- ナノ -

誤解


 鶴谷さんと偶然家の方向が同じだと知った日の夜。自室からその光景を見ていた姉貴から散々揶揄われ追及され、反論したら物理的にも反撃にあって大変だった。
 両親からも「遂に彼女が?」なんて勘違いされて肝が冷えたし、反射のような速度で全力否定したのに一体どういう妄想をしたのか。母さんは「うふふ」と笑いながら「いつか紹介してね」なんて口にするからゾッとした。
 もしこの場に鶴谷さんがいたら絶対にまたあの鋭い眼差しで睨まれるに違いない。
 彼女の耳に入ることはないと分かってはいても、自分の中から疑念を消し去りたいのだ。でないとどうなるか……。物理で勝てたとしても彼女の冷たい一瞥だけでHPがゼロになる自信がある。だからどうにか理解してもらおうと言葉を重ねたのだが、盛り上がる母さんと姉貴には通じて――いや。聞こえてすらいないようだった。
 父さんは同性だからかあまり深くは突っ込んでこなかったけど、保護者としての責務からか、それとも道徳的な観点からか。真面目な顔で「間違いだけは起こすなよ」と諫めるように釘を刺してきただけで助けてはくれなかった。
 とはいえ間違いなんて起こす気はさらさらない。そもそも起こり得る可能性自体が存在していない。だから余計な心配なのだが、皆聞く耳を持っていないらしい。当事者を置いてけぼりにして盛り上がる話に頭が痛くなった。
 それでもどうにか囃し立てる姉貴を振りほどいて自室に逃げ込み、その日はそのまま引きこもって朝を迎えた。
 ただいつも通りの時間帯に起きるとまたもや姉貴に捕まるので、いつもより早く起きて家を出た。
 姉貴は朝に弱いから、まだ眠っている頃だろう。

「はあ……。疲れた……」

 起きてからまだ一時間も経っていないというのに、何故かもう全身が怠い。
 これも全部性格の悪い姉貴のせいだ。面と向かっては言えない、言えば最後。確実に関節技を掛けられるようなことを内心で呟きながらいつもより人通りの少ない道を歩いていると、突然肩を叩かれて慌てて振り返った。

「おーっす。おはよう、高谷」
「あ……。加藤。おはよう」

 振り返った先に立っていたのは、ジャージ姿のクラスメート――前の席に座っている加藤だった。

「朝練?」
「そ。これから朝練」
「大変だな」

 加藤はサッカー部に所属しており、レギュラーではないものの補欠として何度か試合に出たことがあるらしい。俺はサッカーを始めとしたスポーツ全般に詳しいわけじゃないからそれがどれだけすごいことなのかもよく分かっていないのだが、試合に出られるレベルなら上手いんだと思う。
 そんな加藤は気さくで人懐っこい性格をしている。普段一緒に行動しているわけではないが、見かけたらこうして挨拶してくれるいいやつだ。日に焼けた肌と無駄なものが何もない、チーターみたいな細い足にはちゃんと筋肉がついている。ヒョロガリの俺にはないものばかりで、正直ちょっと眩しい。

「好きでやってるから大したことねえよ。ま、早起きだけはちょっとしんどいけど。でも走ってりゃ目が覚めるしなー」
「朝から走れるだけで尊敬する」
「ははっ! なんだそれ! つか、高谷はなんでこんなに早いわけ? お前なんか部活入ってた?」
「いや。ちょっと早く目が覚めて……。家にいたくなかったからそのまま……」

 朝に弱い姉貴だが、顔を合わせたらまた何を言われるか分かったものじゃない。だからそそくさと逃げるように出てきたのだが、加藤は「思春期特有のもの」と勘違いしてくれたらしい。「そういう日もあるよなぁ」と軽く流してくれた。

「つかさ、高谷って鶴谷さんと仲いいの?」
「は?!」

 思わぬ人物の名前が聞こえてきて思わず、それこそ変な声で叫ぶように聞き返してしまう。そんな俺に加藤は「声デカっ!」と軽く笑った後、肩にかけていた鞄の中からスマホを取り出して軽く左右に振った。

「昨日の夜西野からRINEが来てさ。お前と鶴谷さんが一緒に帰ってる、って言われてビビったぜ。ほら」

 そう言って見せられたスマホの画面には、少し距離を開けて下校している俺と鶴谷さんの後ろ姿が映っていた。知らない間に撮られていたらしい。
 西野は同じクラスの男子だ。加藤と仲良くしている男子の一人で、あまり話したことはないけど愉快なやつだということは分かっている。コウキと並んでよく喋る男子だからなぁ。あとよくオネエ口調になっては皆を笑わせている。所謂『お調子者』っていうタイプだ。
 だからまあクラスメイトが一緒にいたら目で追ったんだろうけど……。気持ちは分かる。月とすっぽん、俺と鶴谷さんが並んで歩いてたら不思議に思うのは無理もない。ないのだが――。

「隠し撮り……」
「ははは! 隠し撮りって! 言いすぎだろ!」
「ははは……」

 爆笑する加藤だが、俺は冷や汗ドッバドバだ。だって、これこそまさに鶴谷さんが嫌う『噂』の足掛けになるやつだろ。それに加藤は「言いすぎだ」って言うけど、相手側が不快に思ったらそれはもうダメなことで……。いや……。言っても無駄か。撮ったのは加藤じゃなくて西野だもんな。でもそれを本人に見せるのもなぁ……。

「あー……。別に、仲はよくないよ。昨日も、偶然一緒になっただけだし」
「ふぅん? でも意外だよなー。鶴谷さんっていつも一人でいるイメージだからさ。共通の話題とかあったわけ?」
「いや。何も。無言で帰った」

 これは半分正解で半分は嘘だ。共通の話題はあったけど、あれは完全に恐喝する側とされる側だったし、その後は何の話題もなく無言で帰った。だから『噂』になるようなことは何一つとして起こらなかったのだと伝えれば、加藤は「そっかー」とこれまた軽く頷くだけだった。

「ま、そうだよな。あの鶴谷さんが男と仲良くするわけないか」

 加藤に悪気はないのだろう。“あの”という言葉に蔑むような感じはなかった。だけど本人が聞いたら怒るだろうなぁ。とは何となく思った。
 別に俺だって彼女のことを完全に理解しているわけではないが、彼女はどことなく潔癖というか、品行方正な感じがするから。
 自身が噂の種にされることは勿論、揶揄されるのも嫌うだろう。
 あのキリっとした眦が再び吊り上がる様を想像すれば身震いしそうになり、慌てて首を横に振る。

「西野、何か言ってた?」
「ん? 別に? 普通だぜ? 『付き合ってんのかと思ったけど、そんな感じでもなさそうだった』ってさ」
「ああ……。よかった」

 もしも鶴谷さんの耳に入ったらと思うとゾッとする。またあの目に睨まれるのはごめんだと肩を落とせば、加藤からバシバシと少し痛いぐらいの力で背中を叩かれた。

「ま、いざとなったら相談には乗るからな! 頑張れよ!」

 いや。何を頑張れって言うんだ。まさかとは思うが俺が鶴谷さんに片思いしている、とか勘違いしてないだろうな?
 どうしようもい不安に襲われるが、その間に学校に着いてしまった。

「じゃ、また後でな!」
「あ、ああ……頑張って……」

 元気よくグラウンドに向かって走り出した加藤の背に手を振り、昇降口で靴を履き替え教室へと向かう。
 まだこの時間には誰もいないかと思ったが、バス通学の生徒は早いらしい。既に自習を始めている人もいれば、鞄だけ置いて他のクラスに遊びに行っている人もいるようだった。

「はあ……。疲れた……」

 結局家を出てもこの話題に振り回されてしまった。しかも写真まで撮られているなんて……。最悪だ。とはいえ西野に「写真を消してくれ」と頼むことは出来ない。西野は良くも悪くもお祭り野郎だ。少しでも『男女の色恋』だと勘違いすればすぐに首を突っ込んで掻き回してくるはずだ。
 ……ああ。ダメだ。考えるだけで頭が痛い……。もうこうなったら噂が広がらないことを祈るしかない。……無理かもしれないけど。
 何はともあれ今は精神的に休息が必要だ。コウキとチュウさんが来るまで時間はある。だからもう少しだけ休んでいよう。と、机の上に置いた鞄を枕に、腕を組んでそこに突っ伏した。

2022/06/16 20:25
<< >>