酒と後悔と執着の話 | ナノ

『横断歩道』で【虫かご】と【寒々しい】




「あれ、ひじかたじゃん」

横断歩道を掛けてくるのは近所の悪ガキだった。見ている方が寒々しくなる半袖半ズボンに虫取り網と虫かごを携えて、日もとっぷり暮れた中、白い息を吐き出している

「おっま…いくら馬鹿が風邪引かねえからって…せめて長袖を着ろ」

自分のマフラーをぐるぐると巻き付けてやれば 銀時はきょとんと瞬いた

「うちにそんな余裕あると思う?」

飲んだくれて暴力を振るう父親と、泣くことしか出来ない無力な母親。半ズボンギリギリに覗く赤黒い痣は虐待の証なのだろう。虫などいるはずの無い真冬に虫取りに出かける少年のどこか虚ろな瞳に浮かぶのは全てを投げ出した様な諦めの色だけで。

「…俺のお下がりでよけりゃ、」
「いいよ。同情なんて」

それに、服で隠れるようになっちまったら、逃げ出す足さえ動かなくなるかもしれない。ちら、と振り始めた雪を見るともなしに見つめて銀時は何も出来ない無力な土方ににっと笑いかけた

「ありがとな、土方」

そう笑う銀時はいつかみた無邪気な顔で1度大人に掛け合ったにも関わらず証拠がないだとかで銀時が保護されることはなく、それ以来以前にも増して痣をつくる事が増えた銀時に土方が出来ることはほとんど無く、マフラーを返そうとする銀時にいいからと押し付ければ困ったよう頬を掻かれた

「サンキュ。…じゃあな土方」
「…ああ」

そうして俺は赤いマフラーを巻いて駆ける銀時を見送った。これが銀時を見た最後の姿だった。数日後、銀時の父親が水路に落ちたのか凍りついて死んでるのが見つかった。酔っ払って落ちたのだろう、と警察はそれを事故で済ませた。周辺のおばさん連中はアル中のDV親父らしいと知ってたから妻か子どもが突き落としたんじゃないかとひそひそ噂していた。小さな町だ、弱りきった母親は周囲の視線に耐えかねて銀時を連れてひっそりとどこかに消えた。大方田舎に帰ったのだろうとうちの母親が言っていた。バリバリと煎餅を齧りテレビを見ながらどこまでも他人事のように言う母に、俺はひっそりと絶望した。年の離れた弟のように、可愛がっていた近所の悪ガキだった。特別懐く訳じゃないが、気まぐれに見せる甘えはほんのささやかなもので。なぜかコイツは俺が守らなければと強く思っていた。大人に訴えればアイツを救ってやれるものだとばかり。独りよがりに先走って確証がないと言い捨てられて数日後、大怪我をした銀時に、俺は自分の無力さを嫌というほど思い知った。大人に頼るだけじゃだめだ。無力なままでは子ども1人救い出すことが出来ない。そうしてなんとなくで定めていた進路を変えた。地元ではなく遠くへ行くことにした。両親や兄弟がなんか言っていたけど、とにかくここじゃないどこかに行きたかった。そうして数年後ネオン煌めく夜の街に勤務する、警察官になっていた。酔っぱらいやチンピラの喧嘩、売春、不良にホームレス。何もかもが吹き溜まる街で、先輩である近藤さんの下、コツコツ働いている。

「…あれ、ひじかたじゃん」

キャバ嬢に入れ込んでいるらしい近藤さんを引き摺って派出所に戻る途中、声をかけられたのは偶然だった

「…ぎん、とき?」

視線の先で、見慣れぬ金色が揺れた。すっかり大人の男として成長した体に、低くなった声。でも、気だる気な諦めの色を湛えて、静かに凪いだままだった

「ひっさしぶりー。何、お巡りさんやってんの?」
「お、前…あれから、どうしてたんだ」

カラカラの喉から絞り出された声は情けなくひび割れていて、なになに、知り合い?ときょろきょろする近藤さんの声はほとんど耳に入っていなかった。ドクドクと心臓が早鐘を打つ

「ああ、中学卒業前にからお袋が自殺して、そっからこっち、まぁなんとか生きてるよ」

よかったら飲みに来てと渡された名刺には金時の文字

「金時」
「源氏名ってやつね。ご指名お待ちしてまぁす」

うっそりと色気の乗った笑みを浮かべる銀時に頭痛がした。あの日、俺が救えなかった弟分はとっくに地獄から開放されたんだと思っていた。寒さに震えることもなく、母親とふたりで、怯えて暮らすこともなく幸せになれるんだとそう疑いもしなかったなのに何故だ。この男の瞳は諦め湛えて凍てついたまま。

「…もしかして土方。昔のことで俺に罪悪感とか後悔とか感じてる?」

ぽつりと零された言葉に思わず方が跳ねたのが答えだった。俺はあの時何も出来なかった自分が嫌で、無力さを恨んで独り善がりの正義感への嫌悪と後悔を糧に、今ここに立っている

「…なら、付け込ませてもらおうかな」

仕事上がったらそこのバーで待っててよ。俺の半生と愚痴、聞いてくれない?そういって笑う銀時はホストらしく雄の色香を漂わせて、道行く女の視線を自然と惹き付けているようだった

「金さんナンバーワンで引っ張り凧だけど、今日は土方のために早く上がるからさ」
「…わかった」
「やった。悪ィねゴリさん。今日こいつ借りるわ」
「へっ?いやまぁそれは構わないけど…」

きょとんと瞬く近藤さんは1度こちらを伺ってから鷹揚に頷いた。交代時間になり足早に指定されたバーに向かう。デートですか?なんてからかう山崎に言葉を返す暇さえ惜しかった。指定されたバーのカウンターに座り落ち着かない心をどうにさ宥め、声を掛けてくる女をあしらいつつ酒を舐めながら時間が過ぎるのをひたすら待った。マスターは待ち合わせだと告げたらそれきり過剰に構ってくることもなかった、酒もうまいしいい店だ。0時を少しすぎる頃、慌ててきたのだろうスーツのままの銀時が現れた

「ごめん土方、常連に捕まっちゃって」
「そんなに待ってねぇよ」

同じものをと告げる銀時にマスターはにこりと笑ってグラスを差し出した。再会に、とグラスを差し出すので軽くぶつけてやれば軽やかな音が鳴る。他愛のない話題に混ぜて今更ながら時間は大丈夫なのかと尋ねられた。明日は非番だと答えれば銀時はそっか、ならもうちょっと付き合ってよ、と同じものを注文する。卒業までは施設にいた事、なんでも屋まがいのことをして金を貯めて施設を出てからは一人暮らしをしたこと、ひょんなことから今の店のオーナーに拾われたこと。流石本職なだけはあると思うほど流暢に、銀時今までのことを語った合間合間で此方に話を振り、土方の情報も上手く聞き出すのだから恐れ入る

「あの時は、手を差し伸べてくれるの、土方だけだったんだ」

とろりと眠たげな瞳にホストなんてしてるくせに酒にはそこまで強くないんだなという感想を抱いた

「俺のために動いてくれた土方は、俺にとって神様みたいなモンだった」
「やめろ。俺は無力だった」
「そんなことねぇ。あん時のマフラー、まだ持ってる。ぼろっぼろだけど、俺にとっちゃあ宝物なんだ」

空いたグラスを土方の手から抜き取り、新たなグラスを差し出す銀時の瞳は少しだけふわりと弛んでいて、うっすら滲むのは喜びの色

「おれは、お前になにもしてやれなかった」
「そんなことねぇよ。土方。俺はずっとお前のこと思い出してホストやってきたんだ。地獄みてぇなところにいるヤツを、少しでも楽にさせてやりたいって。寄り添ってやれるようにって」

アルコールが回る頭はくらくらと歪み出した。飲み過ぎたみたいだ。今日はそろそろ帰る。また飲もう。回らない舌でそういうが、銀時は、ん?と嬉しそうに微笑むだけで。スツールから立ち上がろうにもカウンターから起き上がれない状態の土方には土台無理な話だった。クラクラ、ふわふわと薄れゆく意識に、ああ、再会早々情ねぇとこ見せちまうなぁ、なんて意識を飛ばした土方は知らなかった。銀時が小さな包み紙を握り潰しうっそりと微笑んだことを

「マスター、勘定」
「…金さん」
「やだなーマスター。流石の俺でもいきなり襲ったりはしないって」

完全に落ちた土方の腕を取り担ぎながら銀時は機嫌よく笑う。父親の酒臭い息とともに吐き出される罵声と暴力。震え啜り泣くだけで守ってくれるない母親。地獄のような日々の中で唯一手を差し伸べてくれたのが土方だった。殴られた痕をみて心配してくれた。自分のことのように怒ってくれた。自分を救おうと動いてくれた。それが裏目に出て酷い目に合され死にかけようとも、銀時はそれが嬉しかった。守ろうとして動いたのに結果的に更に銀時を傷付けることにしかならなかったことに絶望する土方を心底愛しいと思った。土方が自分のせいだと泣きながら抱きしめてくれた時に感じたのはどうしようもないほどの幸せだった。罪悪感からか一段と俺に優しくなった土方は甘えればいくらでも側に居てくれた。酷く酔った父を突然激昂した母が奇声を上げながら突き飛ばしたのは予想外だったがひとまず命の危機は去ったらしい程度の感想しか抱かなかった。俺が死ねば救うことが出来なかった土方の消えない心の傷として残れたかもしれないのにと少しだけ残念に思ったのを覚えている。顔を合わせないまま夜逃げ同然に引っ越しせざるをえなかったからか、再会した土方は安堵と共に少しの後悔を 抱えているようだった。瞬間、体を駆け上った感情は紛れもない歓喜。覚えていてくれた。土方が、俺のことを。自分が救うことが出来なかった年の離れた弟分として。死にかけの姿は思春期には余程ショッキングだったのだろう。罪悪感を抱えていてくれたなら好都合だ。嗚呼、なんて可哀想な俺の神様。触れる体温に狂おしいほど興奮する。土方は、きっと俺をまた受け入れてくれる。俺の、俺だけの神様。アンタのせいで死にかけた俺を忘れることも、仕方なかったのだと開き直ることも出来なかったなんて、本当に馬鹿で、なんて哀れな。アンタの心に残れるなら、覚えていてくれるなら俺は何だって良かった。アンタの心に、体に俺を刻みつけたい。消えないくらい深くまで。俺から離れないで、見捨てないで。忘れるならアンタの手で俺を殺して

「厄介な野郎に好かれて、ホント、かわいそうな奴」

そっと奪った唇は煙草とアルコールの味がした。土方の頬に雫が落ちたので空を見上げてみたが、雨は降っていなかった