名もない花の話・前篇
鷹のように鋭い眼光に射すくめられて、自然と震えそうになる体を叱咤して、イオは精一杯背筋を伸ばす。少しだけ顎を引いて、天井からつるされているかのように真っ直ぐと立つと、雲の上を歩くかのようにするすると進む。その姿は、まさしく一国の姫と言うにふさわしいもので、少し前であれば臣下達から羨望の眼差しを向けられていただろうが今は違う。
部屋の中央まで進みでると、膝を折って頭を垂れる。これ以上ない程の、敬意を払う礼を取って顔を伏せたまま、ごくりと息を飲み込んだ。
「お初にお目にかかります、凱の二の姫の・・・」
思ったほど声は震えなかった。一度喉を流れた声は穏やかに玉座の間に響いていたが、名前を言う直前で低い、胃の底に響くような声に遮られた。
「二の姫ではない。先ほど、第一王女が自害したという知らせを受けた。お前が、第一王女だ」
「・・・・っ」
その言葉に小さく息をのむ。
先日まで一緒に手を取り合って震えていた姉姫が、すでにこの世にいない。自害したと言う言葉に一瞬真偽を疑うが、これからどうなるのかと涙を流して儚んでいた姉姫であれば、さもありなんと思った。
言葉に詰まったのは一瞬だけ。すぐに「失礼いたしました」と断るともう一度口上をやり直す。
「私が凱の一の姫、イオと申します。拝謁賜われましたこと、恐悦至極に存じあげます」
そう述べると、つい先月までは父王が座っていた玉座に代わりに座る、煌の王とその脇に立つ長子である王子にむけて、さらに深く頭を下げた。
※
凱と煌。
この二つの国は大陸の東にある小国同士なのだが、常に争いが絶えなかった。あまり食物の取れない痩せた大地を領土に持つ凱は豊かな土地を求めて戦を起こし、国境付近の村々を襲う事を多々あったと聞いている。
その度に、戦争になり時に勝ち、時に負け、絶妙な膠着状態を保っていたが、これがここ半年で一気に覆された。
始まりは、国境付近の戦で負けたこと。
負けを取り返そうとその知らせを受けた王の右腕の将軍が兵を引き攣れて挑んだものの、それもあっけなく蹴散らされ、そこまで来ると後は坂道を転がる様に凱は敗戦への道をすすんでいった。
敗戦の知らせは日に日に城内を暗くし、城下町の者たちの不安が城壁を突き抜けて突き刺さる。
やがて、王都のすぐそばの関所が破られたと一報がもたらされた時には、王都は恐慌状態に陥り、人々は持てるだけの財産をもって逃げ出そうとした。
それは城内も同じで、大臣や上位の武官達ですら逃げだそうと身辺整理を始める始末でもはや国としての機能は果たしていなかった。
イオもお付きの侍女から何度も逃げるのだと打診されていたが、決して首を縦には振ら無かった。不安で涙にくれる姉姫が「一緒に逃げましょう」と何度か懇願しに来たが、決して部屋から出ることはなかった。
王城から蜘蛛の子を散らすように逃げていった者たちは、やがて皆捉えられて王城に舞い戻ってきた。縄につながれて。
勢いやまぬ煌軍は、手を緩めることなく王都を瞬く間に包囲して逃げる者たちを片っ端から捉えたのだ。
それは、民に至るまでに徹底されていて、農民の姿を模した肥えた大臣が項垂れて城の門を再びくぐる姿はとても滑稽だったに違いない。
「姫様方!これで自害なさるのです!敗戦国の姫が辿る道など悲惨なものでしかありません。慰み者になるか、または民草の前で処刑されるか・・・そんな恥をさらすのであれば、ここでいっそ果ててしまった方がよいのです!凱の姫としての誇りを守るために!」
「そ、そんな・・・私・・・」
いざ、煌の兵士たちが城に踏み込んできた時。
姉と共に匿われた部屋の中で、一番年嵩の侍女が短刀を差し出してきた。既に助けは望めない。父王も、後継である兄も討ち死にしたと聞いたのは数日前だ。鈍く光る刃はよく研がれていてこれならば女の力でも喉を一突きできるだろう。
刃を差し出された姉姫は一層青ざめて震えたが、イオは違った。
短刀の中に映る自分の姿に、ギュッと胸が締め付けられる。
まだだ。まだ生きなければならない。
今はまだ死ぬ時ではない。
そんな思いがこみ上げてきて、咄嗟にその手を振り払った。
「姫様?!」
「・・・私は、死にたくない。まだ死ねません。やるべきことを残しているのです」
「そんな・・・凱の姫の誇りを捨てるのですか?!」
「・・・死ぬことが誇りだとは思いません」
もう逃げ場はないのだから、いっそ自分から出ていこう。そう思って部屋の扉を押し開く。
背後から聞こえる甲高い悲鳴を浴びながら、イオが開け放った扉の向こうには真っ直ぐとこちらを見据える青い澄んだ瞳があった。
「この国の、姫か」
悲鳴と、唸り声と、興奮に満ちた叫び声が入り混じる混沌とした世界の中で、その声だけは、清流のように澄んでいるように聞こえて、イオは毒気を抜かれて無言で頷いた。
その後は姉姫と共に捉えられて、城内の別々の場所に閉じ込められて。
時期が来るまで大人しくしていろ、とそう見張りの兵に言われた言葉を忠実に守って只々待った。
そして漸く許された、煌王との拝謁の時。歴戦の猛者の風格にふさわしい鋭い眼光を宿した煌王の傍に、控えるように立っていたのは、変わらない澄んだ瞳のままじっとこちらを見つめる煌国の王子だった。
※
「凱は滅び、煌の一部となる。それに何か異論があるか?」
父も兄も姉もすでに亡い。母は、この戦よりさらに前に病で逝ってしまった。
凱の最後の直系王族である自分に差し出された問にイオは頭を深く下げたまま首を振った。
「異論など・・・何もありませぬ。・・・ただ一つだけ聞き届けて頂きたいことがあります」
「ほぅ・・・、申してみよ」
敗戦国の王族が願いを申し出るなど不敬なことだ。現に周りにいる兵士たちが殺気だったのを肌で感じたが、こればかりは譲れないとイオはぎゅっと手を握りしめた。
この時の為、この願いを叶えるために、あの時短刀を取らなかったのだから。
「命乞いをさせてくださいませ」
「命乞い?お前のか?」
「いえ・・・・いいえ。私はどうなっても構いません。とうに命はないものと思っております。ただ、どうか民やこの城の者たちを無事に解放し、全ての凱の民を煌に迎え入れて頂きたいのです。」
そこまで一気に告げると、不敬になると分かっていたがわずかに顔をあげて、玉座に座る煌王を見つめた。
「わたくしは、何をされてもよいのです。四肢を切り落とされても、獅子の蠢く谷に落とされても、市中で磔にされても構いません。ですが、民に罪はありません、全ては私たち凱の王族の咎です。」
「・・・凱の兵士たちは、我が国の村を襲い、男を殺し、女は犯した後に殺し、赤子まで皆殺しにしたこともある。兵士の中には親を、兄妹を亡くした者もいる。・・・それでも許せと?」
冷たい、重たい声に恐怖で逃げ出したくなるが、全てを押し殺して、鋭い瞳を見つめ返した。
「その恨みも、全て私に晴らして下さりませ。どんな事でも受け入れます。どうか、どうか・・・、民にはご厚情をいただけますよう・・・」
王族である自分が、自分の為に死ぬことなど許されない。
国の為に、民の為に。この命一つで、守れるものをすべて守って死ななければならない。
にじみ出る思いをすべて込めて、真っ直ぐに瞳を見つめれば、一瞬、ふと煌王の視線が和らいだ。
「・・・・わかった。民の件は一考しよう。城の者たちも、一先ず命までは取るまい。高官たちは何かしらの罰を負うことになるだろうが、下働きの者たちには手出しはしない」
「ご厚情、・・・感謝いたします。」
良かった、と安堵の想いが溢れて自然の涙が浮かぶ。顔を伏せて礼を述べれば、「だが・・・」とどこか気遣うような響きを持った声が遮った。
「お前には、死んでもらわねばならん。民も、王族も全てを許しては示しがつかぬ。」
その言葉に、イオは心からの笑みを浮かべて顔を上げた。
「勿論でございます。もとよりその覚悟でございました。・・・どうぞ如何様な刑にも処してくださりませ」
そうふわりと目を細めて微笑めば、煌王も隣の王子も驚いたように目を見開いていた。