企画 | ナノ

獣の箱庭のつくり方

いつまでも慣れない長いドレスの裾に手古摺りながら、ミュロンは屋敷の長い廊下を歩く。普段、ファナリス兵団としての訓練の時は動きやすい丈の短い服を好んで身に着けているものの、こうして特に予定のないときは、名門貴族の一員としてドレスを着る様にしているのだ。けれどもこのドレスは、足に纏わりついて大股で歩けないし、腕回りも繊細なレースが飾られているために少しでも力をいれると破ってしまいそうで気を遣うものなのだ。アレキウス家の一員として貴族たる振る舞いをしなければと思うものの、上手くできないことにいつも歯がゆさを感じていた。

「あぁ・・!もう、なんて動きづらいのだ・・・」

自由な格好で好きに生活している他のファナリスたちの事をどれだけ羨ましいと思っただろう。家に縛られず、貴族としての細かいルールにも囚われない振る舞いをする彼らを羨望の眼差しで見ていることなど誰も知らないだろう。レームの貴族として何不自由ない生活を送っている自分は、他人から見ればきっと恵まれた人生だ。それでも、他人の芝は青く見えてしまうもので、仲間と自由に生きる、そんな生活はミュロンにとって全てと引き換えになるような、そんな甘美な夢だった。

「・・・やっぱり、ロゥロゥ達のところで訓練でもしようかな・・・」

悶々と考えるのは得意ではない。
こんな時は体を動かそうと、来た道を帰ろうと足に力を入れたところで、ボキッと嫌な音が足元から聞こえた。しまったと、思ったのもつかの間、ミュロンが無意識に込めた力の所為で細いヒールが折れてしまった靴ではうまくバランスが取れず体がぐらりと揺らぐ。体制を立て直そうと思うと同時に、やはり無駄に力が入った身体の所為で、びりっと今度はドレスが敗れる音がして、意識がそれる。全てはほんの一瞬の間に起こったことだが、ミュロンはすべての事象を的確に把握した後、体から力を抜くようにすとんとその場に座り込んだ。
ぼすんと絨毯が引かれた廊下の上に座り込んで呆然とする。
暫くぼんやりと虚空を見やったあと、じくじくと悔しさだとか、恥ずかしさが湧き上がって身体が熱くなってきた。

「なんでっ!なんで、いっつも僕ばっかりこんな目に合うのだ?!」

自分だって貴族としての振る舞いができる様に頑張っているのに、兄のムーのようにうまくできない。
レームの貴公子とまで呼ばれるムーに恥じないようにしたいのに、すべてが裏目にでてしまう。その度に兄が必至でフォローに回っていることがミュロンの心を締め付けた。

「うぅぅ・・・」

まるで子供の用に廊下に座り込んで、ジワリと浮かぶ涙に唇をかみしめて耐えていたところで、少し先の扉がゆっくりと開く。誰かが来たと、慌てて体裁を整えようとするが、高ぶった感情はそうそう収まってはくれず、ミュロンはポロリと涙を流してしまった。

「・・・ミュロン様?」

扉から顔を覗かせたのはこの国で最も大事にされている女性に瓜二つの容姿を持った人だった。淡い蜂蜜色の髪が太陽の光を浴びていないのにキラキラと光沢をもって柔らかく伸ばされていて、ゆるくウェーブを描いている様子が、彼女の存在を一層幻想的なものにしているようだった。

「どうされたんですか?・・・お怪我をしているのですか?」
「・・・ナマエさま・・・」

ゆっくりとした動作で近づいてきた女性が、心配そうにこちらを覗き込む。怪我はしていないと首を振れば、彼女は安心したようにその顔を笑みの形に彩った。

「よかった。・・・あぁヒールが折れてしまったのですね。私のものでよければ靴をお貸しします。どうぞ部屋にいらしてください。」
「で、でも・・・僕は・・・」

ミュロンは差し出された手を戸惑ったように見つめる。というのも、今のナマエの体の状態にあった。
彼女のお腹は大きく膨れ、その身にもう一つの命を宿している事が一目でわかる。半年ほど前に婚約者としてこの屋敷に滞在するようになったナマエが婚姻を前に子を宿したことに、古い家令などはあまりいい顔はしなかったが、ミュロンもムーもそれは喜んだ。その日から、ナマエはこの屋敷で一番大事にされる女性になった。ただでさえ脆く壊れてしまいそうな彼女を、それこそ繊細なガラス細工のように優しく愛でるムーの姿を何度も見てきた。
だからこそ、彼女に触れるのが怖くなってしまった。
力がうまく制御できない粗野な自分がナマエに触れたら、何かを壊してしまうのではないか。
大事にしたいのに、兄のように上手くできないのではないか。
そう思うと、恐ろしくてその手を取ることができずにいたミュロンにナマエは優しく微笑むと体を屈めて戸惑う手をゆっくりと握った。

「行きましょう、ミュロン様。大丈夫ですから」

全てを包むような笑みは、敬愛するシェヘラザードの笑みによく似ている。柔らかく暖かいそれに絆されるようにミュロンは無言でうなずくとナマエの手に引かれて立ち上がった。





「これなら、どうでしょう。踵も高くないし、とても動きやすいんです」
「・・・履きやすいのだ・・・」

ナマエが差し出した靴は綺麗な刺繍がされた踵の低い靴だった。小さな真珠が縫い込まれたそれは、ドレスにもよく合って裾から覗くつま先は綺麗に彩を添えている。

「でも、どうしてこんな靴を持っているのだ?お兄様に贈ってもったものなのか?」
「いいえ、私はとてもヒールが苦手でこういった踵の低い靴をいつも履いていたので・・・」

恥ずかしそうに笑うナマエにミュロンは目を見開く。ミュロンにとってナマエはムーを射止めた理想の女性で、なんでもできる貴婦人のようなイメージがあったのだ。

「私はどうしても、貴族の仕来りになれなくて・・・、踵の高い靴も、建前を並べたおしゃべりも苦手でした。靴はよく転んで足を痛める私のために、父が誂えてくれたのです」
「でも、お父上に頂いたものを僕が履いてもいいのか?」
「えぇ、もうその靴はあまり履きませんから、ミュロン様に履いて頂いた方が靴も喜びます」

まだまだ綺麗な靴を、履かないと言ったナマエに不思議そうに首を傾げれば彼女は困ったような照れた笑みを浮かべて、顔の横に垂れた髪を耳にかけた。

「こんなお腹ですから、社交界には暫く出ませんし、この子が生まれても、きっと育児にかかりきりになって夜会には出る機会もなさそうですから」
「・・・そう、なのか・・・?」
「えぇ、ムー様をそうしてよいと仰ってくださったので・・・」

きっと、ムーにとって夜会に出たくないというナマエの願いは渡りに船だったに違いない。昔から、ナマエのことになると、ファナリスの本能が見え隠れする獰猛な瞳で彼女に迫っていたことを知っているので、嬉しそうにナマエの言葉に是と返す兄の姿が簡単に想像できた。

「なら、ありがたく頂くのだ・・・」
「えぇ、ぜひ使ってください」

嬉しそうに頷いたナマエが、ゆっくりと立ち上がる。大きなお腹を押さえて頼りなく立ち上がる様子にミュロンは思わず腕を貸した。

「ありがとうございます、ミュロン様。すみません、立ち上がるのは苦手で・・・」
「腕くらいいつでも貸すのだ。それよりも動かない方がいいのではないか?寝ていた方が安全だと思うのだ!」

自分と違って弱いナマエは簡単に転んで取り返しのつかないことになってしまう気がして、そう提案すれば彼女は驚いたように目を見開いたあとくすくすと笑う。「どうしたのだ?」と尋ねれば彼女はいまだに笑みを零しながら、「ムー様と同じことをおっしゃるから」と目を細めた。

「ミュロン様と同じように、私が歩くたびに慌てて横になった方がいいと心配なさるのです。大丈夫だと、申し上げているんですが・・・」
「兄さんも・・・・。そ、それは当然なのだ!ナマエ様はどこか危なっかしいし・・・」
「はい、ムー様にもそう言われました。」

未だ笑うナマエに、ミュロンはさりげなく部屋の中を見渡せば、そこにはナマエは転ばないように、またぶつかっても大事にならないように随所に気を配っているのが伺えた。たとえば机は角のない丸ものになっていたし、よくよく見れば、部屋の絨毯もほかの部屋とは違い毛の長い柔らかいものに変わっている。寝台の周りには大きなクッションが無数に置かれていて、万が一ナマエが寝台から落ちた時もカバーできるになっているようだった。
随所に見られるムーの気配りはナマエをどれだけ大切に守っているかを伺わせるようで、ミュロンは感嘆に似た気持ちで部屋を見渡した。

「ミュロン様・・・?」
「いや、ナマエ様は十分に気を付けて過ごしてほしいのだ。兄さんも、きっとすごく心配しているはずなのだ・・・」

その言葉にナマエは一度目を丸くしたあと、嬉しそうにゆっくりと頷く。

「ありがとうございます」

その笑みは幸せそうな女性のそれで、ミュロンが知るどんな微笑みよりも優しい暖かさに満ちていて、この笑みを独り占めできるムーがほんの少しだけ羨ましくなった。



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