……凛が泳がない。
それだけじゃない、水泳を―――。
凛と似鳥の二人が立ち去った通路は静まりかえっていた。凛が残したリレーのメンバーから外されたこと、水泳をやめると告げた言葉が頭の中を埋め尽くす。混乱と困惑。誰もが思っていることを、渚が口にする。
「リンちゃん、メンバーから外されたってどういうこと」
「決勝まで残れば、凛と勝負できると思ってたのに」
揺らぐ気持ちに、真琴は一番凛と泳ぎたいと望んでいた遙の名前を呟き振り返る。
“――水泳なんてやめてやるよ”
遙の頭には、凛の叫ぶように言い放った言葉が響いていた。
それは、あの時と同じ“俺はもう、…水泳やめる”中学1年の冬に凛から言われた時と同じだった。目の前が淀んでいく。握られていた遙のこぶしが開いていて、全身の力が抜けてる。ずるずると窓を背に座り込んでしまう。
「ハル!」
顔を膝に埋めるように伏せてしまった遙に、真琴が声を掛けるが、樹は掛けられる言葉が見つからず動けないでいた。
凛は泳ぐと言ってくれた。樹は学校は違えど大切な仲間が泳ぐ瞬間が、また見れることを楽しみにしていたのだ。だからこそ、遙と同じで樹も胸が締め付けられていた。
「…俺はもう、凛と泳げない」
「ハル、」
「ハルちゃん!!」
弱々しく消え失せそうな声に真琴と一緒に渚が声を掛けるが、平静を失った遙には誰の言葉も入っては来なかった。
だが、時間は待ってはくれない。動揺し満足に泳げるか分からない状況だが、自分たちの出番が迫っていることを。
「どうしよう、もうすぐメドレーリレーの予選始まっちゃうよ」
「とにかく、今は俺たちの試合に集中しよう」
「あ、でも、ハルちゃんが」
目の前で起こっていることを理解し、今すべきことを、怜は告げようとする。
「…樹先輩、昨日の、凛さんの話をしませんか」
「怜くん!?でもっ、それは」
凛のことを言っていいのかと、樹はジャージを掴み止めようとするが、怜は顔を横に振る。
「言わなきゃダメです。これは皆さんと凛さんの問題じゃないですか!僕が知っていて、遙先輩たちが知らないのはおかしいです」
怜と樹の言動に真琴と渚が動揺をするが、樹が納得しその手を放したことで顔を傾けた。
「皆さんに、話しておきたいことがあります」
「レイちゃん?」
「昨日の夜、僕と樹先輩は凛さんに呼び出されて話をしました」
「え、樹ちゃんも?」
真琴は怜から、樹へと目線を移しその顔を覗き込んだ。それに気付いた樹は、コクンと小さく頷く。
「――彼は言っていました。中学のとき水泳をやめるって言ったのは、遙先輩に負けたからじゃないって」
凛が告げたことを思い出し、怜はありのままを遙や真琴、渚へと伝えていく。留学先で壁にぶつかり、自信を失くし、それで水泳はやめようと思っていたことを。
伏せていた遙が少しだけ顔を上げた。怜からの言葉を聞いて、思い出すのは再会してからのことだった。
「だけど日本に帰ってきて、遙先輩と再会して、また勝負して、それで吹っ切れたって。――県大会での僕たちの泳ぎを見て、昔を思い出して、またリレーをやろうと思ったって」
――県大会のメドレーリレーを凛が見ていたのを、樹ははっきりと覚えていた。そして県大会が終わったあとの祭りの日、岩鳶小学校のプール内を見つめる凛が酷く哀しそうだったことも。昨日ことも。
「だから鮫柄で、最高のリレーを泳いで見せるって」
怜の言葉を聞きながら、樹は違和感があることに気付く。それは、怜も同じだった。
「リンちゃん、そんな風に」
「だけど、それは本心じゃない。樹先輩も感じてましたよね」
「怜くん…、そうだね」
「彼は結局、勝負なんてどうだって良かったんだ。もう一度リレーを泳ぎたかったんだ。遙先輩たちと、最高の仲間たちと!!」
一緒に泳ぎたいと思ったから凛は悩み苦しんだ。自分が最高だと思った仲間たちと、もう一度。だが、凛の気持ちを、付き合いの長い樹ならともかく怜が断言することに遙は疑問を抱く。
「――なぜ、わかる?」
遙は腰を上げながら口にした。
「…それは、僕も彼と同じ気持ちだからです」
遙の問いに、怜は目を細めて笑う。
「あなた達と、最高の仲間たちと、樹先輩が見守る中で、共にリレーを泳ぎたい。遙先輩だって同じなんでしょう!勝負なんかどうだっていい、一緒に泳ぎたい人がいるんでしょう!」
最高の仲間、それは離れていても同じ。最高のチーム。
遙たちの絆に、怜は自分も入ろうと必死だった。自分もその一員になりたいと。そして、思いが同じであるからこそ、自分で離れてしまった凛のことを痛いぐらいに分かってしまう。一緒に泳ぎたいと。
怜は樹に向けて視線を落とした。一人で遙や真琴を待って、泳いでいた樹も同じであると感じていたからだ。
「ハル、このままでいいの!
…凛は、やめると言ったことを後悔していたんだよ」
きっと、私だけじゃなくハルに対しても凛は、きっと後悔を―――
遙の瞳が揺れた。水の潤いを取り戻したかのように、光が戻る。
「―――凛と、泳ぎたい」
“凛と泳ぎたい”答えは、それで十分だった。それは、ここにいる誰もが思うこと。自分の気持ちに蓋をして、怜はあることを決めるのだった。
“仲間のために”
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