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セルフカバー


卒業後/アイドル引退の作曲家レオ/現役の瀬名





 折角びっくりするような家賃を払って、わざわざ防音室つきの部屋に住んでいるのに、レオはいつもベランダで歌ってしまう。近隣住民から「やまかしい」という怒声を浴びるたび、けらけら声を上げて謝っているけれど、追い出されるのも時間の問題のようで、泉はいつもはらはらしっぱなしだ。

 だけど、文句を言うすべての奴らに、今すぐ掴みかかってやりたくなることもある。「お前、あれが誰だか分かっているのか?」「お前が騒音扱いしたのは、かつて喝采の渦中にいた"王さま"の歌声だぞ」と。

「セ〜〜〜ナ〜〜〜〜〜〜ッ」

 路地を歩く泉の姿を捉えた途端、身を乗り出し手を振り回して、子どものように叫びたてるような男だとしても。

「〜っうるっさい!近所迷惑!」
「ははっ、今夜何〜?」
「アジの南蛮漬けと雑穀サラダ!」
「やった!魚の気分だったんだ!うおっ、霊感きたきたきた、タイトルは『南蛮漬けのうた』!」
「そのままだよねぇッ?」
「セ〜ナ〜の南蛮づ〜〜け〜〜〜すっぱ〜〜い〜〜〜〜っ」

 出鱈目なメロディを無責任に生み出し続けながら、ベランダの奥に消えていく。黄昏色の髪が、黄色い室内灯に溶けていくのを見つめていると、スタンディングオベーションのまま、幕が下ろされたあとのような気分になって、無理やりかぶりを振って歩き出した。ここは客席ではない。

「窓を閉めてよねぇ……」

 気を紛らわすため、マスクの下でぶつぶつ呟いてみるけれど、大した効果は無い。あの歌声は武器で麻薬だ、すぐに呼び水になってしまう、少なくとも、泉にとっては。

「バカじゃないのあいつ……」

 作曲家に専念したレオは、数年で独自の地位を築いた。向こう数年のスケジュールはいっぱいで、それでも金や情熱に物を言わせ、売れっ子ミュージシャンたちがこぞって頭を下げに来る。誰もがこうべを垂れて、レオの曲を欲しがった。

 ステージにしがみつく泉のためにも、レオは何曲も書き上げたし、どれも絶賛されたし、何の不満もない。卒業して、あのころの『Knights』がなくなって、レオがアイドルではなくなって、仮歌だって人工音声ソフトに切り替えて、それでも無邪気な不摂生を続けるものだから、こうやってたまに食事なんか作りに来てる、この日々に、だから、文句なんてひとつも無いですから。

「ばか」

 だから俺が歌う曲を、自分で歌ったりするな。
 もしも同じステージで、一緒に歌えたら、なんてそんな、妄想より莫迦げた空想をさせないでくれ。


 夜道は誰もいなかったから。鼻水を啜って、目元を赤くして、ちょっとだけ泣いてきた泉に、レオが聴かせる『雑穀サラダのテーマ』は、なんだか子守唄みたいだった。余計苦しいよね。