深夜の即興小説 "また会える日を楽しみに" | ナノ



「じゃあな、土方。さよならだ」

ごめんな、なんて言葉じゃ到底足りないことは十分わかってる。

「え…」

呆然と目を見開くお前は泣いてしまうだろうか。ずきりと痛む胸。悟られないように奥歯に力を込めた。ああ、俺は今から誰よりも大切な君を傷付ける。出来れば言いたくないな。なんてこの期に及んで女々しく思いながら、それでもやっぱり言葉を止めることはできなかった。

「こんな遊びも今日でおしまい。わかるだろ?」







人知れず築いた関係の始まりはなんだったか。ごく自然に重ねられた唇をまるでそうするのが当たり前だというように受け入れたのが最初だったと思う。

「悪ふざけが過ぎますよ、先生」
「何言ってんだ。拒まなかったなら共犯だろ?」

そう言って笑う先生は先生っぽくなくて。まるで悪戯を成功させた子どもみたいにくしゃっと笑うもんだから、悪くないな、なんてうっかり思ってしまった。

「まぁ、そうか。」
「そうそ。まぁ二人だけの秘密ってことでここはひとつ」

学校でこそこそ隠れて煙草吸って、挙げ句担任の男性教師とうっかりキスをした。初めて触れる体温は想像してたよりも気持ちよく、少しかさついた唇はやわらかくて。吸っている煙草よりだいぶ重い苦味になんだかドキドキした。

「バレたら社会的に死んじゃいますね」
「特に俺は確実にね。何、嫌だった?セクハラで訴えちゃう?」

おどけて笑う先生の瞳は俺が嫌じゃなかったことなんてお見通しだと言うようにゆったり細められていて。

「…よくわかんなかったので、もっかいして下さい。」

そう言って目を伏せれば、先生は酷く愉しそうに喉の奥で笑って、舌先が痺れるようなキスをしてくれた。



秘密の喫煙仲間から、たまに唇を重ねるような関係になって。しかし付き合うだとか好きだとかを口にしたこともされたこともなく。酷く曖昧な関係はしかし校舎裏から窓を乗り越えて準備室のソファを占領し堂々とくつろぐようになるにつれて段々とおぼろげな輪郭を持つようになって。ふと目で追って見つめるだけじゃ、ただ話をするだけじゃ満足できなくなる頃にはもう手遅れだった。心の中に巣くう銀色のもじゃもじゃは大きくその陣地を広げてしまっていた。

そのことを、先生が知らない筈がない。だって俺らは共犯者なんだから。でも、それでも。気が付いた時には我が物顔で居座っていたくせに、こんなにも好きにさせたくせに、何もかもお仕舞いにして出ていけと、つい数時間前に卒業証書を受け取ったばかりの俺に先生は告げたのだ。

俺はまだ視野の狭い子どもで、目に見える範囲でしかわからない世界のことを、先生は広く捉えて、考えているのだろう。だから、卒業した俺を手放そうとしてるんだろう。

「わかり、ました。」

そんなこと、知ったことか。

俺は知っている。アンタが俺の中に居座ったように、アンタの中にも俺がいるってことを。知らないはずがないだろう。だって俺たちは共犯者で、秘密を共有する極近い距離で互いの心の内側に巣くった感情が輪郭を持ち始め確かな形をつくっていくのを肌で感じていたんだから。

「ひじ、」

それでも手放すってアンタが腹括ったなら、仕方ない。受けて立ってやる。意外と臆病者なアンタが未来の俺を信じられないって逃げるなら、逃げたいだけ逃げればいい。

「今までお世話になりました。」

だけど、絶対に逃がしてなんかやるものか。逃げ切れると思うなよ。俺はどこまでもアンタの背中を追いかけて、アンタを目指して走って、走って、そのよれよれの白衣引っ掴んでやる。そんで一発殴って、手を引いて、隣を歩いてやる。

「さようなら、先生」

置いてかれる俺が追い付くまで、精々記憶に苛まれろと俺は情けなく涙を溢しながら出来る限り綺麗に笑ってやった。次会うときまでにキスなんかじゃ我慢きかないくらいのいい男になってやると決意しながらうっかり俺のこと抱き締めない様に白衣の横で硬く握られた手を見てみぬふりをして、今に見てろと心の中で毒づいて。踵を返して歩き出す。

さよなら、先生。また会う日まで。次に会う時までずっと俺を捨てた罪悪感で死にそうになれ。 精々振り向かない背中を夢に見て魘されて夜中に飛び起きろ。次会ったときにはこの感情が揺らぎようのない本物だと信じて貰えるように頑張るから、だからそれまで、俺のことを忘れないで。