「――ハル!大変だ!樹ちゃんがいないんだ!」


折角の休日、遙は布団の中に体を休めていたのだが真琴の第一声で起こされることになった。体を揺さぶられ、重い瞼を開けば、天井と同時に真琴の顔が遙の瞳に映る。八の字眉を下げて、困ったように心配顔だった。


「樹がいないって?」

「そうなんだよ!今日、田村のおばちゃんから貰ったからスルメイカをあげに行ったら家に居ないんだよ」

「部活もないから、どうせ出掛けているんだろ」

「…でも、電話しても樹ちゃん出ないし」

大会の次の日は休息も大事だと笹部コーチに言われ、部活は休み。樹はそれを気に掛けて、遙に頼ることなく自分の家に戻っていたのが、その樹がいないらしい。
遙は真琴に大丈夫だろうと伝えても、内心では真琴同様に心配をしていた。


「真琴!とりあえず、もう一度樹の家に行くぞ」

「あ、うん。……待って!ハル、携帯が」


遙と真琴が石段を下りれば、携帯の振動に気付いた真琴は足を止めた。もしかしたら、樹からの連絡かも知れないと。だが、携帯の画面に表示されている名前に真琴は首を傾げてしまう。

「……ん?江ちゃん?」

部活がない日に江からの電話は、用件の検討がつかない。しかし、江からの連絡によって二人は足を急がせることになった。




“Re;start”



「―――大丈夫。私は大丈夫」

頬を叩いて自分に気合いを込めた。更衣室のドアを閉めて、プールサイドへの階段へと足を向ける。普段はジャージ。だが、今日は違う。今年になって初めて買った競泳の水着だ。
一年前の自分なら怖くて考えられなかった。プールサイドに立つことも、ましてはプール際に寄ることも出来なかった。だから、もう着ることもないだろうと思っていた。すべてはみんなのおかげ。今は泳ぎたいと気持ちが勝ってる。樹は握りこぶしに力を込めて、誰もいないプールを前に足を止めた。


「……だから、大丈夫」


自分に言い聞かせて、視線を足元に落として、ゆっくりと息を吸った。


「よっし!行くか―――って、えぇ?」


両サイドの肩に手がポンと置かれた瞬間、樹の足が止まってしまう。その手によって止められたというのが正しいだろう。
横を二人が勢いよく通り過ぎていった。そのまま水へとダイブする。大きな音と盛大な水飛沫が上がる。何が起こったのかと樹の思考が止まりそうになるが、分かることが一つだけあった。服を脱ぎ捨てて、飛び込んだのが遙と真琴であるということだ。


「な、なに!?どうしたの、ハルも真琴も!?」


水面から体を起こし、髪を掻き上げ、遙と真琴がプールサイドにいる樹へと顔を向けた。その顔はどこか怒っているようにも見える。


「樹ちゃんは、ここで何をしようとしてたのかな?」

「何って、今なら泳げる気がするから…その、練習を……」

「どうして、俺たちに言わなかったの?」

「だって、みんな昨日の試合で疲れてるかもしれないって」


淡々と告げる真琴の声が、いつもより低く頭に響いてくる。顔が笑っていない。樹は瞳を揺るがし、視線を足元へと落とす。


「俺、怒ってないって言いたいけど……怒ってるよ」

「真琴…?」


怒ってるという言葉に、樹を上げ真琴へと向けようとすれば、真琴は顔を背けてしまう。そんな様子を見て、遙がひとつ息を吐いた。
真琴と思うことは同じだからこそ、分かってしまう。心配で、側にいたい。ただそれだけのこと。
泳げる気がするっと言って確証はない。信じていないわけではない。樹は自分たちのことを思っての行動だが、もしも樹に何かあったら取り返しのつかないことになる。だからこそ、側にいたい。


「樹、一人でやるなってことだ」

「――そうですよ、樹先輩!」

「そうだよ、イツキちゃん!」


遙の言葉に同意するように樹の後ろから声が上がる。聞きなれた怜と渚の声だ。後ろを振り向けば、階段を掛け上がった私服姿の怜と渚が息を整えながら笑っていた。さらには、二人の間を「そうだ」と口にして黒のパーカーを羽織った凛が現れる。

「お前も仲間を頼れってことだよ」

「それをリンちゃんが言うとはねえ〜」

この場所に、遙や真琴、渚、怜、そして凛がいることに樹は驚くが、遙と真琴も凛が現れたことに声を上げた。


「どうして、みんながここに!?」

「ゴウちゃんが、連絡をしてくれたんだよ。今日、イツキちゃんがひとりで泳ぐ練習をするかも知れないって」

「…江が?」

「樹先輩が、天方先生に大会の帰り際にプールの使用許可を得ていたことを教えてくれたんです」


江から真琴に“樹先輩が天方先生にプールを使用したいと言っていたんですが、何か知っていますか?”と連絡があった。
部室の鍵は、顧問の天方と部長の真琴が所持をしている。真琴に伝えれば、話は簡単に済むが天方先生にこっそりと頼んでいたのが気になっていたそうだ。そこから、江は渚や怜へと連絡を回したようだ。


「俺、言ったよね。特訓付き合うって」

「ごめん。…みんな、ごめんっ」

「謝らないでください。先輩はいつも僕たちを見守ってくれていたんですから、僕たちがここに居たいというのは当然のことなんです!」

「イツキちゃんが好きで、みんながここに居るんだから気にすることないんだよ」

「……怜くん、渚っ、」


眼鏡のフレームを直せば、隣で渚が口角を上げて笑う。そばにいる凛も、笑みを浮かべている。


「でも、凛もどうして?」

「リンちゃんも、同じ。ゴウちゃんに連絡を貰ったんだって」

「江が、樹が泳ぐかもしれないって」

「それで、わざわざ岩鳶に?」


お前のためなら、わざわざではないと凛は言いたかったがそれはここにいる全員が思っていることであるからこそ、言葉を飲み込んだ。


「バーカ、お前が言ったんだろ。俺に泳いで見せるって。
俺は、樹の泳ぎを見る権利があんの。それに、お前に何かあったら俺がすぐに飛び込んでやるから安心しろ!」


それは樹が言った“泳ぎたいから、泳いで見せる”の言葉。だが、純粋に樹が泳ごうとするその瞬間を見たかっただけだろう。
察しがついてしまった渚と、凛の樹への気持ちを知っている怜は笑いそうになるが、凛は二人にフンっと鼻を鳴らし睨みを利かせた。
きっと、凛に連絡を入れた江も兄の気持ちに感づいて気を利かせたのだろう。

「凛、それは俺やハルがいるから大丈夫だよ」
「まぁ、そうだな。俺と真琴がここにいるから安心しろ」

凛の気持ちが樹へとあることを知る真琴は、不要であると念を押し、遙も同意する。樹が知らぬところで微妙な火花が飛んでいたが、本人は気付いてはいない。

「みんな、ありがとうっ、」

みんなが側にいてくれる。三人から安心していいと声を上がれば、渚や怜からも僕たちもいると告げた。ここまで心強いことは無いだろう。

「樹!安心して、こっちに来い」

「うん!」

遙の言葉に、樹は大きく頷いた。真ん中のレーンを開けて、遙と真琴が両サイドのレーンへと移る。スタート台側の壁へと寄って、手を伸ばす。ゆっくりでいいと二人は口にして。
だが、樹は勢いを付けるのだった。ステップをつけて、大きく足を進め手を伸ばしてそのまま飛び込んだ。真っ直ぐに水飛沫が上がる。


「「樹!?」」


スタート台からではないが、プールサイドから樹が飛びこんだことに全員が口を開けて驚いてしまう。樹の行動に、凛も飛びこもうとするが渚と怜がそれを止めた。

「おい、お前ら!」

「大丈夫だよ、イツキちゃんなら」

「それに、遙先輩も真琴先輩もいますからね」



――それは一瞬。プールの水へ触れられるまでが長かったのに、それは一瞬で済んでしまった。
水面が揺れる。青々とした色が視界に入る。小さな泡が、上へと登っていく。沈んだ体を反転させれば水面へと浮かんで、空が映る。力を抜けば、水の中では重力とは無縁。やっと空を見ることが出来た。嬉しい。

だけど、それよりもみんなとこれから泳げるという気持ちが溢れそうになって樹は瞳を閉じた。


「樹?」

「樹ちゃん?」


両隣から声が聞こえ、水が揺らぐ。隣のレーンにいたはずの二人が同じレーンにいる。
すぐ側に、遙と真琴が立つ。手を差し出せば、二人が樹の手を取った。底に足を付けて体を起こせば、二人に抱きしめられてしまう。


「樹!」「樹ちゃん!」


ギュッと力強く、その存在を確かめるように二人は樹の名前を呼び強く抱きしめる。


「ちょ!ハルも、真琴も、苦しいって」

「やったな、樹」

「よかった、本当によかった!」


樹は、二人からの腕の力が苦しいとは言えなかった。それよりも、言葉が出ない。遙と真琴の言葉に頷くことしか出来ない。頬に温かい雫が一筋となって伝う。
遙と真琴が、樹へと顔を合わせ指で涙を掬い取ろうとすればプールに凛の声が響く。


「よっしゃぁあ!!」


その言葉と共に、水飛沫が上がる。


「僕たちも行こう!」

「そうですね!」


凛へと続けというように、渚と怜も樹たちがいる水の中へと飛び込んだ。


「ちょっと!渚、怜くん!?」


プールサイドに響き渡る笑い声。水面には太陽の光を反射して、いくつもの水飛沫が空高く上がる。今日のことは、この夏の忘れられない思い出のひとつになった。


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