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トラジコメディ


※現パロ※


 週末のパブでひとしきり飲み食いを終え、誰も彼もが浮かれた調子で改札を抜けていく。肩を組んだり、陽気に歌ったりこそしなかったが、ミスラもその一行に加わっていた。ほどよく満腹感と陶酔感は、決して悪いものではない。
ホームに向かう階段は、雨降りでもないのに湿っている。いつもならこの辺りで、地下鉄特有の、なんとも言えない饐えた匂いが漂うはずなのだが、今はろくに感じ取れない。夕暮れすぐから飲み始めて、酒だの煙草だのの刺激に晒され続けたせいだろう。あちこちの感覚が鈍っている。そのくせ、階段の手すりの冷えた感触が心地よくて、わざと寄りかかりながら下った。

「じゃあね。僕、寄り道するから」

 最後の一段を降り切ったところで、ふいに頭上から、オーエンの声が降ってきた。
振り返り、目が合ったのは一瞬。サマージャケットの裾を翻し、誰かの声に応えることもなく、降りてきた階段を再び上っていってしまう。いつもは「汚れてるから」と触れるのを嫌がる手すりを掴んでいるので、ミスラは「まあ冷たいですもんね」とひとりごちた。

「オーエンちゃんってば、どこに寄り道するつもりなんじゃろ?」
「みんなと同じ列車に乗りたくないのかの」
「その辺でデザートでも食うんだろ」
「ま、まだ食べるの? 三軒目で山ほどアイス食べてたよ?」

 あれこれ言われているが、もういい大人なので引き留めることもない。ホームのベンチに寝転がる者もいれば、時刻表とダンスを踊ろうとする者もいたりして、まあまあに混沌とした光景である。誰しも酔っ払いなのは事実だが、まともな酔い方が出来る一部の連中が、あくせく止めて回っている。気の毒なことだ。ミスラはどちらの酔い方にも該当しないので、怪物が口を開けたような、ぽっかりとした暗いトンネルを、ぼうっと見つめていた。
 そうして、構内のアナウンスが最終列車の到着を知らせるころに、どさくさに紛れてホームを後にした。階段を三段飛ばしで駆け上がり、自動販売機でミネラルウォーターを買う。半年以上、電球が切れたままになっている自販機だが、ボトルはよく冷えていて、火照った頬をこすり付けたくなった。
 だがまあ、さすがにこれから人に渡す水なので、我慢である。



「オーエン」

 改札を出て十数歩。地上の夜空が見える、柱の影。うずくまった姿を見つけるのは容易いことだった。
 返事はない。意識はあるらしい。驚くほどゆっくり顔を上げ、ミスラを見上げてくる。ただでさえ白い肌が、いよいよ青みを帯びて死人のようだ。そのくせ目元が泣き腫らしたように赤く、切れ長の瞳も充血している。

「…………何しにきたの」

 喉を焼かれでもしたような、枯れた声色。呼吸は荒い。どうにか憎まれ口までは叩いたものの、起き上がる気力は無いようだ。

「どうぞ」
「ヒッ」

 買ったばかりのミネラルウォーターを肌に押し付けると、うわずった短い悲鳴が上がった。全身が派手にびくついたのが面白く、間近で見ようとしゃがみ込めば、顔を明後日の方に逸らされてしまった。

「……笑うなよ」
「はあ」

 睨みつけて悪態をつくくせに、ボトルを頬に押し付け、目を細めている。もっとたくさん買ってきてやればよかったなと思いつつ、キャップを開けて差し出してやった。

「自分で飲めます?」
「飲めなかったらどうしてくれるの」
「口移しで飲ませようかと」
「……それは止めておいたら? さっき吐いたとこだし」

 周囲に吐瀉物の類が見当たらないのを見ると、現場は駅の洗面所あたりだろうか。ここまで酔い潰れる姿はかなり貴重だが、その様がまたオーエンらしくて可笑しかった。

「別に気にしませんよ」
「嘘が下手だね、おまえ」

 言葉こそいつも通りだが、明らかに覇気がない。しまいには膝を抱え、顔も埋めてしまう。

「本当ですって」
「うるさいなあ、もう……うう……」

 間もなくまた顔を上げ、髪をかき上げながら唸っている。首が座らない子どものように、ぐらぐら上体を揺らしているので、抱えようと肩に手を伸ばしたところ、弱々しくも抵抗された。

「寄るな」

 瞬間、なんとも言えない衝動が湧き上がって。

「!? 〜〜〜っ」

 顎を掴み、無理やり引き寄せて、強引に唇を奪ってやった。
 ……ほら、やっぱり。なんてことはない。キスの味だ。

「っんっ、ちょっと、……っ、待て!」
「なんですか」
「さすがに舌はない……!」
「あなた好きでしょう、これ」
「違う。今じゃない」
「ああ、水。水を飲ませるんでしたね」
「そうだけど。いや違う。おい待、ちょ、っんッ、待」

 続きは、水のついで。