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おやすみくまくん


※凛月が死んじゃう※








 朔間凛月が、もうそろそろ死ぬのだろうということは、彼の周りを漂うどうしようもない死のにおいで分かってしまった。
 得意の愉快な菓子を焼くわけでもなく、ピアノのひとつも弾きもせず、日がな一日ごろごろと眠っているだけの、青白い水面のような顔。にやりと笑うその月が、春先の朧をこれでもかというくらい溶かし込み、雲の向こうに連れ去ろうとする。
 彼の死とは、輪郭が霞んで、そのうち見えなくなるようなものだと信じていた。だからきっと、悲しみだってぼうっと滲むみたいな感じで、津波のように押し寄せたりしないのだろうと。じんわりと寂しく胸に残り、ゆっくりと日常になっていくのだと。何故だか勝手にそう思い込み、信じ、紛らわしていた。

   まやかし。無論、そんなのはすべて願望にすぎす。元々浮世離れした生き物だったけれど、やっぱりちゃんと生きていた。煙や霧のように、猫ず猫の最期ずみたいにいつの間にか姿を消しているのかもしれないなんて考えていたけれど、そんな夢のようなものではなかった。死は朔間凛月にも平等で、終わりはきちんと呆気なく、肉体だけを残していきやがった。
 ある朝いつものように洗面器にぬるま湯を張り、甲斐甲斐しく彼の世話を焼こうと出向いた幼馴染の前で、朔間凛月は本当に冷たくなっていた。死体のよう、ではない。まさしく死体だった。泣きそうなくらい冷たかったという。彼は泣きながらそう言った。

「王さま、何してんの」

 何をしているのかは知っていた。作曲だ、いつものように奇声を上げるわけでもなく、こちらの問いかけに答えるわけでもなく、月永レオは一心不乱に曲を作っていた。
 朔間凛月に死のにおいが漂い始めてからずっ、げらげらと素っ頓狂に笑いながら、あの冷たい病室を訪れるとき以外、月永レオは延々と楽譜をしたためていた。桃缶だのメロンだの鎌倉ハムだのは全部凛月のために買い漁り、自分は謎の栄養剤だけを注射するように流し込んで、目の下のクマを育て続けた。

「王さま」

 心配した。当たり前だ。いよいよ取り憑かれたように曲を生み出し続ける。出産だって絶え間なければ母体は死ぬ。生まれた赤ん坊を抱くこともなく、天に召される母親など気の毒なことこの上ない。

 恐怖した。
 嫌だ。失ったばかりだ。朔間凛月を失った。澄んだ楽器のような嫋やかな声。冷たいぬくもり。朔間凛月だけの存在感。別れのひとつも怖くて言えなかった。言ったら最後だと分かっていて、あの甘い死の香りを前に、ただ震えることしかできなかった。

 真っ黒な喪服を纏って、初めて涙を零しそうになった。

「行くぞ、セナ」

 手伝ってくれ。
 そう言って、目を充血させ、死体のような顔色で、生きたにおいを放って月永レオは言った。彼の魂をたっぷり詰め込んだ楽譜の山を、泉に半分抱えさせる。

「どこに」
「リッツの墓」
「何し、に」
「リッツ、寝るの好きだったからな」

『ちゃんと杭を打ちつけてね。川の先の墓に入れて。お参りは十字架を忘れちゃだめだよ。ニンニクは効かないこともあるから信じちゃダメ。』

 いよいよ透明になって来たころ、朔間凛月が二人に微笑んだ。バカなこと言うなと笑って、みかんの筋を取ってやっていた月永レオ。自分の髪と同じような色の果実を、馬鹿みたいに一心不乱に剥き続ける男の背中に隠れて、今すぐ泣き喚きたかった。冗談言えるなら大丈夫だねぇと、鼻声を押さえて必死に憎々しげに言えたのは、華奢で子どもっぽい、あの大きな背中があったからだ。

「リッツがもう、絶対、墓から出てこなくて済むように。棺桶でずーっと退屈しないように、おれの曲」

 いっぱい作った。
 言い切る前に、嗚咽が漏れて、月永レオはそのまま床に突っ伏した。今しがた書き終えたばかりの楽譜を雪のように散らばらせて、雨より激しく声をあげて泣いた。強い川の流れみたいだ。吸血鬼は流れる水が苦手だから、きっと起きて来られない。泣いちゃだめだよなんて、いつものへらへらした笑みを浮かべてはくれないだろう。

 自分でばらまいた楽譜をぐちゃぐちゃにして、美しい獣が泣いている。インクが涙で溶けていく。乱暴で自由で、どこまでも愛に溢れた音符たちがやわらかく滲んでいく。

 命溢れた楽譜を抱いて、二人で転がるようにして朔間凛月の墓に行った。棺を楽譜で満たして、吠えるように泣きながら、四隅を杭を打ちつけた。

 その楽譜に飽きたら、こっそり起き上がってもいいよ。れおくんは悔しがるだろうけど、そこまでしてでも、俺はやっぱ、もうちょっとあんたに会いたいよ。でもあんたは寝るの好きだったから、やっぱちゃんと、ずっと寝てて。

「        」