未だ水中 隣町の夏祭りに行きたいというフィガロの願いに、二つ返事で頷いてやったところ、あまりに予想しない反応だったらしく、目を丸くして動かなくなってしまった。 「え、い、いいの?」 「……自分で誘ったんじゃないか」 「絶対断られると思ったから……」 「なんだ、断って欲しかったのか。それなら」 「ああああ、違う違う! 言い続ければいつかは根負けしてくれるかもって思ってただけ! 行きたい! 行きたいです行こう!」 未だに夢でも見ているような表情だが、その瞳の輝きや上ずった声は妙に心地良かったし、積年のプロポーズでも叶ったような喜びようは、まあ見てて嫌なものではなかった。 実際のところ、夏祭り自体には興味はない。むしろ嫌悪している。あんな熱くて騒がしくて慌ただしい場所は、頼まれたって行きたくはない。むせ返りそうな人いきれや、ソースやアルコールが一緒くたになった匂いにかき回され、心身ともに恐ろしく疲労するのは明らかなのだ。フィガロだってそれを見越して、断られる前提の誘いをかけてきたに違いない。 「気まぐれでも嬉しいよ」 真相を言ってやるつもりはないが、決して気まぐれではない。ここ数日決めていたことだ。今夜どこに誘われたとしても、何を求められたとしても、絶対に頷いてやると決めていた。 この数カ月、フィガロの多忙ぶりは筆舌に尽くしがたいものだったのだ。朝から晩まで仕事をしていると言えばその通りだが、この朝と晩の間に三日間ほどが過ぎている。休息は睡眠というよりは昏睡のような有様だったし、満足に食事を取る時間もなく、仕事柄どうにか清潔感だけを保ち、気力ひとつで踏ん張っているようなところがあった。 ようやく山場を越え、まとまった休暇が取れると聞き、ファウストはまず心底安心したのである。好きなものを食べさせて、いい酒を飲ませて、存分に労ってやろうと思った。祭りでも映画でも買い物でも、今回ばかりは付き合ってやる。おかしなラブホテルでも、悪趣味やコスチュームでも、文句を言わないでやろう。……安堵の次に訪れるのは、ようやく一緒に過ごせるぞという喜びの類なのだが、これは決して、悟られたくなかった。 ▼ 風に乗って祭り囃子が聞こえ始めると、フィガロはいよいよ機嫌を良くして「楽しみだな」とか「浴衣を買っておけばよかった」とか呟きながら、コンビニで買ったばかりのうちわでファウストを煽ぐ。 「僕ばかり煽がなくていい」 「でも君、暑いの苦手だろ。まずはかき氷食べようね。それで舌がピンクになってるところ写真に撮らせて」 「……嫌だ」 「えー。俺の撮らせてあげるからー」 「いらない」 断られたというのに、フィガロの足取りは軽やかなままだ。何十メートルも先まで連なった屋台の群れを、終始にこにこと眺めている。 「混んでるねえ」 「ああ」 「はぐれちゃいそう」 「どこかで合流できるだろ」 「手を繋いでおいてもいい?」 返事代わりに手を差し出せば、またも目を丸くする。涼しげな瞳が、提灯の光を含んで星空のように輝く。祭り囃子の雑踏や、迷子アナウンスのどれよりも、フィガロの鼻歌がよく聞こえた。 打ち上げ花火の時間が近づいているせいか、客足はどんどん増えていく。どんなに気を着けても、すれ違いざまに何度も人にぶつかった。暑くて喧しいが、誰もが何かに酔いしれる空気は、羞恥心を麻痺させた。人前で手を繋ぐことも、指を絡めることも、もうあまり気にならない。 「あ、金魚すくい」 「やらないだろ」 「やるやる。結構上手いと思うんだよね」 そんなファウストの心を、まるで理解していないかのように、フィガロは手を離してしまう。宝石のような金魚が、無数にひしめくプールの前にしゃがみ込み、店主から器だの網だのを受け取っている。 「金魚をすくってどうするんだ」 「そりゃ飼うんだよ」 「うちに水槽なんかないだろ」 「明日買いに行こう」 「誰が世話をすると思ってるんだ」 「? 君だろ?」 「は……あのな」 「そうしたら、俺がいなくても寂しくない」 フィガロは口角を綺麗に上げ、視線をプールに落としたまま、真剣に網を動かしている。綺麗な横顔。腹が立つほど。 「あっ、逃げられた」 顔を上げない。再び金魚を追いかける。飛沫が跳ねる。 ……冗談ではないらしい。 「どこまで本気だ?」 「えっ、何が? あーーまた逃げられた」 「金魚を飼うってこと」 「いや捕れたら飼おうよ。はっ……ああ、ちょっと破けちゃったな」 「自分の不在が金魚で埋まるとでも?」 「あ、それはさすがに冗談だよ。これからはちゃんと帰れるようにする」 「そもそも僕が、おまえがいないことで寂しがっていると?」 「えっ、それは本気だったんだけど」 「野良猫が遊びに来たらどうするんだ」 「そうしたら、この金魚をご馳走してもいいよ」 「………………帰る」 「うそ、ちょっ、え! ごめんごめん、待って!」 この男の、底抜けの愛情を嬉しく思うことも、恐ろしく思うこともある。説明したところで何がどう変わるわけではないだろうし、変わってほしいのかと問われると、うまく答えられる自信もない。 「手」 「ん? ……濡れてるけど」 「いいよ」 結局金魚はすくえなかったし、オマケも受け取らずに来た。涼しげな水音は、雑踏の中にかき消えていく。 いい奴にすくわれるといいな。そんなことを思いながら、節くれだったフィガロの手を、そっと握り直した。 |