短編 | ナノ




天気が良い土曜日。特別することもなくて、ただぼうっと外を歩いてた。日を重ねるにつれて少しずつ鋭くなっていく風の冷たさや、だんだんと色付きはじめた葉の色、金木犀の甘い香りだとか。いたるところから感じる秋の訪れに、どうしようもなく切なくなる。ああ、そろそろ家に帰ろうか。温かい紅茶をいれて、読みかけの本の続きを読んで、そうだなあ、その後はどうしようか。

「見つけた」

帰り道へと足を進めようとしているとふいに、そう声が聞こえた。耳の奥で直接響いたような、不思議な感覚がする。どうやら私に向けられているようだ。そして、声が聞こえると同時にぱし、と冷たい手が私の手首を捉えた。回らない頭でぼんやりと、ああ、きれいな手だな、と。そう思った。

「ああ、やっと、やっと見つけた」

私の手首を掴む彼は「見つけた」と、何度も呟く。彼の顔を確かめようと振り返れば、逆光で目が少し眩んだ。改めて彼の顔を視界が捉える。

「なまえ、」

大切に、慈しむように私の名を呼んだ彼の、そのどこか縋るような瞳と視線が交わった。頬に優しく手を添えられるが反応出来ない。どうしよう、どうしようなんて考えていたらぎゅ、と私の手を掴む力が少しだけ強まった。かと思うと、そのまま手を引かれて抱き締められてしまう。ぎゅうぎゅうときつい抱擁に呼吸が苦しいとさえ感じた。

「なまえ、なまえ」
「…っ、あの、」

どちら様ですか。意を決してそう尋ねた瞬間今度は肩を掴まれて引き剥がされた。目まぐるしい展開にとてもじゃないがついていけない。ただ、今のは軽率な発言だったのかもしれない、と少しだけ後悔した。ひどく戸惑った、失意を滲ませた表情を彼はしていたから。胸が痛む。痛むけれど、私にはどうすることも出来なかった。

私は彼を知らない。

「もしかして、忘れてしまった?」
「えー、と…」
「そうか、覚えてないのか」
「す、すみません…」

忘れるも何も初対面じゃないか、とは口には出さずに下を向く。お気に入りの靴が視界に入る。つま先の部分が丸くなっていて可愛いんだよね、なんてああ、今はそれどころじゃない。この状況で一体私にどうしろというんだ。

「鉢屋三郎」
「……はい?」
「鉢屋、三郎。私の名前」
「はあ…、私はなまえです」
「…知ってる。なあ、何か思い出したりは?」
「えっと…すみません」

なんとも言い難い沈黙と一緒に、時は流れる。鉢屋と名乗る彼は口元に手を当てて何か悩んでいるようだった。そして溜め息を、ひとつ。…溜め息を吐きたいのは私の方だ。

「もういい」
「え?」
「この際私の顔を思い出せなくても構わない」

あの頃とは少し違うわけだし。と少し引っかかる物言いをされたけれど、彼の言ったあの頃も、それと今がどう違うのかも私にはわからなかった。けれど、

「ただし、」

ああ、どうしてだろう。私はこの笑顔に見覚えがある。

「あの約束を忘れたとは言わせないからな、なまえ」



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -