルーツを貰うことが度々あり、その度に試行錯誤しながら紅茶をブレンドして楽しんだものだ。
 それは今でも続いており、鈴の淹れるお茶を気に入った瑠果や弘香も一緒に作るようになっていた。

「フルーツとかハーブとか、組み合わせによって全然味が変わってくるし、気分も変わるんだよ」
「へえ。自分では作らないから、楽しみだな」
「キウイとオレンジとミントで作ったから、さっぱりした味だよ。飲んでみて」

 鈴がガラス製のボトルを渡せば、恵は日に焼けた手でよく冷えたソレを受け取り、マジマジと眺めた。

「綺麗だね。飲み物っていうより、ハーバリウムみたい」

 花屋や雑貨店などでよく見かけるインテリア雑貨が脳裏に思い浮かび、素直にそれを伝えた恵に鈴も頬を緩める。

「似てるよね。でもこれは飲みものだから、安心して」
「うん。それじゃあ、いただきます」

 蓋を開けて口をつければ、ミントの爽やかな香りとキウイ、オレンジの酸味が口いっぱいに広がる。清涼感のあるそれに、恵は蓄積された疲労が和らいでいく心地がした。

「――美味しい」
「よかった」

 微笑む鈴の手元にあるのは、ブルーベリーとイチゴで作ったものだ。それに気付いて恵が見つめれば、まだ口をつける前のソレを鈴が傾ける。

「こっちも飲んでみる? 少し甘いけど」
「いいの?」
「うん。どうぞ」

 蓋を外した鈴がボトルを渡せば、恵は少し迷ってから口に含んで舌の上で転がす。
 先程のものとは違い、清涼感は感じられない。それでも砂糖とは違いただ甘いだけではなく、ほんのりとした酸味も感じられる。恵からしてみれば十分甘く感じられたが、不味いとは思わなかった。むしろ紅茶の中でも美味しい方だろう。

「美味しい」
「ほんと?! よかった!」

 よっぽど嬉しかったのだろう。両手を合わせて喜ぶ鈴に、恵はもう一度「美味しいよ」と伝える。そしてボトルを返したところで、「あ」と声を上げそうになった。

「ん〜、美味しい!」

 だが恵の心配など全く気付いていないのだろう。鈴は恵が口をつけたことすら忘れたかのようにボトルに唇をつけ、満足そうに笑みを浮かべている。
 幾ら恵のことをそういう目で見ていないと分かってはいても、少しも迷う素振りがなかったことに恵は苦い気持ちが込み上げてくる。

(間接キスになる、って意識したのは僕だけか……)

 現に隣では鈴が楽し気にアイスティーを作っている時の様子を語り出しており、恵はその姿が愛おしいような、もう少し意識して欲しいと拗ねたくなるような、何とも言えない気持ちになった。

「それでね、ヒロちゃんったらルカちゃんと競い始めちゃって――」

 成人しても尚どこか幼く見える鈴の笑顔に、次第に恵も穏やかな気持ちになっていく。
 Bellとして活動している時は堂々として華やかで、大勢の人を惹き付けて止まないのに、今こうして隣に座る鈴の姿は本当に素朴だ。
 ベルが大輪の薔薇なら、鈴はひっそりと咲く鈴蘭だろうか。
 だが決して劣っているという意味ではない。密やかに咲く小さな花は薔薇と同じく多くの人に愛されている。恵にとっても竜にとっても、隣にいる女性は己の人生における唯一無二の花なのだ。どんな姿であれ愛おしく感じるのは当然だった。

「恵くん? どうかした?」
「ん? 何でもないよ」

 恵が黙って鈴を見つめていたことに疑問を抱いたのだろう。首を傾ける鈴に恵は軽く首を振った後――ふと悪戯心が顔を擡げ、上体を倒して鈴の肩に額を押し当てる。

「ッ?! け、恵くん?!」
「うん。少しだけ、こうさせて」

 どこか甘えるように額を当ててきた年下の男の子に、鈴は咄嗟に周囲を見回す。
 幸い近くに人はおらず、少し離れた場所で親子がキャッチボールをする音や声が聞こえてくるだけだ。あとは道沿いに歩く老夫婦の背中が微かに見える程度か。
 咄嗟に詰めていた息を吐きだした鈴に、恵は悪びれもせずクスクスと笑う。

「そんなに人目が気になる?」
「気になるよ! だって、恵くん、カッコイイし……」

 ぼそぼそと、最後は殆ど聞き取れないぐらいの声量ではあったが、鈴の肩に額を押し当てていた恵からしてみれば耳元に直接吹き込まれたも同然だ。
 途端に急上昇する体温と、跳ね上がる心拍数を悟られないよう努めながら、恵は出来る限り落ち着いた声で、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「本当に、そう思ってる?」
「お、思ってるよ! だってヒロちゃんもルカちゃんも言ってたよ。恵くん、モテるだろうなぁ、って」

 実際のところはもう少しあけすけだったが。

『モテる。つーかあれは絶対モテてる』
『うんうん。色んな子に告白されてそうだよねぇ』
『顔だけ見ればそこらのモデル並だからね、あの兄弟』
『話してみるとイメージ変わるけどね。特に知くんはおっとりしてるから』
『あーあ。学校一であろうモテ男が一途に追いかけてるのがこんなパッとしない女なんだから、世の女性陣はハンカチを噛み締めながら血の涙を流すだろうね』
『あー、ヒロちゃんひどーい。でも鈴ちゃん、綺麗になったよね。恵くんドキドキしてるんじゃないかな? 鈴ちゃんが“誰かに盗られちゃうかも”って』

 流石に瑠果の言葉には全力で否定をした鈴ではあったが、どうにもあの二人は以前より『恵の想い人は鈴だ』と断言してやまない。
 鈴からしてみれば恵ほどの男が何故自分などを好きになるのか。と心底理解出来ないのだが、恵からしてみれば『もう少しうぬぼれてくれ』と思わずにはいられない。
 だからこそ恵は“今日こそ意識してもらおう”と、いつもなら抑える欲を少しずつ出していく。

「でも、鈴さんはちっとも僕のこと意識してくれないから、てっきり脈なしかと思ってた」
「みゃ、脈?! な、なに言ってるの?!」

 ドクドクと、揶揄うような恵の言葉に鈴の心拍数が上がっていく。実際白い肌は染まっていることだろう。しかし相手は己の肩に額を預けているため顔色は見えていないはずだ。
 不幸中の幸いと呼ぶべきか、呼ばざるべきか。鈴は「どうしてこうなった」とグルグルと考えつつも恵の言葉に翻弄されていた。

「だって、『U』の中で会う時も、こうして現実世界で会う時も、鈴さんは僕を“男”として見てくれなかったから」
「そ、そんなことないよ! 恵くんはどこからどう見ても立派な男の子だよ!」

 ――男の子、か。と恵は心の中で呟く。

 これは単なるニュアンスの問題なのだろうが、恵としては『男の“子”』と言われるとどうにも子ども扱いされているような気がしてならない。
 確かに今はまだ未成年で、成人した鈴から見たら子供だろう。
 だが恵の体は中学生の時からうんと成長し、声も低くなった。鈴の小さな体など、竜でなくともすっぽりと囲えるほどに体格差が生じているのだ。
 それでも無意識にか、恵の事を『年下の男の子』と扱おうとする鈴にもやもやとした気持ちを抱いた。

「僕は、もっと鈴さんに“異性”として意識して欲しいんだけどな」
「ッ?! な、なななななに言って……!」
「――ねえ、鈴さん。僕が今どんな気持ちか、分かる?」

 スルリ、と恵が甘えるように鈴の肩に頬を寄せ、髪を鼻先で撫で、揶揄うように吐息で笑う。
 それは決して長閑な公園で醸し出すような健全な空気ではなく、鈴は全身が石になってしまったかのように体を強張らせた。

「鈴さんは、いつも意識してなかったみたいだけど――この距離は、いつも僕が“竜”として、あなたに触れている距離なんだよ」

 ゆっくりと鈴の肩から顔を離し、硬直する鈴に向かって妖艶に微笑む。
 その瞳はどこかギラついているようにも、蕩けているようにも見え、鈴は咄嗟に自分が普段『U』の世界で竜を撫でている時に見る瞳とそっくりだと思った。

「幾ら仮想世界であっても、感覚は蜜にリンクしてる。知ってはいても、理解はしてなかったでしょ?」
「あ……う……」
「だから鈴さんは――ベルは、いつもこの距離で、いつも僕のことを甘やかすように触れてきた」

 硬直する鈴の手を恭しく見える程丁寧に持ち上げると、恵は赤らんだ手の平にそっと頬を押し当てる。
 当然鈴の体はビクリと跳ねたが、その手が離れることを恐れるかのように恵は掴んだ手に少しだけ力を籠め、懇願するかのようにすり寄る。

「――ねえ、少しは、理解してくれた?」

 キラリ、と太陽の光を反射したかのように煌めく瞳に、鈴は「ああ……!」と声にならない声をあげる。
 それはいつも自分が――Bellが、竜に触れながら見る時の瞳と同じだったからだ。

 どこか責めているようにも、甘えているようにも見える不可思議な色を纏った金色の瞳――。
 あの瞳が、あの時の竜が何を考えていたのかを、鈴はこの時初めて理解した。

「ご、ごめんなさ――」
「違う。違うよ、鈴さん。謝って欲しいんじゃない。僕は、もっとあなたに意識して欲しいだけ」

 恵は徐々に頬だけでなく耳や首筋まで赤くする鈴に教え込むように、掴んだままの手の平に唇を押し当てる。そうして「ちゅっ」とわざと音を立ててキスをすれば、ぶわり、と鈴の全身が粟立った。

「け、けけけけ恵くんッ……!」
「これも、初めてじゃないよ。僕が“竜”になってる時、鈴さんは僕の顔も、首も、髪も、あますとこなく触ってたでしょ? 鈴さんの手の平に僕の唇が当たるのだって、コレが初めてじゃない」

 例え本当の肉体ではない、Azを通した接触であろうとも。感覚がリンクしている以上、無邪気に触られるのは思春期の体には随分と堪えた。

「まるで拷問みたいだった。骨までドロドロに溶かされるのに、一番欲しいものは与えられない。手を伸ばせば届く距離にいるのに、心は届かない。喉から手が出るほど欲しいのに、あなたは無邪気な笑顔を浮かべながら僕の手をすり抜けていくだけ。ねえ? 今、どんな気持ちか、分かる?」

 恵は、今まで鈴がどういう風に自分に、“竜”に触れてきたのかを教え込む様に鈴の手の平に肌を押し当てていく。
 サラサラとした髪に、緩やかなカーブを描く頬。瞬く度に存在感を主張する睫毛は艶めき、色素の薄い瞳は試すように鈴を射抜く。
 そうして誓うように唇を指先に押し当て、鈴の呼吸も思考も乱していく。

「――これを、あなたはずっと繰り返してきた。何年も、何年も。……僕はもう、鈴さん以外の誰かを想えない。あなた以外の誰にも触られたくない」
「はっ、ふぁっ」

 呼吸すらままならない、あまりにも刺激的な光景と耽美な触れ合いに鈴の頭は完全にショートしていた。
 ずっと年下の“男の子”だと思っていた。ベルとして触れている時も、頭の片隅では竜のことを『フーガみたいだ』と思っていた。
 決して竜を“ペット扱い”していたわけではないが、忍とは違い“異性”として意識はしていなかった。

 だけど本当は、目の前にいる“少年”は“男の人”なのだと――鈴は思い知った。思い知らされたのだ。
 この不遜なまでに鈴の心を掻き乱す行動によって。

 だが不思議と恵の手を振り払うことも、勢いよく立ち上がり、この場を立ち去ることも出来なかった。

 腰が抜けていたというよりも、日夜竜に触れ続けてきた光景が次から次へとフラッシュバックして、自身の行いに顔を青くしたり赤くしたりすることで忙しかったからである。

「鈴さんに嫌われたら――鈴さんに、“いらない”って棄てられたら――僕は、もう何を信じて生きていけばいいのか、分からない」

 今まで蠱惑的なまでに言葉を紡ぎ、鈴の羞恥心やら何やらを刺激しまくっていたのが嘘のように、恵は寂しそうに瞳を伏せて鈴の手をギュッと握りしめる。
 その姿がまるで道に迷った子供のように感じられ、鈴は驚いた。

 初心な鈴をここまで懊悩させたのに、今は庇護欲を掻き立てるようにしょぼくれている。
 経験豊富とは決して呼べない鈴が狼狽えている間にも、恵はずっと仕舞い込んでいた心の内を明かすかのように想いを言葉にした。

「ベル。僕の人生はキミのものだ。キミ以外の誰かに触れられることも、愛されることも、僕には不快でしかない。キミが“いらない”と言うのなら、僕は自分の人生すらどうでもいいと思えてしまう」

 幼い頃はただ“弟を守らなければいけない”と思っていた。それが自らの使命のように感じていたし、実際弟を守るために自分は生まれてきたのだと考えてすらいた。
 だけど『U』を始めて、“Bell”に出会い――“鈴”と触れ合うようになってから、その考えは一変した。

「僕はずっと、知くんを守るためだけに生まれたんだと思っていた。知くん以外の誰も信用出来なくて、知くんさえ元気でいてくれたなら、無事でいてくれたら、“無価値な僕”にも生まれた意味があるんじゃないかって、ずっとそう考えながら生きてきた」

 だが今はもう――知は自分が守らなくてもいいと思えるほどに、心も体も成長した。

 ベルのマネージャーである弘香からも、良くも悪くもたくさんのことを学んでいるからだろう。以前よりずっと口が達者になり、勉強も出来るようになった。
 学校では友達が出来て、笑顔も増えた。家事だって、恵と共に行ってきたから殆どのことが一人で出来る。

 もう恵がいなくても、知が困ることは何もない――。

 恵はそれに気付いた時、安堵すると同時に昔父親が散々口にした『無価値な人間』になった気がした。

「そんなこと言わないでッ!」

 だから鈴の――悲鳴にも似た声で否定されたことに、恵はハッと目を見開いて鈴を見返した。

「無価値な人なんていない! だって恵くんがいなくなったら、わたし……! ううん。わたしだけじゃない。知くんも、ヒロちゃんも、ルカちゃんやカミシンだって、学校の皆だって、絶対悲しいよ!」
「……鈴さん」

 感受性豊かな鈴の目には大粒の涙が浮かんでいる。それは一度、二度と瞬くと共に頬を流れ落ち、恵は咄嗟に指先で拭い取った。

「ごめん。泣かせたかったわけじゃ――」
「恵くんは! もっと自分を大事にすることを覚えて!」

 先程まで恵に迫られ、赤くなっていたのが嘘のように今度は鈴から顔を寄せてくる。
 そうして“Bell”と同じように恵の頬に手を伸ばすと――しっかりとその存在を確かめるかのように両手で挟み込んだ。

「恵くん。恵くんは、自分のことを低く見過ぎだと前から思ってた。竜であってもなくても、恵くんはわたしにとって大切な人なの。それなのに、どうしてそんなこと言うの?」

 鈴はじっと恵の――心底驚いているように見える、いつもより見開いた瞳を見つめる。突然大人びた言動をしたかと思えば、透き通る水のような、幼い子供のような瞳で鈴を見つめる時がある。
 今も鈴を見つめる瞳は不安な心を表しているかのように揺れている。
 鈴はそんな恵を叱りつけるように、教え込む様に敢えて目尻を吊り上げる。

「今度からは――ううん。今から、もう絶対にさっきみたいなことは言わないで」
「鈴さん……」
「あなたは“無価値”な人なんかじゃない。わたしがあなたの人生を好きに決めていいわけでもない。あなたは、あなたの人生は――あなたが選んで、掴み取っていくものだから――。わたしは、わたしのエゴで、恵くんの人生を縛ったりしない」

 そこまで言うと鈴はゆっくりと恵の頬から手を離し、目尻に残る涙を軽くふき取ってから苦く笑う。

「でも、半分以上はわたしのせいだよね。まさか……その……竜に触れてる時、恵くんがあんな状態だったなんて、少しも考えたことがなかった」
「……結構大変だったんだよ。我慢するの」
「恵くんが我慢強い子に育ってくれてよかった。って、割と本気で思ってる」

 ――ここでまた子ども扱いをする。
 恵の不満が顔に出ていたのだろう。むすっと寄せられた眉間の皺に鈴は思わず笑う。
 だが恵は高校生で、鈴は社会人だ。幾ら今は私服で互いの年齢が一見では分からなくとも、守るべき一線はある。

「……でもね、恵くん。もしこの先も恵くんがわたしを想い続けてくれるなら――」

 わたしだけを追いかけて、見続けてくれるなら――

「わたしの未来を、あなたにあげる」

 そう言って微笑んだ鈴に、恵は一瞬呆けた後脳内でゆっくりとその言葉を噛み砕いき――思わず立ち上がった。

「す、鈴さん、それって……!」
「でも! 今はまだダメだから!」

 今は、『まだ』。
 その言葉を、恵はどれほど待ち望んでいたことだろう。

 じわじわと沁み渡るように全身に広がっていく感情は――歓喜か。それとも興奮か。あるいは、泣きたくなるほどの愛おしさか――。
 ハッキリとは分からなくとも、これだけは言える。

「――嬉しい。ありがとう。鈴さん」

 コツン。と、あの雨の日に触れあった時のように、額を合わせて囁く恵に鈴は頬を赤らめる。
 考えてみればこの数年、鈴が自ら手を伸ばし、触れてきた異性は“恵”だけだった。“竜”としても“恵”としても、何度この手で触れてきたか分からない。

 まさかその触れ方があんなにも厭らしいものだったとは思いもしなかったが。
 しかしその甘い拷問に耐え続けてきた恵は、鈴が想像する以上に大変だったのだろう。中学生の時から今の今まで、男の子にとっては大事な時期だ。
 それを鈴が、ベルが、自分以外の誰をも寄せ付けさせないかのように一人占めしていたのだ。恵の心中を思うと何も言えなくなる。

 実際今度からは気を付けよう。と鈴が内心誓っていると、顔を離した恵が先程よりもずっと蕩けた瞳を向けてきた。

「ねえ、鈴さん。今の台詞は、今度は“コッチ”の世界でも触れていい、って意味だよね?」
「――へ?」
「だって、“竜”の時は何度もキスして――」
「わあああああ!!! そ、それは、あの……!」

 恵が言うように、鈴はベルとして何度も竜の鼻先や額、瞼の上や頬に唇を押し当てたことがある。
 それにやましい意味はなく、ただ自分の前では『可愛らしい竜』に魅了され、ついつい衝動に任せてしてきたことだった。

 だが恵からしてみれば『好きな女の子にひたすら甘くキスされている』状態であり、あけすけに言えば『常に生殺し状態』だったのだ。
 それでも理性を総動員して我慢し続けたのは、ひとえに鈴が無垢で純真な女の子だったからでしかない。大切で、大事にしたい唯一無二の存在だったからこそ恵は我慢に我慢を重ねてきたのだ。

 だが相手の許しが出たのであれば話は変わる。

 現実世界でも触れてもいい。
 そうと決まれば見えない尻尾を千切れんばかりに振ってしまうのが男という生き物である。
 真っ赤になって恵の口を両手で塞ごうとする鈴に、恵は年相応にムッとした顔を見せる。

「鈴さんばかりキスしてずるい。それに少し意地悪な言い方すると、幾ら仮想世界と言っても未成年に――」
「ああああ! わかってる! わかってるから言わないでぇ!」

 意図していなかったとはいえ、今までの鈴は未成年の男の子を誘惑した女である。
 改めて自分は一体何をしていたのだと鈴がグルグルと渦巻く頭の中で自問自答していると、恵が再び顔を寄せた。

「ごめん。冗談だよ。本当はいつだって嬉しかった」
「え」
「だって、僕以外の誰かに鈴さんが、ベルが同じように触れていたら、僕はきっと『U』の世界を壊すほどに暴れて手が付けられなかったと思う」
「け、恵くん……」

 悪戯を思い浮かんだ子供のような瞳で、何でもないことのようにとんでもないことを抜かす恵に改めて鈴は恵の想いの大きさを知る。
 常人であれば「怖ッ」「重ッ」と顔を青くさせただろうが、生憎と無自覚なだけで恵のことが大好きな鈴である。自分に向けられる大きすぎる愛情にクラクラと酔いしれそうになった。

「でも、キスしたいのも本当。だってずっと、“竜”じゃない僕自身が鈴さんに触れたかったから」

 そう言って再び鈴の手の平に唇を押し当てる恵に、鈴の体が再度震える。
 だが『逃げだしたい』と思うことはなく、むしろそっと恵の唇に指を馳せた。

「…………わたし、今、ベルじゃないよ?」
「それが? 僕からしてみれば一緒だよ。どっちも大事で、大好きだ。ベルにも鈴さんにも、触れたいと思っていたから。何の問題にもならないね」

 まるで甘える子犬のように、黙っていれば鋭く見える瞳を潤ませ、小首を傾け見つめてくるあざとい青年の姿に鈴はギュン! と心臓が音を立てて掴まれた気がした。

「…………わたしだって、竜も恵くんも、だ、だいすき……だから」
「うん。知ってる」

 意を決し――それでも尚蚊の鳴くような声で『告白』した鈴に、すっかり自信をつけた恵が高校生らしく生意気なことを口にする。
 それでも鈴を見つめる瞳はとろり。とパンケーキの上にかけられる蜂蜜のように甘く蕩けており、鈴は「どうしたってこの年下の男の子からは逃れられないのだ」と思わずにはいられなかった。

「鈴さん。大好き」
「……うん」

 溢れる想いを、中学生の頃と変わらず紡ぐ姿は成長しているはずなのに、鈴を見つめる顔は心底幸せそうで――まるで初めてデートに成功した少年のようだった。

(……可愛いなぁ、もう)

 鈴は今更ながらに自分がこの“少年”を――“竜”を、心底愛しているのだと気付く。
 それを自覚させた方法は少々荒っぽかったとはいえ、今まで恵の気持ちに気付かなかった鈴も鈴である。
 弘香に鈍い鈍いと言われ続けたのも無理はないな。とどこか冷静に考えつつも、甘えて来る恵の唇にそっと自身の唇を重ねたのだった。




 終わり


 因みにベルは『U』の世界でも竜の口にキスをしたことはないです。

 そのことに鈴が気付いたのは帰宅した後で、思わず「唇にしたのは初めてでは……?!」と頭を抱えてたら可愛い。


 最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。



 あとすごい個人的な見解を語るのですが、何故恵くんに頑なに「鈴さん」と呼ばせているのかと言うと、「鈴」と呼ぶと忍くんみたいで恵くん自身が「二番煎じみたいでいやだ(無自覚の敵愾心)」と思っていたら可愛いな。と考えたからです。
 あとは「鈴ちゃん」って呼ばせるとルカちゃんやカミシンみたいで『特別感』がなくなってしまうし、同級生や親せきのお姉ちゃんを呼ぶみたいでちょっと複雑。「すーちゃん」とかの可愛らしい愛称は恵くんの性格上呼べなさそうだなぁ。と考えた結果、そういえば鈴のことを「鈴さん」って呼ぶ人が周りにいないな。と思い、恵くんは『自分だけの呼び方』として「鈴さん」を選んでたら可愛いな。と思って「鈴さん」呼びで統一しています。
 今後も変わらないと思うので、一応ご説明だけさせて頂きました。つまらない話をしてすみませんでした。


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