企画 | ナノ

逃げ出せない・前編

緩やかに掛かったワルツと、天井から降り注ぐ幾百ものクリスタルを反射させたシャンデリアの光に包まれた部屋は、まるで別世界のように煌びやかだ。窮屈ではないが、決して少なくない人数が集まった部屋の中ではまさしくざわざわとした喧騒に包まれていて、まるで一つの巨大な声が部屋に響いているようだった。その喧騒の中、一際多くの人数に囲まれているのは紅炎だ。このパーティの主催者でもある彼は、いつもの悠然とした空気のまま威風堂々と自分よりもずっと年上の財界人達に引けを取ることも無く会話を続けている。そんな姿を見つめながらナマエは、背後の壁に一体化するようにきっちりと壁際に下がってパーティの参加者の邪魔をしない様にと最善の注意を払っていた。
華やかに場には相応しくない、地味な色合いのスーツ姿は華やかな女性客が多い中で一層目立つ。辛うじて黒色のスーツで無かった事が救いだが、色とりどりのドレスの中では大した違いも無かったか、とこっそりと溜息を吐いた。もう何度目かになる紅炎と自分との差、まさしく住む世界が違うと言う事をまざまざと思い知って、ナマエは暗い表情で、紅炎に注いでいた視線を床に落とす。
自分はただの女子社員で、紅炎は世界に名を馳せるグループ会社の跡取り。紅炎の気まぐれに手を出されてしまっていたが、それも長く続く訳がない。いつの日か彼の興味が自分から失せたとき、紅炎はあっさりと自分を捨てまた違う女性をその手に抱くのだろう。
そんな未来の想像に、ズキリと胸が痛む。惹かれてはいけないと、そう言い聞かせていたけれども紅炎を想う気持ちには歯止めがかからなかった。このままでは紅炎の事が忘れられなくなってしまう、決して交わらない人生を歩む人なのにそんな彼を望んでしまうのは不幸だとしか思えなかった。

「紅炎様、お久しぶりでございます」
「あぁ、白瑛か・・・」

不思議と耳に届いた会話に、ナマエは落としていた視線を再び紅炎へと戻す。其処には凛とした百合の花ような空気を纏った綺麗な女性が紅炎と笑顔で挨拶を交わしているようだった。親しそうなその雰囲気に周りの者達も一歩下がって二人の語らいを見守っている様で、二人の様子を見ていた周囲から色々な噂話が囁かれて、聞きたくもの無いのに耳を立ててしまう。

「仲が宜しいのですね・・・」
「いずれは夫人の座に治まるのやもしれませんし・・・」

その言葉に、一気に体中の力が抜けて行く様な脱力感を感じてナマエは震えそうになる足を叱咤して会場から抜け出した。分厚い扉を押しあけて外へと出れば其処は中の喧騒とは無縁というように静かな空間がある。レセプションに残っていた同じ秘書課の面々の姿を見つけて近づくと、彼らは眉を顰めて此方を心配そうに見つめてきた。

「どうしたんだ?お前、顔色が悪いぞ」
「・・・すこし気分が優れなくて」
「大丈夫か?ゲスト用に幾つか部屋も取っているはずだから休んでおくか?」

先輩の心配そうな言葉に静かに首を振ると「出来るなら、このまま帰らせてほしい」と願い出た。

「だけど・・・、帰れるのか?今にも倒れそうだが」
「大丈夫です。タクシーを呼んでそのまま帰りますから。それよりも、途中で抜けてしまって申し訳ないのですが・・・」
「いや、お前は準備から大分仕事を無理させてきたからな。此処まで来たらもう人手は十分ある、もう帰って休んでいいぞ」

ぽんと優しく肩を叩かれて、ナマエは深く頭を下げた。
もう一度だけ謝ると、そのままクロークに預けた荷物を受け取ってエントランスへと進む。運よくタクシーが捕まって、住所を手短に伝えると座席に身体を預けてゆっくりと目を閉じた。
先ほどの光景が瞼の裏に焼き付いていて、脳裏を何度も駆け巡る。綺麗で優しそうな女性と、彼女と親しそうに話す紅炎の姿。やがて彼の隣に立つであろうことを誰もが認める様な佇まいに、嫉妬の念も湧かなかった。

もう、この想いにも、紅炎との曖昧な関係にも、終わりにする時が来たのだとはっきりと悟って、こっそり溜息をつく。
俯いた頬を一粒涙が伝って、ぽつりとスーツに染みを付けた。


紅炎から離れる事を決めてからの二日間、ナマエは高熱を出して会社を休まざるをえなかった。
休む事を電話で報告した時も、先輩からは「暫くゆっくりしろ」とそう労いの言葉を貰えて、ナマエは溜まっていた有給を消化してゆっくりと体調が整うのを待っていた。いっそこのまま、会社を辞めようかとも何度も考えた。紅炎に合えば決心が鈍ってしまうかもしれない事が怖くて、このまま体調を崩したから親元に帰ると、そう連絡して全てを終わらせて姿を消してしまおうかと、何度も何度も頭をよぎって電話を握りしめたが、最後の一歩が踏み出せずに中途半端なまま休みを甘受してしまっている。もう熱も大分下がり、体調も大分回復した。これからどうするのか、決断する時もすぐ傍まで来ているのを感じて、ナマエはぎゅっと身体を固めた。少なくとも、このまま紅炎の傍には居られないし、居たくない。彼の視線の届かない遠い部署に異動させてもらうか、または退職するか。
どちらしかない、とそう沈みこむ気持ちで自分の取るべきを道を考えていた所で、来客を告げるチャイムの音が聞こえてナマエはびくりと身体を振わせた。
誰かが訪れる様な予定は入れていない。荷物が届くというのも聞いていなかった。

何かの勧誘かと、面倒ながらも立ちあがって扉をに近づいて覗き穴から外を覗くと、其処にいた姿にナマエは驚きで息を飲んだ。

普段と変わらないスーツ姿、記憶のままの姿で立っていたのは紅炎だった。
どうして彼が此処にいるのか、何のために此処にいるのか。混乱する頭で答えを得られるわけもなく、その場で立ちつくしていると外から低い声で呼びらけれた。

「ナマエ、其処にいるな?」
「は、はい。・・・っぁ」

いつもの癖で呼び掛けに応えてしまった事に後悔するがもう遅い。もはや居留守することも出来無い事に、小さな絶望感じながらぎゅっと扉のドアノブを握りしめた。

「開けろ」
「だ、だめです。部屋が散らかっているので・・・」

帰って欲しいと、そう願う心の裏で、紅炎と会話できる事への嬉しさが溢れだす。相反する気持ちに胸が苦しくなって唇を噛みしめた。

「構わない、ひとまず顔を見せろ」
「だめです・・・、お願い。許してください・・・」
「・・・ナマエ、開けろ」

逆らえないその言葉に、一度ぎゅっと瞳を閉じたあとナマエはそろそろと鍵に手を伸ばす。
いつも掛けている鍵をゆっくりと震える指で錠を外した瞬間に、ぐっとドアノブを引かれた。

「こ、紅炎社長・・・」

此方を見下ろす紅炎の静かな瞳を見上げながら、ナマエは確かに彼の瞳に映る事を喜んでいる自分を感じていた。



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