−−…
「会長ー、紗嗚がみんなですごろくやりてーって……て?」
漸くピラミッド建造に飽いた紗嗚から頼まれ、しょうが零夜を呼びにいくと、卓上のチェス盤を挟み、斑葉と零夜がいつになく難しい顔でその盤上を睨みつけていた。
“如月、いつの間に来てたんだ? …あれ? 虹…”
二人の間、ちょうどゲームの展開が臨める位置から、虹がひょっこり顔を出している。しょうに気づくと、しーっと口に指を一本翳し、なにやらちょいちょいと手招くのが見える。
呼ばれるままに(何となく忍び足で)近寄っていくと、その横に要もいることに気づく。だが、その横顔はどこか暗い。
「? 将棋は終わったんすか?」
「…聞くな。」
あー…
「すんません。」
「いや。」
「そんで、こちらはどっちが勝ってるんすか?」
*
最初の駒を僕の先手で進め、差した数は既に50手近く。
互いに長考するタイプではないため、ゲーム全体の流れが早い。盤上の駒も徐々に少なくなっていき、現在局面は中盤から終盤に差し掛かろうとしている。
なんとなく予想はしていたけれど、やはり…
強い。
特に独特な戦術を使ってくるわけではない。むしろ、これほど基本に忠実な動きがあるだろうか。
正確にこちらの手を読み、すぐさま最善ともいえる一手で返してくる。まるで、高性能なコンピューターとでも差し合っているかのような感覚。
既に両者とも残された駒はそう多くない。…この辺りで思いきって勝負に出て、早いところ決着をつけなければ…
d4に据えておいたポーンをe5へ。そのまま相手のナイトを…
…あ、れ?
駒から指が離れ、改めて局面を見る。
「……」
それは、不注意と軽率な判断から出た、自滅の一手だった。
−−…。
「チェック…メイト。」
それを口にしたのは零夜だった。
あれからまた20手にも及ぶ数を差し合い、最終的に白のルークが、黒のキングを詰んだのだ。
「ふえー、なんかレベル高すぎてよく分かんなかったけど、スゴい勝負だった気がする。」
「会長やっぱかっけー。オレ、将棋じゃなくてチェス勉強するわ。」
「しょうには無理だって。将棋の駒運びですら満足に覚えてないくせに。」
「バ…カにすんなよ。駒の進め方くらい全部覚えたわ。フッ、お前が“唯一”頭の出来を誇れる将棋で、オレが勝つのも時間の問題だぜ。」
自分たちが誇る生徒会長の勝利に沸き立つギャラリー。気づけば柚那と紗嗚も、すくそばまで見にきていた。
「さて、俺もそろそろ部活に戻るか。」
「えー、如月も入れてみんなで人生ゲームしようと思ったのに。」
「…どんだけ遊ぶんだお前は。」
「じゃあ九条。チェス、楽しかった。」
斑葉は笑って言うと、静かに部屋を後にする。それにしても、彼が自分から出て行くなんて、珍しいこともあるものだ。まあ、素よりここにおける斑葉の立場は、あくまで“部外者”なわけだが。
そんなことを思いながら、要はふと、隣にたつ零夜の顔を見やった。すると、
「……。」
「か、会長?」
「…?要くん、どうかしましたか?」
「え、…あ、い、いえ。」
“気のせい、か?”
ほんの一瞬、視界に入った彼の表情。
ハッキリとは言い表せないが、眼鏡の奥に見えた、どこか冷たい双眼。空気が僅かに、張り詰めた気がした。
“な、なんか怒っ…て、る?”
…いや、きっと見間違いだろう。一瞬のことであったし、彼にしては珍しい表情に見えたものだから、つい妙な邪推をしてしまった。そもそも、仮にその表情が本当にあったものだとしても、彼が怒るような事など、何もなかった、はず。
「要くん。」
「は、はい。」
「彼、ハンカチを忘れていったみたいです。ちょっと、届けてきますね。」
「…はあ。」
そう言うと零夜は、足早に斑葉の行ったあとを追っていく。
“如月のヤツ、ハンカチなんて出してたか?”
なんとなく違和感を覚えたものの、虹の呼び声がかかったことでそのまま要も輪へと戻り、そんな疑問はあっという間に消えてしまった。
−−…。
「なぜ手を抜いたんですか?」
「−!」
不意に背後からかけられた声と、その言葉に、斑葉はハッとして振り返った。
さも驚いたように、その目が丸くなる。
「…なんのこ」
「とぼけないでください。中盤で貴方のナイトを取った、e4にあった僕のポーン。あの位置は貴方のビショップの通り道でした。そこから一気に、僕のキングをチェックメイトまでたたみ込むことが出来た筈なんです。」
「……。」
「そしてそのことに、貴方が気づかなかったとは到底思えません。」
「…九条は俺を買いかぶりすぎだ。」
……カチン。
笑って誤魔化す斑葉の態度。
瞬間、零夜の目は見開かれ、…続いてそれは、鋭く、剣呑な色へと形を変える。
「そう、ですか。」
「!? …く、」
「僕が貴方を買いかぶっているというなら、…そういう貴方は僕を見くびっているんじゃないですか?」
大きく足を踏み出し、斑葉のネクタイを、素早く掴み上げる。
それは彼の言葉に反射的にとってしまった、無意識の行動。
「真剣にやっていた勝負で手を抜かれて、お情けのように勝たされて、僕が喜ぶとでも思いました?」
「くじょ…」
「ナメないでください。」
「……っ、」
大して大きくはないのに、言い放たれた言葉鋭く、そして重い。
その迫力に圧され、慌てて弁解しようと開きかけた口も、思わず噤んでしまった。
パッと突き放すように解放されたネクタイ。零夜に掴まれたところは、そこだけ酷くしわしわで。
未だ眉根を寄せたまま早々に去ってゆく零夜を留めることすら、発されるその雰囲気からは躊躇われる。
「ああ、そうだ。」
と、再び上がった零夜の声に、ハッとして顔を上げると、
「暫く、僕には話しかけないでください。」
「え…」
顔だけ僅かに振り向かせそれだけ言うと、肩にかかった髪を煩わしげに振り払い、すぐさまその影も、見えなくなってしまう。
やけに広く感じる放課後の廊下。その中で、ポツンと残された自身の姿。
「…そ、」
“そんなあぁぁーー!”
声にこそならない彼の言葉は、そのまま思いだけが宙へと空しく霧散していった。
−−…
「九条、俺が悪かった、ごめん!」
「……。」
「九条ー!」
それから優に二週間、斑葉は口を聞いてもらえなかったとか。