試合直前、それは観客席に戻る前の怜との会話。


「……樹先輩は、江さんたちのもとに行って応援をしてください」


観客席まで、あと少しのところで怜の足が止まったのだ。自分が席に戻ることで、笹部コーチや天方先生が、凛が泳ぐことを知り、それを止めるかも知れない。止めなくても、他校の関係者やスタッフに知られてしまう可能性もある。だから自分は、席には戻れないと。

「怜くんが行かないっていうなら、私もここでみんなを見守るよ」
「いえ、それはダメです!先輩の応援が、皆の力になるんです!」

予選が始まれば、誰にも止める術は無い。他校生が泳ぐことがバレてしまっても、スッタフに止めることは出来ない。樹は、試合が始まったら江たちのところに行こうと告げたが、怜は顔を縦には振らなかった。「万が一があるかも知れない」と言って――。




「リンちゃーーーん!」


渚の両手タッチと同時に、凛は跳び出した。真っ直ぐなストリームライン。そのまま凛は突き進む。
笹部コーチは目の前で起こっていることに対して、自分が朝に告げた言葉を思い出していた。

「フリーでいいとは言ったが、フリーダム過ぎんだろ……」

その言葉と共に樹の視界の端に、水色と白のジャージが映る。隣に立つ彼の姿に、樹は顔が綻んでいた。彼は口元に手を沿えて、理論を告げる。

「入水角度が、5度足りませんがまぁいいでしょう」
「怜くん!やっと来たね!」

樹は怜の顔を見上げるように告げれば、その視線から逃げるように顔をプールへと向けた。

「ん?樹、今何って?…って、怜!?なんでお前がここに居んだよ!」

突如現れた怜の姿に、笹部コーチ、天方先生、江は目を見開き口を開けて驚くが、樹は怜と同じようにプールへと顔を戻しながら「やっぱ我慢できないよね」と口にしていた。やっぱり、近くでみんなと一緒に応援したいはず。

「樹先輩、あの…先輩は知っていたんですか!?」
「うん、まぁね。でも、今はその話よりもね、」
「そうですね。今は応援を!江さん」
「あっ、はい!!」

話の流れから、樹も何かしら知っていたんではないかと予測した江だったが、樹と怜から今はそれよりもやるべきことがあると伝えられる。それを聞いて江は、嬉しそうに頷いた。


「いっけー、行け行け行け行け、凛!」

「いっけー、行け行け行け行け、凛!」


今は話よりも、応援をすることが優先。手摺に手を掛けて、息を大きく吸ってその名前を呼んだ。凛の後押しになるように。それは、誰もが思っていることだった。鮫柄でも同じこと。状況が飲み込められない御子柴は未だに戸惑っていたが、似鳥は松岡先輩と応援するために声を上げた。


“明日、お前に俺の最高の泳ぎを見せてやるから”

その言葉は昨日、凛から告げられたこと。それが頭を過る。樹は手摺掛ける手に、力を込めた。

「凛!いっけー!!」
――最高の泳ぎを、見せてもらうよ。



凛は暗闇の中を、ただ泳いでいた。眉を顰め、息が上がりそうになる。また同じなのかと。


“―――っ、凛!”

「………樹?」


光とともに声が届く。水泡が輝く。眩いくらいな輝きに。
自分の行く先を照らすように、導いていた。それが何であるのかが分かると、凛の視界は開けてくる。
苦しかったのが嘘のように。前方に手を伸ばし、腕から足までうねるように反動をつけて水を蹴る。足を揃えて。待っている仲間たちのために凛は、冷静に泳げた。


「ハルーーー!!」


勢いよく、両手で壁面をタッチすれば遙が頭上を越えた。
跳び出したその姿に凛は声を送った。スローモーションのように、自分の上を遙が舞う。理想ともいえる遙のフォーム。静かに水の中へと、滑らかに、流れるように入水する。水を掻きだして、息を吐く。


―――静かだ、


水に囚われそうな感覚に遙は抗わない。水の中へと深く深く沈んでいる。それが、自分のセオリーとでもいうように。今までの自分は、これで水と一体となっていたのだ。

「ハルー!」

瞳を閉じれば、自分を呼び起こす真琴の声が届く。それに続くように渚、怜、凛の声が聞こえてくる。

「ハルちゃん!」
「遙せんぱーーーい!」
「ハル!!」

自分の目の前に光が差し込む。大切な仲間の声が導こうとしていた。光へと浮上するように、止めていた足を動かせばその声は大きくなる。


「ハルーーー!!」


光へと近づくにつれて声が自分に届く。誰よりも一緒にいて、誰よりも自分たちを見守ってくれていた大切な存在。樹の声と光に誘われるように、遙は手足に力を込めた。



“その存在に導かれる”



大型の電光表示盤のランニングタイマーのカウントが刻んでいく。その瞬間まで、あと僅か。そのスピードは速い。
待つものたちは、遙の名前を必死に叫ぶことしか出来なかった。真琴、渚、凛、そして観客席にいる樹たちも同じ。会場内に響く、他校の声援を掻き消すように遙の名前を叫ぶ。

「いっけーーー!はるかぁーーー!」

握り締める手に、力を入れて大きく息を吸った。最後の力を振り絞る。みんなの想いを紡いで、想いが繋がる。


遙の指が壁面に触れる。ゴールタッチだ。水面から身体を起こし、大きく息を吸った。


会場内に湧き上がる歓声に包まれる。表示盤に順位が表示されたのだ。岩鳶高校の前に順位が“1”と。
樹は表示盤に出た順位を見ることよりも、プール内にいる遙たちから視線を動かすことが出来なかった。
遙はスイムキャップとゴーグルを一緒に外し、呼吸を整えるために肩を上下させた。呼吸を整えようとすれば、顔の前に真琴から手を差し出される。

「ハル!」
「ハルちゃん!ハルちゃーんっ…、」
「渚、泣くなって」

微笑みながら手を差し出す真琴と、嬉しさのあまり涙を浮かべてしまった渚。遙は真琴の手をしっかりと握り、プールサイドへと上がれば横から勢いよく強く抱きしめられる。

「!」

もう一人、そばにいた凛からだった。その衝撃と感覚に一瞬、目を閉じたが抱きしめられいることに、遙は自分の目を丸くする。それを見ていた真琴と渚も嬉しさと喜びで、同じように遙と凛へ飛び付いた。

「あ、おい!?」

三人から、抱きつかれていることに遙は戸惑うが振り解こうという気持ちはなかった。

「…ハルっ、最高の景色!見せてもらったぜ!!」
「!っ、あぁ」

耳元で呟かれる涙まじりの凛の言葉に遙は瞳を揺らめかせた。嬉しかった。それが遙の気持ちだった。
凛はそのまま、遙と真琴の肩を組み「真琴!渚!」と口にする。四人は互いに肩を組んで円になり、顔を見合わせた。

「凛!」
「リンリン!」
「あはは!なんだよ、久し振りだなぁ!もうっ、」

嬉しさで真琴が声を上げる。喜びと嬉しさ、笑い声と、その凛を呼ぶ顔は小学校のときと同じ、いやそれ以上の笑顔だった。観客席で見守っていた江たちは、笑みを零す。

「お兄ちゃんっ、」
「凛のやつ、めちゃくちゃ速えじゃねえか」
「びっくりしたけど、ちょっと感動しちゃった」
「えぇ、私もです!」

凛の泳ぎを見て、笹部コーチは自由形100Mで感じた心配は吹っ飛んでしまっていた。凛たちの泳ぎに、天方先生や江たち感動をしたと口にする。
嬉しい光景に、樹は力が少しずつ抜けていった。手摺に寄り掛かるように、前のめりになっていた態勢から戻そうと足を一歩引けば、ふら付き後ろへと倒れそうになってしまうが背中を怜が支えてくれる。

「――っ!、大丈夫ですか?樹先輩」
「ありがとう、怜くん」
「ちょとばかし、酸素不足になっちゃった。自分が泳いだわけじゃないのにね」

プールサイドで抱き合う四人へと樹は顔を戻しながら笑う。その姿が眩しいくらいというように目を細めた。そして、怜も同じだった。

「そうですね。本当に、……美しいですよ、遙先輩たちも樹先輩も」

「ん?それは、怜くんもだよ。怜くんがいなかったらあの笑顔は見られなかった」

呟かれた言葉に樹が返す。怜の表情を見てはいなかったが、どこか寂しそうであると感じられた。嬉しい気持ちと自分があの場所に居られない、寂しいという思い。樹も同じ。ただ、きっと怜は自分以上に感じているに違いないと思うことだった。


「だからね、今度は怜くんが、怜くんの最高の景色を私に見せてね」

「はい、樹先輩!」




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