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薬漬けの理由


これの前日譚



 ありきたりな悲惨小説のような話だ。
 
 瀬名泉が絢爛豪華を極めた客船に乗り込んだその日は、灰埃のような雪が霧のように満ちていた。
 昼間だというのに、空は陰鬱にくすんだ雲に覆われ、吹く風は小さなため息すら漏らさず凍らせようとしている。
 雪は降っているのか舞い上がっているのか錯覚するほど、そこらじゅうを飛び回っており、呼吸がしにくかった。粒子のようなひとひらの間を塗って、どうにか冷たい酸素を取り入れる。

 肺が冷たい。頬も。鼻も。痛いほどに。感覚を失っているようだ。心まで。

『じゃあ、ここで』

 泉を見送った男は、ただの仲介業者だった。鼻を抜く独特の訛り。この寒い国の典型的な偽名を名乗って、こうして人身売買と売春斡旋に手を貸しているのだから、せせこましい犯罪者であることに変わりはないのだけれど。

 泉は振り返らなかった。その男はただの売人で、泉とは縁もゆかりもない。
 彼が満足げにまとっているセーブルの高級コートが、泉がこの国に来て初めて踊った「青い鳥」役のボーナスで買ったものだというくらいだ。
 無論、優しく譲ってやったわけでも、快く売却したわけでもない。すべては泉の預かり知らぬところで、勝手に進んでいた話。

 それでも、くれてやる。
 そんなもの。
 もういらない。

 つまらない思い出にまみれた手垢だらけのコートなんか、袖を通したって寒さなんか増すばかりだ。

『ふん、ドラッグジャンキーのセックスロイドめ』

 つんとした泉の態度が面白くなかったのだろう。露骨に吐き捨てる声が聞こえたけれど、やっぱり振り向かなかった。
 汚いコートをまとった下劣な男の顔など、視界に入れるだけで吐きそうだ。

 ただでさえ、事前研修だという文句で散々飲まされた薬のせいで、今にも胃袋がせり上がってきそうなのだ。
 頭は痛いし喉は乾くし、気温は確かに氷点下なのに、こんなペラペラの外套一枚で歩くことが出来るのも、きっとあの薬のせいだ。

 最悪。
 最悪。
 最悪だ。何もかも。

『……ばかみたい』

 最悪は、もう、ここから走り出す気力さえない自分も含まれている。
 そのくせ、ダイキリのごとくシャーベット状に停滞した海に飛び込み、命を終わらせることも出来ない。

『さいあく』

 こうやって泉を高級男娼として売り払ったのは、所属していたバレエ団の主催だ。

 元々は小さな田舎町出の踊り子で、演出家として目覚めてからは、小規模ながらも創意工夫に溢れた作品を多数送り出し、世間からの評価を着々と上げていた男だったが、どうも経営というとそうはいかなかったらしい。
 ただでさえただの田舎もののおのぼりさんが、なまじ追い風を得てしまったばかりにうっかり舞い上がり過ぎてしまい、足下に梯子もないのにふらふらと高い位置の果実ばかり贅沢に貪ってしまったのが破綻の発端だろう。
 町中の一等地に、これでもかというくらいに装飾を散りばめた専用劇場を作り、四季昼夜を問わずあれこれ風変わりな演目を送り出し続けた結果、初めはこれまでの評価と物珍しさで集まって来ていた客たちは、たちまち遠のいてしまったのだ。

 それでも泉は踊ろうとした。
 踊った。

 専属契約期間が残っていたのは大きかったけれど、それ以上に彼はプライドも義理人情も持っていたし、実際その努力のお陰で、バレエ団は一時経営を持ち直した。
 泉をニンジスキーの再来だともてはやす風潮もあったけれど、誰よりも自分を律し、甘んじることなく踊り続けた彼は、三大バレエすべてで王子役を演じきったし、病める薔薇は公演を大幅に追加させて、ドン・キホーテのバジルのバリエーションは海外ファンも多く獲得した。

 けれど、所詮泉はただ若く、ちょっとバランスが良くて、たぐいまれなる努力で柔らかく高く跳躍することが出来ただけだった。
 結局のところ、泉は走り出しのバレエダンサーの一人に過ぎなかった。

 エトワールは流れ星になって、輝いてすぐに焼け消えて。

『なにあのゼロの数。俺ひとりに』

 泉を売り払った金額は、思わず皮肉った笑いを浮かべてしまうようなそれ。

 何度も。
 在籍中、何度も泉が断ってきた、客演の依頼、引き抜きの契約金、そのどれもを軽々しく凌駕する、文字通りのケタ違い。

『ハッ』

 暑い。
 乾く。
 寒い。
 鬱陶しくて、絶望するより遠く、死ぬことも出来なくて陵辱されるだけの。

 それでいてきっともう、数少ない私物と一緒に抱えられた、あのピルケースを手離せる日は来ないのだろう。
 なんとなくそう、泉は予感していたし、確信していた。

 冷たい灰の底から、そっと船を見上げる。
 首が痛くなるほどの高さ。視界いっぱいに広がる悪趣味な豪華客船。雪煙でくふずって、すべてを把握することが出来ない。

 泉は、霧の中の得体のしれない怪物を見上げているような気分になった。煌々とした電飾がなま暖かい光を花っており、時折笑い声のようなものが、冷たい風に乗って降って来る。

 自分はこれから怪物の腹の中で食い散らかされる。かつての観客に売るものは、薬に漬け込まれた一級品の身体と、過去と未来のすべての光だ。

 エトワール。
 一番輝く星。

 すべては無意味だったけれど、もう歯を食いしばることも、泣くことも、拳を握ることもなかった。
 ぴんと背筋を伸ばして船内に足を踏み入れたとき、どこかからピアノの音がしたけれど、なんの慰めにもならない、退屈な粒にしか感じられなかった。

 そう、そのときのピアノは、まだ。