幸せが詰まったこの場所で
天道太子の仕事として西安京へ出掛けていたイッスンとアオバ。
最近は宿に泊りっぱなしだったので、たまには神木村へ帰ろうと二人は西安京の入り口へと歩いていた。

「久しぶりに母様の桜餅食べたいよね…」
「オメェは本当に食い気ばっかだよなァ…」

切なそうな顔をするアオバに、彼女の肩に座るイッスンは頬杖をついて呆れた声を出す。
この何かを想う顔が、愛しい誰かを考えてのものだったら全力でからかうのだが、
如何せん彼女の頭の中はミカン婆が心と熱情を込めて作る桜餅。色恋とは程遠いものであった。

西安京の外へ出ればちょうど太陽が海に沈むころ。
アオバははやる気持ちを抑えられないのか速足で人魚の泉へと向かう。

「ち、ちょっと待てェ!揺れる!!落ちるから落ち着けってェ!!」

肩からの悲痛な声にやっと彼女はぴたっと足を止めた。

「ごめんごめん。久しぶりに帰れるのが嬉しくてさ」

必死にしがみついていたイッスンを掌にのせ、空いた手で頭を掻くアオバにイッスンは鋭い体当たりを額に一つお見舞いする。

「あいたっ!」
「まったく…あのまま振り落とされたらいくらオイラでもただじゃ済まねェよ…」
「ごめんて〜」

アオバはぷんすか怒る彼を軽くつつき笑うと、懐から人魚の古銭を取り出した。
それを泉へ放り込めば水面がぐるりと一回転し、眩く輝きはじめる。

「それじゃ、飛び込むよイッスン」
「オウ、どんとこい!」

イッスンを優しく包み込む様に掌をふんわりと重ね、アオバは勢いよく煌く泉へと飛び込んだ。
少しの息苦しさが横切り、馴染みのある風の香りを鼻で感じたらそこはもう神州平原。
目を開けた彼女の前には今は主が不在であろう小柄流武術道場が静かに佇んでいた。

「いやぁ、本当に楽だよね。竜神族の皆に感謝だ!」

少し濡れてしまった髪をふるふると振り、柔らかく重ねていた掌を開ける。

「イッスンは濡れてない?大丈夫?」
「アオバのおかげでどこも濡れてねェよ。感謝するぜィ!」
「ならよかった!でも私ちょっと濡れちゃったから、村まで変化してていい?」

水分を含んでしんなりする髪が不快なのか少し眉を下げてアオバは彼に問う。

「いいぜィ!そっちの方が早く村にも着きそうだしなァ」
「ありがと!じゃあ変化するからね。せーの!」

イッスンを一度地面に下ろし、掛け声と共にアオバが空中で一回転すれば、あっという間に白い狸の姿へと変わっていた。
ずいぶんと地面に近くなったその頭へイッスンはピョンっと飛び乗る。

「イヤァ、アマ公より見通しワリィけどやっぱり落ち着くなァ」
「私の方が小さいもん。というか、少しでも可愛く見えるように意識して変化してるからだけどね…」

苦笑しながらアオバはテトテトと歩き出す。
ふと、空を見上げれば澄んだ夜空にまばらに光る星と13の星座。
そして、桜の花びら。

「…ナァ、アオバ」

イッスンが静かに口を開く。

「オメェ、本当は一緒に行きたかったんじゃねェか?」

その言葉にアオバは足を止めた。
小さな彼はトンッとアオバの鼻に乗り移る。
玉虫色のそれが周りの暗闇と相まって煌いて見えた。

「アオバは乗れたんだろ?箱舟ヤマトに」

あの時の事を思い出す。
アオバの生まれた場所はあの呪われた箱舟。
でも、それだけであの箱舟に乗れるとアオバは思っていなかった。
きっと何かがあるのだ。自分が思い出せないだけで、アマテラスやウシワカと。
もしかしたら──現世に生まれる前の自分ががタカマガハラにいたのではないかと。
それでも、

「私はね、自分で決めたんだよ」

イッスンを見据える獣の瞳。
彼の鮮やかな翠に負けないくらいの眩い光で彼女は見つめ返す。

「人から怖がられたって、何言われたって、この世界で生きるって。
 この大地で自分の役割を見つけるんだって。それにね」

アオバの瞳がフッと細くなり、一粒だけ雫が落ちた。

「私の上にもお天道様が昇るようになった。アマちゃんがずっと見ててくれている。
 イッスンも傍にいる。帰る場所がある。それだけで私は生まれてきてよかったって、やっと思えたんだよ」

太陽の無い場所で生まれ、雪の中を彷徨って、暖かい人間達と共に成長し、かけがえのない友達と旅に出た。
長いような短いような時間。アオバにとってはなによりの宝物。

「そうかィ…野暮な事聞いちまってすまなかったな」

イッスンは一度玉虫の帽子を深く被り直したかと思えば、勢いよく顔を上げニッと笑った。

「いつかオイラ達がタカマガハラに行ったらアマ公に言ってやろうぜィ!アオバが芯の通ったベッピンになったってなァ!!」

その言葉にアオバは目を丸く見開くと、照れたのか頭を思いっきり縦に振り鼻の先にいた彼を頭の上へと戻す。

「オワァ!?いきなり首振るなよォ!このチンチクリン!!」
「いま別嬪って言ったのに!?イッスンひどい!」
「行動はまだまだお子様じゃねェかこのじゃじゃ馬ァ!」
「なによイッスンのスケベ!!」
「今それ関係ねェだろ!」

ぎゃいぎゃいと騒ぎながら神木村へと向かうコロポックルと妖怪。
そんな絶対に在り得ない組み合わせを、夜空に浮かぶ大神の星座が優しく見守っていた。


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タイトルは「シュレーディンガーの恋」様より。
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